この問題で一般にあまり触れられていない重要な点として前回指摘したのは、経済発展につれて労働の質も高度化する中で、労働観においても世代間に強いギャップが生じるが、古い世代が行政権力を行使してその移行を阻止したことで、古いタイプの仕事観を称揚する企業ばかりが残った底の浅いモノカルチャー状態になってしまい、新しい世代がそれに対して大量に不適応になっていることが大きな背景にある、という内容だった。
では、反対に、このような人工的な介入や縛りが一切なく、古い企業と新しい企業がともに多層的な厚みをもって併存しながら、産業の成熟に合わせて労働と雇用のあり方も自然に移行していくとしたら、どのような状況になるか。一つの思考実験として、それを思い描いてみよう。 この経済環境においては、さまざまなタイプの労働を設計する企業が自由に併存し、各労働者、求職者は自分の好みや必要に応じて自由にそれを選択することで、産業構造の成熟に寄り添う形でそれらが自然に変遷していく。そこでは、それこそ24時間365日労働で盆も正月もないという企業があっても(そこで集中的に働いて金を貯めたいという希望者がいるなら)いっこうにかまわないし、まったく反対に、ウチは週休4日ですとか、あるいは1日も会社に出てこなくていい、そもそも出社するオフィスがない、という「企業」があってよい。賃金や契約期間、研修や休暇他の福利厚生のオプションについてもあらかじめ決まった形はなく、応募したい労働者に対して魅力的に思ってもらえるように、各企業が工夫して自由に設計する。雇用主と労働者が自由に動ける裁量の幅が充分に大きいことが、経済活動が、全体としても、自分自身の発達段階や社会の実状に合わせて柔軟に変遷していけることの当然の条件である。
このとき、求職者・労働者の側にとって、あると便利なのは、雇用契約に関して手軽に利用できるコンサルティングや代行支援のサービスである。それぞれの雇用主からの提示条件に幅と自由度があるので、不審点があればその内容をよく確認しなければならないし、企業のような組織と労働者という個人の間で、契約の運用力で能力的な差がある場合には、知らずに不利な契約を結ばされて困ることのないようによく注意しないといけないからである。
この「手軽に利用できる」とは、分解すれば次のふたつの要素から構成される。ひとつは、「供給が大量である」ということである。労働者がサービスを必要と感じたときに相手にしてもらえるのが1年待ち、というのでは役に立たない。需要されるだけの物量を充分上回るくらい潤沢に、事業者とサービス提供の能力が用意されていなければならない。
もうひとつの条件は、「費用が安価」ということである。労働者の側は、多くは裸一貫の個人であり、商品売買契約の中での一人一人の消費者と同じで、契約相談に対して多額の費用をかけるわけにはいかない。必要な費用は、安ければ安いほど良く、ネットサービスのような広告モデルで無料ならさらに良く、労働者にとって頼りがいのある強い味方になる。
さらにいえば、単に安いだけでは不足で、そこには当然、一定以上の品質が保たれていなければならない。安くて高品質なら依頼者にとって満点で、それをどう実現するかが、供給側の腕のみせどころになる。供給品質が高いといういことは、当然、供給者の側に相応する高い能力が要求されるから、その収益と収入も高額である、ということと対であり、同義である。
供給量が巨大で、価格が安価で品質が高く、供給者の儲けと実入りも多いという、これらの要点は、全部集めると互いに矛盾していて、同時に達成するのは不可能なようにみえるが、実際にはまったくそんなことはなく、どんな分野でもふつうに行われている。それらをいっぺんに達成するとは、要は「事業者の生産性が高い」ということである。それはどんな業種でも目指されることであり、全体としては資本主義経済の中の究極の目標のひとつでもある。
雇用契約のコンサルティングサービスで「生産性が高い」とは、どのようなイメージか。まず、労働者からの多様な需要は深く分析されたうえで類型化されていなければならないだろう。供給する側は、顧客開拓(マーケティング)、注文受付、サービス提供、経営管理などの各専門ユニットに高度に分業されている必要もある。顧客からの依頼で難度の高い注文は、中核となる少数の高スキル者に回され、多くの定型的な内容は、訓練された受付者が業務システムの支援を受けながら行うか、あるいは無人でネット上のシステムそのものが行う(たとえば雇用主が提示した契約内容を読み込ませると、蓄積した過去事例のデータベースと付き合わせて、注意点や問題箇所を自動評価する等のサービスが考えられる)。需要に対応できる供給量とサービス品質を両立させるために、個人事務所ではなく、それなりの人的ネットワークやシステムのインフラを持ち、それを支える売上高を持つ大型の企業組織である必要もある。それらの複数の有力企業が顧客からの支持を争って競争し、高い支持を得た経営陣と従業員は、他の分野の場合と同様、高い収入を得るのである。
以上の素描から、産業の発達とそれに付随する仕事観の変遷に柔軟に対応できる、望ましい雇用環境とは、各雇用主が自由に設計した多様な雇用契約と、労働者の側の需要によって支えられ、契約の透明性を高める安価で高品質の評価支援サービスが組み合わされた状態である、という基本的な輪郭が得られる。就職、雇用とは、明らかに、労働力という商品を労働者が販売し、雇用主がそれを購入する、売買契約の一種である。だからそこに発生する問題の多くは、つきつめれば契約をめぐるトラブルであり、従って、そのあり方と、それを支援する仕組みが重要になるのである。
雇用契約の硬直化が生む「ヤミ労働」
思考実験はここまでだが、では今度は、これと比べて、われわれの現実の姿がどうなっているかを、あらためて確認していこう。注目されるのは、この雇用契約の型に柔軟性が乏しく、ほとんどの部分が硬直的に固まってしまっていることである。労働時間や基礎賃金や休暇取得や契約解除(解雇)などの基本部分が、全部はじめから固め打ちに決められており、裁量で動ける範囲が事実上ほとんどない。昔の中国の人民服や東ドイツのトラバントのように、その契約形態は事実上、国定の一種類しかない。ネットのプロバイダー契約や、保険のように、事業者がひとりひとりの消費者と個別に契約を結ぶのが難しいときに、出来合いのメニューを用意する契約を約款契約というが、雇用契約は国定の、しかも他の形態を許さない独占的(排他的)な約款契約である。雇う雇用主の側にも労働者の側にも、そうしたいと思っても他の選択肢がない。
このようにしてあることの狙いのひとつは、上に述べた話からすれば、契約内容を固定してしまうことで、労働者の側が、内容についていちいち吟味する必要をなくし、契約締結に関する負担を軽減して、トラブルも抑制することにある、と考えられる。実際に、法規ではそれらの法定内容とは別に、明示的な契約を交わすことになっているが、雇用契約書にせよ、就業規則にせよ、日本の労働者でそれらの個別の内容を意識している人は、ほとんどいない。
制度を定める「建て前」としては、それらはわれわれの労働条件の「最低基準」を決めてあるのにすぎず、そこから上は自由に設計して決めてよい、ということになっている。しかし、それが見えすいた嘘にすぎないことは、たとえば賃金の最低ラインである最低賃金を政策的に動かすことで、賃金相場や経済活動に影響を与えようという介入が公然と行われていることにも現れている。それがほんとうに「最低」を決めてあるものならば、現行の多くの賃金契約が、上だけではなく「下」にも充分動けるようなところに引かれておらねばならず、現に支払われている多くの賃金相場を次の日から勝手に違法にしてしまうようなことが行われるはずがないからである。
雇用契約の形態が、趣旨どおりの「最低基準」になっておらず、行政がお節介で「決めすぎて」いることは、それが事実上ほとんど守られていないことの中に端的に現れている。つまり、それは実際の経済実態に則しておらず、現実の法規というより、望ましい理想像を描いて恭しく神棚に奉納した、願い事の目録のようになっているのである。
平成20 年度に実施した監督の労働基準法等の違反率は 68.5%であり、3分の2以上の事業場で法律違反があることから、日本においては労働者の労働条件が十分確保されているとはいえない状況です。
雇用契約について本来どのような形態が適しているかは、実際には個々の働き手の能力や生活事情によっても違えば、業種や部署、仕事の内容によっても細かく違っている。家計の足しや自分の楽しみのために、空き時間の中でごく安い賃金であっても働きたいという人もいれば、70歳、80歳になっても働きたい、有能なので働いてほしい、という人もいる。法定の上限時間では運動量が足りずに、かえってストレスになってしまう人もいくらでもいるし、そこに合わせて決めつけられてしまうとついていけずに脱落してしまう人もいる。新聞記者とアニメーターと大学講師と救急医と夜間バスの運転手を全部ひっくるめて単一のひな型で面倒みようというのは、あまりに無理がある。
国定の契約で現実に対応不可能で、そこからはみ出した部分は、他の多くの分野のそれと同様、人目を盗んで(労働者という)供給者によって供給される、契約外の「闇サービス」に追いやられることになる。これが「サービス残業」や有給休暇の未取得、あるいは労働市場全体における「非正規労働の拡大」の問題の本質である。それは公然とした契約の範囲の外にあるため、それをあらかじめカバーした柔軟な契約を結んだ場合よりも、はるかに労働者は守られず、文字通り「野放し」の状態になるし、海外に流出すれば雇用そのものがなくなってしまう。善意のつもりで固定化された保護と規制を強めれば強めるほど、現実からの乖離がそれだけひどくなるので、労働供給の文字通りの「ブラック・マーケット」化も甚だしくなる。原理は、飲酒への需要がある社会で禁酒法を強制して、逆に粗悪な密造酒による健康被害が多発するのと同じである。
母国では強固な解雇規制で中高年の仕事が守られている。企業は非正規雇用の若者の解雇に走る。月1000ユーロ(約12万円)で働く大卒を例えた「1000ユーロ世代」という2000年代の言葉がかすむほど若者は追い詰められている。 イタリアでは若者の弱みにつけ込んで数百ユーロという低い賃金で働かせる「ヤミ労働市場」が問題になっている。雇い主は税金も払わず年金など社会保障費も負担しない。ボッコーニ大学教授のボエーリは「不透明な雇用形態は労働市場の約2割を占める」と分析する。
有力大学の間で、1年契約などを更新しながら働いてきた非常勤講師を、原則5年で雇い止めにする動きがあることがわかった。4月に労働契約法(労契法)が改正され、5年を超えて雇うと無期契約にする必要が出てきたからだ。法改正は、有期契約から無期契約への切り替えを進め、雇用を安定させるためだ。だが講師たちは生活の危機にある。朝日新聞の取材で、国立の大阪大や神戸大、私立の早稲田大が規則を改めるなどして非常勤講師が働ける期間を最長で5年にしている。大阪大と神戸大は、その理由を「法改正への対応」と明言。無期への転換を避ける狙いだ。有期の雇用契約の更新を繰り返し、通算5年を超えた場合、働き手が希望すれば無期契約に切り替えなければならなくなったからだ。
低賃金で不安定な雇用の象徴とされ、今回の選挙戦でも、各党が日雇い派遣の禁止や原則禁止を公約に掲げています。その選挙の投開票作業に、大勢の日雇い派遣の人たちが携わるんです。(略)自治体の話を聞きますと、限られた準備期間のなかで、自らアルバイトを募集して、1人ひとりと面接し、契約を結ぶとなると、職員の負担が重くなる。けれど派遣なら、派遣会社に委託すれば、あとは全てやってもらえるので、負担の軽減につながるということでした。
(それだけのニーズがあるということなんですね?)
そうですね。与野党ともに、日雇い派遣の禁止を公約に掲げている選挙で、その日雇い派遣が大量に使われるというのは皮肉なことです。一方で今回、自治体によっては、派遣に頼らず、短い準備期間に1000人を超えるアルバイトを直接、採用したところもあるんです。また、選挙への関心を高めてもらおうと、高校生にボランティアで投開票の作業に参加してもらうところもあります。
都道府県や市町村が運営する基幹病院(200床以上)の過半数が、過去9年の間に何らかの形で労働基準法に違反し、労働基準監督署から是正勧告を受けていた―。そんな結果が、広島国際大の江原朗教授の調査で明らかになった。中には、8回にわたって勧告を受けた病院もあった。違反の理由では、時間外や休日における勤務に関する協定の未締結や、深夜や休日の勤務に対する割増 賃金の未払いが多かった。
オフィスワークでよくある事例でいえば、たとえばそれなりの規模の組織の本部部門で、明示的なルールに反して深夜労働が常態化しているような職場の場合、その実態をまず正直に認めて、それを含めた契約を明朗に結び直すことができれば、会社はそれらの従業員のために、仮眠室やシャワー室、あるいはタクシーチケットの手配のような最低限の支援を用意することももっと容易にできるはずである。しかし、それらの実態は建て前上「存在しない」ことになっているので、何日も着替えもしないまま、空調も切れた部屋で(なぜならそこには人は「いない」ことになっているから)椅子や机の上や、調達してきたダンボールを敷いて床に寝るというような情けないことをする羽目になる(中央官庁のキャリア官僚も率先して同じようにしているのはよく知られている)。「存在しない」はずのものを公然と測定するわけにもいかないから、労働生産性という点でもなにがなんだか分からない野放途な状態になり、公認して時間や費用を洗い出すよりも、かえってそれを圧縮することが難しくなる。
私が通産省にいたのは今から15年も前だから、今は少し違っているかもしれないが、その日のうちに家に帰れることはほとんどなかった。それでいて、翌日は朝から勤務しなければならない。私が若かった頃は、タクシー券などというものはこの世の中に存在していなかった。だから、終電以降は役所で寝るしかなかった。素人は机の上で寝ようとするのだが、落ちると危ないので、ベテランになると床に直接寝るようになる。「平気で床に寝られるようになったら一人前だ」と言われた。(略)それでも残業手当は1カ月十数時間分と決まっていた。月に140時間残業をする人も、全くしない人も同じだった。労働組合との妥協の結果だという。
仙谷由人・国家戦略担当相は23日の衆院内閣委員会で、霞が関の残業問題について「労働基準法違反が常態化している。大臣や次官、官房長がただちに刑事罰に問われるくらいひどい残業状態の部署がある」と指摘した。残業が多い霞が関の官庁の勤務実態を改善すべきだとの考えを強調した発言だ。
もうひとつありがちな例をあげると、たとえばトヨタのような企業の、ものづくりの心髄、競争力のコアのひとつは、言うまでもなく労働者自身の手による「カイゼン」活動に求められるだろう。しかし、その企業の価値創造の多くが、正規の労働時間外のヤミ労働の形で担われているとしたら、会社自身にとっても名折れであり、面白いことではないはずだ。とはいえ反対に、現行の労働契約の中で、それを自動車を力いっぱい作っているのと同じ労働として扱っていいかといえば、それもまたしっくりこないのも確かである(だから「ヤミ」状態になる)。
トヨタ自動車が、生産作業の「カイゼン」のために実施している従業員の「品質管理(QC)サークル」活動を、6月1日から業務と認め、残業代を全額支払うことが22日分かった。QC活動は勤務時間外に行われているが、これまでは従業員の「自主的な活動」と位置付けて、残業代は最大月2時間分しか支払っていなかった。(略)トヨタのQC活動は1964年に始まり、同社が強みとするカイゼンの基盤とされ、国内に約5000のサークルがある。自動車の品質向上のためにお互いにアイデアを提案し議論することが目的で、国内の生産現場の従業員約4万人は、原則全員参加している。
トヨタやグーグルに限らず、多くの優れた企業が、中核の労働の外側に、本業と遊びの半々くらいの、自由度の高い半熟状態のような周辺的な活動を設けて、そこから高い付加価値を生み出すということをやっている。現行の法規の中では、それを労働時間に繰り入れている場合もあれば、ヤミ労働の方に倒している場合もあるだろうが、やはり本来これは、今の硬直的な枠組みから離れて、専用の、それにふさわしい契約内容を、雇用側と労働者がよく話し合い、設けられるようになっているのが望ましい。企業にとっても、それが経営にとって枢要であり、労働者の自主的な参加意識が重視される活動であるのなら、自由な枠組みの中で、無下にただ働きを強要し続けるということにはならないはずである。必要な働き方と契約の形は様々なのだから、それぞれが必要とするように実態に合わせる、一律に決めすぎない、というのは、こういうことを指している。
労働組合は労働者を守れるか
一方、国定の出来合い契約の他に、労働組合というものも、法律で規定・保護されて、労働者のために用意されている。しかし、それがなければ(管理職扱いの非組合員などのように)意味がないし、あってもないのと同じか、それ以上に無意味なのは前回も書いたし、上の例にもあるとおりである。多くの人が同じ経験をしていてほとんど常識になっているが、自分が労働組合に対して最も驚いたのは、組合がある組織でのサービス残業(雇用契約違反)というのは、組合の暗黙の追認、見て見ぬふりなしには成り立たない、ということである。なぜなら、その職場には組合の末端役員がいて、「サービス残業撲滅」と書かれた組合のポスターのすぐ下で、自分でもいっしょにその違反行為を行っているからである。しかも、会社の方はまだ(飛び級の職位引き上げや、官僚であれば天下りなどの「ヤミ手当て」の形で)報いてくれることもあるが、労組はその偽善を逆に労働者から上納金(組合費)をとって行っており、全然そんなものが存在しないよりなお悪い状態になっている。それらの職場では、会社よりも労働組合に対してはるかに強い嫌悪感が向けられるのは当然といえる。労働組合が、このように無意味な存在になってしまうのは、労働者の交渉上の弱い立場を、数を集めることで補強しようというその本質上、固定化された雇用契約と同様に、個々の職場や労働者の細かいニーズに対する柔軟性が欠けた硬直的な対応にならざるをえないからである。「団交(団体交渉)」とか「春闘」などの用語にそれは端的に示されている(毎年みんなで「エイエイオー」をやっても、それが自分個人の労働条件にどう反映したのかさっぱり分からない)。英語でいうともっと露骨で、団体交渉は「Collective Bargaining」というが、これを訳せば(労働力という商品の)「まとめ売り」である。バナナの叩き売りじゃあるまいし、これでは、個々の職場や仕事の実態に合わせたきめ細かい対応などできるはずもない。そこには、国定の硬直的な雇用契約と同じ問題が本質的に生じる。このため、どうしても労働組合は、国定の雇用契約の不具合を、最も間近で見て見ぬふりをする共犯者となり、闇労働という契約の保護がない無防備な労働の直接の加担者になる他ないのである。
労基署はなぜ焼け石に水なのか
国定の労働契約約款を運用する行政の側の直接の担当部署として労基署(労働基準監督署)はどうか。近年、各大手企業のサービス残業を積極的に摘発するようになったのをみて多くの労働者が感じているように、労基署は組合よりはまだよほど役に立つ。しかしそれでも雇用契約に関するトラブルの全体量からいえば圧倒的にリソースが足りない。どれだけ個々の担当官が休日返上で(それこそ自分がサービス残業で)奮闘しても焼け石に水で、水をかけたそばから全部蒸発してしまって温度すら下がらない。なぜリソースが足りないか。ここには予算不足というような底の浅い話とは別の、もっと根深い事情がある。実は、その根本的な理由は、またしても国定の出来合い契約の存在にある。もしも労基署の対応リソースをほんとうに必要なだけ手当てしたらどうなるか。現実の実態からいって、おそらく予算も人も、東ドイツの秘密警察シュタージのような、とんでもなく膨大なものになるだろう(よく冗談で今の100倍は必要と言われている)。しかし、そんなものをほんとうに整備したらどうなるか。それは、国定約款である労働基準法が、実はまったく機能していないのだ、誰も守ってはいないのだ、という「不都合な事実」が白日に晒され、それを公に認めることになる。これを逆に言えば、行政が国定雇用契約が機能していて存在価値があるという建て前を維持することと、貧弱な監督機関で「たまたま」それを逸脱した不届き者を摘発するという建て前は、同じ虚構の中の一部を成している。だから行政は、行政製の雇用契約の基本的な有効性を信じるふりをし続ける限り、監督機関をあまりおおっぴらに拡充することは、これもまた構造問題として出来ない。仮に予算をもっと好きなだけ使っていいと言われたところで、出来ない。われわれの社会には、むしろそれを守らないことで社会が円滑に動いており、ふつうにそれを適用すると全員が犯罪者になってしまうが、実際には運の悪い人だけがつかまるひどい法律というのがよくあるが、これもその主要なもののひとつである。
無視される弁護士
そして最後は、民間事業者の中の契約支援サービスである。この役割をわれわれの社会で独占的に担っているのは弁護士であるが、彼らはこの問題に関して、顧客になりうるはずの労働者からは完全に無視されており、存在感はまったくない。言い換えれば、雇用に関する契約上の需要が生じたときに、弁護士を頼りにすることを考慮する労働者もいなければ、孤立している労働者に彼らをあてがって味方してもらおうと考える人もほとんどいない。なぜか。まず第一に、なんといっても供給の絶対量が少なすぎるからである。
上述のように、現状の雇用のミクロな問題の主要部分は、現実の実態とほとんど合っていない国定契約の硬直性にあり、そこからはみ出したところが、全部事実上の無契約の状態のまま動いている。従って雇用契約にかかわる摩擦と、それに対する支援の潜在需要は、本来膨大であるが、それに向き合う事業者は、引き合うだけのボリュームが圧倒的に足りない。
第二に料金がもちろん高すぎる。労働紛争が起きたときに個々の労働者が弁護士をつけたり、雇用契約を結ぶときに事前相談にいくということは、依頼価格が高すぎて、現状ではまったく視野のうちに入ってこない。
事業者の供給が少なく、価格が高いということは、上に述べたように、生産性が低いという同じひとつの状態を言い換えたものにすぎない。オーダーメイドで、原始的・家内工業的な仕立て仕事しかできないため、一件あたりの案件から高い料金が取れる富裕層や大手企業しか相手にすることができず、個々の貧乏な労働者が抱える労働紛争のような、単価の低いものは顧客にとることができないのである。
繰り返すが今ですら潜在需要は膨大にある。すなわちそれは、無数の労働者が無契約の状態で苦しんで、助けもなく泣いているということである。なのに、なぜこういうことになってしまうか。その理由は以前にも述べたように、法律家のサービス自体が事実上の国営で、利権化していることにある。
需要があるのに供給の絶対量が少ないのは、自由な職業選択と新規参入を法権力で禁止して人工的に絞っているからである。具体的には、高すぎる開業規制を設けたうえに、新規参入数にまで数値上限をつけて厳しく供給調整しており、二重三重の垣根を設けて参入希望者の多くを門前払いで追い払っている。このようにしている目的は、既存事業者に、適度に顧客が保証された温室で、競争なしに昔どおりの高額収入が行き渡るようにするためである(たとえば、前民主党政権の鳩山内閣時代、閣僚資産で最も資産額が多かったのは、大富豪の鳩山首相を除けば、夫婦とも弁護士で「弱者の味方」の福島瑞穂氏だった)。
加えて、生産性がわざと上がらないようにするための規制も、わざわざ法律で規定して念入りに設けている。弁護士法72条をはじめとした各種の規制がそれである。このために、それぞれの専門家にしかるべき対価を払って提携、分業し、広告、営業(顧客紹介)、コールセンターによるレベル別の受付などができなくなっており、当然、事業者の大規模化も進まなくなる。これは、顧客になるはずの労働者からみれば、すべて法律支援のサービスの料金が上がること、また、事業者が見つけにくくなり、困ったときに駆け込みにくくなることを意味している。これは、今ちょうど激しい綱引きが行われているが、薬剤師業界とドラッグストア業界が、自分たちの業界利益を維持するために、政治と結託して薬のネット販売を禁止させようとしているのと、まったく同じ構造である。
ネット販売の全面解禁を求める政府の規制改革会議への反発は強い。厚労省幹部が明かす。「『対面イコール安全』の論理が崩れると、もっと大きな規制緩和の波をかぶる恐怖がある」。医師が直接診る。薬剤師が店頭で説明する。そんな対面の世界が崩れると、医師や薬剤師に頼らない風潮や、医療機関に投資や技術を強いる遠隔医療が広がりかねない。
日本薬剤師会や日本医師会、日本チェーンドラッグストア協会などの業界団体は、ネット販売に慎重だ。薬剤師が相手の顔を見ながら服用方法などの情報を伝えることが安全性の確保に必要というのが理由。加えて「対面」の原則を守りたい事情もある。これまで薬の販売は対面原則があるために、多くの薬剤師を店頭に配置したドラッグ店が優位に立ってきた。規制なしでネット販売を解禁すれば数人の薬剤師で全国からの注文に応対するネット企業がコスト競争力で勝る。薬剤師にとってもドラッグ店でコスト要因と見なされ、雇用の場が減る恐れがある。
過払い金返還請求などの債務整理をめぐる弁護士と依頼主のトラブル解消に向け、日弁連(宇都宮健児会長)は17日、債務整理に関する弁護士報酬に上限を設け、違反した弁護士を懲戒処分の対象とするなど5年間限定の規制強化案を理事会で承認した。 (略)規制強化案は、ほかに(1)依頼主との直接面談を義務化する(2)広告を出す際は、報酬の基準や依頼主と直接面談すること を表示するよう努める(3)依頼主を誤認させるような広告は禁止する―などが柱。指針や規制強化をめぐっては、一部の弁護士が「自由競争を阻害し、独禁法違反」と反発している。
供給事業者の絶対数については、「司法改革」で気休め程度には増やしたのだが、それでも蜂の巣をつついたような大騒ぎになり、既存事業者からは、仕事の取り合いで食えなくなった、顧客の預け金に手をつけて逮捕される弁護士が激増した(これは事実だが)などのキャンペーンが猛然と行われた結果、コルナイの「ソフト予算」の理論どおりに、政治家に対するロビー活動によって、もとの供給不足、社会主義的行列経済の状態にあっと言う間に戻してしまった。需要が膨大にあり、供給不足が明らかなのに事業者が食えないという異様な状態になるのは、上記のように規制で営業、分業などの事業者としての基本的な機能を禁止して自分で自縄自縛に縛っているからである。これを以前の稿では、「酸素の中での酸欠死」と評した。実際に、せっかく開業しながら泣く泣く廃業した若手弁護士のブログなどをみると、弁護士の支援を必要としている潜在顧客が大量にいることは分かっているのだが、弁護士法の規制のために、顧客と自分をうまくマッチングすることができない、という嘆きがみられる。当然の話で、こんなことをすればどんな業界だって同じことになるのは必定だろう。
こうして、建て前だけの国定契約と建て前だけの労働組合、それを守護する建て前だけの行政機関の三位一体のはざまにすっぽりと落ち込んだ大量の労働者が、必要な助けもなく放置されることになった。雇用主との間で契約の運用力に関してバランスが崩れたままであれば、どこまでも押されて後退してしまうのも無理からぬことといえる。大もとの出発点は、国定契約の非柔軟性による、ヤミ労働の大量発生にあり、それを正すことは急務であるが、それらの無契約状態であれ、あるいは、雇用契約の形態が「自由化」された状態であれ、それらをバックアップする専門事業者が大量に必要であることに変わりはない。
当たり前すぎるほどのことで何度も言っているが、ほんとうに重要なのは法曹界の事業者が食えるかどうかなどではなく、顧客がサービスを受けられることである。この場合でいえば、労働者がサポートされることであり、救われることである。ラーメン業界でいえば、参入規制を強めてラーメン屋が自分が必ず飯を食えるようにしても、店が近くになくて客がラーメンが食えなければ話にならない。支援事業者が半国営であり、生産性が低いうえに数も少なく、高額料金を払えるクライアントしか顧客にできないということは、労使の契約紛争において、雇用主の方にだけ法律家の庇護があり、自分を守ることができる、ということを必然的に意味している。これが実際にそうなっているのは誰もが目にしているとおりで、これはすなわち、底辺の貧しい労働者は単に放置され、救われないだけでなく、これらの法曹分野にかかわる不条理によって二重に圧迫されている、倍加した圧力にいっそう押しひしがれている、ということである。現行の法規では、外から部外者が見るに見かねて労働者の契約関連の相談に乗ると、弁護士法の非弁行為の罪で逮捕されてしまう。つまり、弁護士業界は(高い料金が取れないために)自分では相手にしない顧客を、他の者が客に取ることも禁止していることになる。事業者の側がありあまるほどの酸素の中で酸欠になっているのに対して、需要者の側は供給のない真空状態の中で、孤立して放置されるのは、現行の法体系上、論理的に、なるべくしてそうなっていることである。
弁護士に対して行ったアンケートによると、その7割が少額訴訟(訴額が60万円以内の事件)は受任しないと答えています。その理由は、報酬が少ないからです。実際、訴額が140万円以下とされる簡易裁判所の事件でも、弁護士が受任しているのは全体の約9.8%に過ぎません。(弁護士白書2006年度版、97頁)そのため、平成15年に法改正をし、司法書士に簡易裁判所での訴訟代理権を認めました。それまでは、弁護士は受任しないにもかかわらず、他の専門職が取り扱うのは「非弁活動」として禁止してきたのです。
現在、法律事務所で一番多い事件が多重債務者の債務整理と自己破産、過払い利息の返還請求です。これらの仕事はきちんとした処理マニュアルとソフトウェアがあるため、少し慣れれば一般人でも処理できるようになります。現に、多くの事務職員を雇って、このような業務を大量・画一的に処理し、報酬を引き下げている事務所はたくさんあります。法律事務の中にも弁護士でなければできない複雑なものから、それ以外の方でもできる簡単なものまで様々あります。後者のようなものは弁護士以外の者にも取り扱いを解禁し、報酬を安くすることが国民の利益になるという考えもあります。
一方、サラ金との交渉という本来的弁護士業務についても、最近では過払い金の返還請求などパターン化し、「素人」でも可能な世界が拡大してきた。だが、現在の法制下では、債務者の代理人としてサラ金と交渉できるのは弁護士だけだ。
ここに整理屋が跋扈(ばっこ)する素地がある。債務整理を手掛ける弁護士が絶対的に不足しているのだ。だが、もし弁護士以外の 者に門戸を開こうとすれば、弁護士団体は目をむいて反対するに違いない。日本の医師会が救急隊員に緊急医療行為を認めたがらない構図と類似する。(略)
いつの時代、どの世界でもエリート階級が既得権を維持・拡大しようとするところにエアポケットが生まれ、アングラ社会が出現する。
弁護士の会費は、結構高額です。また、強制加入団体ですから(弁護士会に加入しないと弁護士としての仕事はできません。医師とは全く異なります)、どこかの単位弁護士会(例えば、大阪弁護士会)に加入し、日弁連に加入しなければなりません。(略)依頼者に、ときどき、会費を聞かれますが、答えると「年額ですか。月額ですか」と聞かれるのが通常です。(略)
もしかしたら、新規に登録しようとしている弁護士さんの参入阻止、経営の苦しい弁護士さんを脱落させようとしているのかも知れません。一昔前なら「冗談」ですんだのですが、弁護士会費が支払えないために、司法試験に最終合格しながら、弁護士登録を控えているという人も現実にいるようです。また、老齢病気により執務不能なら、弁護士会費は免除されるのですが、執務可能ではあるが仕事がないため経営が苦しいという弁護士さんは、会費免除にはならず、弁護士会費未納が続けば、除名・退会命令により、現実に強制排除されています。
補足すると、これらの契約問題に関するカウンセリングの担い手としては、弁護士の他に、いわゆる「隣接法律職」も対象に入ってくる。業務規制の関連では、一般に企業側の労務業務を請け負うと考えられている社会保険労務士の国家資格を拡張して、この労働紛争の法律業務を取り扱うことのできる特定社会保険労務士という補助資格も最近設けられたのだそうだ。しかし問題は、これらの業務範囲の線引きが、一般の利用者の側からみて何がどうなっているのか、ほとんど理解不能なことである。弁護士業界とこれらの隣接職団体とは、業務範囲をめぐって細かい条文の解釈や過去の判決をめぐって激しい鞘当てを行っているが、どの名刺なら何ができて、契約審査だけでなく代理人交渉があるかどうかがポイントで、英文名称で「lawer(法律家)」を名乗ってよいか悪いかなどという話は、供給者の側の内輪の縄張り争いに過ぎず、顧客からみればまったくもってどうでもよい話である。弁護士の生産性(の低さ)に合わせて、受任金額を法令で線引きしているのも、顧客からみて無意味であり、有害無益である。弁護士業界はこれらの隣接職にできるだけ仕事をさせないように一方で計りながら、法律家の母数を多国間で比較するときには、彼らを都合よく「法律家」に加えて分母を水増してみせようというようなこともしており、こうした使い分けが通ると思っているところは驚くほかはない。
国家がわれわれにかける「催眠」
以上のような現状を概観して驚かされるのは、これらの問題構造が、一般の国民や当の労働者たちの目から深く覆い隠されて、見えなくなっていることである。契約支援を需要する労働者が真空状態の中に置かれ、労使間の法的対応力の非対称性が緩和されずに逆に強化されているのは、人為的な行政規制によってそうなっているのであるから、これは明らかに作られた問題、仕組まれた病である。しかしながら、労働問題そのものは、強い関心を集めて縦に横にとさまざま分析されているにもかかわらず、肝心のこの点が論究されることはほとんどない。両者の異様なほどのコントラストは、強烈な印象を与える。前回の稿でも、この問題に関するマクロな環境を整地した背景として、捜査当局の関与を指摘したが、これについても、わずか数年前のことであり、時期も重なっていて、思い当たる行為をしたら十月十日で同じところから子どもが生まれてきた、というのと同じくらい因果は明白であるにもかかわらず、そこにわれわれの思考の照準が当たることはほとんどない。
これはすなわち、われわれは、法曹界も含めた行政権力の側から強い暗示をかけられて一種の催眠状態に陥り、思考停止の中に眠り込んでいるのだと考えられる。一般に、みずから当の問題を作り出している行為主体が、そこから得ている利益を維持し続けるためには、姿を顕して正面から闘争しながらではなく、相手の感覚を麻痺・錯乱させ、自分が敵ではなくて味方であると誤認させながらそうするのが、最も消耗が少なく、効率よく長持ちさせられる。ちょうどそれは、宿主の養分を奪って、健康に害を与えている寄生虫が、宿主の免疫機能を攪乱させる物質を体表から放出することで、攻撃されるのを免れながら、その体内で寄生し続けているのと同じである。
これに最も巧妙に成功したとすれば、哀切もここに極まるものがあるが、寄生されている側は、外からみれば明らかに異常な根拠を理由に、自分に害を与えている当の相手を保護者と誤認し、感謝を捧げながら、夢遊病者のように抱きついていくことになる。このことには普遍的かつ深甚な意味合いがある。なぜなら、これまでも多くの事例についてみてきたように、国家と行政の経済介入が、民間の活動に害をなしているとき、それを維持して、徴税の形で養分を吸い上げながら宿主に寄生し続けるためには、この役立っていないものを役立っていると強弁し、それをどうしても民衆に信じこませなければならないからである。市場経済は自分の足だけでは立てない危なっかしい幼児であり、自分だけではできないことがたくさんあるのだ、農業への、教育への、エネルギーへの補助金は、貿易統制やエネルギー安全保障、士業の業務規制は有用なのだ、と繰り返し教え込んで信じ込ませなければいけない。そのため、同じような詐術が至るところで展開され、分野間でノウハウが共有、洗練されていく。われわれは、国家が自分の行っていることのほんとうの意味を民衆の目から隠そうとする、この免疫からのステルス機能について、もっと自覚的な注意を向け、よく観察する必要があるだろう。
労働と法曹の例でいえば、われわれは司法業界に連なる関係者たちから、次のような話を入れ代わり立ち代わり、嫌になるほど聞かされることになる。いやいやそんなはずはない、それどころか、自分たちくらい労働者の窮状に深い関心と同情を寄せ、目一杯の助力も提供している集団はない。競争競争と追い立てられて本業も厳しい中から、手弁当で無料相談会なども積極的に行って、テレビにも取り上げてもらって一生懸命宣伝している。「法テラス」の当番だって、完全なコスト割れのところを善意の持ち出しでやっているのだ、等々。さらに進めて、上に述べたこととまったく正反対のことも、大まじめに強調される。金のない労働者たちがわれわれのような精鋭資格者の、レベルの高い法律相談を今までどおり、あるいはもっとたくさん受けるためには、われわれが気分よく無料奉仕できるように、収入と時間にもっと余裕がないといけない。そのためにはやっていくだけで一杯いっぱいの今のような状態では困る。純粋な善意をあてにして、われわれにあまり無理をさせるようなら、今やっていることだって、もうしてやらないぞ、と。
現場でそれにかかわっている当事者たちの多くが、そのための時間と費用を苦労して工面し、心からの善意でそれをやっていることは、おそらくそのとおりなのだろう。しかし問題は、彼らがごく狭い範囲の、内輪だけの主観と論理でものごとを見、周りにもそれを無自覚に強いていることである。観客の視野を絞って狭窄させ、その外側の仕掛けに視線がいかないようにするのは、手品師がトリックを行うときの基本的な技巧である。手を打って暗示を解き、視界をはっと外にも向けてみれば、もともと全体の量が足りていないところから一部を気前よく差し出してもらったところで、問題の解決には少しもつながっておらず、行為者の自己弁明と自己宣伝以外の意味しか持っていないことは明らかである。持ち金の少ない低所得者でもラーメンを食え、ネット検索ができるようにするには、ラーメン業や検索事業を参入規制して、ボランティアの焚き出しをする余裕がある程度に既存業者の所得を保証すべきなのか、それとももっと参入の敷居を下げ、事業者の数と競争を高めて、生産性を上げることによってそうすべきなのか、これもまた言わずもがなだろう。現状の不全な枠組みの中で最善を尽くすことと、その枠組み自体を変えようとすることは別であり、前者は後者の代わりにはならない。両者をいっしょくたに混同することで現状の枠組みを固定することをはかろうとするなら、その意図は問題を救済するものではなく加担し、加害する側のものとして扱われなければならない。参入規制をかけて高収入を享受しているラーメン業界が、ときどきは試食会も開いて貧しい人たちにも自分たちの立派なラーメンを無料でふるまっている、参入規制を外して価格を下げようとするなら、もうそんな気前のいいことはしないがそれでいいのか、と脅しをかけたとしたら、外からみてどう見えるだろうか。
これらは一歩体を引いて、世の中の他のところで通常行われていることに照らして冷静に考えれば疑いの余地はないのだが、最も権威が高いとされる国家資格の保持者たちから、上記のような脅しめいた取引と抱き合わせで、逆の主張を白昼堂々、大まじめで繰り返し浴びせられると、われわれは、ちょうど小説1984に出てくる「ダブルスピーク」(「豊富省」や「愛情省」などといった逆転した用語が意図的に使用される)のように、いわゆる「学習性無力感」の状態に陥り、、事実と正反対のことでも、そういうものなのかと最後には受け入れて屈してしまう。刃物を脇腹に突きつけられながら執拗に言い続けられるうちに、馬さえついには鹿だと信じてしまう。どうせお上には逆らえず、逆らえば逮捕されてしまうのだから、ほんとうはそうじゃないのかもしれないと薄々気づきながらも、善意で、われわれのためを思ってそれをしているのだ、という説明に付き合って、それを信じてしまった方が気が楽ではないか、と。弁護士の参入規制を外し、数を増やしすぎると、「三百代言」が増える、「アンビュランス・チェイサー」が増える、などという、よくある脅しも同じである。実際には、救急車の尻を余計に追いかけはじめる前に、本来待たれている需要を満たすだけの供給が、上のようにまだぜんぜん足りていない状態である。同時にまた、志を持ち犠牲を払って難関の試験に挑み、かなりのレベルまで達しながら、人数制限で切られてしまった多くの参入希望者たちが、独占免許の囲いの内側にいることに甘えて横領や怠業を繰り返しているような現役事業主たちよりも、自明に質が劣るわけでもないだろう。
催眠におちて強い暗示をかけられた被験者は、自分の身の安全を守るための感覚の警告力が麻痺し、差し出された泥水を飲み物と間違えて平気で口に入れたりする。それと同じように、この種の集団催眠が強烈に働いた結果、自分の視力で問題の一端を現にとらえ、自分の口で現にそのことに言及しながら、問題の存在を認識しない、という異様な現象が起こるようになる。すぐ目の前に当の問題がでんと据え置かれ、それを己が目で見、手で触っているのに脳がそれをとらえないのである。たとえば、若手の有識者とされる対談者による次の記事では、この問題を解決する鍵が、実際には法曹業界の供給拡大にあることがはっきりと触れられている。
大野:一概には言えませんが、年齢が若い場合は、もし解雇されたらその会社と裁判で長々と争う時間的・金銭的・精神的負荷を負うよりは、「さっさと次の仕事を探そう」とか「さっさとこの先の人生を立て直そう」と考えそうですが。
古市:誰に相談してよいかもわからないですし。
大野:信頼できる弁護士を探して私企業を訴える、というのは若者にとってはものすごくハードルが高い。それだったら黙って泣き寝入りして、次に働く企業や場所を探した方が楽そうですが…。
ここでは労働者が放置されていることと、問題の本質が契約問題であり、本来誰が彼らをサポートする係なのか、ということが明確に言及されている。にもかかわらず、論者たちは、この点は素通りし、現状をそのまま受け入れてそれ以上考えることはない。弁護士がつかないことに問題があるのなら、それをつけられるように変えたらどうなのか。それが無理だというなら、なぜそんなに依頼価格が高いのか、数がいないのか、欧米と比べても異常ではないのか、それを改めたら誰がどう困るのか、それらの点を深く考えない。わずか十センチ前で自分自身の唇が現に口にしたことの意味に、脳がまったく気づかないのである。このことは彼らの頭の中では、それを考えることに自動的にブレーキがかかり、思考の盲点になっていることを示している。ここを突破し、改めたら、労働者の状況が大きく間然する可能性があるなら、そこを素通りして、よそのことでいくら溜息をついたところで無意味ではないのか。
まとめと補足
雇用契約というひとつの契約行為において、専門の交渉力を備えたエージェント(代理人)が、いかに強力な存在であるかは、プロ野球などのプロスポーツの契約交渉をみればよくわかる。昔は、雇用主の球団側がこれらのエージェントを介在させることを強く嫌がり、相手はそういう知識のまったくない運動選手なので、雇用主の球団は、赤子の手をひねるように、自分に有利なように誘導していた。エージェントを間に挟めるようになったことで、待遇や個々のオプションにおいても、選手側の状況はおおいに改善した。そしてそれは、ここが重要な点だが、実際にはエージェントを入れなくても、いざとなればそれを使えるという環境ができただけで、多くの場合そうなったのである。今の現状で、プロ野球の選手くらいしかそういうことができないのは、破格の高額年俸をとっているくらいのレベルでないと、個人で依頼することができないほど、契約代理人業の料金が高い、すなわち生産性が低いからである。この分野の門戸をもっとはるかに広げて、競争を徹底することで他の多くの事業と同じように生産性が高まれば、一般のふつうの労働者でもそれに近いことができるようになる。そうすれば労働者の置かれている状況は、プロ野球選手並に劇的に改善し、われわれが悩まされている問題の多くが雲散霧消するだろう。われわれはもう制度のエアポケットのはざまで孤立無援で泣き寝入りしなくてよくなり、ヤミ労働の入り込む余地の少ない、明朗なしっかりとした契約と、仕事の内容に合わせた柔軟な雇用形態が両立する基盤を手にすることができる。優れたサービスを考案して提供し、たくさんの労働者を救った法律事業者自身も、大きな利益をあげて、今よりはるかに高収入になることも言うまでもない。それは、昔は微々たる王侯貴族しか利用できなかった、自家用車や、航空機による旅行や、無線電話が、技術とサービスの革新、事業者の大規模化によって今では誰でも利用できるようになったのと同じ形の産業の発達である。同時にまたこのことは、エージェントの供給資源さえ充分に潤沢であれば、国定の契約で外側からお仕着せの枠をはめなくとも、プロ野球選手同様、労働者と雇用主が望むように好きな形で決めてよいことも示している(プロ野球選手がこういう特殊な状態にあるのは、法的に半分事業者で半分労働者という特異な位置づけにあり、労働基準法、すなわち国定の労働契約の適用を外れているからである)。
以上の内容について、何点か補足しておこう。
まず、他国との比較で、アメリカやヨーロッパでは、この雇用契約という点で、日本よりはるかにしっかりしており、職務内容が明確に定められていて、それ以外のことは労働者はやらない、逆にいえば融通がきかない、という指摘についてである。これは、それらの国で法律家の規模が日本の数倍から場合によっては十倍以上いる、ということと決して無関係ではない(つまりわれわれはまだとても「アンビュランス・チェイサー」を恐れている場合などではない)。それらの国では、雇用主がへたに契約を軽視したようなことをすると、簡単に、しかも集団訴訟で訴えられてしまうので、そのことが強いプレッシャーになっているのである。このことは特に賃金の低いサービス業系の労働者の雇用環境を守るうえで重要である。
従来、日本の弁護士制度は、外国に比べて大きな三つの特徴をもっていると言われてきました。第1に、弁護士になるのが極めて難しいことです。例えば、アメリカではロースクールを卒業後、各州の司法試験に合格すれば弁護士になれますし、その合格率は80%前後といわれている(ニューヨーク州の初回受験者)のに対し、日本の旧司法試験では、原則として1年で択一、論文、口述の三つの試験を一度にクリアしなければならず、しかも、合格率も平成の始め頃は約2%前後となっていました。(略)
第2に、外国に比べて弁護士の数が少ないことです。司法改革の理念の下、序々に増えてきていますが、2005年段階で22,000人です。 同時期、アメリカの弁護士人口は100万人をこえています。その他、主要な先進諸国では、ドイツが138,000人、イギリスが118,000人、 フランスが43,000人となっています。
次に、他国との比較で、日本では労働という商品の売買契約というよりは、家族的な組織観の中で、企業の一員として所属するという意味での契約が重視され、仕事としては、必要とされたことを柔軟になんでもやるところが特色でもあり、美点でもある、という考え方についてである。これは事実そのとおりで、たとえば欧米の製造業企業の幹部が日本の工場を視察すると、「ワーカー」がみな「エンジニア」のように働いていると言って驚く、といったよくある話がそうである。が、この指摘は上に述べてきたこととは矛盾せず、むしろ逆に前提の中に含まれている。言っているのは、契約のあり方や基本的な考え方が違うなら、それに適した契約の形を考えてそれを結ぶべきだ、ということだからである。重要なことは、職務が狭く固定していることではなく、決まっていないなら決まっていないで、それが明示化されていることである。あらゆるポジションをこなす可能性がある、ということがお互いの合意の中で明示化されていれば、では、それにふさわしい待遇はどうなるのか、育成はどうなるのか、契約の出口(解雇や退職)はどうなるのか、というように、必要なところに具体的な話が広がっていくことになる。上に述べた深夜労働のシャワー室の例と同じである。
最後に、前回の内容と合わせて、この問題のマクロとミクロの要因が、両方法曹分野にかかわっていることの意味をどう考えるか、ということである。これについては稿を分けて次回で総括したい。