より正確にいうなら、原発の運営者側も、リスク査定についてなんの根拠もなかったわけではなく、自分たちなりの算段、勝算があった。MITのラスムッセンという学者が原発の安全性測定のために創始した「PSA/確率論的安全評価 (Probabilistic Safety Assessment)」と呼ばれるリスク評価手法がそれである。それが、今ある姿の原発を推進する理論上の根拠となっていたし、議会が原発と原賠法を決裁し、ゴーサインを出したのもそれが理由だった。
確率論的安全評価(PSA)は、原子炉施設の異常や事故の発端となる事象(起因事象)の発生頻度、発生した事象の及ぼす影響を緩和する安全機能の喪失確率及び発生した事象の進展・影響の度合いを定量的に分析・評価することにより、原子炉施設の安全性を総合的・定量的に評価する方法である。シビアアクシデントのように、発生確率が極めて小さく、事象の進展の可能性が広範・多岐にわたるような事象に関する検討を行う上で、PSAは有用な方法である。
原賠法が、小さな民間保険のうえに巨額の国家保証の屋上屋を架す二階建て構造になったということは、保険会社のリスク査定と、原子力学界を中心とする科学者集団のそれとに大きな乖離、見解の相違があったことを示している。原子力が経済的に引き合うリスク水準として、前者はより大きな頻度とそれに相応する引受け金額を見積もり、後者は想定被害額は大きいものの、その頻度はありえないほど小さいのでそれを全部引き取って構わないと見積もった。原賠法は後者の優越のもとに、その乖離をひとつの法律の中に強引に接合した妥協の産物といえる。同時にそのことは、民間のただの事務屋のビジネスマンでしかないような保険会社の査定担当者が、(失敬にも)原子力工学の頂点にたつ最高の学者たちが開発・採用したそれらの計算を信じるつもりがなかったこと、自分たちの伝来の手法に基づく結論の方を強く信頼したことも示している。言い換えれば、原子力学界とPSAは、有権者と議員(lawmaker)を説得して原発を推進し、原賠法を制定させることまではできたが、保険会社を説き伏せて、それに基づいた引受けを負わせることはできなかったのである。そのため、賠償想定の上辺には制度上の大穴が空いて、そこを(保険会社はああ言うけどえらい学者さんたちが太鼓判を押すなら大丈夫だろうと)国家が埋めた。
原子力問題の本質は、原発に具備されている安全の実体と、世間が抱く不安感の間の乖離が甚だしいところにある。これは新しい文化に対する社会の一時的拒否反応ともいうべきもので、いつの時代にもある問題だ。(略)安全の実体を述べれば、原子力は他産業、たとえば航空や水力発電と比較して格段に高い。それは米国ラスムッセン教授の試算に示されている。事故発生確率と死亡者の関数として安全を論じれば、千倍から一万倍くらい原子力は低いという。実績からいっても死亡事故は過去一回だけだ。この理由は安全設計に意を注いだ結果だ。
原子力学者たちは、(保険会社も含めた)無知な「世間」よりも、自分たちの科学的な計算の方の正当性、よってまたそれに基づいた原賠法の二階建ての補償構成の正当性を信じた。上のような論調からは、その際、保険会社はなぜ航空機事故の保険は平気で引き受けるのに(PSAではそれよりはるかにリスクが低いとされるはずの)原子力の引受けはしぶるのか、ということへの充分な疑問は生じなかったようにみえる。保険屋ごときは最高かつ最先端の学識を持つ自分たちに比べれば、ものの価値も知らない、遅れた哀れな連中だ、とくらいに思っていたのかもしれない。
今やその結末は万人の目にするところになった。原発があのように派手に爆発したということは、学者の科学計算とそれを鵜呑みにした議会の側の正当性が根底から覆され、保険会社の判断の方に軍配があがったことを示している。PSAによれば、原発の大規模事故は、よく言われるように何千万年に一度とか何億年に一度とか、そういう計算になっていた。しかし、現実には、スリーマイル、チェルノブイリ、福島とわずか数十年のうちに3度も起きた。大前研一氏も先のビデオの中で、この確率計算には大きな問題があった、事実上破綻した、と述べている。
なぜこういうみじめなことになってしまったのか。最高の学識と能力を持つはずの専門家が、そこらのただのビジネスマンにリスク感度であっけなく負けてしまうのか。その理由については既に述べた。彼らには責任がないからである。保険屋の査定能力を軽くみて国家を唆(そそのか)してその先を行かせたところで、それらの学者たちが保険屋になり代わって農家や漁師や町工場や不安に苛まれる母親たちに弁償してくれるわけではない。原発が吹き飛ぼうがどうなろうが、地位は安泰、減給されるわけでも家財を差し押さえられるわけでもない。被害を受けた側、現場で後始末をする側の苦しみはそこから始まりいつ終わるともしれないが、彼らの方は公益法人の小奇麗なオフィスで、小学校の生徒さながら始末書のひとつも書いて読み上げてみせればそれでおしまいである。たとえそれが(彼らからみれば)ズブの素人であろうが、職を賭し、自分と他人の財産を賭して真剣勝負でどうかして未来をあらかじめ垣間見ようとしている者、「いつ災害が発生しようとも、その負担を支援するのがわれわれの役目だ。保険金支払いは当然発生するが、まさにその負担をするためにわれわれは存在する」と言い切ることのできる者とは、はなから覚悟の量、真剣さの度合いが違うのだ。無責任さと無能力は連動し、互いを支え合っており、無責任な者は(たとえどれほど学歴の勲章が重々しく胸元に連なり飾っていようと)おのずから能なしになるとは、そういう意味である。
私見をいえば、これと相当する構造を持つ陥穽は、古今東西、そしてこれから先の未来にも、いたるところに転がっていると考える。それは、自分の身代には響かないという意味で責任からは自由だけれども、知識と権威だけはむだに高い選良(best & brightest)たちで構成された賢人委員会による指導と、卑しい無数の下々(しもじも)の蟻みたいな連中が織りなす一見無秩序で自律的な行動の集積の、どちらがより優れているか、どちらが社会を良き行く末に導くことができるか、という問題であり、前者の方が当然に勝っているはずだという先入観が、事実そのものの展開によって判で押したように木っ端微塵に粉砕され、繰り返し残酷に矯正されていく、という構造過程である。
その筆頭にくるのは、もちろん社会主義の計画経済である。計画経済と市場経済のどちらが優れているのかは、社会主義の進行中にも似たような激しい論争があったという。トップクラスのスーパーエリートと経済学者の知識の粋を集めた中央計画委員会によるオーケストレーションは、一見無駄だらけにみえる資本主義経済よりも、当然はるかに効率的かつ公正に経済的財を生産・分配できるはずだった。が、結果は、ご存じのとおりの、これ以上ひどい状態はないというくらいひどいものに終わった。計画経済はまるで原発建屋のように壮麗に爆発して崩れ去り、中央計画委員会がもっとも効率よく生産し分配できたのは、同胞の幸福と豊かさではなく餓えだった。
私たちキューバ人は、世界中を襲っている「経済危機」という言葉を聴いても、おそらくもっとも小さな恐れしか抱かない人々であろう。というのも、ポストソ連期の1990年代、私たちは長期にわたるモノ不足と貧困に悩まされたからだ。それは、婉曲的に、「平和な時代の特別期」と呼ばれている。私たちは、食料や電気、交通手段、住宅、医療、衣服などあらゆるものがない時代を生き抜くすべを学んできた。/停電が毎日のように起こり、主要な移動手段が自転車であった90年代、キューバではあるジョークがはやっていた。それは、「キューバ人にはたった3つの悩みしかない。それは、朝食、昼食、夕食だ」。/世界的な経済危機の中で、昨年来の食料価格、燃料価格の上昇にキューバ政府が対処しなければならなかったのは事実だ。しかし、私たちが長く苦難のときを経験してきたことを考えれば、現在の危機はそれほどキューバの現状と関係がないのである。問題は、キューバにおける生産性の低さの方だ。
これほどあからさまな例でなくとも、同じ誤認、同じ偏見はわれわれの間のさまざまな領域に場所に深く巣食っている。それはたとえば、市井のひとびとの間にある一定規模の金銭資産がある場合、それを自分たち自身で使わせるのと、国家が強制的に取り上げて賢い官僚や学者たちの委員会が使途を決めた公共事業で使うのとどちらがよいのか、という問題と並行するものであり、あるいは、低所得者向け融資の適切な上限金利や融資基準は議員や自治体と市場の自律性のどちらがうまく決めることができるかのか、という問題とも並行している。それはまた、あるひとつの経済圏における通貨の定義およびその総量と物価水準のターゲットは、国立の中央銀行で一手に決めるた方がよいのか、それともそういうものはなくして民衆が自由に振る舞うのにまかせた方がよいのか、という問いでもあり、同時にまた、弁護士や会計士や歯科医などの専門職の最適な人員数やサービス価格は、政府や職能ギルドで構成された中央委員会とそれを利用する無数の顧客のどちらがその最適な水準を知っていて、決定権をゆだねたらいいのか、という問いでもある。あるいはまたそれは、これから賠償を行う東京電力の電力料金の値上げ水準や、再生エネルギーの流通価格は、有識者による政府委員会が決めるべきなのか、それとも自由な参入環境の中で電気利用者自身の判断によって決まるべきなのか、という問いでもある。これらの構造の根底にあるのは、結局のところ、程度の差こそあれ、計画は自由に、統制は自律に勝るという社会主義的、全体主義的心性に他ならないからである。これらの「無責任な賢人たち」は、おのおの自分の必殺の「PSA」、必殺の原賠法を懐から取り出して、原子力学界の権威たちよりはうまく、ソビエト連邦やキューバの中央計画委員たちよりもうまく、自分たちの領域の問題を解決できるだろうか。あと何度、その薄氷(うすごおり)のように脆い鼻っ柱がへし折られるところに付き合えば、すぐ目の前に置かれた簡単な真実に気づき、善意の仇なす現(うつつ)の悪夢をわれわれのもとに連れてくるのを、これらの人たちは、諦めてくれるようになるだろうか。
東京電力が、電気料金の10%以上の値上げを、東電の資産や経営状況を調べている政府の第三者委員会「経営・財務調査委員会」に打診したことが27日、分かった。原子力発電の代替で稼働している火力発電の燃料費負担が収益を圧迫しているためで、8月の標準家庭の電気料金に当てはめると値上げ幅は660円以上となる。だが、調査委は値上げを認めず、東電に一段のコスト削減を求める方針だ。
原発の問題でいえば、このような「無責任な賢人たち」による構造問題に対処するために、関西学院大学の朴勝俊氏は、原発反対派の立場から、法学者の卯辰昇氏が提唱した「原子力リスク債権(原子力災害ワラント)」をそれらの関係者に購入させることを提案している。平たく言えば、自分の財産がかかればそれらの人びとも目の色を変えて少しはまじめに考えるようになるだろうということで、リスク査定の力量で、民間保険会社が学会の権威のそれをはるかに上回っていることを認めたうえで、自分の財産、お金をからめることでそういう無責任な仕事の抑止になる、金融的な仕組みとインセンティブの方が学問的なそれに勝る、という同じ前提に立つものである。これは上に挙げた多くの例にもそのまま適用できる話で、皮肉のきいた、おもしろい提案だとは思うが、そんなややこしい仕掛けを腐った土台の上にわざわざ作り込まずとも、もっとずっと簡単な方法があるだろう。つまり、それらの他人事にならざるをえない無責任な人びとを、本来の研究活動にのみ専念させ、公共の社会政策から隔離して一切関わらせないようにすればよいのである。それはすなわち、おのおの自分の商売と生活をかけて懸命に生きている事業者と個人の自律的なリスク判断を尊び、全面的にそれに任せる、原賠法のようなフライングのでしゃばり、お節介を排し、小数エリートの知識の限界を上回る市場の力を信じ、それにまかせる(レッセフェール)ということである。
確率論は安全性の証明にはなりません。それは、万一の事故の際にも電力会社が倒産しないように作られた原子力損害賠償法(原賠法)を見れば明らかです。61年に制定された原賠法は、確かに電力会社に原発事故の賠償責任を負わせています。しかし、賠償に備えた民間の原子力損害賠償責任保険は保険金が1200億円しかなく、しかも地震の場合は保険金が下りません(さすがに保険会社は原発震災の危険性をよく理解していたことが分かります)。
サブプライムのときと同じく、原発事故は市場原理と金儲け優先主義が起こしたというような、転倒した主張が、今や心情左翼の団塊世代が主導するメディア・政治勢力によって大合唱で喧伝されているため、こう言うと、あんな危険なものを「野放し」にしてよいのか、と面食らったり不安になる人もいるかもしれない。しかしその当惑や不安に対しては、次のように静かに問いかけたい。保険事業者と原子力学者・法律作成者連合で、リスクテイクの無謀さが桁外れに上回っていたのは、どちらがどちらに対してなのか。欲に目がくらんだ保険会社と電力会社連合が裳裾にすがりついて泣いて止めようとする良心的な役人たちを振り払った結果、それは起きたものなのか、それともその逆なのか、と。また、こうも問いたい。もしもあなたが原子力学界に対する保険事業者のリスク査定能力の優位性を直感的に了察し、後者を顧みなかった前者の不当性も首肯できるというなら、両者の差はここで述べた理由以外のどこにあったと考えるのか。また、上記のような、学者先生たちにも金銭的な関与を持たせようとする提案の有効性をも直感できるというのであるなら、それは「金儲け優先原因説」を真っ向から否定し、食い違うのではないか、と。もしも金と欲に目がくらむとリスク感覚が狂うというのなら、廉潔な学者のPSAはそもそも保険会社のそれにはるかに勝っていたはずだし(当人たちもそう信じていたし、「行き過ぎた市場原理主義」を是正すると自信満々の民主党政権のお雇い委員先生たちもそう信じている)、彼らに金融債を買わせて金銭的インセンティブをプロセスに埋め込もうなどという上のような提案は、、およそ正気からかけはなれた、泥棒猫に魚の見張り番を頼むに等しい、言語道断に邪悪なものということになろう。逆にまた、これらの内容を認めながら、一方で効率優先主義だか利益優先主義だかを問題の根源とみて、エネルギー政策(再生エネも含む)への公的機関の関与と監督の強化、原発の国営化のようなものが良き方策になると考えるなら、それもまた支離滅裂な、どうしようもない話である。
エリート第三者委員会の意思決定に真の経済的基盤が欠けていたことに問題を認めながら、もう片一方の脳で、それらをいっそう増殖させ、強化するような対応を取れば、問題を解決するどころか、同じ問題の新たなコピーを作り出し、未来に向けてクラッカーを鳴らしながら船出させてやることになる。ちょうど、サブプライムで、見当違いの金融規制などに熱中して、肝心の政府機関の病理を温存、先送りすることで、せっかちにも前の始末もまだ終わらないそばから、次の新たな時限爆弾を経済の心臓に埋め込んだのと同じように。
米政府は、住宅市場活性化や差し押さえ防止のための新たな計画を来週、発表することを検討している。住宅ローン借り換え支援も盛り込まれるという。(略)関係筋によると、政府が現在計画している住宅ローン借り換え支援策では、一部の借り手は、連邦住宅抵当金庫(ファニーメイや連邦住宅貸付抵当公社(フレディマック)、米連邦住宅局(FHA)が保証している住宅ローンを借り換えることが可能になる。
純粋な研究としてなら、PSAだってひとつの立派な計算モデルであり、誇るべき学術的成果といえる。複雑で一回性の現実を類型化し、単純な知見に絞り込んで見通しをよくすることが学問の大きな役割のひとつであるし、実際にプラント設計その他の安全性向上に資するところが大きかったのもその通りだろう。問題はそれを思考の実験室から連れ出して、われわれの生命財産が全額巻き添えになるような、全体的な意思決定の根拠にいきなり祭り上げることができるのか、そうしていいのか、ということだ。
学者の甘言に唆されて、あるいはそれを口実にして市場の論理から離れた突飛な行動を思いつきで取りたがる政府自身の行動形態が問題なのではなく、儲け主義の悪い私企業が政府を抱き込んで悪事に走ることで災いが生ずるという順序でものを考えているひとも多いかもしれない。しかし、そのような社会像は、市場の影響を弱めて賢人会議の機能を強化するという逆の方向を理論的に補強することになりやすいだろう。上に見てきたように、病の急所はまさにその点にこそあるのであるから、そのような逆噴射的な行動は、アルコール中毒の患者にさらに杯を注ぎ足して、迎え酒で症状を治療しようとするのと同じ羽目に陥るほかはない。
問題の真の所在から目を背け、抑圧されたものは妖怪のように封印をすり抜けて蘇り、何度でも繰り返す。私からみれば、リスク評価を市場の洗礼から遠ざけて有識者委員会と議会のさらに強い監視のもとに置く方向は、もうひとつの原発を爆発させ、もうひとつの不動産金融危機を引き起こすための、もっとも確実かつ直線的な一本道である。