作品設定の中では、人類がくぐり抜けた厄災で、「大きな国家」は壊滅してしまい、あとには地方ごとにばらばらに解(ほど)けた、「さいたま国」「かながわ国」のような、その小さな骸(むくろ)だけが残った。それらの「国」も、単に遠出の目的地や居住地をおおざっぱに名指すための地理上の区分けであるにすぎず、越境して出入りしたければ誰に断る必までもなく勝手に行き来できるし、実体はほとんどない。主人公のアンドロイド「アルファさん」は、旅先でそのうちのひとつの「首都」に行ってみようと思い立つが、人けのない草原をかきわけて、ようやくたどりついてみると、そこは人影の絶えたただの小学校かなにかの跡地にすぎず、年に一回の「国会」が開かれる時以外は、誰もいないと掃除番のおばちゃんから聞かされて、宿すらとれずに、途方に暮れてしまう。
「国」はなくても、企業や店は生き残って勝手に活動している。アルファさんの友人で、同じアンドロイドの「ココネ」は、宅配会社に勤めていて、その会社が郵便もいっしょに運んでくれる。アルファさん自身も自宅を店舗にして喫茶店を経営しているし、他にもガソリンスタンドや自動車工、病院、旅館、食堂、農業漁業、貿易などをやっている人がいて、それぞれ生活に必要なものやサービスを提供している。ラジオ局も気象会社もあるし、小さなものだが修理したセスナ機を運行する航空会社や路面電車もある。公設の学校こそないが、子どもたちには家で大人が基礎的な勉強を教え、生きていくのに必要なことを学んでいる。それで足りなくなれば、知識欲を満たしたり、職業技術を学ぶために、家を出て自立し、それがあるところに修行に行く。お化けの学校ではないが、試験も宿題もないから、子どもたちはみんな伸び伸びとしている。
「国」がないから、当然、常設の役人もいない。この世界から作者の手によって秘かに、しかし入念に取り除かれ、絶えて見当たらないのは「公務員」や「政治家」のような、自分はなにも生産しないのに他の人たちに「すべき」とか「せよ」と命令してまわるお節介な、重たい人たちである。要するに、ここには全員が民間人で民間人しかいない。「軍人と役人しかおらず、赤ん坊ですら民間人ではない」ナチス社会とは正反対の極の状態で、対比する相手がいない当たり前の存在なら、それはもう民営とか民間人とか呼ぶ意味すらない。ただの「人」「ヒューマン」「人間」でしかない。公務員がいないから、彼らを養うための税金もない。アルファさんの店が、客が少なくてもなんとかやっていける秘訣のひとつは、固定資産税も事業税も消費税も健保税もないからで、今の日本のように、それらの膨大な寄食者や補助金にぶら下がっている人たちを養うために、民間のひとたちが労働の半分以上を労役として「ただ働き」「サービス残業」で供出しなければいけないとしたら、多くの事業者たちの経営がたちまち行き詰まって路頭に迷うだろう。この世界の人々が、心も軽装に、晴れ晴れとスキップしながら生きているようにみえるのは、湿った布団のように上からおっかぶせてくる、それらの重苦しい存在がいっさい取り除かれていることが大きな理由のひとつである。
もっとも、それでいいことばかりとはいかないのもその通りで、この作品に単なる牧歌的なおとぎ話ではない、生々しい、ざらつく舌触りを与え、他の部分との異質さで、しばしば読者をぎょっとさせる要素は、この世界の人々が、現代のアメリカ人のように、銃で武装していることである。アルファさんも、出かけていった家主から授けられた護身用の短銃が「宝物」で、いつもぴかぴかに磨いて、ときどき空き地にいって作動の確認と射撃の練習のために試し打ちしている。おっとりとした性格で、隙だらけのようにみえるココネも、仕事中は銃を携帯していて、不意をつかれたときには、それを一瞬で取り出して身構えることができる。これらのことは、この世界に警察官が見当たらないかわりに、人々が常に緊張感をもって、自分の身は自分で身を守っていることを示している。そのことがふだんの、のんびりした、平穏な状態と両立し、むしろ犯罪も少なくてすんでいるのだとしたら、反撃される可能性があるために、簡単に人を襲うこともできないからだろう。
アシュレイ・ファーランドさんも「いざというときに、銃を使えなくては意味がない。暗い場所でも銃弾を補充できるなどうまく使えるよう、日ごろの練習は不可欠」と話しており、少なくとも3カ月に1回は練習に出かけ、1年に1000発撃つという。(略)何かあったときにすぐに銃を使えるよう、メンテナンスも重要だ。アシュレイさんもアンディさんも、射撃場で練習した後などはきちんと汚れを拭き、油をさし、銃のさびや劣化を防いでいる。
議会が廃墟同然で打ち捨てられ、生き残った自衛隊のミサイルも祭りの余興で花火の代役で打ち上げられる一方で、ひとびとの生活と意識の中心を占めているのは、作品タイトルそのままに「市場(マーケット)」である。マーケットがあるということは、当然そこに交換メディアとしての「お金(貨幣)」もあるということだが、政府がないからそれを発行する中央銀行もなく、通貨はほったらかし(レッセフェール)だろう。現代の御用経済学者たちなら、あれも起きるこれも起きるとさぞかし青くなって気を揉むことだろうが、反面、今の日本やアメリカのように、政府が通貨を乱脈に増刷して、食料や燃料の値段が半年で一割もあがり、政府の政策で勝手に貧乏にさせられるということもない。人々は政府と役人の顔色をうかがうことなく、安心して財産を保全し、店を経営することができる。アルファさんが守っている店にも、オーナーがあらかじめ、ある程度の蓄えを残していったのだろう。
「国破れて山河あり」ではないが、この作品は、国家や政府と関係なく市場が存在し、国がある前からそれが在り、国が滅んでもそれが在る、そういう世界である。政府や役人などなければないで別にどうということもないが、人々がものを生産し、それを必要に応じて交換する市場は、生活がある限り、人が集まって自然に生まれ、人間が得意な仕事をそれぞれ分担し、それを交換しあって生きていこうとする限り必要とされ続ける。すなわちそれが、この物語があくまで「ヨコハマ『買い出し』紀行」であって、「ヨコハマ『陳情』紀行」でもなければ「ヨコハマ『行軍』紀行」でもないゆえんであり、主人公もそこにときどきコーヒー豆を仕入れに出かけ、洋服やお菓子も買い、人との出会いを楽しむのである。
「アフター・カタストロフ」の、今の社会秩序が崩壊して除去されたあとの世界を描いた漫画作品で、われわれが代表的なものとしてすぐに思い浮かべるのは、例の「北斗の拳」だろうが、こちらはまったく別の、もうひとつのあり方を描いた作品といえる。前者は、力と強奪が支配する、荒れ果てた、先のない世界であり、後者は「生産」と「交換」をベースとした、それなりに落ち着いた、ゆるやかながら植物のように粘り強く持続していく世界である。前者では大きな災害にもかかわらず、人々が残されたわずかな財貨を取り合って互いにただ消耗していくだけだが、後者では、厳しい大きな試練が人々を結びつけ、力を合わせて助け合って生きている。前者は、腕力を誇示して他人から奪う者だけが主役の世界で、もともとそれを作り出した人は肩身が狭くどこか片隅にいってしまっているが、後者は、自分自身が人の役に立つなにかを作り出している人々が堂々と物語の真ん中で、主役で生きている世界である。前者は腕っぷしの強い男性が中心で、女性はそれに頼って生きる儚い日陰の存在であるが、後者は女性が物語の主役で、十分に自分の力と意志を発揮して、生きている世界である。震災を経た今のわれわれから見て、どちらの方がよりリアリティをもった「ありえる」ものだと思えるだろうか。あるいはまた、特に現実に自らも国家機関に所属してそこに生計を依存し、その意義もことさらに強調する類の論者たちが、賢明なる自分たちの重石が取れると、「『リアル』北斗の拳」の世界が、お前たちの頭上に襲来するぞ、と、ひとつ覚えの決まり文句のように両手を掲げてわれわれの夢見を脅そうとするとき、そのことは、われわれの世界の本性、というよりはむしろ彼ら自身の本性にとって、なにを告げているだろうか。
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ヨコハマ買い出し紀行(5 [Kindle版] 芦奈野ひとし 講談社 |