夢の政治学

以前の話になるが、中国の民主活動家がノーベル平和賞を受賞したことをめぐって、中国国内の報道が厳しく封じこめられる中、ある地方紙が当局の規制にかからないようなひどく遠回しな表現を使って受賞を祝う記事を載せたらしい、という指摘が注目を集めたことがあった。


12日付の中国広東省の有力紙、南方都市報が一面トップで、「空席の椅子と鶴」の写真を掲載したことが、中国国内のインターネットで話題になっている。空席の椅子は、10日にノルウェーの首都オスロで行われたノーベル平和賞の授賞式で、出席できなかった民主化活動家、劉暁波氏のために壇上に用意された椅子を連想させ、「鶴」は中国語で祝賀するの「賀」と同じ発音。このため、「劉氏の受賞を祝福しているのではないか」と推測されるからだ。/この写真は、広州市で開会式が行われたアジア・パラリンピック競技大会のリハーサル風景を撮影したもので、開会式の演出に登場する鶴5羽と、規制線を張るため置かれた空席の椅子3脚が写っている。しかし、写真としての美しさも迫力もあまりなく、パラリンピックを象徴する場面でもなく、一面写真として掲載する不自然さがあり、掲載直後からネットで「事前審査をする共産党宣伝部をうまくだました秀逸な写真」「南方都市報、よくやった!」などの書き込みが殺到し話題となった。

12日付の広東省の日刊紙「南方都市報」の1面には、本文とは関係がないだれも座っていない三つのいすの写真が掲載された。紙面には「ツル」「平らな台」「手のひら」の画像も載っており、これらの単語を組み合わせると、平和賞を意味する中国語とほぼ同じ発音になる。


もとの事柄は深刻で、それどころの話ではないけれども、新聞社のこの立ち回りは自分もたいへん興味深いことだと思った。以前に取り上げたフロイトの学説に知識のある人であれば、これは夢の表現そのものだ、ということに気づいたはずだ。

その主張によれば、それまでの精神医学で荒唐無稽なただの脳の生理機能の混乱と考えられていた入眠中の夢も、それなりに秩序だった心的な働きのひとつとして立派な意味を持っており、本人にとって許されない、認めることができない願望が充足されない状態にある時に、夢はそれを遠回りに迂回した象徴的な技法を使って表現し、心の表面に無理やり現れ出ようとする、とされる。そして提唱者がそれを説明するために持ち出したのが、他ならぬ新聞の政治検閲だった。

ところで、みなさんはこの事象に類似したことをどこに見つけたらいいとお思いですか。いまの時代では、これを遠くまで求めて行く必要はありません。それは、どれでもいいから政治新聞を一部手にとってみられることです。本文のところどころが抜け落ちていて、白紙のままになっているのが見られるでしょう。ご存知のとおり、それは新聞検閲のしわざなのです。この空白になった個所には、検閲官の気に入らないことが書いてあって、そのためにそこが削除されたのです。

なかには、刷りあがった文章に検閲の力が及んでいない記事もあります。それは、記者があらかじめ検閲に引っかかる個所を予想して予防線をはり、その部分をおだやかに書いたり、あるいは変更を加えて、書きたいと思っていたことを遠回しにほのめかすだけで我慢している場合です。紙面には空白こそできませんが、表現が妙にもってまわったものになっていたり、曖昧だったりして、そのために、検閲をあらかじめ念頭において書かれたということが読者にも察知できるのです。/さて、この対比をよく頭に入れておきましょう。夢の会話の中で抜けている部分、すなわち、つぶやき声で隠されてしまった部分もまた、夢の検閲の犠牲になったのだとわれわれは言いたいのです。


夢はなぜ検閲するのか。もしひとが願望するものを願望するがまま、獣(けもの)のように素のままに願い望むだけで生きていくことができ、それで済むのなら、自己の内面においてもいっさいの検閲は不要だろう。夢が検閲するのは、この考え方からすれば、たとえそれが眠りの中の夢であっても、個人が外界の他者への意識、配慮をまだ手放さずに保っているからである。すなわち夢の検閲は、外なる検閲(規範意識)がそのまま個人の心理メカニズムの中に移植されて植えつけられたものであり、それが内部化されたものである。社会の検閲と個人の内面的検閲は相携えて並走する営みであり、互いが互いを支え、照応し合う循環的な根拠となっている。政治検閲はその頂点にたつ現象で、上記の写真記事は、もっとも強烈な検閲に対抗するべく、もっとも表現が強く歪められた結果、まさしく夢の表現さながらにシンボルとイコンが自在に駆使されたアルカイック(太古的)なものとなり、まるで眠りに夢見る人の頭の中に潜り込んで、それを写真に撮ってきたかのような姿になっている。一見わけがわからないくらいに強く歪められていながら、強烈な関心のX線照射のもとに意味が正しく汲み取られ、コミュニケーションが貫通、成立して、心理的な機能が立派に果たされているところは、夢の機能に照らしても興味深い。フロイトは、上のように彼が生きた時代ではそのような例は身近でいくらでも手に入ると述べたが、21世紀の現在になってもまだこんなものを実際に目にすることになろうとは、思いもよらないことだった。しかもこうしたものを目にする機会は、人も知るように、また、嘆かわしいことに、むしろますます増えてきている。

韓国で脱北者が運営するラジオ「自由北韓放送」(電子版)は6日までに、北朝鮮の祖国平和統一委員会のウェブサイト「わが民族同士」の読者投稿欄に、行の最初の文字をつなぐと金正日労働党総書記と三男正恩氏への罵倒となる詩が掲載されたと報じた。(略)「最初の文字の真理」と題された詩は、金父子を称賛する内容を12行にまとめていた。しかし、行の最初の文字をつなげて読めば、金父子をののしる意味になるという。(略)この欄には海外からも投稿できるが、同放送によると、体制を称賛する内容かどうか厳しい検閲を受けた上で掲載される。この詩は巧妙な構成だったため、検閲をすり抜けたもようだとしている。

北朝鮮の対韓国宣伝機構である祖国平和統一委員会(祖平統)が運営するインターネットサイト「わが民族同士」の掲示板に、各行の最初の文字を組み合わせる巧妙な方法で金正日(キム・ジョンイル)、金正恩(キム・ジョンウン)親子を誹謗する内容の詩が掲載され、北朝鮮当局は非常事態になったという。(略)自由北韓放送は、「詩を読んだ人々の話を総合すると、大変精巧にうまく書いた詩で、(誹謗かどうか)まったく気づかなかった」と伝えた。同放送は、この詩が削除されて2日後、北京駐在の北朝鮮大使館関係者を含め約20人で構成された北朝鮮労働党検閲団が、中国の瀋陽に急きょ派遣され、同サイトを運営する「朝鮮6・15瀋陽奉仕所」への調査を開始したが、関係者らは近く北朝鮮に召喚され処罰を受けることになりそうだ、と伝えた。検閲団は、今回の事件を機に、中国東北地区に派遣された外貨稼ぎ機関などに対して、2ヵ月間の特別思想点検を行う予定だという。

問題の発言をしてしまったのは、シベリア連邦管区クラスノヤルスクのテレビ局のニュースキャスター、マリア・ブクツエワさん。大統領候補で大富豪のミハイル・プロホロフ氏が、帝政ロシアの革命家、ウラジーミル・レーニンの遺体を霊廟から移動して埋葬する案について国民投票を提案しているとのニュースを伝える際に起きた。レーニンの遺体は現在、モスクワ市内の赤の広場にある霊廟に安置されている。しかし先週の放送でブクツエワさんの口から出た言葉は、「私たちはウラジーミル・プーチンを埋葬するべきでしょうか?インターネット上では、この件について活発な議論が繰り広げられています」だった。ロシア国内のネットユーザーはこの間違い提案を大歓迎。ブクツエワさんが使用しているロシアのソーシャルネットワーキングサービスのアカウントには数千人からのメッセージと共に仮想の花束が届いているという。(略)後日のテレビ番組では、同僚に「たったの26秒でネット界の有名人になるなんて」とからかわれたブクツエワさん。「ただの言い間違い」と答えているが、動画投稿サイト「ユーチューブ(YouTube)」に投稿された番組は、3日間で50万回再生されたという。


一方、このような経路を通じての問題理解は、精神医学の名誉において「科学」とはいえないとの批判もありうるし、現になされている。たしかに、人間と人間の間の「関係の力学」にもとづくこのような理解は、狭義の意味での科学とはいえないというのはそのとおりかもしれない。では科学でないならそれはなにか。それはもっとも原初的な意味においての「政治(関係力学)」だろう。それは新聞社が苦心してひねり出した最初の例のような表現が、科学ではなくて政治的な、「関係の中での行動」であるのと同じである。そしてそれは、われわれの内なる宇宙(ミクロコスモス)で起こる葛藤あるいは内部闘争とパラレルな現象でもある。それもまたわれわれの自身の中の、ひとりふた役の「政治」である。

では、それに対する科学、科学的態度とは、どのようなものでありうるか。それらが吹き出物のような厄介で困った問題現象だというのであれば、それは物理化学過程において内科的な薬物投与や外科的施術によって治療され、修繕されることが可能な脳の機能低下と混乱、あるいはもっとさかのぼって遺伝子上の器質異常なのだという文脈こそが「正しい」科学なのだろう。そのような仮説設定において、たしかにそれは物理化学的、生理的な意味で「evidence based」となり、検証と反証、統計的頻度その他の方法論において、批判に耐えるものにもなろう。だが、その時科学は、自分に閉じた小さな反証可能性原則の護持を寿ぐ一方で、より大きな政治にとっての盲目で悪達者な奴婢となる危険もあわせ持つ。上の記事においても、これから学術誌の掲載論文を書かなければいけないので確かにそうであるところの、あるいはそうでないところの「evidence」を示せ、反証可能性を示せこの野郎、と襟首をつかんで詰め寄ったとしたら、野暮の上塗りというものだし、あるいは思想警察の行動そのものになってしまうだろう。まさにそれができないこそ、ぼかした、回避的なふるまいをしているのだから。それは伝わらないようにして伝えようとしている行動だ。確実性がないこと、獲物が視界に現れたらすかさず撃ち殺そうと機銃を身構えながら闇夜を飛び交う検証の掃討ヘリのサーチライトから逃れて、反証と例外の万華鏡の破片の間にあえて身を潜めること、百者百様、いかようにでも受けとれることは、むしろ望まれたことであり、条件であり、あえて意図された企て、そしてその巧緻の表れである。

行動の科学がその「調査=捜査=操作」対象である生きた人間を、現行犯で組み伏せ、押えつけて、確固たる、揺れのない結論にたどりつこうと格闘するとき、科学はその本性において「権力的」である。あるいはもっといえば、「判事的」「司法的」である。その限りにおいて、科学は実際の政治権力ともよく馴染み、睦み合う。科学の運営が政治的権力の主体である国家による運営、国営であればなおさらであり、後ろ手で秘かに指を絡め合うさまは、気色の悪いほどのものにさえなる。人間に用いられる科学が、しばしば(真の科学でなければ訴訟沙汰には耐えられまい、といったような言辞で)裁判、司法との親和性の高さを自ら誇り、それを自分の自慢の長所のひとつに数えあげるとき、あけすけなまでに白状されているのは、まさにこの科学と司法の権力性を梃子とした糾合、密接な癒合である。司法と権力に確固たる証拠を提供できないと謗(そし)られ、辱めを受ける科学は、野にあり、柔らかく身をよじる、権力に迎合しない、それに証拠を提供しない、むしろそれに対抗する方法を教える科学である。権力にそれを提供できることを誇る科学は、権力とともにあり、その禄(ろく)を食み、それとともに育ち、それをつっかい棒として支える科学である。夢が検閲を逃れるために使う曖昧模糊とした、融通無碍なテクニックは、そのどちらに属するか。それをよく見定めることのできる科学はどちらの科学か。

考えてはいけないことを考えたかどで監獄に閉じ込められている活動家が、当局によって「思想改造」のための薬物治療や脳手術を受けさせられないことを、たぶん大方の科学者たちが願ってくれるだろうのと同じように自分も心から願っている。しかし一方でその願いは、自らの背後を振り返った時に、彼らのうちのある者が、社会関係の中の本質的には「政治的=関係的」な悩み、課題を抱えて自らのもとに来院した来院者に対して、器質を調整するための薬剤を配布することだけで終わり、残りの者たちもそれをもってよしとしていないのか、との懸念にも地続きにつながる。両者のどこが違うのか。ひょっとして向こうのそれはいかがわしいが自分たちのそれは正当だ、という程度のお粗末な論理を取り込んで内面化しているのなら、それはなんと浅はかで、また拙い「政治」であることか。

2012年5月のウラジーミル・プーチン氏の大統領就任前日に起きた抗議デモを主導した罪に問われていた被告の裁判で、ロシアの裁判所は8日、有罪を言い渡したが、被告には精神疾患があるとして、医療施設での強制的な治療を決定した。裁判所は、事件当日にミハイル・コセンコ被告が機動隊に対して暴力行為を行ったことについても有罪との判断を下したが、精神疾患を理由に責任能力はないとした。(略)AFPの記者によると、コセンコ被告に対する判決の言い渡し終了後、裁判所の外に集まっていた多くの活動家が「恥を知れ」「自由を」と叫び始めたという。

都内在住で大手印刷会社勤務の斉藤誠一さん(50代、仮名)は4年前、職場の人間関係で悩み、朝起きるのが辛い日々が続いていた。ある日、妻に促されて地元の駅前クリニックを受診したところ、A医師にうつ病だと診断され、薬物療法中心の生活になった。クリニックには月2回通院した。帰宅途中に寄れる便利さもあったが、診察まで4時間待たされることもしばしば。しかも、「さんざん待ったのに診察時間はわずか5分で、聞かれることは『薬が効いたか効かないか』ばかり。『効かない』と答えると、どんどん薬が足された。別の医師の診察となることもあり、薬が変わることもあった。医師によってなぜこんなに言うことが違うのかと、疑問に思った」


最後に付け加えると、この文章そのものも、暗喩された「椅子と鶴」のようなものであるのだが、ここまでそれに気づく人が少なかったとすれば、自分の表現力の巧みさが中国の新聞社のそれに比べて及ばなかったのか、あるいは挑んだ問題そのものがさらに輪をかけて困難で巨大であるのか、あるいは受け取る側がある種の催眠状態の中にさらに深く埋め込まれているためなのか、あるいは、そのどれかひとつではなく全部からなのか、理由はよく分からない。





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2013/12/30 | TrackBack(0) | 政治経済 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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