【写真】べぶくろの当事者研究に参加しているメンバーのみなさん。べてぶくろ内にある和室の机の前に座り笑みを浮かべている。

あなたには、安心できる「居場所」がありますか?

幼い頃のぼくは、「聴覚障害者の子ども」であるということから、言葉にできないような生きづらさを感じていました。まるで自分が世界でひとりぼっちであるかのような孤独感に苛まれ、どこにも居場所がないように思い込んでいたのです。

そんな苦しさが昇華されたのは、大人になってから。同じような境遇の人たちと出会い、自分はひとりではないことを知り、居場所ができたのです。

この世界には、障害や病気、貧困など、さまざまな理由から生きづらさを感じている人たちがいます。そして、彼らを孤立させてしまう原因のひとつが、「社会との接点を失ってしまうこと」。

人は誰もが社会とつながって生きています。家族、友人関係、仕事、趣味…。さまざまな「コミュニティ」に自分の居場所を見つけ、それによって生きる意味を見出しています。ところが、すべての人がそう簡単に社会とつながれるわけではありません。では、そんな人たちはどうすればいいのでしょうか。

東京は池袋に、とてもユニークな取り組みを行っているコミュニティホームがあります。その名も「べてぶくろ」。この場所では、さまざまな課題を抱える当事者が社会とのつながりを得ているといいます。そんな情報を聞きつけたぼくは、本格的な夏を迎えるほんの少し前、穏やかな春の日差しのなか、この場所を訪れました。

 【写真】べてぶくろがある場所の近くにある木々。生い茂った緑から春の日差しを感じられる。

誰もが参加でき、居場所を見つけられる場所

過去にsoarでも記事にしていますが、北海道浦河町に、精神障害がある当事者たちが暮らす「べてるの家」という地域活動拠点があります。そこには「社会福祉法人浦河べてるの家」「有限会社福祉 ショップべてる」などの共同体が集まり、総称として「べてる」と呼ばれています。

【写真】住宅街のなかにあるコミュニティホームべてぶくろの外観。こじんまりとした一軒家である。

今回ぼくらが訪れたべてぶくろは、この「べてる」と「いけぶくろ」を掛け合わせた名称を掲げるコミュニティホームです。

【写真】玄関に飾られている木製の標識。「べてぶくろ」と掘られている。

べてぶくろは有楽町線・副都心線要町駅から徒歩で10分ほどの場所に位置します。静かな路地を進んでいった先に見えてくる、こじんまりとした一軒家。特に大きな看板も掲げられていませんが、こちらが正真正銘のべてぶくろ。想像していたよりも親しみやすい雰囲気で、玄関を開ければ「おかえりなさい」という温かい声が聞こえてきそう。まるで実家のような懐かしさが漂う佇まいです。

【写真】べてぶくろにある台所。木製の床やそこにひいてあるマット、ガスコンロに置いてあるやかん。はじめてきた場所なのにどこか懐かしさが感じられる。

べてぶくろでは、サポートが必要な人がともに暮らす共同住居やグループホームの運営が行われているほか、ヨガ、夕食会、哲学カフェ、ウクレレサークルなど、さまざまなアクティビティが行われており、参加したい人なら誰でも参加できるといいます。

設立のきっかけは、創設者の向谷地宣明さんが「ハウジングファースト東京プロジェクト」と出合ったこと。このハウジングファースト東京プロジェクトとは、池袋周辺の路上生活者を支援する取り組みで、精神科訪問看護ステーション「KAZOC」、毎週、路上生活者に配るためのパンを焼いている「池袋あさやけベーカリー」、路上生活者の生活支援を行うNPO法人「TENOHASI」、路上生活者が住居を得るための支援をする一般社団法人「つくろい東京ファンド」、住居環境の改善支援を行う国際NGO「ハビタット・フォー・ヒューマニティ・ジャパン」、そして、世界各地で人道医療支援に取り組む認定NPO法人「世界の医療団」など6つの団体がその運営に関わっています。

この東京プロジェクトとの出合いを経て、べてるの想いを受け継ぐカタチで生まれたのが、べてぶくろなのです。

ちょうどこの日も、当事者研究会というアクティビティが行われるということで、集まった参加者たちがお茶を飲みながら談笑していました。

【写真】その月のアクティビティの予定が書かれているカレンダー。パン作りや映画研究会、当事者研究などさまざまな予定が。

路上生活者をケアしてあげたいという思いが出発点

べてぶくろを立ち上げた向谷地宣明さんは、べてるの家の理事である向谷地生良さんの息子さんです。幼少期から生良さんの社会活動を目にしてきた宣明さんのこと、べてぶくろ立ち上げに関しても相当な思いがあったのではないか。そう考えるぼくに対し、宣明さんは意外な言葉を口にしました。

【写真】べてぶくろを立ち上げたむかいやちのりあきさん。当事者研究で使用された文字ぎっしりのホワイトボードの前で笑みを浮かべている。

(編集部撮影写真)

向谷地さん:いろいろ聞かれるんですけど、あんまり立ち上げようと意気込んでスタートしたわけではないんです。もともとのきっかけは、路上生活者の方々をどのようにケアできるのか、という問題意識から。

彼らは精神障害を患っているケースが非常に多いんです。そういう人たちをどう応援できるのか考えていたときに、世界の医療団のある方に一緒に協力してやってみませんかと誘われたんです。

都内に住んでいると、日々の暮らしのなかで出会う人も多いであろう路上生活者の方たち。しかし、宣明さんにとって、その光景は異様なものとして映りました。

向谷地さん:ぼくは北海道で生まれ育ったので、東京に来るまでは路上生活者の存在について、よく知らなかったんです。

北海道の路上で寝ていたら命の危険がありますし、明らかに不審者ということで通報されちゃうんですよ。でも、新宿や池袋だと、道路で寝ている人がいても、誰も声をかけないし、放っておきますよね。それがすごく不思議で。北海道だったら、「大丈夫ですか?どうしたんですか?」と声をかけると思うんです。

路上生活者への対応から、宣明さんの興味は「都会特有の人間関係の希薄さ」へと移っていきました。

向谷地さん:同じマンションに住んでいても、隣人の顔を知らなかったり、交流がなかったりするじゃないですか。でも、地元ではあまりそういうことがなくて。

家族同士で子どもを預け合ったりすることも珍しくなかったですから、自分の両親のことはもちろん、違う家族の親のことも父ちゃん、母ちゃんって呼んだりするんです。いろんなお父さんとお母さんがいる感じ。でも、東京ではそういう他の家族とのつながりが薄い気がしました。

東京に来て感じた、人間同士のつながりの心許なさ。それをより強く実感したのは、生良さんと過ごした幼少期の体験が濃いものだったからなのでしょう。

【写真】インタビューに応えるむかいやちのりあきさん。

(編集部撮影写真)

向谷地さん:父はソーシャルワーカーだったので、問題のある家庭の子どもをしょっちゅう家に連れてきていたんです。

生活に困っている家庭だと、子どもを適切に育てられないという事態がよく起きます。たとえば、親が病気なのに薬も買うお金がないとなると、やがては入院することにまで発展してしまう。すると、子どもの世話は誰がするのかという問題も併発するんです。父はそんな子どもたちを連れて帰ってきて、母がその面倒を見ていました。

その他にも、生良さんに連れられて、アルコール依存症からの回復を目指す人たちが集まる断酒会に参加したり、ゴミ屋敷になっている家庭訪問をしたりと、インパクトのある体験を繰り返してきた宣明さん。その一つひとつが経験となり、蓄積されていった結果、社会で起きている問題を俯瞰で見られるようになったといいます。

向谷地さん:たとえば、路上生活者に対して不安や警戒心を抱いてしまうのは、知識がないからなんです。でも、その人の状況を把握さえしてれば、不安になんてならない。

幼少期にいろんな人を見てきたことで、いまでは何事に対しても驚かなくなりましたね。「まぁ、そういうことあるよね」という感じで(笑)

「人間関係の貧困」が路上生活者を生み出す原因

自身の経験から、路上生活者に対して強い興味を抱いた宣明さんは、彼らの生きづらさについてこう考えています。

向谷地さん:重要なのは、“関係性”だと思います。お金のない貧しさ自体が苦労なのではなく、「社会との関係性の貧しさ」が問題。応援してくれる家族や友人がいれば、路上で暮らすことを防げた人たちっていっぱいいると思うんです。

仮にぼくが生活に困窮したとしても、近くに妹やいとこが住んでいます。仲のいい友人もいますし、そういうネットワークがあればきっと大丈夫なはず。

けれど、この人間関係の貧困に苦しんでいる人はとても多い。その原因のひとつには、「人間不信」があるのではないかといいます。

向谷地さん:応援してくれる人が周りにいれば大丈夫と言いましたが、それでも実際に路上生活者が減らないのは、対人関係に恐怖心を抱いている人が多いからなんだと思います。

いじめを原因に不登校になってしまった人や、家庭内で虐待を受けていた人。路上生活者のなかには、なんらかの経験からその後の人間関係をうまく築くことができなくなってしまった人が非常に多いんです。

【写真】べてぶくろ内の壁に貼ってある、出入りしているメンバーの写真。それぞれいきいきとした表情を浮かべている。

生きる上で欠かせない、他者とのつながり。べてぶくろは、それを失った人たちに取り戻してもらうための場所として機能しています。

向谷地さん:いま、べてぶくろに通っている人のなかにも、最初は全然信用してくれなかった人もいるんです。やはり、他人への警戒心が強くて。

でも、みなさん少しずつ変わっていくんですよ。よく喋るようになったり、笑顔が増えたり。とはいえ、最初からそれを目指していたわけではなくて、自然とべてぶくろがそういう場所になっていったという印象が強いんですけどね。

「べてぶくろ」に救われた、元路上生活者・ミカンさん

実際にべてぶくろに救われたのは、どんな人なのだろう。ぼくは、元路上生活者であり、現在はべてぶくろが運営するグループホームの事務所の隣の部屋で生活しているミカンさんのお話をうかがうことにしました。

【写真】インタビューに応えるミカンさん。マスクをしているが、それでも笑みを浮かべていることがわかる。

(編集部撮影写真)

「私に話せることなんてありませんよ」と控えめに笑うミカンさん。とても穏やかな印象の彼女が、どうして路上での暮らしを余儀なくされてしまったのか。そのきっかけについては「もう覚えていません…」と笑います。けれど、当時の生活ぶりを聞いて、ぼくは言葉を失いました。

ミカンさん:ご飯は食べられる日もあったし、もちろん食べられない日もありました。でも、いろんな団体の方が開催してくださる炊き出しのおかげで、なんとか命をつないでいたんです。

ただし、毎日あるわけではないので、各地で行われる週に1回の炊き出しのために、とにかく歩き回っていました。上野、新宿、渋谷、ときには神奈川や千葉まで足を伸ばすこともあったんですよ。乗り物には乗れないので、歩くしかない。遠い場所で炊き出しが行われるときは、前の晩から寝ずに歩きました。

同じ路上生活者同士で情報を共有し、炊き出しの場所を聞きつけては、そこへ向かってただただ歩く。それはまさに、生きるための行為。

そして食事と同じくらい重要なのが、安心して寝起きできる場所の確保なのだそうです。

【写真】インタビューに応えるミカンさん。

(編集部撮影写真)

ミカンさん:行く先々、いろんな場所で寝起きしました。公園もあれば、大きなビルの軒下をお借りすることもありましたね。なるべく人がゴチャゴチャしていない場所を選んで、静かに…。

問題なのは、夜ですね。夏も冬も、大体の場所は冷暖房が行き届いているんですけど、夜になるとそれらが切られちゃうから。だから、夜中さえ乗り切れば、意外と快適に過ごせましたよ。昼間になれば、デパートとか図書館とか、イベントスペースなんかを訪れて過ごしていました。

宣明さんの言葉を借りるならば、ミカンさんも「人間関係の貧困」が原因となり、路上生活者となったのでしょう。「もう覚えていません」と笑うミカンさんの過去を知る術はありません。いったい、どんなつらい経験をしてきたのか。想像するだけでも胸が痛みます。

けれど、路上から見える景色のなかに、「人のやさしさ」が滲む瞬間もありました。

ミカンさん:私のようにみすぼらしい、どこから見ても路上生活者だとわかる人間に対しても、やさしくしてくださる人たちはいたんです。私たちのことを、自分たちと変わらない人間であるという目で見てくれるというか…。そんな天使みたいな人たちが大勢いたので、路上で暮らしていても「嫌だなぁ」と落ち込むようなことはあまりなかったんです。

ミカンさんが語る、「天使のような人たち」。そのひとりが、世界の医療団のあるスタッフの方でした。宣明さんがべてぶくろを立ち上げるきっかけとなった人物です。そして、ミカンさんの人生は、その方との出会いによって大きく変わっていきました。

ミカンさん:毎年、暮れになると、渋谷の宮下公園で越冬対策が行われるんです。年末年始、あらゆる公の機関がストップしてしまう間、路上生活者の支援をしてくださる方々が宮下公園にテントを張って、数日間炊き出しをしてくれるんですね。

世界の医療団の方もいらっしゃって、「寒いでしょ?私たち、池袋で“ふとんで年越しプロジェクト”をやっているから、そこへいらっしゃい」って声をかけてくださって。年末年始の期間中、路上生活者が安心して寝られるシェルターを用意してくださっていると言うんです。

その方に誘われるがまま、池袋を訪れたミカンさん。寝泊まりする場所として用意されていたのは、西池袋にあるビジネスホテルでした。

ミカンさん:ひとりに対して一室用意されていて、しかも暖房も効いているし、お風呂もトイレもあるし、なによりキレイなベッドがあって…。あまりにもびっくりしちゃって、うまく寝られなかったんですよ(笑)。いいのかな、こんな場所にひとりで寝て、大丈夫なのかなって。

けれど、それは期間限定のプロジェクトによる試み。ずっとそこで暮らしていけるものではありません。そこを出て、また元の路上に戻らなければいけない…。そんな風に思っていたミカンさんに、朗報が入りました。

ミカンさん:さて、この先どこに行こうかな…と思っていたら、世界の医療団の方が運営している「ときわハウス」に来ないかと誘われたんです。ひとり一室が与えられて、なかには食堂みたいなところもあって。

とてもありがたかったですね。その後、いろんな事情があって、その場所を明け渡すことになったんですが、その方はまたしても気にかけてくださって、世界の医療団で借りている事務所に泊めてくださったんです。そして、いまに至ります。

【写真】インタビューに応えるミカンさん。

(編集部撮影写真)

世界の医療団のスタッフとの出会いを機に、路上での生活から抜け出すことができたミカンさん。屋根のある場所で眠ることの喜びを噛み締めている一方で、いまだに「生活音痴」なままなんだとか。

ミカンさん:路上生活が長かったので、横になって眠ることができないんです。お布団を与えられても、どうしていいのかわからなくて…。いまもまだ椅子に座ったまま寝る生活が続いています。本当に変ですよね(笑)

そんな戸惑いもあるなかで、それまで「生きるため」を中心にまわっていた生活に、ある楽しみが生まれました。それが字を読むことです。

ミカンさん:夜中でも電気がつくこと、明るいことが本当にうれしくて、知人に借りた文庫本や新聞、カタログの切れ端など、とにかく活字を読むことに楽しみを見出しました。その流れで向谷地生良先生がお書きになった本も読んだんです。そこに「当事者研究会」について書かれてあって、実際に私もべてぶくろで開催されている当事者研究会に参加してみました。

日常のなかにささやかな楽しみを見つけ、現在のミカンさんは、とても穏やかな暮らしを送っています。

「当事者研究会」で自身の問題、困難を打ち明け合う

ところで、ミカンさんのお話にも出てきた当事者研究会。これはべてぶくろのさまざまな取り組みのなかでも、特筆すべきもののひとつ。精神障害や貧困、家庭内不和など、あらゆる問題を抱える人たちが集まり、自らの困りごとを仲間と共有して語り合うことで、対処法を探していこうという試みです。

ここで思い出すのは、宣明さんが言っていた「人は知らないことで不安になる」という言葉。自分とは違う立場や境遇にいる人たちを目の当たりにしたとき、知識がなければ「怖い」「近寄らないでおこう」と思ってしまうかもしれません。この当事者研究会は、それを防ぐ意味でも、素晴らしい取り組みと言えるでしょう。

そこでぼくは、実際にべてぶくろで行われている当事者研究会にも参加させてもらうことにしました。

【写真】和室にあるテーブルを囲い当事者研究を行っているみなさん。リラックしなが今の自分の状態を共有している。

集まっていた参加者は10名ほど。みなさん、座布団を用意したり、お茶を出したりと準備に忙しい様子でしたが、実は誰一人としてべてぶくろのスタッフというわけではありません。参加者自らが準備を行い、場を作り上げていく。これもまた、べてぶくろならではの精神です。

そして、参加者のなかから司会と書記が決められると、いよいよ当事者研究会がスタートしました。

【写真】ホワイトボードに呼ばれたい名前や自己病名などが書かれていく。

そこで聞いたお話は、どれも衝撃的なものばかり。統合失調症で悩む方、子どもからの家庭内暴力に苦しんでいる方、うつ傾向のある方…各々が自らの悩みを吐露します。それに対して、アドバイスの声が飛び交うのですが、みなさん、ストレートに思ったことをぶつけます。

たとえば、子どもからの家庭内暴力で悩んでいる方に対して、「子どもと正面から向き合ってみたら?」という意見が出たと思いきや、「この人はすでに向き合って頑張っているんだから、そんなことは言わないでほしい」と反対姿勢を貫く人も。それぞれがなんらかの困難を抱えているため、他者のそれに対しても真摯に耳を傾けようとしていることがうかがえます。

加えて感じたのは、自身の状況や悩みを言語化し、外へ吐き出すことの大切さです。内に秘めていた苦しみを吐き出すことによって、それが客観視でき、とても楽になる。実際、ぼくも両親への想いを吐き出させてもらいましたが、またひとつ、自分自身を知ることができたように思います。当事者研究会は他者を理解するのと同時に、自分自身を理解する取り組みでもあるのです。

【写真】べぶくろの当事者研究に参加しているメンバーのみなさん。べてぶくろ内にある和室の机の前に座り笑みを浮かべている。

当事者研究会は2時間ほどで終了しましたが、ぼくは参加者のひとりである林さん(仮名)にちょっとだけお話をうかがうことにしました。

言いたいことが言える場は、当事者にとって救いになる

埼玉県にある「不登校の親の会」に参加している林さん。そこでの会話で偶然べてぶくろを知ったことが、今回の当事者研究会に参加するきっかけとなったそう。

【写真】インタビューに応えるはやしさん。

林さんはなぜ遠方からわざわざ訪れたのでしょうか。

林さん:息子が精神的な不調を抱えているんですけど、病名がついてしまうことをひどく恐れているんです。私自身は、もしも息子が精神障害だと診断されたとしても大した問題ではないと考えています。でも、息子はそうではなくて、すごく重く受け止めてしまう。

だから、実際にそういう障害で悩んでいる人たちの話を聞くことって、救いになると思うんです。いつかは息子をここに連れてきてあげたいなと思いつつ、まずは私が理解をするという意味で、参加してみました。

林さんは息子さんからDVを受けていることも告白してくれました。その事実を言葉にするのは、非常に勇気がいることだったと思います。けれど、林さんの表情はとても晴れやかでした。当事者研究で自分の悩みを話してみて、「すごく気持ちが楽になった」のだそうです。

林さん:実は、ここまで自分の問題を話せるとは思っていなかったんです。DVのことも、友人に話してもなかなか受け止めてもらえなくて。聞いている相手がしんどそうにしていると、話しているこちらまで気が滅入ってしまうんです。

でも、べてぶくろのみなさんはそんなこともなくて、こちらの話にきちんと耳を傾けてくださいました。おかげで言いたいことがほとんど言えて、すごくスッキリしました。

他の参加者からさまざまなアドバイスや意見をもらえたことで、林さんは気持ちが落ち着いたといいます。

【写真】インタビューに応えるはやしさん。

林さん:いろんな意見が出ましたけど、みなさん、自分自身を投影しているのかな、と。でも、それでいいんだと思うんです。私のことは私にしかわからないじゃないですか。だからこそ、「絶対にこうした方がいい」「こうするべきだ」と意見を押し付けられてしまうと、苦しくなるんです。あなたになにがわかるの…って。

ここに集まった方々は、意見は言うけど、それを押し付けようとはしない。あくまでも、「私はこう思います」っていうスタンスですよね。それがとても楽でした。

「また来ようと思います」と、べてぶくろを後にした林さん。その笑顔が、なによりもべてぶくろの価値を物語っていました。林さんの悩みが解決する日も、そう遠くないのかもしれません。

困難を抱える人たちと、ともに生活者でありたい

べてぶくろに救われた、元路上生活者のミカンさん。そして、現在進行形で助けを求めている林さん。ふたりの当事者と出会い、ぼくは、べてぶくろが現代人にとっての「駆け込み寺」としての役割を果たしているような印象を受けました。

すると、宣明さんが口を開きます。

【写真】インタビューに応えるむかいやちのりあきさん。

(編集部撮影写真)

向谷地さん:べてぶくろとはなんなのかって言うと、すごく難しいんですよ。それはべてるも同様で、なかにはいろんなものがあって、その総体としてべてると言われているだけで。

そう考えると、べてぶくろもひとつの緩やかな概念なのかなと。みんなのなかに共通概念としてべてぶくろが存在していて、それがある限り、訪れる人のニーズには応えていきたいと思っているんです。

だからこそ、宣明さんはニーズがなくなってべてぶくろが消えてしまってもいいと話します。それはつまり、「苦しんでいる人がいなくなった」ということの裏付けでもあるからなのでしょう。宣明さんの胸にあるのは、どこまでも“当事者ファースト”な想いです。

向谷地さん:誰が参加してくれても構いませんし、こちらとしては受け入れるだけです。ただ、参加者が増えれば増えるほど、制度化していない分、多様化がグループの危機になりうる。それをどう乗り越えていくのかは課題でしょうね。

でも、それもまぁ、参加者同士で喧嘩したり文句を言い合ったりしながら、対話を重ねていけばいいと思います。

宣明さんがとても大切にしているのは、「参加者同士」「当事者同士」がどう動くのか。あくまでもそれを見守るというスタンスを貫いています。

向谷地さん:スタッフを配置して場をコーディネートするほうが遥かに楽なんです。だけど、それではつまらない。ときには参加者同士が喧嘩するくらいのほうが面白いですし、みんな、文句を言いながらも来るんですよ。

ちょうどいい距離感があって、適度に他人。だから、言いたいことはなんでも言えるんです。あまりにも近すぎる友人には言えないけれど、ここにいる人たちになら話せる。そういう雰囲気のある場所であってほしいですね。

そして、宣明さんがべてぶくろの活動を通じて目指していくのは「求めたときに助けが得られる世界」です。

【写真】インタビューに応えるむかいやちのりあきさん。笑みを浮かべている。

(編集部撮影写真)

向谷地さん:ケイパビリティという言葉があります。これは「潜在能力」という意味なんですけど、ぼくは潜在的な選択肢がある社会、ケイパビリティに満ちた社会を作っていきたいんです。

たとえば、腹ペコの人がふたりいたとして、ひとりはダイエット中で食べようと思えばいつでも食べられる状態、もうひとりは本当に食べるものがない状態。これって飢餓状態であることは同じなんだけども、厳密に言うとそこには差があるわけです。その差がケイパビリティ。

人に助けを求めたくない、迷惑をかけたくないという人が路上生活を選ぶのは自由です。ただし、来週になったら気が変わるかもしれない。そのときに、元の生活に復帰するための選択肢があるのかどうか。そういった潜在的な選択肢がある社会なのかどうか。「べてぶくろ」もその一部を担っていければいいなと。

とはいえ、壮大な展望を描きながら活動をしているわけではありません。宣明さんは、いま必要だと思うことを一つずつ積み重ねているだけなのです。

向谷地さん:これはべてるにも通ずること。閉塞した日本の精神医療を変革しようと思ってべてるを運営しているわけではなくて、ただ大事だと思っていたことを積み重ねていったら、結果的に周囲からそう見られるようになったというだけで。べてぶくろも一緒で、目の前で困っている人たちに手を差し伸べていたら、いつの間にか道ができていたんですよ。

ただし、と宣明さんは続けます。

向谷地さん:ともに生活者でありたい、とは思うんです。支援する、されると区別することなく、ともに生活できる場でありたい。ぼく自身は医療者でもないですし、社会福祉士などの資格を持っているわけでもない。

ただ、べてぶくろのメンバーとともに生活者として過ごして、みんなとつながったり関係を作ったりしながら、対話をしていければいいかな、と。家族以外の人たちと過ごしてきた幼少期の延長線が、いまなんだと思います。

居場所とは、ただそこに居ることを許してもらえる場所

居場所と聞くと、自分の能力を発揮できる場所や必要とされている実感が得られる場所を想像する人は少なくないかもしれません。実際、ぼくもそう考えていました。

けれど、べてぶくろを訪れてみて、それは間違いであることに気付かされたのです。

本当の居場所とは、役割というものにしばられず、ただそこに居ることを許してもらえる場所。お茶を飲みながら雑談を交わす――それだけで誰かと「つながっている」と実感できる場所のこと。そう思うのです。

「居場所を獲得する」という行為は、ともすればハードルの高いものにもなりがち。それが結果的に、孤独な人をさらに追い詰めてしまうこともあるでしょう。

だからこそ、べてぶくろのように、「誰がなにをしていてもかまわない」という緩やかなスタンスが、多くの人を支えているのです。そして、それは誰かの抱える生きづらさを解消する第一歩となりうるのではないかと思います。

【写真】掘りごたつの前に座り、穏やかな表情でこちらを見る、むかいやちのりあきさんとライターのいがらしさん。

(編集部撮影写真)

関連情報:べてぶくろ ホームページ

(写真/川島彩水・編集部、協力/石原みどり・小島杏子)