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呉座勇一氏のNHK大河ドラマ降板を憂う

「実証史学ブーム」滅亡の意味

與那覇潤 歴史学者

私がいちばんの淵源だと思うこと

 もっとも、私は呉座氏の認識に関して、「常に中立かつクリーンなものであり、なんの偏りも問題性もなかった」と主張するものではない。そもそも完全に「偏りのない認識」なるものがあり得るかという問いを別にしても、私自身、野次馬的な「非難のための非難」とは異なる意味で、同氏のツイートには気になる点があった。

 今回わかったことだが、昨年末に作家の川上未映子氏が行ったフェミニスト的な問題提起(=TVゲーム内のエロティックな演出への批判)に対し、呉座氏は川上氏自身が、もともとは「さんざんミニスカートを売り物にして」いたと批判している(鍵カッコ内は原文)。女性に対する態度に起因するものかは即断できないが、私には、これは現在の呉座氏の認識に存する問題の所在を示すように感じられた。

 もし事実として呉座氏の指摘するとおり、川上氏にミニスカート姿で多数の媒体に出演した過去があったとしよう。その行為は、性的な魅力を通じて自身の作品をPRする――「性的な存在」として、彼女のことを観察するよう読者に促す効果を持ったかもしれない。しかし、そのことで非難の対象とされるべきは、はたして川上氏本人だろうか。

 呉座氏にも体験があると思うが、出版社はしばしば(男女問わず)「著者近影」の掲載を求めたがる。多くの読者にとって、純粋に書物の文面だけを楽しむことは難しく、どうしても「著者の人となり」を知りたいという欲求があるためだ。結果として(やはり男女問わず)著者の見た目だけが話題を集め、「この人の本でありさえすれば、内容は関係ない」といった消費行動が誘発されることもあるが、その責任は著者個人にあるのだろうか。

 ルッキズム(容姿偏重主義)や性の商品化を批判するなら、容姿や性を売っている(ように見える)個人ではなくて、そうした行為がビジネスとして成立する「社会全体の構造」を対象とすべきである。具体的な個々の人物のみではなく、こうした目で見たり、手で触ったりはできないが、確実に人間の行動を規定している存在を描き出す作業は、呉座氏が専攻する歴史学の分野とも無縁ではないだろう。

 旧著『戦争の日本中世史』(2014年。角川財団学芸賞)の読者として、私は呉座氏がほんらい、そうした不可視の全体像を捉える力量に優れた学者であることを知っている。もっとも『応仁の乱』(2016年)の大ヒット以降は、同氏をむしろ、抽象的なレベルでの議論を排して「個々の史実の実証に徹し、著名な歴史上の事件の細部を解明する」学者のように持ち上げる風潮があり、実力ある同世代の研究者に照明が当たったことを喜ぶ半面、少し寂しくも感じていた。

これから私たちの社会が失うこと

 体裁こそ一般書ながら、実質的には実証研究の専門書といえる『応仁の乱』をヒットさせた呉座氏は、「実証史学」を標榜する学者たちのホープとして扱われ、SNS上でも熱心に支持する同業者は多かった。問題の端緒となった網野善彦の読解をめぐる論争の時点では、「北村氏のような専門違いの研究者が、日本中世史のプロにクレームとは片腹痛い」とばかりに、(後に問題視される呉座氏の揶揄と比べても)横柄な態度をとっていた者もいる。

拡大呉座勇一氏のベストセラー『応仁の乱』
 不思議なのは私よりもはるかに呉座氏と親交が深く、彼の今後に期するところもあるはずのそうした識者たちが、それこそ実証的に文言を読み解けば不当だと論証できる非難まで呉座氏に浴びせられるのをただ傍観し、我関せずを装っていることである。いったい彼らにとって、実証とは、あるいは学問とは、なんのためにあるのだろうか。

 私自身、大学の歴史を冠する学科で7年ほど教えたので知っているが、実証史学を掲げる学者たちはしばしば、みずからの専門を教える意義を「リテラシー」と関連づけて説明する。古代や中世といった遠い過去の文書であれ、精緻に読み解き原文脈を忠実に復元してゆく作業は、正しい情報の選択と解釈に基づき、公正な議論が行われる社会をこれから、眼前の日本で実現してゆくうえでも基礎になるのだと。

 今回の呉座氏をめぐる炎上と、指をくわえて眺めるままの「実証史学者」たちの存在が示したのは、そんな空約束は「絵空事」だったという残酷な事実だ。

 呉座氏自身に非があった点については、すでに本人が謝罪していることでもあり、後は自ら反省して、やり直してくれればよいことだと思う。しかしリテラシーを欠いた読解に基づき、報復感情が暴走する社会の危険性には頬かむりを決め込んだまま、安全地帯の内側でだけ「史料に基づく実証」を誇り続ける面々は、なんの意味があってその職に就いているのだろうか。

 附言すれば、呉座氏への社会的な非難をここまで拡大させたのは、ツイートを一覧にして掲示する「まとめサイト」の存在だったが、当該のページ(こちらこちら)は数日にして非公開に設定され、早くも問題の全体像を再把握し、非難の妥当性を検証する機会は閉ざされている。平素、「史料の保存」に基づき後世の評価を期すことの重要性を叫ぶ歴史学者諸氏は、同業者が(加害者でもあったとはいえ)被害者となる事件がこうした形で収束しても、何も感じるところはないのだろうか。

 呉座氏というシンボルを損なった「実証史学ブーム」なるものは、今回の騒動を最後に雲散霧消し、歴史学それ自体の意義を顧みる人も、やがて誰もいなくなるだろう。私個人としては、それはそれでもうかまわないとも思う。

 しかしそのことが、一時的な激情ではなく「過去に発された言葉の積み重ね」によって営まれる公正さの終焉を意味するとき、私たちの社会は多くのものを失うだろう。そして夕空に舞う雲雀を見て落とす涙は、より好ましい秩序がやがて再生することを、もはや予告しないのである。

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筆者

與那覇潤

與那覇潤(よなは・じゅん) 歴史学者

1979年、神奈川県生まれ。歴史学者。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。学者時代の専門は日本近現代史。地方公立大学准教授として教鞭をとった後、双極性障害にともなう重度のうつにより退職。2018年に自身の病気と離職の体験を綴った『知性は死なない』が話題となる。著書に『中国化する日本』、『日本人はなぜ存在するか』、『歴史がおわるまえに』、『荒れ野の六十年』ほか多数。2020年、『心を病んだらいけないの?』(斎藤環と共著)で小林秀雄賞。