すでにバブルの状態だというひともいれば、いやそうではない、沈んでいたのがわずかにどうにか戻っただけで、今から気に病むのは杞憂に過ぎると笑い飛ばすひともいる。
バブルなのかそうではないのか。判断の参考になる材料のひとつは、前回の「バブル」を振り返ってみることである。記憶のある人はもう一度思い返してみるとよいだろう。あの頃、どんな世相、どんな風向きだったか。
「好景気」なのはもちろん良かったが、一方で走っている足の裏がツルツルすべってうまく地面が踏みしめられないような、上滑り感、空虚感があり、誰もがそれを強く感じていた。だから「バブル」。それが「バブル」である。
株も土地も、文字通りに「上値が上値を呼ぶ」展開で、勝手に吊りあがって上がっていった。どこまで上がるんだろう、でも、上がるから上がるんなら、どこまでも際限なく上がるのかしら。そんな感覚でみなが口を開けて証券会社のボードでグラフの先端を見上げていた。
その上滑りの感覚の裏側で、経済のそうした現状に疑問や憤りをもつ人々も、こちらも同じようにウナギ登りに増えていった。こんな浪費的、享楽的な消耗状態がいつまでも続くはずがない、それらはわれわれがもっと尊ぶべき精神的な価値を蔑ろにし、破壊している。そう警鐘を鳴らす言説も、一方で世の中に渦巻いていたのである。バブルが崩壊したのは、日銀や当時の大蔵省の対応の失敗が原因のひとつにあげられているが、それは後付けの合理化で、当時はそれをメディアや世論が熱烈に支持し、まるで日露戦争に政府を駆り立てる民衆のように強力に後押ししていた。そのことは、熱狂の裏側でそれらの反感がそれだけ強まっていた証である。
4月15日に死去した三重野康氏は、1989年12月に日本銀行総裁に就任する。当時はバブルのピーク。12月28日に日経平均株価は3万8915円の史上最高値をつけた。大都市圏では不動産価格が急上昇、1億円を超える住宅が続出し、一般のサラリーマンにはマイホームは高根の花になっていた。資産を持つ者と持たざる者の格差が拡大、持たざる者からの悲鳴、怨嗟の声が上がっていた。
本棚から見つけたのはこの本。
月刊ウィークス臨時増刊「NHKスペシャル 緊急・土地改革 地価は下げられる」1990年12月、日本放送出版協会刊
今見るとタイトルが??な感じかもしれないが、これが当時の空気をよくあらわしている。つまり、「何をやっても地価はもう下がらない」というあきらめに似たムードだ。(略)
この本の目次は、五夜連続の番組に対応してる。こんな感じ。
プロローグ 日本を脅かす〝異常な地価〟
〈第一部〉解決の条件1 土地本位制を崩せ(略)
四年で地価を半分に下げても、日本経済にはほとんど影響なし!(略)
討論 今こそ私権を捨て、公共優先の概念を草の根に(略)
その当時の目眩の感覚があまりに強烈だったので、その頃若い時代を送った人たちの中には、今でもその耳鳴りをずっと引きずっている人もいる。たとえば次のような述懐にはそれが強く出ているといえるだろう。
豊田利晃監督「モンスターズクラブ」は、アメリカの爆弾魔「ユナボマー」から着想を得た。実際の犯行声明を引用するなど、刺激的な要素が満載。監督は「この作品は僕のステートメント(声明)のようなもの」だと語った。(略)
良一や兄は、日本の社会システムに対する批判を何度も口にする。それらは「ユナボマー」から借りたと同時に、学生時代にバブル経済を目の当たりにした監督の思いそのものだ。「なんてバカな社会だと思ってました。そして社会は基本的に変わっていないし、僕も変わらない。僕も40代だし、そろそろ明確に表現してしまおうと」
それらの人々の中からは、もっと進んでこうした状況を強く拒絶し、自分たちの周りに壁を築いて外の世界から隔絶しようとする人々も現れた。彼らの中の最も先鋭な分子は、単に遮断するだけでなく、二度とそれが進入してこないように、自分から外に打って出て、積極的にその土台を挫き、討ち滅ぼそうということまで企てた。
それが地下鉄サリン事件である。あの事件は、当時の経済状況と深く結びついていて、切り離すのは難しい。彼らはこうした浅薄な状況を強く憎み、本気でそれを転覆しようとした。あとになって摘発されたのをみたら、教祖を除けば、なんでこんな人たちが、とみなが絶句するような、とびきり優秀で、まじめで、純粋な人たちだった。
新世紀エヴァンゲリオンも、文化面でそうした世相と強く「シンクロナイズ」した作品である。
画面の中で人造人間エヴァンゲリオンがどれだけ暴れても、第三新東京市のコンビニや自動販売機には、次の日にはなにも変わらず、ふつうに、また、ふんだんに商品があった。まるでどこからか水でも湧いてくるかのように。送電線さえ引っ張ってくれば、エヴァンゲリオンは陽電子砲を打つための電気をいくらでも使うことができた。そして誰もそれを当たり前に受け止めて、気にとめることはない。作品中の人々の関心はあげて別のところに引きつけられていて、そうした実体世界を心の底でどこか深く憎み、それを全部ひっくり返して、まったく別の世界、別の「ステージ」に移りたい。ありたけの物資、日本中の電気を全部そのために掻き集め、注ぎ込んで――作品世界を強烈に引っ張り、突き動かしていたのは、そうした衝動である。
ではなぜ、こうした裏と表が剥がれたような乖離感、一種の幽体離脱的な、強い離人感覚が生まれたのか。
今から振り返ると、その理由は、この「好景気」が、それ自体が捏造された、根も葉もないものだったことにその大きな原因が求められる。
経済活動に参加しているわれわれの中で誰かが、新しい商品やサービスを生み出す。あるいは生産方法の改良を思いついて効率を飛躍的に改善する。その結果、作ったものがよく売れて、担った人たちが大きな対価を得る。自分もそれを使ってみたい、頑張って仕事しようとみなが思い始めて物と金が活発に動くようになり、経済活動全体がさかんになる。それが「本来の」好況である。当たり前である。
それは、通常は起こってももっとマイルドな、ゆっくりとした形をとり、ある日突然急激に血圧が沸騰するようなことにはならない。なぜなら、根拠が実際の生産活動に紐づいているため、「思惑が思惑を呼ぶ」ような形にはなりにくいからである。それはこれまでの土台に新しいものが苦労してよじ登る形で、手順を踏んで一歩一歩上っていく。赤ん坊が次の日目覚めたら突然大人になっていた、というようなことが起こらないのと同じである。
また、それはことの性質からいって、取らぬ狸の皮算用をすることもできなければ、狙って引き起こすこともできない。それは各企業が来期の好業績を確約されているわけではないのと相似であり、その不確実性が集計された全体である。経済の参加者にせいぜいできることは、そういうふうになるように(つまり、自分たちが経済的に成功できるように)「今」をひとりひとりが、目一杯努力することだけである。またそれは産業の発展した段階では、当然それだけ作り出すのが難しくなる。
これに対して、捏造された景気とは、このような本来の活性化を待ちきれずに、政府機関がなんらかの経済操作を行って、人工的にてこ入れした景気である。
そこではまず、株や不動産が「思惑」で暴騰することからはじまる。
そして、たまたまその機会をとらえることができた、運のよい人がある日突然億万長者になる。
彼らの多くは、ただ「情報の近いところにいた」人である。相場を動かしたのは政府であるから、彼らの多くは政府関係者、政府のインサイダーであるし、そうでなくとも、少なくとも各企業よりは政府の動向により多くの注意を払った人々である。
彼らがある日突然裕福になったのは、なにか新しい物やサービスを作ったからではない。投資家としてそれらに資本(資金や貯蓄)を提供して協力したからでもない。
なにかを自分で生み出して提供することに貢献したわけではないのだから、本質的には、彼らは全体の富(実質経済価値)が変わらないゼロサム・ゲームの中で、それを他の誰かから、ただ奪ったのである。
どうやって奪ったのか。それはもっぱら、貨幣の水増しによって希釈化されて炙り出された富(名目経済価値)を、自分の方でより多く取る、ということによって行われる。これはすなわち、彼らに奪われたのと同じだけ、それを奪われた人がいるということである。それは株や土地や外国通貨などの投資資産を持たない自国の勤労者や貧困層であったり、あるいは、通貨安競争によって産業発展の機会をそれだけ奪われる新興国の国民かもしれない。取ったものがその資格なく盗ったのであるから、奪われた側も、当然、道理なく奪われたことになる。食料品やエネルギーが高騰し、少ない収入の中から余計な代金を払わなければいけなくなったり、同じ料金で買えるものがずっと貧相になったりしたとき、貧困層が払った犠牲は、全体を集計すれば恐ろしいほどの膨大なものになるが、それがそっくりそのまま、投機家たちや事実上の政府補助金を受けた輸出企業や証券会社の経営幹部に移転したのである。
それは必然的に、不条理と怒りの感覚を生み出す。しかもこの怒りの火は、おおもとのところにおいて正当な根拠をもつものである。それだけに根深く、強く、一度点火したら、たとえ政府機関やメディアが宣伝によって表層的に糊塗することができたところで、消すことはできない。
その本質は「疑心暗鬼」や「不安」であり、一種のパニック(心理的恐慌)である。だからそれは地滑りや雪崩のように上滑りに急激に増殖し、簡単に行くところまで行ってしまう。それを制御することは難しい。というより、できない。人々の「期待」を制御するとは、パニックを人工的に引き起し、それを制御するといっているようなものである。
政府機関は、自分で実質的な富を生み出すことはできないのであるから(それができるなら、彼らは徴税という強制取り立てではなく自由な売買契約によって成り立つ「企業」であればすむ)、そのような波間に漂う儚い波の花みたいなものを掬って利用するしかないのである。彼らはその種火をとらえてふいごで風を送り込み、振幅を極大化して大きな山火事にまで育てようと目論む。ある程度のところまで大きくなれば、頼まれもしないのに先導役を買って出て、政府と役人を称えはじめるお調子者も湧いて出てくるだろう。このとき、この種の提灯持ちたちが、一つ覚えのように決まって口にするうたい文句がある。それは「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損々」という阿波踊りのフレーズである。参加しない者を勝手に同じレベルに引き下げることで自らの錯乱を正当化しようというこのアジテーションは、この種の赤黒い怒張が盛り上がりはじめたことの、格好の目印になる。
こうして人工的に発生させた好景気は、でき損ないのホムンクルスのように、悪循環的に形を崩し、どんどん腐敗した悪臭を発していく。好況になればなるほど世相が糜爛し、腐っていく。
人工的な好況を作り出した国家は、これらの怒りが自分自身に向くことは防がなければならない。自分でそれを作り出しておいて矛先が向くのは御免被るというのは虫の良すぎる話だが、ふだんから催眠と免疫機能を攪乱させる施術を念入りに施し、精神を汚染してある民衆に対しては、このことは割に簡単に成功する。
国家による催眠がそれをごまかすために行うのは、金持ちになることや経済活動それ自体が悪なのだ、という考えを意図的、また大量に流布し、人々に植え付けることである。資産家や「投機マネー」が十把一絡げに、生贄のおとりとして悪者に仕立て上げられる。政府の「計画」が明らかにそれを生み出したのに、そのもとになった政府の「政策」を人は誉めさえしたのに、なぜか「資本主義」が悪いのだ、「市場の失敗」が起きたのだ、とされる。彼らのような者を利用する他なく、また、そうまでなる必要もなかった醜い怪物にまで育て上げたのは、他ならぬ政府自身であるのに、原因と結果がいつのまにかすり替えられて逆転し、彼らのような低劣な連中がのさばったから、世の中がこうなったのだ、とされる。
金持ち階級に反感をもっていて、ふだんから餌をやって飼っている左翼ジャーナリストや左翼経済学者たちは、、この国家の「梯子外し」の催眠活動の格好の走狗になり、存分に使役される。上の特集番組が端的にそうなっているように、そこには国家の経済政策が、それを人為的に引き起こしたことへの目配りはまったくない。
ところが、思いがけず翌86年、(プラザ合意による円高不況から)日本経済はあっさり回復するんだ。ただし、これはあとから振り返って分かったことで、当時は円高不況のイメージがとても強かった。だから、日銀は金利を下げたままにしておいたんだね。一方、大企業は株や社債の発行で直接資金調達するようになっていた。だぶついたお金の融資先に困った金融機関は、これを不動産会社や住宅金融会社に回していった。これがバブルの引き金になったと思う。
こうしてわれわれれの中に、豊かさと引き換えに本来の標的を見失って矛先を逸らされた行き場のない虚しさと、そして怒りが忍び込んでくる。その小さな悪魔は、われわれの耳元に口を寄せてこうささやく。
― これらは虚なるものだ、すべて虚像だ。壊してしまえ、殺してしまえ。
― そうすればその聖なる生贄の下から、実なるものが現れるに違いない。
これがカルト、すなわち憎む宗教である。それは一般の新興宗教と違って、昂揚の最高潮の渦巻きの中に生まれた、極端に禁欲的な宗教である。
奇妙なのは、彼らの攻撃の錐(きり)が、最終的に国家に向けられたことである。彼らは虚栄の富貴を憎んだはずなのに、攻撃したのは国家だった。政府であり政治であり官僚だった。彼らはまるで大規模な攻城戦のように「霞が関」を取り囲み、攻撃した。選挙にも出た。まるでこれらの腐敗を引き起こしたほんとうの黒幕は誰なのか、はっきり知っていたかのようである。
このようなことは催眠にかけられた被験者でもよく起こることである。被暗示者は自分の行為の意味を意識的には理解していないのに、実際の行動の中で、それをほんとうは知っていることを示したのである。
以上のざっとした振り返りから、バブル、泡沫景気に関する、もっと確たる定義が与えられる。
なにもないところに、人工的に作り出され、必然的に虚しさと不公平感を呼び起こす好景気。それがバブルである。
精力増強剤で手っとり早く、無理やり励起した、実のない興奮としての好景気。
バブルはだから、「量」ではない。「質」である。株価を何%取り戻したら、不動産が何割上がったら、それがバブルだというのではない。0.1%だろうが、バブルはすでにバブルである。
そこから今の現状に戻って、同じ物指しをあてれば、それがすでにバブルであるのかそうでないのかが、もっと確実に判断できる。
誰がそれを「キック」したのか。また、サヤ取りに乗り遅れまいとする狂奔の裏側で、理不尽さと怒りが、われわれの心の隙間に、すでに忍び込んでいないか。
「まずは株(と土地)から」「期待を動かす」「期待に働きかける」、こうした言葉が頻繁にきかれるかどうか。それを先導しているのが、ほんものの豊かさを作り出した在野の経済参加者なのかどうか。これらの点に注意すれば、もっとずっとよく、それを判断できるだろう。