日刊紙、日曜版のそれぞれが適切な収益をあげ、党費、募金とともに党の基本財政をささえるというのが党財政の本来のあり方です。しかし、いま、日刊紙経営の危機が、中央の財政にも深刻な影響を及ぼし、その結果、宣伝・選挙をふくむ諸活動をすすめるうえで重大な障害になっています。日刊紙の危機打開はもはや猶予できない事態であり、抜本的な打開が急務となっています。こうした事情の検討のうえにたって、日刊紙の発行を守るため、次のとりくみをすすめることにしました。一つは、日刊紙の購読料を500円値上げすることです。日刊紙を購読している党員や読者のみなさんの生活状況を考えると、500円の値上げが大変なことは痛いほど承知しています。しかし、日刊紙を守り、暮らしをよくしていく力を強めるためには、これはどうしても必要なことです。
共産主義に対抗する立場を取っているだけの単純な保守主義者であれば、こうした知らせは単に敵失として慶賀するだけのことだろうが、事業の現場に身を置いている人たちが、それを一個のビジネスとみて、事業の視点からそれを考えるのであれば、もっと違った、さまざまな角度からの光があてられ、冷静に汲みとれるものがあるはずだ。ここではそれを取り上げよう。
メディアビジネスとしての「赤旗」事業
まず、派生的な論点を先にまとめて見ておく。赤旗の発行も他の企業のものと同じく「新聞ビジネス」のひとつだ。これらのメディアビジネスは、ネット化の流れの中で、情報そのものの代わりに媒体としての物質を販売するというこれまでの収益モデルが崩れてどこも苦しく、うまい切り抜けが見つからずにもがいている。すなわち、赤旗も経済活動としては、それらのメディアビジネスとなんら変わらず、別の法則の中で動いているわけではないし、他方、赤旗だけが苦しいわけではなくて、右派系の紙面も含めた新聞ビジネス全体に共通の、大きな地盤沈下の中のひとつということでもある。では、それに対抗するための「値上げ」という対抗策はどうか。これはいろいろな意味でとても面白い出方だ。まず、事業の手法としては、売上げが落ちたから同じ収入を確保するために値上げする、というのは言うまでもなく、馬鹿げた悪手でしかない。以前、「値上げの仕方」という記事を書いたが、売上げが落ちているのは、顧客の評価が下がっていて、今の価格は高い、価格ほどの価値はないと暗に言われているのである。だから、同じものを売っている限り、もとに近い売上げを確保したいなら価格はむしろ下げなければいけない。それが定石であり鉄則である。
しかし一方で、赤旗は単純なコンテンツ商品ではなく政党の機関紙であり、支払いは賛同者による「寄付(カンパ)」という側面も持っている。党もそれを意識していて、上記の告知では党の政治的価値を訴え、それを維持するために値上げへの協力を呼びかけている。売り物の経済的価値は前と同じだが、他の面での守るべき価値への運営協力金として値上げをのんでほしい、というわけだ。
このように、苦境にある商品が経済的価値以外のところに訴えて、一種の寄付として金銭提供を呼びかける対応は、他ならぬ新聞や出版、CD販売、鉄道(以前千葉のローカル鉄道が煎餅を売ったのが話題になった)など、他の一般の事業領域でもよく見られるものである。が、これも苦しまぎれの一時しのぎにすぎず、売上げの引き上げに一時的に成功しても、その後落ち込みがいっそうひどくなり、たいてはうまくいかずに潰れて消えていくのが常である。われわれは商品・サービスを購入するときに、あくまで経済的価値の対価として自分の財布から支払いをするのであるから、そこに余計なものを混ぜると目方の感覚が狂ってしまうし、どこがどちらか区別できなくなくなるため、商品力の強化も寄付の訴求も、あぶはち取らずで両方中途半端になり共倒れに終わる。ほんとうに寄付を呼びかけるに値するなにかがあるのなら、商売とごちゃまぜにして一緒にせず、商売は商売、寄付は寄付と、切り分けて別に扱った方がよい。これも定石といっていいだろう。
「サービス存続のためにお金を払って」と呼び掛けていたカフェスタの終了が決まり、約7年の歴史に幕が下りることになった。広告収入に頼るネットコミュニティーサービスの難しさが改めて浮き彫りになった形だ。(略)同サイトをめぐっては、運営コストをまかなうために「存続のために有料会員になるか、アバターなどを購入してほしい」と運営側がユーザーに呼び掛ける異例の試みで話題になっていた。だがMCJの本業であるPC事業で市場が停滞しており、競争力を再強化する必要があるとして、シナジーが見込めないSNS事業の譲渡を決めた。
とはいえ、これらは純粋なビジネスの視点からの見方であるから、他でもない共産党にそんなことを説教したって始まらない、という考え方も当然成り立つ。共産党は、そのような割り切った考え方の集合体である資本主義経済を改めて世直しすることを教条とする集団なのであるから、彼らには彼らの流儀があっていい。しかし、市場に身を置く事業の徒は、まさにその点こそ意見を異にするところだろう。メディアビジネスというひとつの事業はそれを誰がやっていようが同じである。共産主義者だから、雨粒が急に下から上に降りだすわけではない。むしろその点こそが(運営者が誰であるかによって差別をせず、経済原則で動く)市場経済のいいところである。法や共産主義の下では人は平等でなくても市場の下で万人は平等である。それは共産主義者であっても変わらない。あるいは共産主義になってさえも変わらない。逆にいえば、共産主義者は、もしも自分がもう一回天下をとって、全社会が共産主義になったら、あらゆる商品を同じように、また、かつて共産国家で行われていたとおりに、市場原理を無視し、消費者の悲鳴や不満などいっさい無視して、自分の考えで恣意的に二倍でも三倍でも値上げするのだろう。そのような経済運営は、たとえそれが全体と一致してもうまくいかないことは既に歴史の経験が証明済みである。それが資本主義経済の片隅で行われる部分としても既にうまくいかないのと同じように。
その他、価格の価値の向上なき一方的な棒上げは、彼らがいうところの人民からの「搾取」となにが違うのか、という論点や、また、彼らはつい先年、巨額の費用をかけて豪勢な本部ビルを建て代えたばかりだが、民間企業の場合でも成功に尻餅をついて不相応に立派な本社ビルを建てると、決まってそのあと急速に没落するという投資の法則をそのまま律儀になぞっている点などは、また別の話なのでここでは置こう。
共産党の対応はいかに見事であるか。あるいは、
思想の自由のために経済的自由がいかに重要であるか
以上、赤旗の奮闘についていくつか腐(くさ)すようなことも述べたが、実はそれがここでの本旨ではない。先に難点の方をまとめて列挙したのは(自分にしては珍しく)この一連の対処を賞賛するためである。たしかにビジネス、商売という点からみれば、上のようになんとも素人くさい、まずい対応かもしれないけれども、それでも共産党がこうして体を張って新聞を売り、自分で党の運営費を稼ごうとしているこの行為自体は、それらをすべて打ち消してあまりあるほどの、実に見上げた態度であり、どれほど高く評価してもし過ぎることはないくらい立派だ。なぜかというと、それによって共産党は日本の主要政党の中で唯一「政党助成金(政党交付金)」をもらわない党であり続けているからである。彼らは自分たちの活動費を全額自分の財布だけで賄うことをずっと続けている。事情をよく知らない人からみれば、これは不思議に思えるだろう。財政が厳しく、不況で党員たちの財布も苦しい中、なぜ公金からの補助を頑強に拒絶しなけなければならないのか。へんな片意地を張らずに他の党のようにふつうに補助金をもらえば楽に息がつけるし、機関紙だって値上げしなくてよくなり、けっして少なくない負担が減って党員の生活もそれだけ助かる。党の中にだって当然そういう声はあるはずだ。しかし彼らはそれでも断じて補助金に手をつけることはしない。これはなべて確実なことのないこの世の中でも数少ない確実に言えることのひとつである。それに手を出すのは共産党がもはや共産党でなくなる日である。共産党が共産党である限り、これからも彼らは絶対に国庫から補助をもらうことはない。なぜか。
その理由は、共産党が戦時中に国家から激しく弾圧された経験を持つ党だからである。もし党財政が国の補助金に大きく依存するような状態になったらどうなるか。国は、自分に金銭的に頼るようになった共産党の蛇口を締め上げて、いざとなったら党をかんたんに潰すことができる。そうなれば国にとって共産党はもはや怖い存在でもなんでもない。国からお恵みをもらわなければ生きていけない哀れな集団など、国家に生殺与奪の権を握られた従順な従属物、飼い馴らされた犬にすぎず、なんら恐れるに値しない。いつでも潰せる党はもはや潰す必要さえない無害な党である。国は喜んで補助金を出し、それをもって公安の監視も解除するだろう。ある意味で政党助成金は、他ならぬ共産党にもらってもらうために作られた誘惑の果実といえる。
だから共産党は自分が共産党である限り、他のなにを妥協しようとも政党助成金だけはもらうわけにはいかない。石に齧りつき、泥水を啜ってでも、なんとしても自前の財政だけは確立しておく必要がある。そのため、収入の中核である機関紙の販売ビジネスは、それが崩れ去れば党そのものが終わりといっていいくらい、彼らにとってはきわめて切実で重大な死活問題、党の存続の生命線なのである。党の経済的基盤は、国家からの下賜金にではなく、あくまで「民衆の中に」、草莽の側に置いておかなければならないのだ。
国民がどの政党を支持するかは、一人ひとりの自由です。ところが政党助成は、自分の納めた税金が自分の支持していない政党に強制的にまわされることになる強制献金制度です。これは、憲法の保障する思想・良心の自由(一九条)をふみにじるものです。また、政党助成制度は、本来国民に依拠して自律的に活動すべき政党のあり方をゆがめ、税金のひもつきにしてしまうもので、政党と政党政治を堕落させるものです。
彼らのこの固い決意を外野から安直に評して、日本はもはや戦時中でも軍国主義でもないし、公党が政府や治安警察から弾圧を受ける可能性など毛一筋もないのだから、そんな古くさい家憲にいつまでも縛られているのはおかしい、と笑うのはまったく間違っている。そのような浅はかな考えを持つのは、売上げが落ちた分を値上げで即物的に補おうとする間抜けな事業主のさらに百倍も迂闊な大馬鹿者である。この緊張関係は、大昔の古びた思い出話ではなく、まちがいなく今そこにある現実の生きた問題なのだ。
早い話が、目の前に山と積まれた補助金の札束に目がくらんで自分の管内に原発を建てまくった自治体は今どうなっているか。事故を起こしたところは住民は追い立てられて故郷と補助金で建てた立派な家々を失い、そうでなくても、予算を補助金に頼りきって足抜けしたくても、目も足も捨てた腸の中の寄生虫のような姿に成り果て、骨の髄までスポイルされているので、今さらどうにもならない。政治資金も同じだ。党の政治資金を集中させてその配分権を握ることが、田中・竹下・小沢の自民党派閥政治の系譜の強大な支配力の源泉になってきた。金はもらうが行動は自分の良心に従うということは誰にもできなかったのである。政党助成金についても原理的に同じことにならないはずはないのだが、これまではさすがにそのような筋の悪いお手つきは、おおっぴらには慎まれてきた。が、先日ついに臆面もなく実際にそれをやった党が現れた。今の政権与党の民主党である。彼らは自党の出した法案に賛成しないなら政党交付金を停止すると言って野党を脅迫したという。
民主党の岡田克也幹事長は1日の記者会見で、平成23年度予算執行に必要な特例公債法案が今国会で成立しない場合について「政党交付金などは真っ先に差し止めるべきだ」と述べ、同法案成立をめぐり態度を硬化させている自民党など野党を牽制した。
このことはあまり大きく取り上げられなかったが、事実であれば政党助成金の本質をあらわにするきわめて重大な事例であり、民主党自身にとっても今後致命傷となるような最悪の愚行である。なぜならそれこそ共産党が常々非難してやまないように、他ならぬ民主党こそは党財政の8割もの額を政党助成金に頼る、補助金漬けの「国営政党」だからである。民主党は、米軍基地問題でも計画をのまないなら地方交付金を止める、と言って沖縄を脅しており、政権にあるのをいいことに、補助金をダシに使って好き放題にあちこち脅しまくりである。他の多くの件もそうだが、彼らは自分がしたことがあとでそのまま自分に返ってくることに対しては想像力が少しも働かないらしい。
防衛省は沖縄県の米軍普天間飛行場(宜野湾市)の移設先として日米合意した同県名護市への米軍再編交付金の交付を取りやめる。2009年度分と10年度分の計約17億円で、24日に同市に通告する。同市が移設受け入れに反対しているため、交付できないと判断した。再編交付金のとりやめは全国で初めて。菅内閣は、来年度から導入する地方への一括交付金のうち、沖縄県分の配分額を300億円強に増額する方針だが、一方で、名護市には再編交付金の取りやめという厳しい姿勢で臨む。(略)騒音被害が及ぶ隣接の宜野座村については「受け入れに反対していない」(防衛省幹部)ため、10年度分の1億8千万円を交付。同じ移設先をめぐる市村で対応を分け、名護市への「圧力」を強める構えだ。
これらの生々しい事例は、共産党の舵取りが単なるつまらない意地っ張りや格好つけ、あるいは過去への義理立てなどではなく、今現在の進行形の事態に対応して党の独立を守るための、きわめて的確な対処であることを示している。共産党のこの点の対応、さらにまた徴税を通じた「強制」献金が思想・良心の自由の根幹を蹂躙するとの認識は完全に正しい。正しすぎるほど正しい。
現在の日本の政治では、政党助成金の存在とその届け出期限日が政党結成の動機とタイミングを決定づけていることがあからさまに公言されている。結果としてわれわれは、政治信条と政策で内部になんの一貫性もない、単なる議員同士の好悪だけで糾合した、烏合の衆のようなわけのわからない政党をいくつも抱えることになり、助成金の条件を満たすための、議員の貸し借りさえ公然と行われている。このような現実を前に、エネルギー政策と同様、他ならぬこの政党助成金こそが、日本の政治を歪め、堕落させている元凶である、という指摘が出たとしても、それにどう反論できるだろうか。
共産党が教える政党と思想の「民営化(privatization)」
以上の検証を通じて、われわれは「赤旗」問題のいくつかの表面的なさざ波の奥に深く潜んだ、内奥の本質に到達することができる。それは思想の自由を現実的に保つうえで、経済的自由がいかに致命的に大切か、ということである。それは、われわれにとって私有財産制が大切であることの、もっとも重要で根源的な理由である。それは国家と癒着した関係にならず、健全な緊張関係を保ち続けるうえで、民衆にとってなにより大切な、いのいちばんに守られなければならない権利だ。私有財産が保証されている限り、最後の精神的自由は守られる。それが犯され、国家に好き勝手に蹂躙されれば精神的自由もいっしょに失う。金銭それ自体や、生活の豊かさ、贅沢な暮らしのためでなく、精神の自由のために、それが重要なのだ。たしかにわれわれは、郷土を侵略された北米インディアンのように、身ぐるみ剥がれて放り出された裸の状態でもあくまで良心の自由、内心の自由を守るべく戦うこともできる。しかしそのときその行為は、自分の誇りを最期にこの世に刻みつけるためだけの、文字通りの決死の、命がけのものになる。そうした行為はもちろんこの上もなく高貴で気高いものであるけれども、だからといってそのような究極の決断を人びとに最初のものとして課すことはできないし、運営資金の問題を必然的に伴う党派集団としては現実的に存続が不可能になる。
共産党のこの毅然たる「けじめ」は、国家からの手厚い金銭的保護があっても国家に対抗することも含めた精神的独立は守られうる、あるいはそれがあることによってむしろ守られる、とする、一部の堕落した考えに存する欺瞞性を根底から断罪するものだ。収入のほとんどを握られている相手に対する批判など、馴れ合いの批判、見せかけの批判、相手が倒れないように手ごころを加えたポーズとしての、予定調和としての、自己満足としての批判にすぎない。そのようなまがいものの独立が、ほんとうの厳しい対立が生じたときに、飯櫃を相手と替えっこしながら戦い抜くことは不可能である。
また、それは、この問題が「貧富の差」の問題などではないこともはっきり示している。共産党は貧しい人びとによる、貧しい人びとのための党だろう。また、共産党は自身が金持ちになることを目指して稼ぎを得ようとしているのでもないはずだ。その党が自分の理想を貫くために誰よりも自前の財政、自前の稼ぎを得ることに腐心し、執着しているのである。さらにこの問題は、ことの次第からいって国家が高いところから削ってきた土を低いところに与えて全体を均(なら)すという解決が不可能である(それこそがまさに「補助金」に他ならないから)。精神の自由と独立が経済的基盤に依存するなら、貧しい者にはそれだけ自由が少ないのか、などと嘯いてのんびり煙草をふかしている暇はないのだ。貧しい者にとってこそ、貧しいからこそ、もらいものに頼らずにどうやって自分の足で立つかが重要なのだ。共産党の生きざまは、金持ちでなければ政治家や弁護士になれなくなるので国家補助を積み増してほしいなどという戯言を恥ずかしげもなく外部に垂れ流している各種団体へのなにより痛烈な生きた反証である。
同時にそのことはなぜわれわれの政府は小さな政府でなければいけないのか、大きな政府ではだめなのか、そしてまたなぜ税は少なくなければならないのか、少なければ少ないほどよいのか、ということの根源的理由でもある。政府の活動が堤防を破って浸水し、民の領域を広く侵せば侵すほど、われわれの精神的自由もそれだけ潜在的に浸食され、痩せ細って少なくなる。逆に政府の領域が縮退して、民が自立して経済活動を行える領域が増えれば増えるほど、自由の基盤の厚みも増す。もちろん共産党員が新聞ビジネスに精を出し、そこから党の収入を得る共産党のそれも含めて、である。共産党が自分で言っているように、経済基盤を「国民に依拠する」ことが個人や集団の「思想・良心の自由」の不可欠の、絶対条件であり、そのことこそがわれわれの活動、われわれの事業すべてが「民営」であること、民営でなければならないことの根幹の意義である。経済基盤(富の生産手段)を「国営(公営)」「官営」にもつことは、「思想・良心の自由」とは本質的に両立しない。
もちろんわれわれは、ここに共産党の抱える、あるいはそれをめぐる根幹の矛盾を容易に指摘することができる。共産党が補助金を断固として拒否し国家からの経済的自立を保とうとするのは、歴史と現実そのものの厳しさが求めたところに忠実に従ったものである。しかしそれは共産党が奉ずる共産主義が全否定する私有財産制(共産党風にいうなら「生産手段の私有」)を前提に成立している。共産党ですら自主財源をこれほど重視していることは、私有財産制がわれわれの精神的自由にとってどれほど根源的であるかをわれわれに告知し、何よりも強烈な明証として逆に証明している。ここにはさまざまな逆転現象がある。資本主義により積極的、あるいは妥協的な他の政党が補助金にだらしなく依存する「国営」政党であり、経済活動を全部国営にしようと目論む共産党がどこよりも純度と緊張感の高い、国家から自立した完全な「民営」または「私営」政党である。大企業の国営化を叫ぶ政党が、政党の国営化は非難する(彼らは「新聞社」の国営化についてはもごもごと口ごもっているがどうするつもりのか)。共産主義を実現するために共産党が不可欠と考えている方法論、党是がなにより真っ先に共産主義の正当性を否定する。共産党が国政を掌握して経済全体を国有化したら、そのとき、共産党がかつて許され、また自分でも一等重要と考えてきた経済的独立とそれによる思想の自由は、社会の中で絶息し、死ぬだろう。その矛盾は、自由は共産党が自由であることだけが唯一重要なのであって、他のみんなが自由に勝手な意見を持つことが重要なのではない、共産党が勝利すれば、それは思想の最終段階なのだから、もはや自由な意見、自由な批判は人間社会に必要ではない、という独善に陥る以外は糊塗できない。
もちろん共産党のこの矛盾は、彼らの細部における脇の甘さや思想の不徹底(たとえば彼らは司法修習生への国費支給を支持している)にもつながっている。この矛盾の本質的な部分をいっそう際立たせるために、最後にひとつ簡単な思考実験を試みよう。社会福祉制度の議論の中で、すべての国民に基礎的な生活費を保証する「BI (ベーシック・インカム)」という提案がそれなりに実現性の高いものとして検討されることがある。働かなくても最低限の生活はできるので、「能力によって働き必要に応じて取る」部分的な共産主義状態といえなくもない。が、もしこれが導入されたとしたら、共産党の「財政的自前主義」はどういう影響を被るか。共産党の支持者は貧しい層が多いとすれば、このBI に収入を大きく依存する人が増え、そのとき機関紙の購読料は、このBI を原資に、その中から支払われることになるだろう。果してその状態でもまだ共産党は「自主財源を堅持している」と胸を張って言えるだろうか。購読料が「個人への補助金」の中から支払われるなら、それは国からの一種の「迂回献金」「偽装献金」であって、自主財源の美しい理想はすでに砂上の楼閣と化しているのではないか。党員の家計があらかた政府の汚れた補助金に「汚染」されることは、ひいては党そのものの財政的独立が汚染されているのと同じではないか。そのとき共産党は、党本体の「政党助成金」を拒否できても、党員に「党員助成金」を拒否させることまでできるだろうか。党が補助金の誘惑に負けずにこれまで頑張ってきたように、お前たちもそんな汚い誘いに負けてはいかん、あくまで市井の中で歯を食いしばって自分の力で商売をし、稼いで、その中から党に献金するのだ、と説得することができるだろうか。しかしそのとき党に献金するための原資となる「民」の取り分は、BI を広くばらまくために容赦なく毟り取られる苛烈な重税と肥大化した官僚機構に押しつぶされてさらに息も絶え絶えに痩せ細り、共産党の試みはいっそう厳しいものになっているだろう。さらにまた、自分たちはまさにBI のような制度が部分的にではなく全面的に実現される世の中を求めて共産党に共鳴し、苦しい家計をやりくりして赤旗も買ってきたのに、なぜそれをちょっとだけ先回りして手に入れてはいけないのか、という党員からの当然の不満にも答えなければいけないだろう。あるいは、BI の浸透によってもうその理念は事実上有名無実化してしまった、賂(まいない)を袖の下からもらうのも上からもらうのも変わりはない、と肩をすくめ、自前主義を投げ出して党への助成金をもらう方向に方針転換するだろうか。共産党自身が天下を取ったら迷いなくそうするだろうのと同じように、補助金の蛇口を握る政府が明日にでも、なにかもっともらしい理屈をつけて、共産党とその党員への支給は停止する、と言い出しはしないかとびくびくと恐れながら。
BI に関するこの思考実験は、共産党の自己矛盾をついて彼らをへこませるための知的な悪戯という程度のちっぽけなものと受けとってもらっては困る。それはわれわれ一人一人にとっての切実で重要な思考実験でもある。想像してみてほしい。近い将来BI がすっかり定着し、生活苦から解放されたといって喜んでいたところ、ある日政府の全権を掌握した絶対権力者が、自分の特定の考えに賛同するかどうかを個々に審査し、反対するものにはBI の支給を停止する、あるいは一族の侈奢や軍事的野心のために明日からお前たちに奴隷労働や徴兵制を課する、従わない者には支給を停止する、と民主党の幹事長のように言いはじめたら、われわれはどうするのか。そのとき、BI の安楽さに慣れてすっかり足腰が弱り、原発補助金まみれになった自治体のように、もう自分自身の足では立つこともできなくなっていたら、どうするのか。これはそういう問いなのであり、共産党自身と少しも変わらず、われわれ一人一人も自分の問題、自分の精神の独立の問題としてそれを突きつけられているのである。そのぎりぎりの選択を迫られて、共産党はその信条にもかかわらず、驚くべき跳躍をみせて高貴なる自立を選択した。ならばわれわれひとりひとりはどうするのか、という、それは問いなのである。