「ブラック企業」問題は法曹問題である

ブラック企業の労働環境をめぐる問題について、マクロの環境形成とミクロの契約関係という二面から考察してきたが、目を惹かれるのは、その両方が法曹分野にかかわっていることである。このことの意味をどう考えたらよいだろうか。

 「ブラック企業」は検察が作った
 「ブラック企業」は弁護士会が育てた

双方には直接的な関連性はなく、たまたま一致しているだけだが、それぞれの根を掘り進んで深層に伝っていくと、同じひとつの根塊にたどり着くことになる。それは、この国において法律・契約にかかわる基盤がきわめて貧弱で未熟という事実である。

今回述べてきた労働問題では、まず全体の環境において、当局側の立場で活動している法律家である検察官が、民間の自由な動きにまかせずに法権力を濫用し、どういう労働形態がいいかを自分の狭い料簡で勝手に決めつけて恣意的に介入した。法律家の職業倫理としてみれば、自棄(やけ)になった通り魔が路上で刃物を振り回しているに等しい、考えられないほど低レベルで、幼稚な行動である(しかも選択的に残したのは、労働法規を守りにくい、守る気もはじめから薄いタイプの「体育会系」企業だった)。

他方、個々の契約関係においても、これもまた民間レベルの自由な契約にまかせず、実態に合わない理想を勝手に押しつけて、膨大な労働トラブルを発生させながら、本来その救済にあたるべき職業ギルドの要請にだけ気をつかい、必要な供給を手当てせずに巨大な空隙の中に人々を放置した。このどちらについても、彼らの職業が有する本来の意義の重さにふさわしく、被害は実に甚大、悲惨だった。

公と民の分担という観点から全体を俯瞰すれば、全般に公の比重が重すぎるうえに、引き受けただけの役割も果たせていない。法律とは一律に決めた「公定の契約」であり、契約とは私人間で互いに守ると決めた「私設の法律」である。硬直的で固定的であることを旨とする公の役割を、本来あるところまでもっと引き下げて、民の領域とその自由度を拡大することが、どちらの場合でも問題の根本的な解決につながる。

そして、最初に述べたように、そのように拡大され、高度化した民の役割と私的契約の中で、民の領域の中で自律して活動し、一般の人々に助力する「法律=契約」の専門家の存在は、決定的に重要である。だからこそ、その職業規制撤廃と自由な供給、自由な競争は問題全体の鍵なのである。

今回は労働分野について述べてきたが、法律・契約の資源が全体的に貧相すぎ、エージェントの支援を受けられずに人々が裸で孤立しているために、本来受けなくていい被害が多発している領域は、これに限らず、出版(作家や漫画家と出版社間の契約)や、医療、教育、(下請け他の)企業間の契約、国家間の外交交渉など、枚挙に暇がない。

WTOパネルや、米国USTR(通商代表部)との議論や交渉は、基本的に法律議論であった。焼酎とウイスキーが直接競合、代替可能産品かどうか、国内生産保護の具体的内容は何か、経済統計(家計調査)やアンケートなどを駆使しつつ、税率格差を是正する具体的な時期、それまでの間の関税代償措置などについて、法律的にひとつひとつ論点をつめ結論を導いていくのである。(略)欧米の私のカウンターパートは、すべて専門の法律知識を身につけた法律家(弁護士)であった。米国USTRに勤務する人たちも、ほぼ全員がローヤーの資格を持っていた。これまでの判例を読み込んでいるだけでなく、必要に応じてパネリスト(裁判官)の感情に訴えかけるような法廷テクニックを身につけ、実に雄弁な人たちであった。これに対し、当方は税制の専門家ではあるが、他分野にわたる専門的な法律知識を身につけた法律家ではない。過去の判例を一応は調べているものの、一夜漬けと専門家では比べ物にならない。

とにかくまだ世の中の仕組みもよくわからないうちから、寝るヒマもなく原稿を描かされ、編集との契約条項に疑問を感じても「○○先生も××先生も、全部これでやっているんだから」といわれては、なかなか改変の動議など提出できるものではない。

そうでなくとも、マンガ家は本当は作品のことだけを考えていたい生き物なのだ。わずらわしい金銭面や権利関係の交渉は、エージェント的な立場の人にまかせたい。しかし新人ではまず、その予算がままならない。というか作家が「この件は弁護士にまかせたいのですが」というと、十中八九、編集部は困った顔をする。ひどいときには激怒する。もっと下手をすると干される。

さらにまた、上は事前に契約書を検討する前提で話しているが、出版社によっては、単行本が店頭に並んだころに「これにハンコを押して」と契約書を送ってくるケースがいまだに横行しているのだ。

G-7の中でも、日本は在日外国弁護士の法律事務を特に厳しく制限している点、及び法律専門職種間の提携の自由を禁じている点で特異です。こうした規制により、東京における外国弁護士の数は、ニューヨーク、ロンドン、フランクフルトといった国際金融センターに比べて極端に少なく、この点で、東京は、香港、シンガポールやバンコクといったより小規模な地域金融センターと比較しても極めて不利な状況にあります。こうした極端な外国弁護士の不足は、国際法律問題に精通した日本弁護士の深刻な不足の一因となっています。
弁護士法には、制限なき提携の自由を制限する文言が若干ありますが、弁護士と外弁が自由に提携するにあたって、最大の障壁となっているのは、日弁連による当該文言の限定的で時代錯誤かつ不当な解釈です。(略)

日弁連と法務省は、弁護士と外弁間の制限なき提携の自由が実現不可能である理由として、右提携の自由を認めた場合には、弁護士は外弁が倫理を遵守しているのかを確認するのに膨大な時間を費やさなければならなくなる、と繰り返し力説しています。この主張は(i)他国の弁護士倫理に比べ、日弁連弁護士倫理はより内容が厳格である、(ii)外弁に比べ、日本弁護士は倫理意識が高い、並びに (iii)日本弁護士は雇用している外弁の倫理面を監督していない、の三つの誤った仮定を前提としています。
一部に、日弁連が制限なき提携の自由に対し、断固として反対する理由は、結局のところ、外弁の倫理意識に重大な懸念を感じているからでもなければ、社会正義の実現という法的義務を弁護士が全うするにあたって深刻な問題を投じるからでもなく、根底にある理由は不安感であると結論付ける声も聞かれます。それは、制限なき提携の自由を認めることによって、快適かつ収益性の高い独占市場の「秩序」崩壊に至るという危惧感、日本の法曹界は卓越した法律専門知識、ノウハウ、そして経済的資力を有する国際的な外国法律事務所に乗っ取られるのではないかという危惧感、そして、弁護士にとってもっとも痛いところ、つまり「財布」が脅かされるのではないかという危惧感である、との声も聞かれます。経済的私利を前提とする主張に基づく、制限なき提携の自由に対する反対意見は、司法の規制緩和と自由競争化に対する圧倒的なニーズの高さや、その利点の優位に立つべきではありません。
日本法のもとでは、弁護士は日本国内においてあらゆる外国の法律、すなわち「第三国法」の取り扱いを認められていますが、外弁は原資格法以外の第三国法を日本国内で取り扱うことは禁じられています。弁護士が日本国内で第三国法を合法的に取り扱うにあたり、何らの試験や資格も課されておらず、弁護士は第三国法を取り扱うことができる旨を申立てするだけでいいことになっています。


日本は世界第二位の経済大国であり、国境をまたがる活動においては著しい増加が見られている。そして、G7の中で法律サービスの近代化に失敗している事実上唯一の国である。

米国、英国、ドイツのような国において、ローカルのローファームと外国のローファームとの自由な提携の壁が取り払われたことにより、ローカルのローファームが、質の低下や大規模なビジネス上の損失といった不利益を被ったことはない。反対に、双方のローファームにとって新たなる成長のチャンスを与えられるとともに、市場を国際的企業にとって魅力のあるものにしたのである。

法律事務所と外国ローファームとの自由な提携は、外国ローファームの一方的な陰謀なのではなく、法律事務所と外国ローファームの双方が、日本と外国のクライアントの利益のためにプロフェッションを近代化するチャンスなのである。


次の例では、企業間の契約に関する意識と能力の低さが、最近それ自体が濫用されている独禁法の「優越的地位の濫用」という、他国にはみられない日本独自の拡張と、行政権限・組織の肥大につながっていることが、如実に告白されている。この大企業-下請け企業の契約関係をめぐる構図は、企業-個人間の雇用契約のそれと、まったく同じである。

私も欧米当局の考え方は理解できます。確かに、中小企業といえども事業者なわけで、子供ではありません。事業者であれば、当然、自分がこの条件を飲むべきか、飲まざるべきか、本当はもっと自立自助で判断すべきです。不当な要求を突きつけられたのなら、声を上げて訴えるべきです。

しかし、多くの中小企業は、「いやいや、とても自分の名前は名乗れない」と訴えることを尻込みします。「名乗ったら、取引を止められてしまう」と。だから、政治家や商工会議所などに泣きついてくるわけです。結局、日本の場合では「公取委が何とかして取り締まってください」となる。

本当は、そうした段階から卒業して、成熟して、しっかりとした契約社会が実現しないと長期的には困ります。しかし、現状は残念ながらそうはいってないので、公取委としてはその問題に取り組まざるを得ない。(略)

米国でも日本的な泣き寝入りはあると思いますが、日本ほど社会的な問題にはならない。なぜなら、不当なことをされた被害者は多くの場合、裁判所に訴えるからです。日本のように「長年の商慣習でございます」なんて言って、泣き寝入りすることは少ない。


同じくビジネスの面では、よく幼稚なナショナリズムが、日本企業が外国企業を買収すると大はしゃぎし、外国企業が日本企業に資本参加しようとした途端、乗っ取りだハゲタカだと不安がって騒ぎだす、という間の抜けた風潮があるが、これも根は同じである。どちらの場合であっても、自分たちの利益を最大化するためには、腰の据わった、また、高度な契約の運用力が必要で、ただ見かけ上買収したから善、されたから悪というものではない。法務の資源と実力が他の先進諸国に比べて貧弱すぎるため、買収したつもりで実際には実を全部取られてぬか喜びしているだけであったり、外国からの資本や技術・販路を自分の勢いにつなげて飛距離を上積みすることができない、という例は多い。資本を肌の色や言語で差別し、たかだか庇を貸したくらいで母屋を盗られる心配をしている程度の弱々しい足腰では、買収した海外企業を自分がグリップすることだって、とうてい覚束ないだろう。

素朴なナショナリズムという点から言うなら、この法曹分野における規模と質の拡大強化は、上にもあるように、その国の基礎的な交渉体力という意味で、民間分野における一種の「軍拡競争」に比せられる。日本の法曹ギルドが、国内市場だけに閉じた自分たちのごく狭い利益と料簡と引き換えに、この領域の産業としての発展に拘束着を着せ続けて圧殺し、いつまでも幼稚なままにとどまらせることは、国民全体の利益を著しく損ねて他国のそれに売り渡し、無防備なままに蹂躙させるに任せることである(法曹改革は、もともとそういう視点も強く意識して発足したものであったはずだ)。ナショナリストたちは、無人島の微々たる領土のやり取りには大騒ぎする一方で、なぜもっとはるかに重大な、「国益」にかかわるこの問題に着目せず、国内の利権集団が好きにするのにまかせて看過するのか。

我が国の国際競争力の向上と法の支配の実現のためには,司法試験合格者数が,現在の実情の年2000人程度というのでは少なすぎる。米国では年5万人,中国では年8万人程度が司法試験に合格し,合格者数も全体的に見れば殆どの国で増加傾向にある中で,人口比や社会構造の相違を考慮に入れたとしても,我が国の司法試験合格者数が年3000人で多すぎるということはない。国内事情だけで法曹人口増のペースダウンを進めるべきではない。

また,数値目標の撤廃は,法曹人口に関する誤ったメッセージを与えてしまう可能性が高い点も危惧する。当職は,3つの法科大学院で教えているが,マスコミの報道などからか,学生は想像以上にシビアに現状を見ており,法曹志願者減の現状に鑑みて法曹人口も更に削られてしまうという危惧を抱いている。今回数値目標を撤廃すれば,法曹人口は減らされる,減らされるべきだという間違ったメッセージを国が与えてしまうことになり,更に法曹志願者を減少させ,有為な人材が法曹を目指さなくなるという事態が発生する可能性があり,反対である。

現在の実情である年2000人でも,弁護士事務所への就職がない,仕事がないという情報がマスコミ等を中心に伝播している。しかし,他の業種業態と比較して,法曹資格を有しても生活に困る者の割合が飛び抜けて高いとは思われない。むしろ,大多数の弁護士は,特に若い弁護士は,競争社会となることを受け入れ,自らを研鑽しようとしているし,食うに困っている弁護士は,いるかもしれないがごく少数派である。やるべきことは,古き良きギルドの復活ではなく,適度に競争のある開放された法曹社会である。数値目標の撤廃による実質的な合格者減(又は合格者減と見られてしまうこと)は,そのような競争する力を法曹から奪うこととなり,司法改革の時計の針が逆に戻ることにもつながりかねない。


それから、この関連でもうひとつ奇妙なのは、この国ではいわゆる「理系人材」の評価が全般に低いことがかねてから指摘され、政府機関や大手企業などの中枢を法学部を中心とした人文系出身者が多く占めているにもかかららず、社会全体としてはこのようないびつな状態になっていることである。これは、「にもかからわず」というよりも「だからこそ」というべきなのかもしれない。というのは、法と契約の人材資源を、国家と一体化したエリート層と官僚機構が狭い範囲で独占し、民間の側は貧弱な欠乏状態におとしめておくことこそが、その支配の構造を固定化、恒久化させているとも考えられるからだ。上に軍備競争の例えをあてたが、法と契約の実効力を最後に担保するのは、強制力(暴力)であり、法と契約は、いわば紙と条文の袈裟を着せた鎧ともいえるから、暴力そのものと同様、この面においても、「刀狩り」を行って強い非対称性を作り出し、その状態を維持しておくことが、最も効果的な支配につながる。この結果、理系人材に代表されるような、契約に疎い技術者気質・職人気質の人々(漫画家などもその中に含まれる)は、国家権力と強固に癒着したこれらの法律家たちの都合で、故意に剥き出しの裸の状態にとめおかれ、いいように手玉に取られ続けることになる。前の稿で、味方のような顔をして寄り添っている者たちは、ほんとうにわれわれの味方なのか、と問うたのは、このようなことを指して言っているのである。

大元の労働問題の話に戻ると、注目されるのは、ライブドア事件で検察が明らかにかなりの無理をして横車を通したとき、この恣意的な法の濫用に対し、前回引いた郷原信郎氏のような少数の例外を除き、法曹界からは、快哉を叫ぶ声こそあれ、ほとんど抗議の声が上がらなかったことである。自分たちの職業的信用と品位を全体として著しく貶める、これらの破廉恥行為を、なぜ彼らは黙認したのか。

その理由は、前回の郷原氏のコメント自体によく現れている。つまりこれらの人たちは、自分自身の職業能力上の生産性がひどく低く、かつ、それによって利得を得ている存在であるため、「額に汗」して働く日本的伝統が、堀江貴文氏のような異端児の出現によって一気に吹っ飛んでしまうと困る側の人たち、今まで先んじてさんざんそれに抵抗してきた人たちだったのだ。なにしろ、クレジットカードの使用さえ「非弁提携」として躊躇するような業界なのである。だから彼らは、郷原氏のように、こんな仕事の仕方をいつまでも喜んでしていてはだめなのだと、高い視点から未来に思いを向けることができなかったし、官憲の横暴、検察の非道にも異を唱えなかった。つまり、権力側の検察庁だけでなく、民間側の弁護士業界についても、日本の経済社会が「ブラック労働化」する引き金を引いた、隠れた、しかし直接的な加担者だったということになる。それがこの話の、同業界以外のすべての日本国民にとって救いのない、寒々しいオチである。





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2013/09/13 | TrackBack(0) | 政治経済 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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