この内容で個人的に興味深かったのは、ここのところ原発問題も含めてずっと意識している、経済活動の中での国家の役割という視点からみた比較である。記事にあった主張の骨子は、自分たちは一般社会からドロップアウトしたはぐれ者たちを集めて養っている、その点において社会全体にとっても有用な互助組織だ、というものであるが、これは「福祉国家」を正当化するある種の論理展開とまったく同じで、そこが面白いと思った。
福祉重視、再分配重視型の国家運営は、必然的にその原資としてのより重い徴税を伴い、両者がセットになることは避けられないが、福祉国家型の政府運営を擁護する論者の書いたものを読んでいると、より重い税を課してそれを低所得者層に国家が「再分配」しても、それはそれらの人びとが社会不安のもとになるのを未然に防ぎ、彼らを無能者として排除して雇用と給与を与えようとしない非情な事業主の代わりに養ってやっている、本来彼らが負担すべき賃金を代わって払ってやっているのであるから、文句を言わずにありがたく感謝しろ、という類の主張を見かけて、その一方的な押しつけがましさに驚かされることがある。この手の理屈が頼りになると考えている者は日本にも欧米にもたくさんおり、彼らは自分の行為は掛け値なしの善行で、自分を善人と信じてつゆ疑わない。
もちろんこれが暴力集団が自らを正当と考える論理と酷似していることは、上記のインタビューを読んだ人は、その心性のぞっとするような近縁性において、ありありと感じられるだろう。
組織暴力団が、社会の中に比率として必ずいるであろう不良分子をまとめて力の統率のもとに置くことで、より大きな悪行に走るのを防いでいるというのがそれなりに事実であるのと同じように、福祉国家の再分配がその種の役割を果しているというのも、部分的には確かにその通りだろう。しかし、それはそうだけれどもそんな論理はおかしい、と聞く側が違和感を持つのは、それが相手の判断を問わない、有無を言わさぬものだからである。それに支出させられる側は、そのことの評価に参加できない。これと同じ論理を言われて、企業や商店街はいわゆる「みかじめ料」という別口の税金を取り立てられるが、暴力の威圧があるから、それを拒否することができない。あなたはそう言うが自分はそうは思わない、自分は払わない、ということができない。そのうえで払わなければもっとひどいことが起きる、俺たちはそれを防いでやっている、と脅し半分で感謝までセットで強要される。
この暴力団の取り立てとネットの議論などでよく比較されるのが、失礼ながら、NHKの放送受信契約である。それは名ばかりは「契約」といいながら、相手の同意を必要としない一方的な押しつけなので、暴力団のみかじめ料の「契約」と形態はとてもよく似ており、多くの不満とトラブルの元になっている。
NHKは20日、受信料の支払い督促に応じない8都府県の計12人に対し、30日までに支払わなければ各地の裁判所に強制執行の手続きを申し立てると通告する文書を郵送した。通告は昨年5月と11月に続き3回目。(略)NHKはこれまで、通告文書を35人に送った。実際に強制執行の手続きを申し立てたのは29人。
この場合問題は彼らが自分で言う通り、本当に「いいこと」もしているかどうかではない。彼らの行いにほんとうに社会的に有用な意義があるかどうかは、それに支出する側の自由で自発的な意思表示によってはじめて、また、それによってのみ正しく評価される。それはすなわち暴力による強要によってではなく、双方の自由な合意によってのみそれが保証されるということであり、大人の社会では、市場における取引の相互契約によってはじめてそれが保証される、ということである。また、これは子育てにおける親と子どもの関係においても同じだ。子どもを育てる親が、子どもの成育によい環境を与えているかどうかは、子どもの側の自由な感謝においてはじめて評価される。逆にその感謝までをも威圧によって前借りしているような親は、すでにそのことひとつだけで、子どもをよい環境とは正反対の別のもの、最悪の暴圧のもとに置いていることが確定する。
話が子育てについてであれば、誰だってそれをもっとも単純で基礎的な真実として首肯するだろう。ならばなぜ国家と国民の「パターナリズム(親子関係)」においては、違うという話になるのか。
商店街と暴力団の関係についてならば、誰だってそんなことは当たり前で、言うまでもない当然のことだと言うだろう。ならばなぜ、もっと大きな商店街と暴力団の関係については、同じ論理を貫徹しようとしないのか。いくら暴力の威圧自体もさらに大きな、強烈なものになるといっても、「正しいことを正しいと考える」内心の自由まで、売り渡さなければならないのか。
上の比較からも分かるように、福祉国家が互助機能とその運営への感謝の強要という暴力団の論理を自らの正当性の根に持つなら、両者は本質において同じである。暴力団は非公認のミニ福祉国家であり、福祉国家はその正当性までも自己装填した、いっそう厚かましく、いっそう開き直った巨大暴力団である。福祉国家論者は政治的にはいわゆる「リベラル」のことが多いが、国家と権力が拳銃と令状(法律)を突きつけて自己への愛(愛国心)を強要することについては、ご存じの通り蹴り飛ばされた鶏小屋の鶏のように口やかましく騒ぎたてても、この福祉互助会への協賛金の強要については一転口を緘して見てみぬふりをする。あるいは積極的にそれに加担し、自ら先兵となって拳銃と令状を突きつける側にまわる。あるいは、支払わないなら、「若い衆」の押さえが効かなくなる、彼らを店の前に繰り出してお前たちの業務を妨害してやるがそれでもいいのか、と脅す。後者は実際の金品まで巻き上げようとするだけ、単なる儀礼行為への協力よりもさらにたちが悪く、罪が重いのは明らかだが、すぐ目の前で自分自身の血のついた手がしているそのことは、彼らは考えない。
両者を比較して暴力団の方がまだしもまともに見えてしまうとしたら、彼らは最低限自分が文字通り暴力的であり、悪党であることくらいは心得ているからである。上のインタビューにもよく現れているように、彼らは自分たちが暴力による強制を行使する存在であること、自分が日陰者の、裏側の存在であることだけは身に沁みて知っている。そのことは、相対的にいえば、彼らに対しては最後の一線における「節度」がまだ期待できることを意味する。親子関係でも親がこのタイプの「強権型」の場合、子どもの側にまだ精神的に逃げ道があって、意外にまともに成長することが多いのは、自分の強権性を明確に自覚的であるという、この最後の「節度」があるからである。しかし福祉国家主義にはその節度すらもない。彼らには自分が暴力を行使している後ろ暗さへの自覚、暴力なしには彼らの考えるところの麗しい社会契約と感謝の強要、連帯の強要が成り立たないことへの自覚はまるでない。虐待をしている自覚なく虐待を続ける親。それは最も恐ろしい存在だ。ブレーキの壊れた暴走車と同じで、彼らの信じる「善行」をなすのに歯止めがかからないからである。それはおよそこの世で考えうる、この世に存在しうる中で、最悪の存在である。暴力団が怖いどころの話ではない。この点について昔の偉い宗教家はこう言ったそうだ。善人とはろくでもない存在であるがなおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人においておや、と。だが、これほどの底なしの「善人」にまで、その適用は及ぶものだろうか。
ちなみに、商店街で商店主が「みかじめ料」を払わない自由がない、と感じるのは、自分が暴力の威圧に対して丸腰で身を守れない、と感じているからである。ではなぜそうなるのかといえば、国家が公的独占として暴力を吸収し、取り上げてしまっているが、一方で見返りとしての保護は必要なだけ提供されていないからである。具体的にいえば、攻撃を受けても彼自身が自分で小さな暴力を行使して対抗することは法によって禁じられているが、暴力の公的サービスとしての警察力は「計画経済」による不十分な配給であり、すべての計画経済、すべての配給と同じように、横町の一介の零細商店主、一介の芸能人のところまでは目が届かず十分に行き届かないことが多い。そのため彼の周りには容易に暴力の「空隙」ができてしまい、それで身を守れず、威圧に対して屈してしまうことになる。この眺めを上空から俯瞰するなら、より大きな暴力団が自分の暴力による威圧の効果を最大化するために、暴力を独占して自分の「シマ」の堅気の人びとを丸腰のブロイラーのような状態においているが、見返りとしての警護はいい加減で、対価と正しく釣り合っておらず、空白のムラがいたるところに生じている。その空隙を狙って、より小さい非公認の暴力集団が、「業界最大手」の手法をまねて、ちょうど養鶏場に忍び込んだ狐のように、丸腰の相手を脅して自分たちの互助会用のみかじめ料を取る、という構図である。これは、ちょうど昨今の放射線汚染の騒動に比較すると、国家が放射線測定のリソースを(役立たずで有名になった「SPEEDIシステム」のように)全部吸収して独占してしまっているが、一方で得られた情報は囲い込んで充分に提供しようとしないため、国民はみんな武器を取り上げられた徒手空拳の状態で途方に暮れて右往左往させられているのと同じである。すなわち、経済学の用語を使っていえば、国家は暴力やら放射線測定のリソースやらを全部吸い上げて囲い込み、他の選択肢を意図的に締め出して、流通不全の状態に「クラウディングアウト」しているのである。
このようにみれば、次のようなさらに踏み込んだ可能性も、十分に考慮に入れるに値するものに思えてくる。すなわち、先にみたように、暴力というものが果たす役割もまた、われわれの社会の中で完全に避けることができないものであるのならば、機能不全の公認サービスしかないのではなく、それもまたわれわれが自由に選べる方がよい。われわれはどっちみち誰かの暴力には脅されるしかないので、やむなくあらかじめ国家の暴力に脅されることを選んだ、というのは、あとから取ってつけた、国家が自分の暴力を正当化するために多額の広告費を投じてわれわれに押しつけた「安全神話」「安全洗脳」でしかない。われわれが脅されているのは、脅されるべくあるように自由が禁じられているからである。選択の自由を取り戻すことによって、他のケースとまったく同じように、暴力もまた最も有効な形で馴致され、それがもたらす害もいちばん弱いものにまで弱められるだろう。また、その能力に秀でながらも国家に属することを潔しとしない伉侠の質も、今のように公的独占によって排除された非公式の後ろ暗い存在ではなく、公明正大な需給関係の中に自分の位置づけを堂々と見いだすことができ、自由な合意と契約の中で人びとからほんとうの感謝を捧げられ、機能する有用な効用を社会に提供する存在として、胸を張って生きていけるようになるだろう。
それは少なくとも現在のように市井の人びとが、暴力の公的独占という神話を維持するために、自ら檻に入って手負いの虎となった非公認の武闘集団と素手で闘えと、官憲からけしかけられている本末転倒の、異様な状態よりも、よほどましな話といえるのではないか。