「ビールかけ」はなぜ不謹慎か

タレントでミュージシャンの「デーモン小暮」氏が、野球の祝勝会でよくやる「ビールかけ」や「シャンパンファイト」が不謹慎だと苦言を呈したという小話が報じられていた。これはありがちな話であるが、立ち止まって分け入ってみると、いろいろなことを考えさせる興味深いテーマでもある。

「祝賀ビールかけ」「シャンパン・ファイト」は時代に逆行する卑しい行事である。それをマスメディアが面白可笑しく取り上げるから連中も増長するのだ。中継する必要なし!
はっきり言って「不快映像」である。メディアの責任は大きいと、思い知るべきである。
飢えている人民が何億人といるこの時勢。吾輩は、「ビールかけ」「シャンパン・ファイト」と いう『地球という生命体に失礼な行為』が公然と行われ続ける限り、どんなに素晴らしい記録や 歴史的な事態が起こったとしても、その競技を応援しないことをここに宣言する。


まず、これらの行為は、行為そのものは確かに「もったいない」し不謹慎である。そのことに違いはない。世の中に腹をすかせている貧しい人たちもたくさんいる中で飲食物を粗末にするのだから。ではわれわれはなぜそんなよろしくない行為を時々して喜びを感じるのか?

それは、そのような行為が普段の規範では許されない非日常を楽しむ祭事的な行為だからだろう。以前、中央アジアかどこかの山岳民族が、収穫の祭りで小麦粉を顔になすりあって大はしゃぎしている様子を撮った記録を見たことがある。大の大人がそんなことをして何が楽しいのかというような他愛ないことだが、彼らにとってそれが心踊る楽しい催しであるのは、彼らが逆に普段はぎりぎりの切り詰めた暮らしをしていて、真っ白な小麦粉がめったに口にできないような何より貴重で上等な御馳走だからなのである。貴重なものだからこそそれを盛大に無駄にする、許されないことだからこそ決まりを緩めて羽目をはずす、祭りとはそういうものだろう。その落差が大きければ大きいほど、また、日常がむしろ貧しさや風土の厳しさや圧政その他で苦しければ苦しいほど、そこから一時解放される祭りの快楽性は増す(漫画では高橋しん「最終兵器彼女」の最後の場面がこの部分をたいへん見事に描いていた)。身分や男女関係の規範を一時的に解除する、アルコールその他の酩酊性のある薬物を摂取する、あえて危険を冒し身体を傷つける、秘蔵の神像や呪具をお披露目する、楽器を打ち鳴らし、火を燃やし、家畜や生贄を殺し、交換や取引の厳しさを忘れて財貨を気前よく散財または贈与する、こういったことは広く見られることだ。日本のお祭りでも田んぼに飛び込んで泥んこになって衣服をわざと汚したり、大声で叫んだり、素裸で駆け回ったりというものがあるし、ビールかけ以前のスポーツ競技そのものが、もともとは許可された擬似的な戦争/戦闘行為として、攻撃性を解放する祭事的な性格を持つものだった。その意味では、上記の行為も、それが「不謹慎だからやめる」のではなく、「不謹慎だからこそやる」ものなのである。不謹慎でなかったら面白くもなんともないだろう。

おしろい祭り(大山祇神社)
新米の粉を顔に塗り付けて収穫を祝い、翌年の豊作を占う
大山祗神社(福岡)の「おしろい祭り」。300年以上の伝統がある

ではそのような祭事的行為に対して、現代では一方でなぜこのように不快だ、不謹慎だと眉を顰める人が出てくるのだろうか。それはその人自身が、祭りに心理的に参加していないからである。祭りの非日常感を共有していない門外漢にとっては、そのような行為は単なる型どおりの愚かしくてけしからん振る舞いでしかない。よって、祭りが当事性のあるものではなく、メディアを通じて遠隔地まで広く放映されると、それを不快と感じる人が出てくるのは必然である。野球に興味のない人にとっては、それは高価なアルコール類を大量に無駄にするだけの馬鹿げた行為でしかない。上の発言について、熱心な相撲ファンでもあるタレント氏に対して相撲の塩撒きはもったいなくないのかと揶揄するむきもあったそうだが、この人にとって相撲はよくて野球はダメなのは、単に野球という競技に対しては祭事的な共感を持っていないからである。ロック音楽のコンサートも、それに対して非日常の快楽を共有しない周辺の住民にとっては、空軍基地のそれと同じく日常を乱す迷惑なただの騒音でしかない。

今の社会の中でこのように祭りがどうも全般に居づらい感じになり、決まり悪げにみえることの背景は何だろうか。そこには祭事行為の祭事性がばらばらに原子化し、社会全体で共有されることが少なくなっているということもあるだろうし、その非日常的な痺れの感覚が届かない遠地にまでメディアによって情報の生々しさだけが不躾に送り届けられるということもあるだろう。またこの頃では祭事行為における祭事性自体が大幅に薄れ、剥落しているということもあろう。スポーツ競技自体も、プロの競技選手にとっては「仕事」であり、どっぷりとした「日常性」そのものである(だからその日常性を剥ぎ落とすさらにメタ的な祭事行為が必要になる)。同様に地方の伝統的な祭りを観光化し、産業化すると祭りらしさが薄れてなにか薄汚れたような、堕落した感じになるのもそのためである。それはせっかくの祭事行為を日常性そのものの中に引きずり降ろすことになるからである。野球のビールかけに対する違和感が増しているのも、それが恒例行事化(日常化)、見せ物化(産業化)することで、祭事性が大幅に減衰していることも大きいと思われる。祭事性が薄れて神性のベールが剥ぎ取られてしまえば、それは単なる日常世界における不届きな行為ということになり、グロテスクで興醒めなだけの出来事になる。見せ物にしようとして日常性の気温の中にさらすと見せたい中のものは溶けてかき消えている――祭りの祭事性は手に掬った雪の結晶のような、そういう儚いものでもあろうが、反面われわれはそれでも日常に倦み、掟に疲れて非日常性の裳裾にすがらずにはいられない存在でもあるはずだ。祭りの祭りらしさが砕かれて四散し、日常性の浜の真砂に紛れて何が祭りか日常かもよく分からなくなってしまったのんべんだらりとした締まりのない世界では、人々はそれらを一挙に跳躍し、総まくりする、より大きく決定的な祭りを求めるということもあるかもしれない。





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2009/11/24 | TrackBack(0) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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