チェックのコスト

前回のセルフレジの関連でサイトを見ていた中で、スイスの「パサベーネ(passabene)」というシステムについて触れた記事やブログがいくつかあって、とても面白く読んだ。

このセルフレジシステムは前回取り上げたような日本のものとはかなり違っている。日本の装置は、出口の清算台のところで顧客が自分で集中清算するのであるが、このパサベーネは入店時にまず携帯端末を渡されて、購入客は買い物かごに商品を放り込んでいく時に携帯端末でバーコードをスキャナ読み取りしていくのである。清算台に来た時には端末内で金額が既に合算されているので、あとはお金を払うだけ(店員がいる)、というたいへんシンプルで合理的な運用である。このタイプのシステムは、ヨーロッパ各国でけっこう普及しているらしい。

パサベーネ


容易に推察できるように、このシステムにおけるミソは「不正対策」にある。日本式の装置では、前回書いたように、清算時に清算台の前後で重量を照合できる機能がついており、それによって読み取りを飛ばして商品を持ち出そうとする不正の防止をはかっている。しかし、この携帯タイプにはそういう高等な機能はない。スキャナ読み取りせずに知らん顔して持ち出そうと思えば容易にできそうである。

では、どのように不正防止をするかというと、一定の頻度で抜き打ち検査をするのだという。それで不整合が出た場合はペナルティーを課される(セルフシステムを以降使えなくなる)。逆にみれば、抜き打ちの事後チェックのバックアップを前提にして、こうした簡素な装置と運用を可能にしているということである。

日本式とヨーロッパ式のこうした考え方の違いは、お国柄、国民性が如実に現れているようで興味深い。たぶんこれを見て多くの人が思い浮かべるのは、電車の乗車システムだろう。ヨーロッパではいわゆる「信用乗車(Proof of Payment)」方式が広く採用されていて、改札口での検札なしに電車に乗れるかわりに、巡回確認で無賃乗車が発覚した時は高額の罰金が課される、というやり方をとっている。以前イギリスのブレア首相がこれでうっかり摘発されたのが報じられたことがあって、ちょっとおかしかった。

ブレア前首相は21日、米国行きの飛行機に乗るため、ロンドン・ヒースロー空港に向かう電車に乗車していた。 ところが、検札係が確認すると切符を持っておらず、現金も所持していなかった。(略)ブレア前首相の妻で判事のシェリー夫人も2000年、 ロンドン北方ルートンでの裁判に向かう途中、切符を持たずに電車に乗車し、罰金を科されている。


一方、日本では、ご存じのように、以前はたいへんな人的稼働と超人的な技能を費やして厳格な改札チェックを行い、今ではそれをSUICAのような凄まじいハイテクで置換している。駅の切符切りというのは、利用者にとっても事業者にとっても長く鉄道の仕事の象徴そのものだった。入り口の関門における鉄壁の対応で蟻一匹通すまいとするこの発想は、「ETC」だろうが「タスポ」だろうみな同じで、問われるまでもない自明なものとしてあらかじめ共有されている。

事前の徹底チェックか事後の抜き取りチェックかでいちばん差が出てくるのは、もちろんチェックにかかるコストである。人力でやるにせよ機械でやるにせよ、前者は後者に比べて一般に比較にならないくらいの大きな費用がかかる。セルフレジシステムで見ても、商品には乾物やスナック菓子のような重さのほとんどないようなものもあるのだから、重量比較で不正を見抜こうというのは、きわめて精密で高度なハイテクであり、それをつけるかつけないかというのはコスト的にも大きい。導入費用で大ざっぱに比較しても、日本型装置を仮に1台あたり1,500万として、それを1店舗に4台入れればそれだけで6,000万である。対して上のパサベーネは1店舗あたりの総システム費用が約800万程度だそうであるから、単純に五分の一以下である。携帯型の読み取り装置などというは、そのへんの家電店で売っているバーコードスキャナに毛の生えたようなものでしかなく、あとは清算機能があればいいのだから当然で、システムがもっと浸透し、拡張されて台数が増えればますますこの差は開くだろう。

事前型の完全チェックにかかるこの巨額の差分費用は、当然どこかに消えてしまうわけではなくて各々の価格の中に一種の税として厚く転嫁される。いたるところで蟻一匹通さないチェックシステムがフル稼働する社会は、従ってそれだけ生活物価が全体的に底上げされた、高コストの社会である(現にそうなっている)。反対に、事後の抜き打ちチェックによってチェックコストを抑制している社会は、不正を完全に阻止することはできず、ある程度の漏れははじめから許容する代りに、一定程度の不正抑止システムと相対的にずっと安い生活コストを享受するだろう。

よく指摘されることだが、リスクコントロールに関して日本人と欧米人の基本的な姿勢でいちばん違っているのがここである。双方の違いには、何か表面的な論理をも超えた、根深いものがあるようにも感じられる。日本人はコスト計算を度外視しても関門チェックを徹底せずにはいられないし、欧米では反対に、ことが人の生き死ににかかわるような深刻なリスクに対してでさえ、サンプルチェックで検査コストを抑制することへの「覚悟」――すなわち主体である自分自身の存在すらも頻度的な確率現象の中に落とし込んで、外れクジを引けば死んでしまうという可能性すらも許容する意思――が社会全体で広く共有されているようにみえるからである。これが端的に顕在化したのが、食品安全問題、ことにBSE問題に対する対応の違いだろう。

牛のBSE(牛海綿状脳症)検査で、日本の全数検査の要求に対して米国側は抜き取り検査で譲らなかった。全数か抜き取りか、牛に限らず日本と欧米とではいろいろ考え方の違いがみられ根が深い。(略)日本では電力やガスのメータの検針は毎月行われ、メータの指示に従って課金される。検針の手間を省くために自動検針が始まり、十数年前に固定電話回線を利用したガスの自動検針システムが開発された。(略)英国やオランダでは全くやり方が異なる。ガスメータの検針は1年に一度か、2年に一度。その間は使用者の申告や以前の実績に基づく使用量で料金を支払い、検針の時に精算する。ドイツも同様である。(略)欧州のやり方は集金側に多少リスクがあるが、検針や検札のコストは非常に小さい。一方、日本のやり方は集金側のリスクは少ないが、コストが高く、そのコストは結局使用者が負担している。


BSEの全頭検査は、科学的には合理性の薄いものとして、アメリカ政府も日本政府も科学者たちも、なんとか日本国民にそれを止めさせられないかとあの手この手をかけて四苦八苦している。一方でわれわれの素朴な生活感情からすれば、治癒不能な病気になって死亡する致命的なリスクがほんのわずかでもある以上、地雷を踏むような危険をおかしてまで特定の食品を買うつもりはなく、それによって商品の価格が高騰し、経済的余裕のない人たちからそれを楽しむ機会を取り上げることになったとしても、検査を緩めるのは受け入れがたい、というのが偽らざる気持ちだろう。同様に、かつて中西準子氏が純科学的な視点から、水俣病対策のために行われた化学製品の製造法変更について、費用と便益が釣り合っていないと批判して、それが「功利的」だとして強い指弾を受けた時、彼女はとても「欧米的」な思考(あたりまえにそう考える)をしていて、反対にそれを批判した側は(それが仮に学問的、科学的な装いをまとっていたとしても)ひどく「日本的」だった。

食品問題もその一部であるが、日本型の「水際対策」「全頭検査」の限界がいちばんはっきり出てしまうのは、こうした公衆衛生の分野である。そこで本当の大きな事態が起きた際には、今回のインフルエンザもそうだが、災難の大きさに比べてわれわれが動員可能な対策資源の方がずっと小さいことが少なくなく、全員には行き渡らない有限のリソースをどう配分して全体の効果を最大化させ、被害を抑え込むかという問いを避けて通れないからである。つまりそこではコストを抑制して節約するというより、自然の猛威に対してわれわれが投入できる最大コストがもともとあまりに非力であるため、相対的に小さなその元手をどう最大限有効に使って闘うかということが謙虚に試されることになるのである。逆にまた、ここからヨーロッパ型のリスク発想の違いを考える時、かつてペスト禍で人口の三分の二までが失われるという公衆衛生上の巨大な体験を持ったことが、古い傷痕、あるいは文化的な遺伝子として、社会の中に受け継がれているということがあるのではないか、と感じることもある。

ビジネスの分野に話を戻すと、「リエンジニアリング革命」でもこのチェックの問題を、同じ視点から次のように述べている。

付加価値をもたらさない仕事で、リエンジニアリング後のプロセスで最小限に抑えられるものは、チェックと管理である。もっと正確にいえば、リエンジニアリング後のプロセスは経済的に意味があるときにのみ管理を行うということになる。従来のプロセスはチェックと管理だらけだが、それ自体は何の付加価値も生まず、ただ人びとがプロセスを悪用しないようにするためのものにすぎない。(略)目的そのものはよくても、組織は厳しい管理に伴うコストを認識していないことが多い。すべてのチェックをこなすためには、時間と労働が費やされているのである。実際の購買業務よりもそのチェックの方に多くの時間と努力が費やされてしまうかもしれない。さらに悪いことにはチェックにかかるコストが購買額を超えてしまうこともある。(略)我々は従来の方法が、乱用を十分に取り締まることができたわけではないことも念頭に置かなければならない。


この「完璧な事前チェックも思ったほど過失を防がない」あるいは「ぼんやりしているとチェックのコストが簡単に元プロセスのそれを上回ってしまってそれに気づかない」という指摘は、ビジネスプロセスの設計と運用に関わった経験のある人なら、おそらく身に沁みて思い当たるところのがあるのではないだろうか。先のSUICAやETCにしたところで、技術の粋を集め、巨額の費用をかけて入退チェックのインフラを整備しながら、不正侵入(キセルや不正通行など)の被害は変わらず甚大深刻であり、結局中間検札やカメラ監視などの中間部分における検査も付加して、よく考えたらもともとなんのための入り口チェックだったのかよくわからない状態になっている。また、QC活動のようなものの手続きを表面的になぞっていると、Aの問題が生じたから対処策としてXのチェックを追加しよう、Bの問題が起きたので今度はYのチェックを、となって、工程が入り口から出口までチェックまみれになり、誰もその費用対効果を検証しないということが実に容易に起こる。このチェックを規制や法律、あるいは「安全安心」のための各種のセキュリティツールに置き換えれば、それは社会運営の問題でもある。

日本的な完璧主義、リスク撲滅主義にもメリットがないわけではない。それだけの費用を積み増して引き上げた製品やサービスの精度が、日本製品に対する信頼とブランド力を高めているということもあるだろうし、いわば社会全体で開発費を負担しているわけであるから、SUICAや上記の重量センサーのような、そのためのハイテク技術が大いに発達するということもあるだろう(個人的にはその手の薄気味悪い技術はあまり進歩してほしくないと思っているが)。その一方でデメリットとしては、述べてきたような、社会的コストがかかりすぎること、リソースが追いつかずに完璧が徹底できなくなると反動で自棄的になって思考停止してしまうこと、といったものの他にも、いったんこの入り口での厳重な審査を通過し、突破されると、安心しきってしまい、信じきってしまってノーチェック、ノーガード、ザルになり、リスク耐性が突然ゼロにまで低下してしまうということもある。われわれのこの発想のあり方は、大学入試や企業への入社プロセス、「御用達」や「お墨付き」や「××省認可」などの公的権威づけに対する弱さなど、見えない形で社会の隅々にまで深く浸透している。ことが思考の型にかかわるだけに難しいところもあるけれども、見てきたような様々な機会をとらえてそれを極力対象化するよう努め、リスクを前提とし、常在同居してそれを呼吸しながら、必要な注意も怠りなく保持し続ける、という形の飼い馴らし方に馴染んでいくことも必要だろう。





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2009/09/01 | TrackBack(0) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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