「ブラック企業」は検察が作った

雇用や就職活動に関するネットの話題でここ何年か目立っていたのが「ブラック企業」をめぐる議論である。この問題について、これまでの経緯を振り返りながら、一般に論じられているものとは少し違った切り口から考察してみたい。

いわゆる「ブラック企業(あるいは労働)」と呼ばれているのは、身体的、精神的に過酷で、とりわけ働く側からみて見返りと持ち出しが釣り合っていないように感じられる労働環境を指している、といえばだいたい合っているだろうか。恥ずかしながら、自分もこれまで何度もこの手の職場で働いた経験がある。もちろん充分に不快で、自分の「労働組合」に対する不信も、このときの経験(単に無意味であるだけでなく共犯になっていると知ったこと)がきっかけになっている。他方で、そういう職場を実際に間近で見て、驚いたり感心したりもしたのは、そうしたほとんど目茶苦茶な、厳しい環境であっても、それをむしろ好んで嬉々として働いている人もかなりたくさんいるという事実だった。考えてみればそれも当然で、封建時代の強制労働ではないのだから、相当数の割合で自分の嗜好に合っていると感じ、自ら望んで働いている人がいるからこそ、それらの企業や部署は絶滅せずに支持されて存続している。これは、この手の話でよく名があがる企業も同じで、不満を感じて離れた人の声は大きいため常に目立つが、よく注意してみるとその蔭に、環境に完全に順応し、積極的な意義を見いだしながら、満足して働いている多くの人たちが存在していることが、いつでも確認できる。

そうした実態を実際に体感することで、自分本人としてはこんなやり方は願い下げだとも思う反面、自分がそれを人から押しつけられるいわれがないのと同じように、そういう働き方が好きな人がいるなら、それを嫌がっている人の基準に合わせて改めさせることも、またすべきではないだろうと冷静に考えるようになった。美しい容姿や高い身体能力に生まれついた人が、そうでなかった人に対して不公平だからといって、外科手術を受けてから映画やスポーツのコンテストを受けさせるのがおかしいのと同様、体力勝負でやりたい人は体力で、頭で勝負したい人は頭で、それぞれが自分の得意を生かし、できる場所を見つけて働けばよく、それが全体の働き甲斐や成果を最大化することにつながる。頭のめぐりは人より少々弱くても馬力には自信があるので、倍の時間をかけてやれば同じ量と質の仕事ができる、だからそういうふうにやらせてほしい、と思っている人のやり方を否定してしまえば、その人から能力を充分に発揮できる場所と機会を取り上げてしまうことになる。

同じことは、もっと視点を引いて、世界的、あるいは歴史的な経済活動全体についてもいえる。産業がまだ未発達な発展途上国であれば、まだ資本も労働者の技能の蓄積もないので、仕事は身体作業中心の生産性の低い労働が中心になる。そういうところに、先進工業国から企業が進出して工場を建てると、希望者が殺到してみんな喜んで懸命に働く。それらの労働は、先進国の水準からみれば、低賃金で危険も多く、単調で味気ないものに見えるかもしれないけれども、しかしそれを単純に先進国の基準で見てはいけないのは、その国自身の中では、その仕事は羨まれるほど待遇で条件がよく、また、それらの工場などの職場を盛り立てていくことで国の経済が発展して、収入や生活が先々良くなっていくことへの期待があるからである。そうやって地道に金を稼ぎ、資本や技能が蓄積されていくと、経済活動も自立的に離陸して、労働も機械化された生産性の高い頭脳労働型のものにシフトしていく。もちろんそこから先も、肉体作業型の単純労働はたくさん残るが、それらは賃金水準が上がり、豊かな生活をするようになった一般の労働者からは敬遠されて、通常は、途上国からの移民(日本でいえば「技能実習生」という名の「事実上の」単純労働移民)によって賄われるようになる。これは日本自身も同じような道筋をたどって階段を上がってきたのであり、はじめはすぐ壊れるブリキの玩具の代名詞でしかなかった「MADE IN JAPAN」のブランドが、世界中の消費者が憧れる高品質の高級品を指すものにまで変貌を遂げたのは、まさにそうやって苦労しながら自分を育てて変えてきたのである。高度成長期に「猛烈サラリーマン」や「通勤地獄」がそれほど問題にならなかったのは、経済全体が右肩あがりに成長し、パイが増えることで生活もよくなり、昇進もできるという見通しが広く共有されていたからである。

「日本人で担い手がいないなら、働きに来てくれる中国人に頼るしかない」江田島市内でカキの養殖を営む男性(61)は率直な心情を吐露した。男性の会社では、これまでに計10人の中国人を雇ったことがあるという。男性は「日本人で働いているのは高齢者しかいない。若者は実の娘すら手伝ってくれないのが実情だ」と嘆く。江田島市はカキの生産量が全国でもトップクラスの自治体だ。ただ、実態は高齢化や後継者不足が進み、最近では中国人実習生らの労働力で維持されてきた。数年前まで実習生を受け入れていた市内の水産加工会社の社長(46)は「寒くてけんしょう炎になるなどつらい仕事だが、中国人はまじめでよく働いてくれる」と話す。

研修生は手当として月6万円、実習生は最低賃金を守った基本給から社会保険料などを引いた月7万円を受け取る。最低賃金は地域差はあるが、時給700円前後だ。問題は残業だ。制度上、残業は禁止の研修生が1時間300円で、時給の1.25倍払う必要がある実習生も1時間350円で残業する。だが、劉さんらは「来日前に聞いていた条件だから不満はない。もっと残業したい」と言う。生活費は月1万円程度に抑え、3年で300万円をためるのが目標だ。中国での年収の10倍以上になる。(略)それだけではない。この農家は、彼らを活用して規模拡大に打って出た。以前は果物が中心だったが、年に5、6回収穫できるホウレンソウに転換。この5年で耕作面積を2倍に広げた。売り上げは3倍、所得は2倍になった。農家から「農業経営者」に変身しつつある。


しかしながら、日本の経済活動の中心において、今なおこれだけ旧来型の労働環境が問題になっているのは、上記のような先進国型の環境への転換が、どこかに行き詰まりがあって遅滞が生じ、多くの働き手がそうあって欲しいと思う程度まで充分進んでいないからだと考えられる。その躓きの石になったものとはなんだろうか、と問うたときに、思い当たる原因の大きなひとつが、まさに標題に掲げた点である。

日本の戦後復興のように、ほとんど一世代の短期間で急激に経済成長した国の場合、労働観、仕事に対する見方に大きな世代間ギャップが生じるのは必然といえる。古い高年齢の世代は、生産性のまだ低い、体力勝負型のモーレツ労働で、経済発展を支えてきた自負があり、若い世代が自分が登ってきた山道の半分くらいのところで簡単に音を上げてしまうと、なんだだらしない、という感想になるのは自然な反応である。一方、若い現役世代からすれば、そうした力ずくのがむしゃらなやり方は、高度化した現在の経済が求める高度な生産にも合っていなければ、自分が受けてきた教育やそれが培った能力とも合っておらず、経済全体も安定した低成長期に入って、かつてのような上昇的な将来保証と結びついているわけでもないので、同じ感覚で比べられてはかなわない、という不満が強くなる。これも彼らの立場からすればもっともなことだろう。

こうした労働観に対するギャップとそれがもたらす弊害は、単にそれぞれが抱いたものに沿って自由に行動している限りは、互いを単に牽制し合っているだけで、大きな問題になることはない。叩き上げで高い地位についた上の世代が、古い頭で仕事を続けさせようとしても、若い新しい労働者が嫌がって逃げてしまえば、彼らは現実そのものによって自分の先入観を訂正し、実際に仕事をする彼らに合わせて考えを改めざるをえないし、どうしてもそれに固執したいなら、途上国に出ていったり、あるいはこちらに向こうの若者を呼び集めるなりしてすればよく、彼らに自分の昔の似姿を重ねながら同じやり方を続けていけるなら(上記のようにそういう仕事も世の中に必要なのであるから)それもまたけっこうだろう。一方、逃げ出した若い世代が、古い世代の遅々とした変化に飽き足らず、自分でより高度な技能と創造性を前提にした、新しい仕事と仕事の場所を作り出して古い企業と競争し、それを置き換えていくことで、変化の速度を上げていけるなら、まさにそれが、労働環境という意味でも、全体の新陳代謝につながる。情報技術を駆使し、圧倒的に高い生産性を誇るこれらの新興の企業が、古い生産様式の企業にやりこめられるようなことは、これまでもそうだったように、通常ない。古い生産様式の企業は、そこに所属する社員がどんなに汗水垂らして、それこそ牛馬のように働いても、はるかに楽そうな仕事をしている新型の企業に追いつくことはできず、ただ古い世代の郷愁を誘い、思い出を保存するためだけに、夕日のように細々と社会の片隅で生き残っていくことになる。これらはすべて成るべくしてそうなる、自然で、かつ望ましい変化である。

問題が生ずるのは、過去の成功によって社会の支配的な地位についていることの多いこの上の世代が、下の世代を単に口先で非難するだけでは飽き足らず、政治権力と結託し、それを動かして、自分の意に添わない労働観や企業を排撃して間引きし、自分の思想を実力行使によって無理やり下の世代に押しつけた場合である。このようなことをすると、上のような自然な遷移が、人為的な介入によって踏みにじられ、阻止されてしまう。

この「実力行使」とは、もちろんわれわれの場合、ライブドア事件のことを言っているのである。先にも書いたように、それはほとんどでっち上げに近いような、無理な摘発だったのだが、その強引さを正当化するために、当時の検察幹部がなんと言ったか覚えているだろうか。あのとき彼らは、「額に汗してまじめに働く人が割りをくうような風潮は許されない」と言ったのだ。つまり、彼は特に労働観に関する考えの相違を、自分たちの行動の主要な動機にあげたのである。そしてこの場合の「額に汗」とは明らかに、金融やITを駆使して小さな労働投入で巨大な成果を上げ、旧来型の企業の足場を揺るがして心胆を寒からしめるようなものとは違う、目に見えるレベルの真面目な仕事ぶりで、こつこつと稼いでゆっくりと成長する、労働投入と収益との比率において「レバレッジ」の少ない、古い形の仕事ぶりのことを指している。彼らはそれらの古い美風(と彼らが考えているもの)を新しい世代が損ねることが気に食わず、どうしても許せなかったので、あのような無理をしたのだ。同事件では、この「額に汗」という成句が事件を象徴するひとつの合言葉になった。ライブドア事件の本質は、労働問題、(官製の)一種の労働争議だったのである。

しかし、それ以上に問題なのは、「額に汗して働くことが善」という前時代的な価値観に基づく捜査方針を宣言して、ライブドア捜査に着手し、「出る釘は打たれる。長いものには巻かれろ」式の考え方を若者達にはびこらせた当時の特捜幹部の独善的な姿勢ではないでしょうか。今の日本は「額に汗して働くこと」だけでは救えません。それより「頭に汗して考える」姿勢が重要です。それによって新たな価値を創造していく力が生み出せるかどうかに震災後の日本の再生がかかっていると思います。「堀江は死刑」などとつぶやく人にはわかって頂けないでしょうが。( RT 最も大きな罪は、汗水たらして働くことを馬鹿にして、楽して法の抜け穴をさがしてまで金儲けに固執することをさも立派であるかのように若者たちを洗脳。私なら死刑を求刑 )

日本鉄鋼連盟の三村明夫会長は19日の定例会見で、強制捜査を受けたライブドアについて「一般論だが、額に汗して働く者が尊敬される考えが大切」と、金融手法を駆使した急速な事業拡大を暗に批判した。(略)今春闘の賃金交渉については「ベースの固定費を上げるのは受け入れられない」と、ベースアップなどの一律の賃上げにあらためて否定的な見解を示した。


「一罰百戒」のこの摘発の効果はてきめんで、以降、ベンチャーの創業と意欲がこの国ですっかり萎れてしまったのは誰もが目にしたとおりである。本来その担い手になるような最も優秀な人たちは、情報技術にファイナンスの技術を駆使した経営手法をかけあわせ、急激に成長するような企業をつくると、当局に付け狙われてメディアから集中砲火を浴び、罪にもならないような罪を着せられて人生を棒にふるということを学び、急ブレーキを踏んで散り散りにどこかに行ってしまった。一方それを踏みつけにして我が身を守った側は、自分で潰したことも忘れて、日本にはなぜグーグルもアップルも生まれないのかと嘯(うそぶ)き(ご存じのように、これは日本のエスタブリッシュメント層の間では最も人気のある雑談のひとつである)、このままでは検索機能のようなネットの根幹の部分を全部外国勢に押さえられてしまう、急いで「スーパー・クリエーター」だかを国家認定して掻き集め、「日の丸」なんとかを作らねば、とばかりに莫大な税金を注ぎ込んで、結局なんの成果も出せずにこっそり撤退したりしている。これらの公務員とその取り巻きたちは、自分自身で問題を作り出し、次いでそれを解決すると称して膨大な税金を食い物にし、なにひとつ解決できないまま自分が利権だけを得るという固定的なサイクルを延々と繰り返している。さすがにみんな気づいているのではないか。(シェール革命他の)エネルギーでも情報技術でも宇宙開発でも、最先端の技術革新の動きについて、メディアが特集記事なり番組なりを組んで取材すると、アメリカからは若くて溌剌とした起業家や大富豪やVCがインタビューに出てくるのに、日本からは必ず担当官庁や天下り行政法人の何々の役人(しかも多くは老人)が出てくる――この異様なまでの落差に。税金でなく民間資金でそれをやるには、人も金も、この国からは払底したのである。巧妙に仕組んで意図的にそうした、累進課税で高収入層から税金を取り過ぎ(原発を弄んで爆発させ、日の丸検索エンジンで浪費するために)、人は追い回して潰して、自分でそういうふうに作り替えてきたのである。

結局のところはっきりした理由は分からないが、社会観察としては、ライブドアのような新興企業、あるいは当時の堀江貴文氏のような短期間での成功者と、東京電力のような古い名門企業のメンバーとの間には、暗黙の会員システムの会員(=東電)と非会員(ライブドア、堀江氏)のような扱いの差があるのではないか。敢えてこの仮説から想像を発展させると、日本では、新興企業などが、旧来企業のメンバーや官庁から見て、実力以上の成功を収めたと見なされた場合、暗黙の会員システムに対する敬意を表明するとともに、会員達と利益を分け合う形を取り、注意深く身を慎んで、いったん成長のスピードを落とす必要があるのではないか。

As Mr Horie tweeted from prison, Olympus was ten times bigger and the fraud went on for far longer than at Livedoor. Some suspect that Mr Horie was punished harshly because he upset the establishment.


一方、それと入れ替わりに民間部門で急浮上してきたのが、昔ながらのモーレツ労働で鳴らす、いわゆる体育会系ベンチャーである。これらの企業では、上のような頭脳労働型のベンチャーとは明らかに異なる類型の人間が、創業者と幹部陣を占めていることが多い。そしてこれらの企業がやっているのは、まさに「額に汗」型労働の洗練された極限版である。目指している方向は石頭の古い世代にも分かりやすいし、彼ら自身も、自分たちが上の世代からの暗黙の支持と奨励を受けていること、従って少々羽目を外しても叱られはしないないだろうことを弁えている。実際、特捜部は、楽して大金を稼いでみんなで楽しそうにしていたライブドアは目の敵にして追い回し、取り潰しにしたが、これらの企業に対しては、たとえ数人ばかり死人が出ようが完全にお目溢しで、どちらにどれだけ肩入れしているのかはその行動パターンからして明らかである。なぜならそれらの企業はまさに「額に汗水垂らして」懸命に働いており、彼らのお眼鏡によくかなっているからである。こうして、彼らのお望みどおりに、図面を引いたとおりに、「額に汗する」企業が経済社会の中心を占めることになった。気づいて見回すと、そういう企業しか新卒学生が入れるところはない、という光景になった。居酒屋チェーンのワタミの渡邉美樹会長は最近のインタビューで次のように述べているが、これは氏の労働観がこの路線に忠実にそったものであることをよく示している。

もちろん、口先だけで評価される世界であれば別でしょう。しかし、ワタミグループは「額に汗しないで稼ぐお金はお金ではない」と定めています。コツコツと地味な仕事を続けている会社です。


最初に強調したように、事業家個人がこうした経営理念を持って自分の企業を思うように経営し、それが自分に合っていると感じた同調者がその周りに集まって企業を盛り立てていくのは、本人たちの勝手であり、おおいに結構なことで、それ自体は悪いことでもなんでもない。「額に汗して」一生懸命働くことは、紛れもなく尊いことである。渡邉氏自身、事業に失敗した父親の挫折をバネに、猛烈労働で知られる佐川急便のトラックドライバーから身を興して徒手空拳で今の地位を築いたことは有名で、自分の信念を貫き、その信念に基づいて自分で起業した会社を経営しているだけのことである。それが性に合っていて、同じようにしたいと思っている人にとっては、それは得がたい大切な職場である。自分は合っていないと感じた人間が、よそから彼らの邪魔をするべきではない。

問題は、「お上」が出しゃばってこれらの特定の労働観に公的なお墨付きを与え、影響力を行使して、それ以外の企業を摘み取ってしまったことにある。そうなると、あとに残るのは、この手の肉弾系企業ばかりになり、そのような仕事には向いておらず、違うタイプの働き方であればはるかに高い付加価値を生み出す可能性があるような人材まで、そこに行くしかなくなる。新卒学生が民間の就職先を探そうとしても、手を挙げているのは右も左もブラック企業ばかりということになり、古いブラック企業(伝統的大企業)か新しいブラック企業(体育会系ベンチャー)のどちらを選ぶか、という凄惨な話になる。たとえで言えば、必ずどれかの部活動に所属するよう決められている学校で、ほんとうなら美術部や茶道部に向いているような生徒が、それらの部がみんな潰されてしまって、猛練習で全国優勝を目指している野球部や水泳部に入って同じ練習の量とメニューでしごかれるようなものである。合わない者までそこに大量に流れ込めば、逆のパターンで、中学生の数学もできない者がグーグルのプログラマーの仕事を強制されたのと同じように、ストレスで潰れるなど軋轢もそれだけ多くなるのは当然の成り行きである。一方、雇う側の方も、他に行き場がないところに猫も杓子もどんどん入ってくるので、従業員の扱いがぞんざいになり、手当たり次第に呑み込んだあとでフィルタリングして振り落とす仕掛けを備えるようになって、組織の内部の勾配と扱いはいっそうきついものになる。そして、これらのすべては、現代の豊かな生活に慣れた若者に、自分たちがくぐり抜けてきたような厳しい労働を通じて心身を鍛えさせたい、という上の世代からの支持によって、総体として半ば黙認され、公認されている。子どもを就職活動に送り込む親たちが、自分の身に及んではじめてそれを忍びないと思うなら、彼らはなぜ、そういうものではない別の選択肢を作ろうと奮闘していた起業家を当局がむげに潰そうとしたとき、その横暴を咎めることなく、むしろ手をたたいてともに喜んだのか。

 「リーマン・ショック以降の2009年2月、3月頃から若手正社員から大量に相談にくるようになりました。それまでも非正規雇用者だけでなく、若手正社員からも相談が寄せられていましたが、この頃から明らかに若手正社員の扱いが変わった。『使い 捨て』と呼ぶにふさわしいような扱いを受ける事例が数多く見られるようになりました。


「ブラック企業シンドローム」は、このように、検察(当局)がその権力行使によって作った。彼らがそうなるように意識的に望み、わざわざ行動を起こしてそうなるべく仕向け、その必然的帰結として、雇用環境がこういう状態になったのである。そして年長の世代を中心に、多くの国民もまた、「もっと自分をキツく叩いてほしい」「もっと自分を縛ってほしい」という一種の経済マゾヒズムとしてそれを支持した。日本では、自分でしない代わりに機械に仕事をやらせたいと夢見ているような、どうしようもない怠け者が本来もっとも向いているはずのIT産業ですら、「IT土方」といわれる名称が端的に示しているように、極端に労働集約型、体力酷使型労働の代名詞のようになっている。当然ながら、これでは自分たちの労働生産性も上がらないし、顧客のそれを上げられるはずもない。みずからの生産性を高めることで、経済全体のそれを高め、みんながより楽をして金を稼げるように手伝いをするべき産業を、逆に最も極端な「スウェットショップ」にまで変質させ、突き落とすこれらの技芸は、もはや一種の芸術の域にまで達している。企業向けソフトウェアの分野で、日本製品は世界の中での存在感がゼロに等しいが、それはまさにこの裏返しの現れである。

また、このことはひとつの重要なことも示唆している。それは、現役労働者たちの多くが、祈るような切ない気持ちで切望しているように(これも無知のなせるところだが)、当局の取り締まりを厳しくし、権力を強く行使することで「お上」、担当官庁がこの問題を解決することは原理的にできないし、またやるべきでもない、ということである。彼らは部署こそ違え、全体としてはこの問題を作り出した張本人であり、彼らにその解決を託すのは、火事の原因を作った放火犯に、ついでに消防士の役までやってもらえないかと頼むのに等しい。問題を作り出した当人自身の手による「日の丸」検索エンジン・プロジェクトが必然的に失敗するように、それは自分で自分の顔を殴りつけるような形で失敗する。それでは矢印の向きが違うだけで、人から縛ってもらわないとどうもならないと望むマゾヒズムであることでは同じであり、世論を焚きつけてホリエモンを逮捕したのと同じになってしまう。反対に、真に必要なことは、途上国型から先進国型の労働に移行する、経済活動の自然な遷移に、政治権力と行政が自分の勝手な好みで手を出すような行動を厳しく監視し、厳に慎ませることである。それがなるようになるに任せ、さまざまなタイプの事業家が、さまざまな才能にあった、さまざまな雇用のメニューを設け、求職者がそれを自由に選べるようにする過程に、政治が介入してそれを妨げることのないようにしなければならない。渡邉美樹氏も堀江貴文氏も村上世彰氏も、自分の望むように自由に活動できるようにしなければならない。そうすれば政治介入によって現在悪魔のようにみえている存在も、本来はそれが向いている人のための単なる選択肢のひとつに過ぎず、裏打ちがそんなに黒々と塗られているわけではないことが分かってくるだろう。原発とエネルギー政策とまったく同じで、「ソフト(ルーズ)な制約」も「ハードな制約」も、国家が千編一律の形で解決することはできないのである。美術部を恣意的に潰したことの反省に対する答えが、それなら今度は野球部を潰そうか、という馬鹿げた話にはならないのだ。

今から振り返って疑われるのは、堀江氏のようなやり方はけしからんといって、権力がそれを圧殺したとき、彼らはほんとうにその倫理観を固く信じていたからそうしたのか、ということである。むしろ実際は逆で、権力のつっかい棒で支えなければならないくらいにその固定観念は、既に半ば壊れかかっていたのではないか。堀江氏が自分たちが考えるのと違う仕方で大儲けしているようにみえたとき、彼らは自分は自分、他人は他人、と割り切ることができなかった。逆にそれで、みずから進んで過酷な勤務に服して耐えている自分の生き方が愚弄され、ぐらついているように感じて、それであれほど逆上したのである。彼ら自身が「額に汗する」倫理観をほんとうに深くは身につけておらず、他人の失敗によって再承認され続ける必要があり、生贄を探すのによそ見ばかりしてふらふらしていた。その失敗がどうも見られそうになかったので、慌てて彼らはそれを見たい相手の中に強引に作り上げたのである。

同時にまた、この事件が以降のわれわれの労働環境に与えた痛撃は、この摘発が無理筋で不当なものだったと皆が感じたからこそ生じたものである。なぜなら、それがほんとうに正々堂々と胸の張れる権力行使であり、一企業の会計粉飾を粛々と正したものに過ぎなかったのなら、業界の健全な発達につながりこそすれ、多くの人が意気を削がれて踵を返すようなことにはならなかっただろうからである。法執行に名を借りた、思いつきで何をされるか分からない、野蛮人のような行政官僚の恣意性、裁量性の大きさに皆が強い不安を感じて辟易したからこそ、蜘蛛の子を散らすように人が逃げ去ったのである。

以上の話をまとめると、「ブラック企業」現象の本質とは、ある特定の労働観や企業体質のことではなく、公的介入、権力的強制によって、経済の多様な植生、企業の生態系を焼き払い、殺伐とした人工的なモノカルチャー栽培状態にしてしまって、求職者の多様な選択肢が奪われたことにある。これは選択的に残されるのが高度な頭脳系の労働であっても同じで、それがなんであれ、なにか特定の労働形態を恣意的にこれがいいと決めつけて、一律にそればかりにしてしまい、合わない者まで無理に行くようになれば、悲惨なことになるのはどんな種類の労働であれ変わることはない。そういう企業が「ある」ことではなく、そういう企業「ばかり」になることが常に問題なのである。「ブラック」とは、その企業自身に塗られた色ではなく、合わないと知りながらそこにいかざるをえないと求職者が感じたときの期待と失望の間の落差の色、文字通り「目の前が真っ暗(black-out)」になった感覚のことである。「真っ白」なはずの相手を見て「真っ暗」になることだって、いくらもあるだろう。

以上が、この問題について自分が考えるいちばん外側の「マクロ」の見立てである。サービス業化が進んでも、世代間ギャップがあっても、不況がひどくても、文化的素地があっても、なおこうなるには及ばなかった。にもかかわらずそうなったのは、当局がそうなるように、わざわざ手を引き、善意の敷石を敷きつめて、ひとつの行政方針、行政的施策として、われわれをそこに向けて導いたからである。従って、われわれの結論は、ここにおいても(原発問題と同じように)またしても同じである。この社会現象は、民間の経済活動がなるようにさせておいたのではうまくいかず、行政権力の手を借りなければいけないことの例証ではなく、逆になるようにさせておかずに行政権力が介入したためにうまくいかなくなったことの、まさに典型的な例証である、と。

この件については、個々の労働者と企業との関係という「ミクロ」の状況について、指摘できることがもう一つある。それを次で確認しよう。





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2013/04/21 | TrackBack(0) | 政治経済 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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