投資家向け助言機関大手の日本プロクシーガバナンス研究所(JPG)が、九州電力の株主総会(28日)で、原発の停止や廃炉を求める株主提案に賛成すべきだとする助言をまとめた。「民間企業にとって原発事業はリスクが大きすぎるため」としている。
原子力発電に限らず、企業の経営者がサービス提供や商品開発になんらかの新技術を採用する方向を決め、株主に対してそれが企業の成長につながる素晴らしいものだ、あなた方が投資してくれた資金もおおいに殖やして、社会にたくさんの福利をもたらすことができる、と説得して実際に走りはじめたものの、リスク判断が甘く、後から考えれば予想もできたような大事故を起こして業績上も壊滅的な打撃を受け、事実上会社を潰してしまった。顧客や従業員にも大きな迷惑をかけたばかりか、周辺住民まで広範に巻き込んで膨大な被害と賠償を発生させ、もちろん株主資産も暴落して、会社の信用も地に落ちた ―― 通常、こういう状態になれば、株主はそのような誤った判断に基づいて誤った経営を進めた現経営陣の失敗を厳しく咎め、背任で代表訴訟によって破産させ、無一文にひっぺがしたうえで路上に放り出すだろう。もちろん、株主にとって大切な財産である会社を破滅に追いやったそのような悪しき技術はもはや一顧だにせず振り捨て去られ、旧経営陣も一掃されて、なんとか立て直しが可能と判断されれば、新しい方向転換に基づく新しい経営陣が選任されるだろう。
これを電力会社に当てはめていえば、なんのひねりもなくふつうの株式会社の経営ルールに従って経営するだけで、外野があれこれ騒がなくても自然に「脱原発」になり、事故の反省に基づく新たなエネルギー供給のあり方が模索されることになる、ということである。東京電力や関西電力や東北電力が当たり前の株式会社なら即座にそういう動きになって少しもおかしくないのだが、事故後二回の株主総会を経て、まったくそうなっていない。株主もこれまでは惰性的に経営陣の意向を踏襲追認してきたかもしれないが、世界の災害史上に残るような、あれだけの惨憺たる大事故でさすがに目が覚めて、ブレーキを踏んでもいいはずだがそれをしない。これはなぜなのか。
もちろんその理由は、誰もが知っていることを承知のうえであえてそう問うているのであるが、それらの企業が教科書どおりの「まともな」株式会社、民間企業ではないからである。
まず、大株主がそろって方向転換に反対している。それらの電力会社の意思決定に影響力を持つ大株主は、例によって株式持合いによる機関投資家のメガバンクや生命保険などであるが、それらの企業についても、本来であれば過去に出資してきたことはもちろん、事故以降まで現経営陣を承認し、見直しのないまま出資を続けるなどというのは、純粋に投資のリスクテイキングという点からいっても正気の沙汰ではなく、自分自身の株主(あるいは生保なら保険契約者)から背任で訴えられても当然の行為である。しかしそれらの数珠つなぎになっている株主たちの判断がそうはならないのは、既に述べてきたように、そのリスクを別の大旦那、すなわち国家が吸収して、自分でとらなくていい状態になっているからである。事故を経たあとですら東京電力の株価や社債価格が政府の政策への思惑で上がるということは、事故で損害を受けたにもかかわらず投資家がそれを取り返せる、利益すら上げられるとまだ踏んでいるからであるが、企業自身による自律航行がすでに不能になっている以上、それは政治保証をあてこんでいる、という以外の理由はなにも存在しない。株式会社、市場経済とは、リスクを精緻に組み合わせて社会悪、負の外部性が発生するのを相互防止するシステムであるが、寄生虫に脳髄を乗っ取られて自らの利益に反する自殺的な行為に駆り立てられる宿主のように、そのブレーキが馬鹿になって効かなくなってしまっている。
ダロス氏らによれば、日本生命は「国内の54基(事故炉を除くと50基)の原子力発電所を持つ電力会社の最大の株式保有社であり、債権者である」という。原子力発電事業者9社と電源開発の計10社の株を保有する「唯一の機関投資家」でもある。しかも2012年4月下旬時点でこれら10社の保有株の時価総額は約2300億円に達し、2位や3位をはるかに上回る。しかも関連会社の保有する原子力事業者の長期債や未公開の社債を含めると、総額3700億円に達するという。資料によれば、日本生命が保有する電力9社と電源開発の株式の市場価値は、福島第一原発の事故前に「4700億円だったが、4月下旬にはその価値が半減した」。2300億円の損失は前年の営業利益に匹敵するほどだ。
東京電力は17日、大手生命保険会社に金融支援を求める方針を固めた。福島第一原子力発電所の事故で、事故対策や火力発電所の燃料などに多額の費用がかかるためだ。生保各社は計数千億円規模の追加融資に応じる方向で検討に入った。(略)東電は原発事故が収束するめどが立たず、今後も多額の資金が必要だ。だが、資金調達の有力手段だった「社債」は買い手がつかないため発行できず、大株主の生保などの融資に頼らざるを得なくなった。菅政権は14日、国が東電の原発事故の損害賠償を支援する法案を国会に提出した。東電は金融機関に法案を説明するとともに 「金利減免や債権放棄などを要請することはない」と伝えて協力を取り付ける考えだ。生保各社は賠償支援の法案が提出され、東電の破綻(はたん)が回避される見通しが強まったとして融資に応じるとみられる。
電力各社でつくる電気事業連合会の八木誠会長は16日の会見で、東京電力が原発事故の賠償などで政府に新たな支援の枠組みの検討を求めていることについて、賠償などで国の責任を明確にしたうえで、関係する法律を見直すよう求めました。(略)これについて、電気事業連合会の八木会長は会見で、「原子力はこれまで、国のエネルギー政策の下で、事業者が開発運営を担うという役割分担をしてきた。国と事業者の負担の在り方についても、明確化してもらいたい」と述べ、事故の賠償や除染で、国も一定の負担をすべきだという認識を示しました。そのうえで、八木会長は「今の原子力損害賠償法は原子力事業者に無限責任が課されていて、国際基準からみても事業者に厳しい内容だ。今の法律の見直し作業をできるだけ速やかに進めていただきたい」と述べ、賠償などに関係する法律を見直すよう求めました。
逆に言えば、全面自由化となれば保証がなくなり、供給の義務を負う会社がなくなる、と真部氏は危惧する。「離島など赤字を出す場所に 供給する事業者はいなくなる。むしろ、欠陥がある」/こうした「日本型電力モデル」の最たる電源こそ、1カ所で大規模に電気をつくれる原発だった。しかし、福島の事故は、民間企業が原発を持つ経営リスクがあまりにも大きいことを示した。「保険はあてにならず、損害補償額は青天井、そんな状況で、あんな事故を前提にしたら絶対に経営にならない」
このように出資者が現状を執拗に追認し続けられるのは、そのことで得られる甘い利益が長期的にローリスク、ノーリスクで保証されていると考えられているからだが、一方で大株主の彼らは、たとえ方向転換しようと思い立ったところで、もはや国家と政府の意に反してそうすることができない。なぜかといえば、先年の不良債権の救済措置に端的にみられるように、彼らは国に大きな借りがあり、借りがありすぎて「持ちつ持たれつ」の関係の中で強固に癒着して事実上一体の存在になってしまっているからである。不良債権問題の処理では、彼らは自らの経営の不始末を莫大な税投入によって救済され、つい先日まで巨額の法人税の納付も特別免除されてきた。また、不況下で融資先の開拓が進まない中で、電力会社への融資と社債(電力債)購入は、巨大な貸し出し先であり、それも地域独占と電気事業法による弁済優位によって、原発事故のリスクから被災者以上の優位で厚く保護されて、濡れ手で粟といっていい状態で、なにもしなくてもなかば自動的に収益が入ってくる貴重な収入源である。彼らは国家の鳥もちに十重二十重に取り込まれ、もはや同じ毒を国家といっしょに皿まで食べきる以外にないほどの罪をともに重ねてしまっており、それをやめさせるのは、同じようにして借金のかたに取り込まれて鉄砲玉に仕立て上げられた末端構成員を暴力団から切り離して足抜けさせること以上に難しい。経営陣も政府に無線操縦された無感覚の人間に取り替えられて、それだけで固められているのがふつうであり、もはや自分の意志で経営することすらできない。金融危機で金融機関を安易に国家に救済させてはならない大きな理由のひとつに、こういうことがあるのだということを、そこまで目配りが及んでいる考察はほとんどいないのではないか。金融危機で主要金融機関の破綻がどれほど深刻な影響を経済に与えようとも、あとで「バーター」でこんな汚れ仕事を手伝わせることでそれが償われるくらいなら、個人の場合と同じく、金のやり取りの段階できれいさっぱり破産していた方がよほどましだった、ということにさえなるだろう。
みずほフィナンシャルグループの佐藤康博社長は毎日新聞とのインタビューで、東京電力への追加融資について「公的資金投入、電気料金の引き上げ、原発再稼働などを見ながらの判断」と述べ、経営安定に向けた3条件が整うことが必要との認識を示した。佐藤社長は「東電は支えないといけない重要なインフラの会社」とした上で、「柏崎刈羽(原発)が動かず、電気料金の値上げが認められなかったら、東電の財務体質を著しく弱める。銀行の責任としてきちんとリスクをみる必要がある」と話した。
政府の原子力損害賠償支援機構が31日、東京電力に1兆円を出資し、議決権の50.11%を握って実質国有化した。再建計画「総合特別事業計画」が5月9日に認定されてから約3カ月の間に東電の再建シナリオはすでに様々な狂いが出ている。家庭向け料金の値上げ幅が圧縮。反原発デモの高まりで柏崎刈羽原発再稼働も見通せない。(略)原発が1基稼働すれば年間で780億円の収益改善効果があり、原発の再稼働が再建シナリオを大きく左右する。14年3月期の経常損益を黒字化できないと3期連続の経常赤字となる。東電向け融資が不良債権に振り分けられ、融資を受けられなくなる恐れがある。
齊藤:事故を起こした原発の事業主体である東京電力には、日本のメガバンクが軒並み融資をしています。例えば、こうした銀行が原発の中身を、リスクマネジメントがどこまでしっかりしているかを、ちゃんとチェックしていなかった。(略)銀行がお金を企業に貸す場合、いきなりお金を融資するわけではありません。その企業がメーカーで工場を建てるためにお金を貸してほしい、という場合、銀行側は事前の建設のプロセスから事業の内容について徹底的にリサーチを行い、事後でいうと工場が実際にできあがって稼動し始めたあとにも何度も現場に足を運び、融資に値する設備投資だったかどうかをチェックするのが当たり前なのです。(略)
池上:ところが、きわめて専門性が高い原子力発電に関しては、東京電力に融資している銀行が、こうした「当たり前」の作業をやっていなかった、と。
齊藤:おそらく原発の現場にもほとんど足を運んでいなかったのではないでしょうか。事故が起きたら、融資をしている銀行も大きな被害を受けます。リスクを勘案するのは当然なのです。でも、その当然をやった気配がない。つまり、事業主体である東京電力だけでなく、銀行のようなステークホルダーもまた、安全思想を持っていなかった、ということなのです。
もう一方の大株主に東京都や大阪市などの地方自治体があるが、これもよくよく考えると、相当におかしな存在である。そもそも行政機関本体が大手民間企業に公金・税金から勝手にリスクマネーに出資して配当で金を稼ぎ、天下り役員を互いにやり取りしているという状況自体が異常で、大阪の橋下市長はその認識のもとに、事故前には関西電力への出資を解消する方向で動いていたようである(要は今回のように大損害を出したらどうするのか、ということだ)。事故後は、メガバンク他の株主が動かないため、これらの自治体株主が、その地位を逆手にとって、唯一比較的まともなことを主張するという、これまた異様な逆転現象が起きているが、橋下氏が正当にも感じていたとおり、これも持ってて良かったという単純な話ではなく、一筋縄ではいかないジレンマがある。というのは、行政機関が主要株主になって、民間企業の経営に中から口出ししはじめたら、それは行政機関が自分で企業を買収して経営しているのと同じになってしまうからである。それでは共産党が国営企業のオーナーになっている中国のいびつな市場経済運営となにも変わらないことになる。これを裏返せば、自治体株主はそれまで安全な配当と役員人事だけをあてにした「物言わぬ株主」、現経営陣の経営方針を無批判に追認、補強するだけの目立たない存在として振る舞うことを暗黙の了解のうえに、その地位を黙認されてきた、つまり、はじめから通常の株主の経営監視の機能を放棄することを前提に頭数の中に入れてもらっていたということであり、どちらにしても矛盾は小さなものではない。
東日本大震災による東京電力福島第一原子力発電所事故の影響で、関西電力の株価が下落し、大阪市の資産が震災前に比べて約590億円目減りしている。市は全株式の約9%を保有する筆頭株主。2005年以降、毎年約50億円の配当を得てきたが、今年度の業績が反映される11月の中間配当以降は減収の可能性もあり、財政難の市にとって思わぬ打撃になりそうだ。
最後に個人株主の中で、代表訴訟を起こすなど派手な動きで注目を集めるいわゆる「反原発株主」であるが、彼らもまた、株主の本来の役割の中でそれを行っているのかといえば、明らかにそうではなく、その意味で他の主要株主と同様の脱線した存在である。彼らが株主として原発に反対しているのは、せっかく投資した東京電力の株式の資産価値が増殖するのに原発が邪魔になると思っているからではない。投資運用とは関係なしに、原発そのものが絶対的に不義だと思っているからであり、株主投票権への出費は、発言権を得るための単なる捨て金にすぎない。その点、公共の利益がどうのといった、余計な自己正当化をすることで、投資家から預かった運用資金を大損して投げ捨てても構わないと考えている機関投資家と、考えの向きが逆になっているだけで、基本の構えは同じである。賛否両側が、このように企業会計の「貨幣的評価の公準(共有可能な物指しとして企業の価値を金額で評価すること)」から外れた、変則的な行動をとっているために、逆に少数株主の異論は、(合意の余地の少ない原理主義的な議論を議決権に物を言わせて解決しようとするため)頭から無視され、蹴散らされてしまうし、反対する少数株主の側も、すれ違いで終わらずに相手の尻尾をつかまえた、実のある反論をすることができないということになる。反対者の側は、投資によって得をすることではなく損することで自己正当性を得ようとし、自分ひとりの小さな損得のために活動しているのではない、という自負心を自己証明しながらそれを行おうとするため、その行動は、株式投資の観点からは迫力の欠けた、シンボリックでどこか道化たものになり、共感を持っている投資家さえも鼻白ませ、身を引かせてしまうものになる。経営者個人に数兆円という非現実的な賠償を求める代表訴訟や、あるいは、本腰を入れて委任状争奪(プロキシーファイト)を仕掛け、企業価値の最大化の方策を争って、大株主たちの矛盾した態度を表に炙り出す、という行動がとられない、という中途半端さの中にそれが現れている。
原発事故をめぐる東電の株主問題が注目されるのは、そこには、このように日本企業の株主統治の奇妙さと、一種の逆転した腐敗が集中的に現れ、そのことが事故の下地になっているからである。最初に書いたように、株式会社の株主統治とは、利潤動機(われわれが根っこのところでは欲深で儲けることが好きな存在であるということ)を前提に、リスクと収益のバランスを取ることで深刻な社会悪が発生しないように作られた仕組みである。ところが、この東電のようなケースでは、その歯止めが巧妙に全部解除され、無効化してしまっており、そのため株主統治が中空化した中で、国家の息のかかった経営陣が無制約に好き放題をやっているのである。気がついてみると、経営の方向性に影響を与える主要な参加者の中で、はじめにみたような株主本来の役割をあたりまえに果たしている者が一人もいないという驚くべき状況である。機関投資家は官庁に憑依されて遠隔操作され、自治体が中途半端に株主になり、反原発株主はより上位の道義的目的のためと称してそれを行使している。主要株主の全員が、それぞれ主観的には善意のつもり、高尚なつもりで、お国のためだとか、公共の利益だとか、子どもたちの未来のためだとか、といった空疎なお題目をたてに、本来の役割から逸脱した行動をとっているために、逆にその真空の中から、まるでナチス経済のように、巨大な反倫理的行動が生じている。全員が下手に目先の利益を超えた長期的な視野をとっているつもりでいることから、逆に最も短絡的な躓きと、長期的な思考の欠落が生じている。この日本の企業統治のいびつさは、最近の事例では、並行してスキャンダルが拡大したオリンパスの粉飾騒動で小さく現れ、東電の原発事故でより大きく、はっきりと現れた(ちなみに騒動前までのオリンパスの筆頭株主も、「原発の大家さん」の日本生命である)。
「今回の問題は前近代的な体制を打ち破る絶好のチャンスだった。全世界のメディアが注目し、各国の機関が調査していたからだ。ただ結果として正しいことをやろうとした人が解職され、不正を黙った人が残っている。社外取締役も全く機能しなかったのは明らかだ」 「問題を直視することが大切だ。特に株式持ち合いは問題で、その暗黙の了解という鉄則によってオリンパスの株価は一時80%近く下げたにもかかわらず、国内の機関投資家は沈黙を守り続けている。日本の資本市場は残念ながら特殊と言わざるをえない。持ち合いをなくすことで、日本経済の活性化にもつながるはずだ」
「(この総会は)茶番だと言う株主が数人いたものの、オリンパスは15億ドル近くに上る粉飾決算の発覚後、初めてとなる株主総会において会社議案を通すのにほとんど苦労することはなかった。この事実は、これほどひどい経営をする役員を許してしまう日本の投資家の『甘さ』を、(我々に)再認識させるものである」(略)
「オリンパスは、何十年にもわたり投資による損失を隠してきたことを認めた今回のスキャンダルによって、実に時価総額にして40億ドル以上を失った。にもかかわらず、同社が日本の機関投資家から支援を失うことはなかった。彼らはオリンパスの経営陣と足並みを揃え、総会でも一枚岩となって強い結束を固めて賛成票を投じた。議決権行使助言会社や一部の海外及び個人株主は、経営上層部の総退陣を要求していたにもかかわらず、取締役候補らは承認されたのである」(略)
「資産運用のビジネスに身を置く者は、顧客が自分たちに大切なお金を託している、ということを強く自覚すべきだ。顧客にとって最良の判断をすることが、自分たちにお金を託してくれている人たちの信頼に応えることになる。日本の機関投資家は、顧客から託された信頼(に応えること)を放棄している」
ウッドフォード氏は、世界的な注目を集めてくれたとして国際メディアに感謝している。同氏は解任されてから数カ月間、話を聞こうとするあらゆるジャーナリストとの電話取材に1件1件応じた。しかし、同氏の話が世界中で大ニュースになっている中で、際立って関心の低い国が1カ国だけあった。日本だ。
同氏は「菊川氏が辞任し、売り上げの全くない3社の買収に通常は10億ドルも費やさないことが明白になったにもかかわらず、(後任社長である)高山修一氏はこれらが戦略的に重要な買収だったと言い張った。そして彼は、オリンパスが7億ドルの助言手数料を支払わなければならなかったのは、良い助言を必要としていたためだったと説明した。彼がこのように発言したこと、そして日本のメディアがそれを鵜呑みにしてそのまま報じたことを見て、この国(日本)は地球上のどことも違うように機能するのだと考え始めた」と語った。 (略)
同氏は、日本での物事の進め方に批判的ではあるが、日本がまだ好きだと述べた。ただし、改革は必要だと指摘した。同氏は「わたしは日本と日本人を本当に敬愛している。しかし、会社組織のトップは非常にまずい事態に陥っている。日本株式会社はとても奇妙な場所で、恐ろしい近親相姦的クラブと化している」と語った。
日本企業をまひさせている惰性をこれ以上ないほど如実に表していたのが、28日に行われた東電の年次株主総会だ。震災後の破滅的な原発対応と計画性のなさにもかかわらず、同社は今月で任期切れとなる取締役17人のうち16人を再指名した。20人で構成される取締役会の大半だ。退任するのは危機の初期段階に一時戦線離脱した社長のみである。さらにあぜんとさせられたのは、原発事故以来90%近い株価下落を経験している株主が、再任を認めたことだ。東電は、過去最多人数の株主が出席し、6時間という異例の長時間に及んだ定例株主総会でも意を貫いた。大量の同社株を保有する「日本株式会社」の他のメンバーによる同情票に助けられた形だ。こうした持ち合いはこの国にまん延している悪い企業ガバナンスを助けている。
この日本の企業統治を改善するものとして、たとえば経営を監視する社外取締役の義務化といった方策が並行して論じられ、ことさらに強調されている。しかし、すべての安直で機械的な制度の義務化と同じく、これには有意義な効果は見込めない、ほとんど馬鹿げたものである。社外役員は、個々の企業において正しく機能すればもちろん有用な存在であり、経営に多様な視点を持ち込むことで企業価値の最大化におおいに役立つ。しかしそれを義務化することと生かして使うことはまったく別である。社外取締役が有効に機能するのはもともと健康体の企業においてであって、既に監査役や会計士のような、より強力な既存のお目付役すら引きずり込まれてしまっているような調子の狂った組織の不正の歯止めにはなるはずもない。上記で述べたような問題は、社外取締役がいると解決できただろうか。オリンパスには、東京電力には、あるいは海外でいえばGMには、社外取締役はいなかったのか? それらの企業にはいずれも堂々たる社外取締役が、今まさに企業を潰しかけている経営者のよき知人、理解者で、ツーといえばカーと応えてくれる有り難い社外取締役が既にいた。だが、彼らは経営陣の誤りを引き止めるうえでなんの足しにもならなかった。問題はそれではなかった。日本の企業統治の問題の根幹は、社外取締役がいないことではなく、上記にあるように、銀行を通じた企業間の株式持合いによる、資本を通じた国家の企業支配にある。
このことは、恐ろしいことに、日本の経済社会が上に述べたような中国のものとまったく同じく、まともな資本主義経済ではなく、国家行政と官僚テクノクラートによって中枢を乗っ取られた、一種の疑似共産主義体制にあることを示している。まず基幹銀行を規制上の許認可と経営上の巨大な貸し借り関係で屈伏させ、その銀行を起点に、株式持合いの網の目を中核企業間に隠微に張りめぐらせることで、資本を事実上国家が所有し、裏口からコントロールしている。今までも何度も指摘されながら巧妙に姿を隠していたその醜い下半身、根本構造が、原発の爆発を契機に、黒々と姿を表し、はるかにはっきりと見えるようになった。それは指摘されているように、第二次世界大戦の戦中に作られ、その後延々と続いてきた国家総動員体制の忌むべき残滓であり、官僚独裁の強大な権力の源泉であり、原子力の「国策民営」を行うためのテコの要(かなめ)でもある。改めて注目されるのは、まさにこの電力国有化を皮切りに、戦時中にこの体制を創始した官僚たちが「革新官僚」と呼ばれ、マルクス主義とスターリンの計画経済の強い思想的影響下でそれを行っており、有名な「企画院事件」という内ゲバ的な権力闘争で、思想犯として摘発までされていることだろう。この「総動員」化計画における合言葉は、「民有国営」「資本と経営の分離」というもので、その本意はまさに民間企業の企業統治から株主(資本家)をロックアウトして無効化し、替わって国家が自分で企業をハンドリングすることにあり、民間企業を偽装した行政権益の拡大という同じ発想、組織遺伝子は、原発と電力経営のみならず、最近乱造されている悪辣きわまる「官民ファンド」まで、脈々と続いているのである。
この病の業の深さ、深刻さに比べれば、社外取締役の問題などはどうでもよいゴミみたいな話にすぎないし、義務化によってそこが関西電力と大阪府の関係のように、天下り公務員や半分官僚である食いつめ弁護士の有り難い就職先にでもあてこまれたら、問題の解消に資するどころか、ますます国家との癒着、国家による寄生がひどくなり、膏に入って手の施しようのないことになる。この社外取締役の強化というのは、問題の発生を機に当の組織や制度を逆に拡張しようと目論む、よくあるふざけた焼け太りの企てにすぎない。当の問題企業でまったく機能しなかったことがはっきりしている制度をわざわざ義務化して全体に押し込んでどうしようというのか。もう一度繰り返すが、東京電力にだって社外取締役はいたのである。
オリンパスは2005年、問題となっている4件の買収の直前に、初の社外取締役を投入して取締役会による監督を強化することを決めていた。ノーベル経済学者のロバート・マンデル氏もその1人だ。同社取締役会がこれらの買収を承認したのは、マンデル氏その他2人の社外取締役(医師、元通産省官僚)の任期中だった。
東京電力、関西電力他の電力会社自身にしても、国家の猿ぐつわを口から解いて、自分の正直な気持ちを言葉にさせたら、毒がまわって頭がおかしくなっている現経営陣は別にして、ほんとうは自分だってもうこんなことはやめたい、いや、実ははじめからやめたかったのだ、と言いたいのではないか。国策だから虚勢をはり、頑張って原子力をやってきたけど、もういい加減うんざりだと。大切な従業員、ともに働く仲間をあのような異常極まる状況で生死の境にさまよわせ、いつ終わるとも知れない後始末で放射能で大量に被曝させ、何十万の近隣住民を住み処から追い払い、何兆円もの莫大な財政負担を国民に負わせ、結局肝心の電力供給すら危うくし、水源や農地や山野を取り返しのつかない状態に汚し、除染はいつ終わるとも知れず、それでも広大な山野は到底除染などできず、あとからあとから山のように放射性廃棄物が積み上がり、我が身を振り返れば給料も賞与も突然大幅にカットされて家計のやりくりに奔走し、顧客からは電話口や玄関先で会えば会うたびに罵倒され、子どもはいじめられ、新卒の採用もできず、退職した先輩たちの年金まで減額されて、どこへ行っても肩身の狭い思いで勤め先を口にすることさえ憚られる――そこまでしてなんでまだこんなことをそのまま続けなければいけないのか。国家の安全保障だのエネルギー調達の多様化だののご大層な話の前に、まずふつうの会社経営として、完全に失敗しているではないか。日本国民は総体として、国家意志として、まだ懲りもせず自分たちに原子力をやらせたいと思っているのかもしれないけれども、ああするのどうするのと侃々諤々議論しているけれども、ほんとうは自分たち自身がもうこんなことはまっぴらなんだ、自分たちは一度前に戻って、つましくガスで湯を沸かして発電するから、そんなに続けたいならどうぞ自分で勝手にやってくれと、ほんとうは泣きたい気持ちなのではないか。脅迫されて犯罪組織の片棒をかつがされている協力者のように、その当たり前のことが当たり前にできなくなってしまっていること、それこそが問題の根である。なぜそうなってしまっているのか、その正直な気持ちを金縛りに縛って言わせないようにしているのは誰なのか、そこをこそ、突き詰めなければいけない。
東京電力は7日、福島第1原発で増え続ける汚染水対策として、タンクの容量を現在の約22万トンから、約70万トンに増やす計画を国に報告した。これまで約39万トンに増やす予定だったが、汚染水の増加に対応できないため変更する。計画では第1原発敷地内の南側にある森林を伐採。必要があれば地盤強化工事をした上で、14年夏ごろまでに約70万トンまで容量を増やす。
武黒一郎フェロー「第1原発の状況は、まさに日本全体にどのような悪影響を及ぼすかって、首の皮一枚で何とか持ちこたえている状況であります。何とかここをしない限り明日がないんです」
東京電力福島第1原発の吉田昌郎前所長が原発事故当時の状況を語ったインタビュー映像が11日、福島市で上映された。吉田前所長は事故直後を「地獄みたいな状態」と表現し、水素爆発では「(現場にいた全員が)死んでもおかしくない状態だった」と振り返った。
覚悟というほどの覚悟があったかはよくわからないが、結局、我々が離れてしまって注水ができなくなってしまうということは、もっとひどく放射能漏れになる。そうすると5、6号機はプラントはなんとか安定しているが、人もいなくなると結局あそこもメルト(ダウン)するというか、燃料が溶けることになる。そのまま放っておくと、もっと放射能も出る。福島第2原発も一生懸命、プラントを安定化させたが、あそこにも人が近づけなくなるかもしれない。そうなると非常に大惨事になる。そこまで考えれば、当然のことながら逃げられない。そんな中で大変な放射能、放射線がある中で、現場に何回も行ってくれた同僚たちがいるが、私が何をしたというよりも彼らが一生懸命やってくれて、私はただ見てただけの話だ。私は何もしていない。実際ああやって現場に行ってくれた同僚一人一人は、本当にありがたい。私自身が免震重要棟にずっと座っているのが仕事で、現場に行けていない。いろいろな指示の中で本当にあとから現場に話を聞くと大変だったなと思うが、(部下は)そこに飛び込んでいってくれた。本当に飛び込んでいってくれた連中がたくさんいる。私が昔から読んでいる法華経の中に地面から菩薩(ぼさつ)がわいてくるというところがあるが、そんなイメージがすさまじい地獄のような状態で感じた。現場に行って、(免震重要棟に)上がってきてヘロヘロになって寝ていない、食事も十分ではない、体力的に限界という中で、現場に行って上がってまた現場に行こうとしている連中がたくさんいた。それを見た時にこの人たちのために何かできることを私はしなければならないと思った。そういう人たちがいたから、(第1原発の収束について)このレベルまでもっていけたと私は思っている。
原発問題で、ある種の勘の悪い人々は、市場経済と株式会社の利益優先の仕組みがそれを引き起こしたといって非難している。しかし事実は、上に見たようにその働きが念入りに無効化され、機能停止し、正しく使われないことによって起きている。それらの人々は、電力会社の大株主たちが自分の近視眼的な利益だけを考えて振る舞っているために、原発をやめさせようとしないといって怒っている。しかし事実は反対に、大株主たちはその感覚が著しく麻痺し、文字通りほとんど「利益を度外視」することによってそれが起きている。電力会社の株主統治が株式会社としてのごく当たり前の形で機能し、正しくリスク評価を行い、利益優先を貫いていたら、現在のような稚拙(infant)な原発技術は事故後まっさきに放棄されていただろう。銀行や生保の機関投資家が顧客の預金や保険契約の資産運用を託された自分たちの仕事を、ほんとうにまじめに務めて全うしていたなら、各電力会社は今頃とっくに融資を引き上げられ、原発は燃料の前に金が尽きて、たとえ政府や電力利用者が泣いて懇願したところで、二進も三進もいかなくなってやめるしかなかっただろう。
原発事故とその被害は、なにか特別な工夫を加味しなくとも、株式会社と市場経済の仕組みの中でなんら「外部化(externalize)」されておらず、株式価格の暴落という形で、既に「内部化」された形で表現され、反映されている。各々の関係者が、あらかじめ想定された、しかるべき責任を引き受けるようになっている。その働きを麻酔して抑止し、わざわざ外部化し、市場の外に切り出しているもの、それが何度も言っているように政府機能である。
政府は原発をはじめるときにも、民間企業の経営原理をねじまげて無理にそれをやらせ、大失敗してそれをいい加減やめる転機がきたときですら、このように自分の影響力を行使して無理にそれを止めさせた。オリンパスと東電の問題は、同じ病根から発した同じ問題である。その根っこにあるのは、介入がなければなんら問題なくうまくいく市場の自律ルールを無視した政治の失敗、政府の失敗であり、その機能不全の可視化された象徴的事例こそが、両社の日本流の、古色蒼然たる「総会テクニック」をフル稼働させた、グロテスクで醜悪きわまりない株主総会に他ならない。両社が厚顔無恥な態度を押し通しても安泰でいられると思っているのは、背中を誰かに守られていると信じればこそである。機関投資家をダミーに立てて腹話術でそれを操っている本体、ゾンビ電力会社を支えるゾンビ金融機関を駒に操るゾンビの親玉は誰なのか、それを見極めなければならない。
原発事故と東電の経営は、あまりに高い授業料ではあるが、言い古されたものでありながら理解が徹底しないために未だ古びることのない昔からの教訓を、改めてわれわれに教えている。それは、われわれの間で最大の悪をなす者は、常に国益だの人類愛だのといった聞こえのいい大義を振りかざしてそれを行い、一人一人の小さな、しかしそれぞれの個人にとっては大切な利害を軽んじることで、ブレーキなしに暴走して結局は誰よりも深くそれを傷つけ、損ねる、というものである。同時にそれは、卑小な人の子の頭で余計な浅知恵を回さずに、自分の目先の利害に正直に、素直に欲深に振る舞っている方が、人々にもたらす災いがはるかに少なくて済むという、単純だが貴重な真実、資本主義経済が遺憾ながら既存の他のどのシステムよりも勝っている理由をなす原則であり、アダム・スミスのいう「(市場の)見えざる手」の機能の根幹である原則を、われわれがあらためて学び直すことのできる端的な事例になっている。われわれは、軽々しく利他であろうとするよりは、謙虚に利己であるときの方がまだしも(余計な迷惑を他人にかけないという点で)よほど利他的である。東電と原子力の失敗は、経済運営に利潤原則以上の道徳律を安直に持ち込もうとして失敗した、社会主義経済やナチス経済のそれと本質的に同じである。東京電力の異様な株主総会をみて分かること、それは、「利益を度外視」した人々によってはじめられた原発が、「利益を度外視した」株主たちによって、いまだに無理やり続けられている、ということに他ならない。
「日本株式会社」の大きな特徴であり、問題でもあるのは、このように企業統治の根幹である株主の機能が入念に無効化されているため、経営陣が極端に無責任になり、また無能になるということである。最近の電機メーカーの経営不振の例でも、経営幹部が著しく小物化し、無能化しているにもかかわらず、彼らはまったく無傷のまま居座り続け、従業員だけがその責を受けて手厳しくリストラされている。経営者の普段の高給が正当化されるのは、失敗すれば真っ先に詰め腹を切らされ、成績以外のなんの雇用保証もないという高いリスクのゆえであるが、グローバル水準に合わせた高給だけ盗み食いしておいてグローバル水準の力量は持たず、責務は引き受けていない。収入がなければ給料が払えないのであるから、業績不振の企業が思いきった要員整理を行うのは当然である。しかし、それはまず、そういう事態を招いた経営者の首切りから行われ、そのあとになされることでなければならない。そして失敗した経営者のクビをはねるのは、株主の役割なのであるから、株主が機能せず、企業のパフォーマンスに対する反応が鈍ければ、誰も経営者に鈴をつける者がいないことになる。原発が爆発して最前線の従業員だけが命の危険を冒して特攻隊のような真似をさせられるのも、大手製造業の業績不振で従業員だけが無情に切り捨てられるのも、上級幹部が国権と癒着して共産党化し、官僚ギルド化した、ウッドフォード氏のいわゆるおぞましい「近親相姦クラブ」に原因があり、これらの問題は裏で全部つながっている。株主統治が巧妙に骨抜きにされた、この日本株式会社という、国家と癒着した腐った疑似共産主義で被害を受けるのは、失敗の後始末を全部押しつけられるのは、本家の共産主義が必ずそうであったように、すべて一般の働く人たちである。
メガバンクも同じだが、これだけの重大で制御不能の災害を起こすような、まだ未成熟な技術について、同業他社をみると自分のところも同じ粗相をしかねないので、原賠法でもまだ足りない、もうちょっと国が踏み込んで余計にオムツをはかせて欲しい、などということを平気で口にして、それを報国だの公共性だの混同しているような経営者が、見咎められることもなく一人前のような顔で通用している状況は異常である。それでは、自分で自分の面倒をみられるところまで安全対策をとる気はない、と白状しているのとほとんど同じではないか。