「コンプライアンス研修」とかで自分も研修を受けたが、それによると、「安全」は危険がないことへの客観的な状態をいい、「安心」は主観的な心持ちのことをいう。今の時代は客観的な「安全」を達成するだけでは不十分で、主観的な「安心」まで実現することが重要とのことだ。なるほど、うまいこと言う。
企業がこの両方を目指すのはもっともだなことだと思う。商品・サービスを社会に提供する側が、危険の少ない製品を提供することはもちろん、消費者・顧客が自分たちを信頼し、余計な心配をしないでいてほしいと望むのは当然だからだ。
ただ、企業なりあるいは行政なりがそこに注力するのにあわせて、それらの受益者、あるいはもっと言えば社会に生きる個人としてのわれわれの側が、そのままそれを真に受けて、自分でも同じように追い求めることがこれまた当然であり良いことなのかどうか。ここで書くのはそのことである。
「安全」については、これを全力で追求するのは当然だろう。それは消費者としてというよりはるかに、生き物としてそうだ。すべての生き物が最優先の課題として身の安全を求め、あらゆる手段を尽くす。安全を疎かにするのは自分自身の尊厳に対する侮辱だろう。国家にとってもそれは最重要事項で、莫大な出費をかけて軍隊を持つのだってそのためである(国連の最高機関も「安全」保障理事会である)。安全が求められるものであるならば、そこには当然それなりの努力もいれば持ち出しもいる。
問題は「安心」の方である。安全に比するに「安心」とはなんだろうか。われわれが安心したい、安心させてほしい、という時、安全でなくていいと思っているわけではない。安心もまた安全を欲する。ただ、安心が心持ちの問題であり、そちらに力点がかかっているという時、要は安全であることへの心煩いをしたくないといっているのである。安心が希望するのは、安全かそうでないかを忘れられるくらい、その警戒の労から解放されるくらい、いい気分でいさせてほしい、ということである。
つまり、人に与えるものではなく自ら手に入れようとするものである時、「安心」とは安全であることの努力なしに安全に達しようとすることだと定義される。「安心したい」とは、努力抜きに安全を保障されたい、との謂いに他ならない。言い換えれば「安心」とは安全の努力の外部化であり、安全の手抜きである。もっといえば安全の親類どころか本当はその対極である。だから本当はこの二つを当然のように並べて言うのはおかしい。両者は別々の正反対を言っているのであるからペアにして扱うことはできない。
では「安心」の希求は否定されるべきだろうか。それもまた正しくない。「安心」のまったくない状態とはどのようなものか。それは行住坐臥、全力で安全の追求に没頭している状態のことである。それは極度の緊張を自分に強いる。生身の体を持つわれわれは、遺憾ながら、そのような状態に長く耐えられない。どこかでは弦を緩め、息を継がないといけない。それは睡眠や入浴における弛緩が ――「寝首を掻かれる」という言葉があるくらいで―― 安全の追求という点からは望ましくないけれども、生活の継続には入り用であるのと同じである。本来そのようなものは完全に取り払ってしまうのが望ましいのだが、そいういうわけにもいかない。ゆえに人目を盗んでこっそり吸喫するもの。それが安心である。安心は必要悪である。
また、やむない息継ぎであるがゆえに、安心は常に見せかけの安心であり、ニセの安心である。安心は常に自分が安心していると勝手に思い込んでいるだけで、客観的な状況を反映しない。そう思い込まないと安心にならないのだからしょうがない。それが無欠ではありえないのは、そもそも完全な安心なら安全の追求自体不要だからである。安心が必要なのは、安全でない(緊張しないといけない)からであるが、そこを曲げて安全とみなさなければ安心の幻覚は心にやってこない。だから安心は、敵地のただ中で一時の微睡みを盗む兵士のように、常にどこか自分にウソをつくことによってしか実現しない。安心とは安全が存在しない状態で安全であるかのように一時的に振る舞うことである。燃える油の上を水であるかのように裸足で夢遊することである。その意味でも「安心」は本来「安全」の恐るべき敵である。主観的に安心している時こそが客観的にはもっとも危険だ。
よって我が身のこととしてとらえるなら、「安全」と同程度に「安心」に執着し、回りをその花びらで敷きつめようなどというのは、本来とんでもなく愚かしい、情けないことなのである。それは生命の最も重要で始原の要請の放棄であり、自分自身を家畜化させる契約へ捺印する振る舞いである。いくらわれわれの生活が人工的な文明によって保護されているとはいえ、そのような者は、技術や文明を道具として使う主人ではなく、それらの道具として使われる受け身の部品、奴隷にまで自分をおとしめたものといえよう。また、社会関係としては、それは安全のための努力を自分でしない代わりに周りに、他人に求めることでもある。自分でしなくていいのであるから、もともと図々しくなりがちであるけれども、そんなものを美徳と呼んで正当化してしまったら、なおのことそれは人の都合など弁えない、どこまでも際限ない醜いものになる。獲るのではなく与えられる餌に慣れた養鶏場の鶏の騒々しさ、堪(こら)えのなさ。これがたぶん今そこら中で実際に起きていることだろう。
原点に立ち戻れば、「安全」がよじ登って掴みとるものであるのは、われわれが他者や外物に依存しながらも利害対立するアンビバレントな関係の中にその起源が認められる。今もっともクローズアップされているのは「食の安全」だろうが、この「食べる」ということが端的にそうだ。「食べる」とは、突き詰めていえば自分が生き延びるために他の生き物に死んでもらうということである。われわれは自分のために死んでもらうために他者を必要とし、それに依存する。だから食べるとは本来もっとも激烈な闘争である。食べ物に毒があるのは、毒のない食べ物の中にまれに毒があるのではなくて、みんな身を守ろうと毒だらけの中にかろうじて毒を中和できるものを探して選ぶということであり、食べ物はもともと「安全ではない」のが本態なのである。生物がもっとも得意なこと、あるいはそうあらざるをえないことは、毒薬を調合することであり、しばしば励みすぎてありえないほどの毒の傑作さえ生み出す。人の話ばかりではない。われわれが作物に農薬を使うのはなぜか。われわれ自身には多大な影響がない程度に毒を盛ってわれわれ以外の連中にそれらを食べられないようにするためである。
このアンビバレントな闘争の中に安全の根源的矛盾がある。最も安全、すなわち危険がないのは、他者との関係をいっさい切ってしまうことである。関わりをもたなければ対立もない。だが、われわれが一方で他者に依存している限りにおいて、その切断は守るべきわれわれ自身の存在をたちどころに失わせる。それゆえわれわれは、餓死か中毒かの選択肢の中で他者と対立し、時にさらに上位の対立のために協闘しながら、他者との関係に踏み出し、その中で生きていくしかないが、表に出れば出たで今度は費用対効果の矛盾にぶつかる。外界との関係において安全の度合いを最大化するのは、自分の持つ元手の全額をそのためにはたいてしまうことだ。(どこかの国のように)国の予算を全額軍事費にしてしまう、あるいは(どこかの国のように)「あってはならない」事故を撲滅するだとかのために運営資金までつぎ込んでしまう、それなら確かにあらん限りの安全が実現できよう。しかしそんなことをすれば当然本来の活動のためのリソースは空になってしまい、これもまた完璧な安全とはすなわち死であるという同じ結論を別の向きから上塗りするだけになる。そこまで極端にいかなくても、安全のための緊張と支出はわれわれに手ひどいダメージになり、安全が必死で守ろうとする主体を瓶の裏側で砂の城のように堀り崩す。ソファの上で腹を出して寝る飼われた犬猫(ビジネスの世界では給与労働者の例えでもある)に比べ、始終緊張し、熟睡することさえままならない野生の動物は明らかにその強いストレスが原因の一つとなって寿命がひどく短い。安全は守らなくても守れず、守ってもまた守れない。だが、安全というものはそういうものでしかない。その隙間をかいくぐって通れる間だけ、そうし続けることが、生きるということである。
一方、「安心」の糖蜜に骨まで漬け込まれた者は、それらの身を蝕む緊張と闘争の害毒からは自由だ。しかし替わりに彼の生はもう自分のものではない。すなわち生かすも殺すも主導権は己れの手にはない。安全への努力というもっとも重要な仕事を投げ出して他人に委ねることにしたのだから当然である。心労のない家畜はなるほどかえって長生きかもしれない。ただしその状況がたまたま長く続けば、の話である。彼ら自身が本来為すべき生存への多大な努力を、彼らの養育主は下心なく善意で引き受けていてくれるわけではない。彼らはいつ食肉に回収されるともしれず、あるいは餌代が尽きて目の前の餌箱が空になるともしれない。いずれにせよ、ひとまかせ、成り行きまかせである。コントロールすべき必要悪でなく惑溺する麻薬として安心を選んだ者の道はおよそそのようなものである。
安全への道はかくもつらく苦しいものだが、それが生きることそのものであることにおいて、われわれにとって一辺倒に悪というばかりではない。一面では適切な運動のように必要なものであり、われわれはその中に身を置く時に最も生き生きと充実してあるよう、はじめから調律されている。中国の荘子に、「沢地の雉は十歩歩いてようやく餌にありつき、百歩歩いてようやく水を飲むことができたとしても自ら籠に養われることを望みはしない。体は王(さか)んでも心楽しくはないからだ(澤雉十歩一啄 百歩一飲不期畜乎礬中神雛王不善也)」という言葉がある。痩せてみすぼらしい野生の動物が、にもかかわらず見せる電流のような鋭い躍動感をわれわれが理由を見分けるまでもなく美しいと感ずる時、自分の中の同じ鈴が共鳴りしているのである。また、IBMの創業者トーマス・ワトソン・ジュニアが哲学者キルケゴールの話を引いて好んで説いたという有名な「野鴨の逸話」の意図したところも同じだろう。
人に与えるものとしてなら、「安心」を作り出そうとするのは慈しみの気持ちの表れであり、立派なことである。だが、そのことと、それが自分に当たり前のように与えられるということとはまったく別の話である。それは個人だけでなく、企業も、国家もだ。安心を与えようと努力する者がいることと自分に常に安心が与えられるということは当然同じではない。己れの失慮で己れを罰するだけならまだいいが、人まで巻き込んで油断の刑罰を周りが受けないといけないとしたらなお救われない。自分が安心の中に座り込んでしまった企業や国家は成員に安全を提供することは当然できない。食物なり医療なりへの必要な警戒をはじめから解いているか、不本意な思いでしぶしぶやっている親は家族を守ることはできない。安全と安心は一緒には手に入らない。両者は背反しており、安全のためにあがいている者に安心している暇はなく、安心に安住した者はそうすればそうしただけ安全の神からは見放されるからだ。安心は安全を断念したところから始まり、安全は安心を断念したところから始まるのである。