「ソフトな予算制約」と原子力

前回の内容でもあらためて確認したように、日本の原子力と電力事業の運営は、共産党も裸足で逃げ出すくらいに、どっぷりと首まで浸かった「社会主義」だったのだが、この病理を理解するうえで有用な、経済学上のよく知られた概念がある。それは、東欧のハンガリーで、共産主義時代の末期に同様の経済現象を広く分析し、共産圏で体制変換のきっかけを作ったといわれる経済学者コルナイの提唱した、「ソフトな予算制約(Soft Budget Constraint)」という概念である。

「ソフトな予算制約」とは、事業体の経営失敗が、頼れるスポンサーによって事後的に救済されると期待されている状態と、そこから派生する以下のような一連の症状を、包括的に総称した概念である。


  • 生産者の優位、消費者の軽視
  • 供給の「不足」(行列経済)
  • 生産性の軽視・低下と価格の高騰
  • (にもかかわらず同時に発生する)債務の膨張、ファイナンスの破綻
  • リスクの外部転嫁(利益は自分のもの、損失はみんなのもの)
  • 政治、メディアとの癒着

これらの多くが、電力事業でみられたことは周知のとおりである。たとえば、価格については、見込みのない核燃料サイクルのコストなどをなんでもかんでも全部原価に放り込んで上乗せした、例の総括原価方式による高い電気料金がまさにそれにあたり、生産性という点では、莫大な費用を注ぎ込みながら稼働率の低いままだった原子力発電と、それに資金を吸い取られて老朽化したまま見捨てられてきた火力設備、という、ちぐはぐな設備投資が相当する。また、電気事業だけでなく、農業、医療、介護、保育、教育、法曹、道路、航空など、公的保護の強い分野で、程度の差はあれ、まったく同じことが等しく起きているのは驚くばかりである。これらの公的独占分野では、価格はしばしば手がでないほど高いのに、供給の不足がいつまでも解消せず、利用者はないがしろにされ、損失はつけまわされるにもかかわらず債務が膨張して全体のファイナンスは破綻し、いいことはなにひとつないのだが、その状態が、独占収入の中から政治家とメディアに大盤振る舞いされる献金によって、なにか理想の状態でもあるかのように正反対のものに麗しくデコレーションされたうえで喧伝、折伏(しゃくぶく)され、国家権力による強権で強引に固定化される。社会主義経済下の北朝鮮で、国民の極度の貧困を理想社会のようにうたいあげる白々しい宣伝活動をみて、われわれはあきれたり笑ったりしているが、それは多くの分野において、我が身の姿をただ鏡で見ているだけなのだ。

また、この「ソフト予算化」において、上と並んで不可避に付帯するひとつの重要な随伴現象を呈示したい。それは、非経済的価値の強調による自己正当化と、それに伴う経済的合理性への攻撃という要素である。これはソフト予算の思想的原因であるとともに、そのフィードバックされた悪循環的な結果でもある。それらの分野では経済性が無視されていることを結局は何らかの仕方で自分と他人に弁明しないといけなくなるので、それを痛打されたときの用心として、必ずそのようになるのである。原子力の場合は、エネルギー安全保障と軍事的安全保障がまさにそれに当たるし、上に挙げた分野はすべてそれを原子力と同じくらい強硬に、口やかましく主張している。本来は、それらの非経済的価値は、まさに経済的価値の追求とその基盤を確保することによってこそ最もよく達成され、経済的な土台を無視した運営で長期的にそれを実現することが不可能であるのは、少し考えれば分かりそうなものだが、こうしてそれとはまったく逆のことが堂々と主張され、爆発した原発のようにどうしようもなく破綻してそれが隠せなくなるその日まで、その嘘が一種の催眠として、繰り返し民衆の意識に強烈に刷り込まれる。

「ソフトな予算制約」の問題は、その内容からいって、親会社子会社や同一企業内の事業部門間など、独立した民間の事業体でも当然起こりうる。しかしその害がそれほど表立って目立たないのは、それらの独立企業では、スポンサー自身も実働部門も、失敗が救済される余地は無制限ではないことをはじめから自覚し、それを前提に行動しているからである。そしてそれを適度な緊張感の中に抑制しているのは市場への自由な算入と競争であり、害を受けた消費者はいつでもその企業を見限ることができるという複数の選択肢の顕在的、潜在的な可能性である。従って、それが歯止めなく増長するのは、競争があらかじめ禁止されている公的独占の中で、損失が連帯責任、強制徴収の税金と、未来から同意なしに徴収される国債によってさえ補填される国家とその下部組織の場合で、だからこそ社会主義経済化の国営企業において、顕著なものとして指摘されたのである。

一方、社会主義経済下では、国営企業は赤字でも最終的に国家が救済します。したがって、支出が予算を超えることは必ずしも制約にならず、損失が大きな問題にはなりません。これがソフトな予算制約です。

実際にハンガリーの若手経済学者が、国営企業の主要な金銭的データを長期にさかのぼって分析した結果、企業利潤は複雑な経路で何度も再分配され、収益を上げている企業から損失を出している企業に移転していることが分かりました。いわば、収益企業が罰を受け、損失企業が報酬を受けていたのです。

ハードな予算制約のもとでは、企業は存否をかけて必死に生産性・収益性の向上に取り組みます。しかしソフトな予算制約のもとでは、過大な投資計画を立て、無責任な発注を繰り返し、一方、低い生産性を容認しがちになります。現場の改善より上部機関との関係を良好に保つことが重要視され、ロビー活動に精を出すようになります。メルマガの本年2月号で、社会主義体制下では、働く人全員が"公務員セクター"に置かれるため、問題解決に取り組むモラルが低下することを述べました。実はそれと同等のことが企業そのものに起きていたのです。


前回引用した、共産党吉井氏の日本の原子力運営に対する指摘は、この「ソフト予算化」を、まるで漉して煮詰めたような、激烈といえるくらい極端な内容になっている。それは、市場の中で隔離され、人工的に造成された、湯水のようなソフト予算の楽園だった。日本人の凝り性的な性分が歪んだ方向に発揮されて、行き着くところまで行ってしまった格好であり、同じ罠に囚われた諸業種の中においてさえ、「失敗」がこれほど十重二十重に上塗りされ、怪物のように肥大したものは少ない。

海外メディアの方に取材を受けるときに、「なぜ東京電力や、政府は情報隠しをやるのですか?」と聞かれる。結論から言うと、原発利益共同体が作られているから。これが最大の問題。原発利益共同体とは、まず東京電力の地域独占。原発のコストは全て電気代の原価に乗せられるという法制度。原発促進税も取れる。電力会社というのは、原発にいくらかかろうと困らない仕組みになっている。(略)

原発の建設にはだいたい10年かかる。資金調達するのはメガバンク。銀行にとっては、不良債権になる心配も無く、金利収入がしっかり入ってくるおいしい仕事。この仕事のために、各企業は政治家に献金する。お金や労働組合から票をもらった政治家は官僚に圧力をかける。「原発推進のためにこういう制度、法律を作りなさい、予算を組みなさい」と。それを受けて官僚は仕事をする。官僚はお金を貰うと賄賂になってしまうので、天下りという名の汚職の先物取引を受け取る。そして、財界、政党、官僚から学会へ研究費用が出る。東京電力や電気事業者連合会から宣伝費として、マスメディアが潤う。自治体は立地交付金という麻薬のようなお金がもらえる。これがなくなると困るから、「原発は安全です、どんな事故があっても5重の壁があります」と原発安全神話を振りまいてきた。この話を海外のメディアにしたら、「東京電力は旧ソ連と同じ社会じゃないか」と驚いていた。


「予算制約のソフト化」は、社会主義経済だけでなく、自治体など行政機関の行動を理解するうえでも有意義なものであるため、その文脈に応用された研究も行われている。日本の財務省に、この論点から行政機関の地方分権を考察した研究資料が載っているが、その中に掲載されていた以下の対照表をみれば、多くのひとが、これはまさに原子力の運営で指摘されていた事項そのままだと嘆ずるだろう。

政府間関係(国と地方)における契約問題 ソフトな予算制約問題(Soft Budget)を中心に(PDF)
政府間関係(国と地方)における契約問題 ソフトな予算制約問題(Soft Budget)を中心に(PDF)


この「ソフト予算」を中核としたコルナイの学説は、旧共産圏の知識人に大きな影響を及ぼし、翻訳されて各国で広く読まれた。特筆されるのは、中国において、理論が深く研究され、市場経済の導入に大きな役割を果たしたことである。言ってみれば、マルクスが創始した社会主義経済の最期をコルナイが看取った形であり、経済を治療する医師を任じていたこのマルクス経済学の偽薬で苦しむ患者を救出する「(経済をではなく)医師を治す医師」「医師の後始末をする医師」の役どころを果たして、もともと医師など要らず、また誰もその掛りつけを務めることなどできない、市場と民衆の自律した経済を、経済学という名の説教強盗から解放して、本来の姿に近づけ、引き戻したのだった。

「反均衡」によってコルナイは、現代経済学の主流をなす新古典派理論の中核、ワルラスの一般均衡理論に批判を加え、また「不足(の経済学)」によって、社会主義制度下においては、物資やサービスの不足が恒常的に起きることを示して、東西の経済学界に衝撃を与えました。特に後者の「不足」は、1980年に出版されたものですが、ハンガリー国内で「「不足」が不足」と新聞が報じるほどのベストセラーになり、体制崩壊の9年も前に、体制の内部から、社会主義経済の失敗を見通すものになりました。

コルナイの『不足の経済学』は旧ソ連圏のほぼすべての国で翻訳され、経済学者に大きなインパクトを与えた。ソ連では一般刊行は許可されなかったが、専門家の間の検討にロシア語版が作成された。他方、中国ではコルナイのすべての著作を翻訳・出版し、「経済体制改革」への理論的指針に祭り上げ、中国の市場改革イデオロギーとして利用した。こうして、コルナイ理論は体制転換にいたる経済改革のバイブル的な著作になった。


ところで、この「ソフト化」問題の解決策は、「ソフト化」がよろしくないならそれを引き締めて「ハード化」すればいい、というような単純なものではない。反対側に引っぱり過ぎてハード化の度合いが過ぎ、たとえば事業の失敗はすべて刑罰で償わなければいけない、というようなことになると、リスクテイキングがまったくなくなり、誰も新しいことをしなくなる。これは原子力にあてはめていうなら、羹(あつもの)に懲りて膾(なます)まで吹く、すなわち、いかなる可能性にあっても完全に原子力の技術利用を完全に締め出してしまうことを意味する。だから、「ソフト」と「ハード」の間、挑戦と自制の間のどこかに、なんらかの着地点を見いださなければいけないのだが、重要なことは、その湯加減を高級官僚や学者(専門家)が決めることはできない、ということである。なぜなら彼らの下にはそれを決めるだけの「情報」が充分に集まらないからで、これもコルナイ経済学が社会主義経済の観察から得た中核的な指摘のひとつである。それを定めることができるのは、市場とその中で行われる競争あるのみであり、他の主体が外から代わってそれを線引きしたり「設計(制度設計、マーケット・デザイン)」したりすることはできない。彼らは「ソフト」にすることができないのと同じように、「ハード」にすることもまた、できないのである。それを偉い人たちが中央集権、計画経済で勝手に決めて失敗したのが、まさに原子力であり、原賠法であり、事後救済の原賠支援機構であり、そして公的独占で競争がない環境において賢人委員会(中央計画局)の査定によってそれを代替しようとして機能しなかった総括原価方式の価格メカニズムだった。また、そのリスクテイキングと有限責任を最もうまい形に調合したのが、株主統治に基づく株式会社の仕組みであるが、これも、電力会社と原子力の運営において、官僚機構に骨抜きに破壊されたのは既に述べたとおりである。

コルナイの理論は、このようにたいへんに波及範囲が大きく、世界を変えたといってもいいくらいの重要なものだが、日本に限らず、世界的にも経済学の中での扱いは不釣り合いに小さなままであるようだ。ノーベル賞も長く当確視されながら、まだもらってないらしい。詳しい事情は無論分からないが、あれだけの悲惨な犠牲を出した社会主義の壮大な失敗から学ぼうとせず、経済に対する医師として振舞える、無心な民衆をもうしばらくなら騙せると信じているニセ療法士たちが、徒党を組んでその最上階にのさばり、今もなお巾をきかせているからなのかもしれない。


コルナイ・ヤーノシュ自伝―思索する力を得て
コルナイ・ヤーノシュ自伝―思索する力を得て
日本評論社




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2013/04/02 | TrackBack(0) | 政治経済 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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