ホワイトリストと表現の自由

事業運営者とその利用者が相互の情報の非対称性を解決する手法とそこへの政府の関わりを考える際に、視野に入ってくる切り口のひとつに、ホワイトリスト/ブラックリストという考え方がある。

ホワイトリストとは、事業者あるいは利用者からみた時の優良な対象物を一覧化して、それへの接触のみを許可するものであり、ブラックリストは逆に交渉を許容しない不良と判断された対象を一覧化したものである。ホワイトリストは、網羅した他に優良な候補を取り漏らしている可能性もあるが、自分が取り込んだものは、審査に失敗してさえいなければ、優良と認められる選択候補である。対して、ブラックリスト方式は、取り除けたものの中に優良な対象が入っている可能性こそ排除するものの、交渉が許容されているリスト外の候補の中にも悪質な対象がまだ存在している可能性はその原理上残っている。従って不良な対象を排除して、優良な候補により確実にアクセスするには、ホワイトリスト型がより強力な絞り込みということになる。この観点から、これまで述べてきた事例を振り返ってみても、中小事業者向け小口金融の世界で、商工ローンが顧客からの飛び込みの融資ニーズには応えず、自分で営業対象を選別して能動的に接触する時、それはホワイトリスト方式であるし、また、葬儀の格付サービスのアクトインディが、良質な事業者をリストアップして顧客に紹介する時、これもはっきりとしたホワイトリスト方式である。見てきたように、優良な選択候補を揃えて紹介してくれるホワイトリストは、われわれにとって情報の非対称性を乗り越えるうえでたいへんに有用で心強い存在である。

一方で、この考え方が、ビジネスの現場でよく問題になり、事業者も神経を使わされるのは、いわゆる言論・表現の自由との関係においてだろう。たとえば、昨今よく議論になるように、携帯電話会社が、成人でない利用者に対して、使用にはふさわしくないサービスを運営する事業者や掲載物への接触を禁止しようと考えて、この方式のどちらかを導入する時、ことの性格上、そこに一定の道徳的な価値判断が入ることになるが、これをどう考えるかという問題である。

ホワイトリスト/ブラックリストの違いとそれぞれの特性はこの場所でも同じである。ホワイトリストを用いた表現の選別(フィルタリング)は、より強い「検閲」になるし、ブラックリストを用いたそれは、より弱い「検閲」になるだろう。われわれが実際の経験の中で理解しているとおりである。友達づきあいに例えていえば、「あの子とは遊んじゃいけません」と親が子に言うのが後者であり、「この子と遊びなさい」とより踏み込んで引き合わせるのが前者で、それだけ干渉と操作の積極性は強まることになる。ここでは両者の違いを強度の点に絞って、ホワイトリストを中心にみていくことにしよう。


存在そのものではなくその義務化が問題

経済的なサービスの優良性と創作表現の倫理性の判定という、この二つのホワイトリストの関係をわれわれはどのように考えたらよいだろうか。前者が情報の非対称性を克服するうえで頼りがいのある道具と考えられる一方で、後者がともすればわれわれの選択の自由を脅かし、抑圧しうる存在とみなされて忌避されることがあるのはなぜか。そうした問題意識のもとで、両者をあらためて見比べてみると、前者が文字通り道具として、われわれの自由な選択の中で自発的に選びとられて使用されるのに対し、問題視される場合の後者は、公権力の強制によって個々人の意向にかかわりなく使うことを強いられる、というそこの部分が違っているだけのことであることがわかる。同じ道具が自分で望んで使えばわれわれの自由を増す方に寄与するし、使うことを強いられればそれだけ損ねられる、という単純な話なのである。そうだとすると、この問題の見通しを高めるのに、前稿まででみてきた義務化された官製格付サービスという概念をそのまま横すべりさせて適用できる部分が多くあるだろうし、また役に立つことも見込めるだろう。

表現活動の世界におけるこの問題を考えるのに、判定される対象のあり方について簡単に整理しておくと、創作表現について、成人が自分自身について、あるいは保護者が未成年について、ある種類のものは、見たくない/見せたくないと考える場合、その基準や深度は当然人によって違うだろう。未成年についてであれば、厳格な教育方針を取りたいと考えている家庭はそれを厳しく取るだろうし、あけっぴろげでかまわないと考える親や、現実と早くから向き合わせることが耐性と対応力を鍛えるのに必要だと考える親もいるだろう。成人が自分自身について判断する時も同じで、各々の信条や性向や宗教によっても大きく違うはずである。自由が問題になるのは、まさにその線引きや判断が人によって異なるからである。それが一律に先験的に同じなら自由はそもそも問題にならない。一律の好みに基づいて一律に禁止すればよく、それどころかそもそもあえて禁止される必要すらない。というのはその場合、禁止されるべき表現自体、誰もが問答無用にまずいと考える食品が販売されることがないように、作り手によってはじめから生み出されることはないからである。

ホワイトリストの利用者が、それらのさまざまな基準に応えるフィルタリング機能の中のどれかを自分に最も適したものとして選んで使用する時、それは利用者が自分で考える基準に基づいて創作表現の判定を行うのを補助する、そうした社会的需要に応えるという以上のことを意味しない。利用者はそれを使っても使わなくてもいいし、どれを使えと誰から強制されることもない。主導権、選択の権利は個々の利用者の側に残っており、その自由は十分に保持され、かつそれはホワイトリストの存在とも完全に両立している。

しかしそこで、その中のひとつのフィルタリングサービスが他を押し退けて特権的な地位につき、その使用を全員の義務として強要しはじめると、事態はまったく異なる様相を呈することになる。そのようなことが現実に実行可能なのはただひとつ法権力のみであるから、そのフィルタリングサービスは、常に官製そのものであるか、あるいはその息のかかったものである。国家がその強制権で要求してくるホワイトリストをわれわれはもはや選ばないことができない。よって強制適用された格付サービスはもはや自由な評価行動ではなく規制そのものになる。同時にまた、強制であるものは、その本性上一律でもあらざるをえない。なぜなら誰かが服さなくていいなら自分が服することの理由も薄れるからであり、誰もが「平等に」同じ定義ファイルに服従し、同じように辛抱することが強制の正当性を保証する根拠になるからである。よってこの官製のフィルタリングが統治する社会では、必然的に個々人や個々の家庭の好みや考えからくる行動はそれだけ存在してはならないものとして抹消され、乱暴に整地され、非合法化される。また、先にも見てきたように、それはその画一的な一本の基準で社会全体をまるごと包摂しようと無理をするために、どこまでも大味で粗雑で最大公約数的で、四捨五入され、細やかな配慮に欠けた、誰にも適用されるがゆえに誰も満足させないものになる。これらはみなその本性からくる必然的な特質で、工夫すれば薄められたり乗り越えられたりするようなものではない。

中国の官製フィルタリングソフトのマスコット「警警」と「察察」(WIRED NEWS)
中国の官製フィルタリングソフトのマスコット「警警」と「察察」


以上からすれば、この問題で真に重要な分界点となるのは、義務化された官製サービスが存在するか否かという一点であって、ホワイトリストが存在しているかどうか自体や、それが個々にどのような内容であるかは、そのことに比べれば二義的な意義しか持たないことがわかる。それは自身としてはわれわれが独立した個人として自分の意志でどのように情報に接触するかを支援してくれる消極的な黒子の役割を担うにすぎず、われわれの自由な行動を補強してくれこそすれ、その障害にはなるものではない。よってそれは他の分野の格付サービスと同様に、大いに発展し、洗練されることが期待されてよいものである。

逆にその同じ場所に官製基準の影が射してくることについては、それがどんな種類のものであろうと、ことのほか注意するだけの理由がわれわれにはある。それが官製ソフトウェアの直営によるものや、直情的な法規制ばかりに限られるものでないことは言うまでもないだろう。たとえば行政官が民間のフィルタリング会社を呼び集めてあれこれ指図をはじめるとしたら、それは自分で定義ファイルを調合する手間と費用を節約しているという以上の意味があるだろうか。あるいはさらに踏み込んで、国家が怒り出して怒鳴り込んで来ないように民間事業者が「自主的に」カルテルを結んで利用者を行儀よくさせておくことに成功すれば、それで国家の影響力を排除したことになるだろうか。あるいは規制の重箱の隅が最新の社会科学の成果を反映させてどう複雑精妙に設計されるべきかという議論に熱中することは、既に国権の介入を当然の所与として前提にしてはいないだろうか。こういった論点がすべてそうである。民間が国家の警察権を下請けして仮想的に代行しさえすれば、それで国家の影響を実質排除したことになるのか。それは明らかに見せかけだけの話であって、国家が介入の労を自らとる必要すらなく、眉根を微かに上げ下げするだけで、在野の手下たちが恐懼してその意向に添うべく勝手に東奔西走してくれるとしたら、それは国権による支配の排除ではなくて逆にその究極の完成形ではないのか、という問いは最も基本的な出発点となるものだろうが、こうした足周りの部分すらよく認識できなくなっていて、議場に入る前に荷物係に預けて平気で置き忘れてきてしまうのだとすれば、よほど思考が混濁しているか、あるいは意図的にそう仕向けられていることの証しである。公権力が気に入らないものを明示的な指示も予算措置もなしに、民間主体が勝手に忖度して「自粛」してくれ、しかもそれが民間の自主性の発現であると頼みもしないうちから自分を信じ込ませ、得意先も教育してまわってくれるとしたら、まるで海を渡ろうとしたら眼前の波が割れて道ができるかのように、彼らにとってこれ以上に爽快なこともあるまい。

改正案は、都がフィルタリングの基準を規定していることにならないのだろうか? 櫻井氏は、個別具体的な有害情報の判断や、フィルタリングの基準設定を都が行うわけではないと説明する。「どの言葉があればフィルタリングをかけるかなどの基準・判断は民間が行うべき。その前段階において、フィルタリングに入れるべき視点を伝えることは、あくまで理念的な規定を想定しているのであり、基準の規定ではない」。

改正案では、青少年の使用する携帯電話に原則適用となっているフィルタリングサービスを利用しない場合、その旨を保護者が携帯電話事業者に申し出る際の規定を設けた。(略)すでに兵庫県では「少年愛護条例」において、青少年が使用する携帯電話においてフィルタリングを利用しない場合に、正当な理由を記入した理由書の提出を義務付ける条例改正を実施済みだ(2009年7月1日施行)。この理由書の書式は、「フィルタリング・サービスを利用しない旨の申出書」として、兵庫県のWebサイトでPDFで公開されており、下記3項目のうち、該当する理由にチェックを入れる形式となっている。東京都も、兵庫県と同様の理由を定める見込みだ。(略)櫻井氏は、「必ずしも場面を限定するのではなく、フィルタリングを外しても危険な目に遭わないよう保護者が監督するなら、正当な理由となる」と説明する。単に理由を記載するというだけでなく、保護者がログ閲覧サービスなどを利用し、子どもが有害情報を閲覧することがないよう適切に監督することを“宣言”させる意味もあるわけだ。この書面は事業者に提出し、事業者が記録・保管する。


この点でわれわれの日頃の「お上頼み」的依存精神の害が最も露わになるのは、国家のお墨付きがないと背中がどうもうそ寒いような気がして、自分たちがよくやっているかどうかの承認をわざわざこちらからもらいに行ってしまうということさえ起きかねないからである。唯一必要なことがその顎(あぎと)から遠ざかることであるようなその当の狼の口蓋に向かって、自分たちがこの問題でうまくやれているかどうかの伺いをたてに自分から飛び込んでいってしまう。そんなことではまさに「九仞の功を一簣に虧く」で、どれだけうまくやっていたところですべてが台無しであるけれども、経済的な自律性という面で日頃そういう心性に慣れて自分を習慣づけている者は、この場所でもふらふらと同じようにしてしまいがちだろうし、少なくとも自分がそのように依存的に調教した子弟たちがそちらに流れるのを押しとどめるのはなお難しいだろう。加えて医師免許と病院格付の個人と組織の違いのところでみたように、経済的な領域でいったんそうした弱みを見せてしまえば、倫理的な面についても、ずるずるとつけ入れられて、政府と権力の介入に論理的に対抗するのはより困難なものになる。政府の側は同じような首尾一貫した保護的な構えで問題に対処しているだけだからである。さらに、情報の混乱を交通整理するために、公権力を裏付けにした情報評価の一本化が必要だという政府からの説明を違和感なく受け入れている者は、ここでも同じ糖衣の薬を何の疑いも持たずに口にしてしまうだろう。政府版の「結婚紹介サービス」への「マル適マーク」に違和感を覚えないように訓練された者は、政府版の「優良言論紹介サービス」への「マル適マーク」への疑問も持つこともより少ないだろう。経済的な自由を軽んじる者が精神的な自由も軽んじるようになるにはあと半歩足を前に踏み出すだけでよく、逆にそうではないというのなら向き直って反対同士のものを接合するために、天動説における周転円のような複雑な理屈を考え出す苦役を自分に課さなければならない。経済的な自由を保持し、一線を引いておくことが、精神の自由にとってもどれだけ大切か、ということを端的に示す例だと考えられる。

総務省は28日、インターネットに情報を供給する業者に対し、“ネット版マル適マーク”として「コンテンツ安心マーク(仮称)」を与える制度を、06年度に始める方針を明らかにした。(略)マークは、業者の申請を受け、第三者機関がチェックリストなどをもとに有害でないと判断すれば付与。認定されると消費者に判別できるようサイト上にマークを掲載できる。ブラックリストで排除すると「表現の自由」に抵触する恐れがある。また、海外サイトには管理が及ばないため、まず「ホワイトリスト」方式を進める。

さらに、コンテンツ安心マーク制度の創設の推進も検討中である。民間の第三者機関が、サイト開設者に安心マークをつけることを認める。ゆくゆくは家庭の子どものパソコンでは、安心マークのついたサイトしか見られないといったことが実現するだろう。フィルタリングシステムに近いが、サイト自体は日々かわっていく中で、有害情報がないかどうかというのをメンテナンスするのはかなり面倒になる。そこでサイト開設者に、安心マークを付与することで解決できないかと研究している。<奈良俊哉氏(総務省 情報通信政策局コンテンツ流通促進室 室長)>


創作表現物の表現規制では、上述のように「未成年」の扱いが焦点ともなり、その梃子ともなるが、そもそもの話として、未成年が自分で表現物への接触権を十分発揮できずに保護者が本人に代わって決めてもよいとされているのはなぜか。それは未成年はまだ未熟で、本人にとって何が利益であるかを十分に判断ができないという前提が特殊な例外として法的、社会的に認容されているからである。同様に、それぞれの国民が何が自分の利益であるかについて自分自身で判断できず、国家がそれを本人に代わって判断してよいということが認められるのであれば、それは判断力において国家のみが真の成人であり、国民は半人前の未成年だといっているのと同じことになる。ある家庭のある親が、自分で選んだフィルタリングサービスの助けを借りて、自分の子どもの成長に良くない影響があると信じる表現物を本人の意向に代わって遮断するということは、本人が判断力においてまだ未成熟な未成年である限りにおいてはどうにか正当化されることである。しかしその同じ人物が自分の家庭を超えて、すべての家庭が自分たちと同じようにすべきだ、という強制を求める行動を始めるとしたら、さらに自分の力だけでは非力でそれが実行できないので、国家権力を唆しその力を呼び込んでまでそれを達成しようとするとしたら、それは未成年ではなく(他の家庭の親という)成人の意志決定過程に介入しようとしているか、あるいは(結局自分も含めた)成人もまた、国家の指導の前に未熟な未成年であることを受容しているか、そのどちらかだということになる。


規制と格付の違い

経済的自由と精神的自由が交叉する箇所におけるこれらの検証は、情報の非対称性の問題に対処する時の二つのアプローチである規制と格付の性質の違いについてあらためてわれわれに重要な示唆を与える。格付で情報を補強し、それに対処するということは、利用者、あるいはわれわれ一人一人の自由と主権を守り、尊重するということである。事業者がサービスを提供するのも自由であるし、使う側がどの格付サービスを纏(まと)って、それらにたどり着くかも自由である。もちろんそれは危険を外的に刈り取るわけではないから、常に一定の緊張は伴うが、それはわれわれの安全を高めるうえでむしろ必要かつ好もしいものになる。格付サービスで対処するということは、ユーザー主導、ユーザー主権ということである。創作表現の場に出ればそれが表現の自由の発露になるし、同じものが経済取引の分野に出れば市場経済による経済的自由として発現される。

一方外形的な規制で同じ課題に対処するということは、それらの自由をすべて絞め上げ、強い農薬を撒(ま)いて死なせてしまうことである。なんのためにそんなことをするのかというと、最も足腰の弱い成員でも被害に合わずに「安心」して振る舞えるように環境自体を外的に「浄化(cleansing)」しておくためである。その最も低い部分の「安心」のためいわば全体が我慢を強いられ、犠牲に供される。しかもそこまでしてさえ、彼らは結局は救われることなく取りこぼされてしまう。なぜなら一律の規制で社会をいっぺんに救済しようとすれば、その内容はどうしたって全体を公約し、包摂する中間的な、気の抜けたものであらざるを得ず、最下層はその網の目から常に例外扱いを受けて真っ先にこぼれ落ちてしまうからである。規制による一律平等主義で設計された社会では、下は高すぎて払えず、上は安すぎて希望に満たない公的保険による介護や医療のように、常に一番上と一番下が切り捨てられ、犠牲になる。そのうえ、あれも許認可これも許認可で、しかもその変更のプロセスが、議会による合意形成と官僚による硬直的な前例主義を経由してカフカ的に恐ろしく長くかかるうえに、結論も結局は膨大な条文と文書の隙間のどこかに埋もれて消えてしまうため、社会は停滞し、なにか新しいことを工夫しようとする人もみな呆れて発芽を諦め、殻の中に閉じ籠もってしまう。誰も救われず全員が不満で、希望も柔軟性もない閉塞状態、それが規制で壟断された社会の行き着く末である。

規制による問題解決で、この分野で常に大きな焦点となるのは、標的とした「特にたちの悪い」「目に余る」対象だけを効果的に除去するような制度が、どう工夫しても達成できないということである。最もグロテスクで悪質と考えられる対象だけに絞って入念に排除指定したつもりでも、汗を拭って後ろを振り返ると最も良質とみなが考え、評価も確定している優れた創造物ももふんだんに同じ飛沫を浴びていることが常に発見されてしまう。どれほど綿密に制度を設計し、どれほど衆知を注いでも、法的定義という容赦も分け隔てもない、機械的な適用の中では、雑草害虫だけを殺して「有用な」作物だけを生かすということがなんとしても可能にならない。従ってそこにはどうしても行政官の裁量的要素が入る隙間を残し(行政官の息のかかった)「主観」で両者を選り分ける工程を付加せざるをえないが、これがまたまことにもっともな不満を呼び起こすことになる。そこでいつでも繰り返されるのは、「過剰に介入するつもりはなく控えめに運用するつもりなので心配しないでほしい/人が入れ替わったらそれをどう保証するのか、そんなものは制度の名に値しない。そういう趣旨ならそれを明確に制度に書け/書けと言われても書けないからこその裁量なので困る」といった堂々巡りで不毛なやり取りである。これはなぜこういうことになってしまうのだろうか。

その理由は、第一に創造行為というものが、社会生活上の外面的な倫理規範を超えたわれわれの精神の最奥部で、ありたけの力を注ぎ込み、弓を引き絞って行われる全人的かつ極限的な燃焼過程だからである。それは充分な白か充分な黒のどちらでもなく、まさに一人の人間そのもののように、常にその入り混じり合った混合物として血に塗れて生まれてくる。だから身綺麗なものだけを分離することもできないし、そのようなものとして具合よく生み落とすこともできない。最も汚穢な腐敗のさなかに最も清冽な美が宿ることも稀なことではない。百年後のわれわれが百年前の作品に向かってそうしているように、これから投網で捕らえようとする輪の中には、百年後に至高の名品として最高の敬意をもって跪かれる可能性が高いものが現にいくつか混じっている。

さらに指摘されなければならないのは、われわれが持つ法規制や規範というものが、いわば過去の経験の集積物、あるいは精製物だということである。それは過去の歴史の中でなにかが燃えたあとに残った灰を集めてとっておいたものだ。しかしここでそれが対処しようとしているのは、それを超えてまさに今先頭で真っ赤に燃えているもの、何か新しいものが苦しみの中から生まれ出ようとしているものである。そしてそれがなぜ先頭で自分のうしろに新たな灰を積み上げながら煌々と燃えているのか、なぜ新たな姿に叫び声をあげながら脱皮して生まれ変わろうとしているのかといえば、それが過去の経験値の集積では割り切れない、そこに納まり切らないものであるからである。とはいえその挑戦は過去を軽んじ、蔑ろにするものではなく、むしろその逆であることはいうまでもないだろう。それは新たな記録を打ち立てる時の高飛びの競技者や登山者のように、それまでの誰よりも地を強く踏みしめ、誰よりも高くその頂にまでよじ登ることによって、精神のとらわれのない自由な活動の中でこれまでの道の限りのその先に、新たな価値、新たな過去を作る。ある創作作品が生まれた当座は保守的な教育団体から激しく排撃されながら、作品そのものの質によって時間をかけて評価を確定させていく時、起こっているのはまさにその過程である。それはちょうど経済活動の分野で、これまでの常識を超えたまったく新しい独創的な事業が、旧い規範を押し広げながらそれをも組み立て直していくのと同じである。

創造の営みに連なる者が、規制にとって必然的な行政官やそのお気に入り達による「裁量」をはなから信用しないのは、それが、そうした自由な創造と過去の超克の過程をくぐり抜けて事後的に評価が固まってきた創作物を事前に選り分けることができるという自己矛盾の虚構のうえにしか成立しないものだからである。行政官という過去の蔵書庫の司書たちは、判定基準からすれば境界的だが現在では既に評価が固まった作品の例を取り上げて、大丈夫、これなら自分でも裁量で「正しく」分別できる、と軽々しい自信をみせて保証する。しかし創造の側に属する者から見れば、その言葉が、まるでルーレット盤の回転が止まった後から目を当てたことを誇っているような、なんとも頼りにならない、ろくでもないものに見えてしまうのだ。これから起きる変動については彼らが現にことごとく出目を外してきたことを、創作する人間は他でもない我が身に受けた無数の咎(とが)と矢傷をもって知り抜いているのだし、身もふたもないことをいえば、だからこそ彼らは未来の創造者たる芸術家ではなくて過去の生き字引たる行政官でしかないのである。

「ビートルズは若者をダメにする」「『ライ麦畑でつかまえて』は言葉遣いが下品だ」「『鉄腕アトム』は銃器がたくさん描いてあるから暴力的」「印象派絵画はエロいから破廉恥」・・・・・こういう連中って必ず出てきます。しかも、あとで謝ったという話はきいたことがありません。

自由な格付(rating)による問題解決が規制型より優れており、もっと深い関心が向けられてよいのは、それがわれわれの創造活動のそのように一筋縄ではいかない混沌とした性格をはじめから見越し、それに対して寛容だからである。それは裸足で何の注意もなく歩けるように殺虫剤を撒いて外敵をまず死滅させておくということをしない。格付で対処するということは、外界の方を大規模に修正する代わりに、自分の方が余計な装備を身につける労を甘受するということである。格付の使用者は、自分にはなにも落度はないのになぜ街を歩くのにわざわざ靴を履かなければならないのか、なぜ裸足で歩けるようにしておいてくれないのかとぐずる規制主義者を横目に黙って靴をはき、ことによったら画鋲やガラス片も落ちているかもしれない外の世界にさっさと出かけていく。彼は外の世界を無理に締め上げることにすれば、危険も減るかわりに面白さも一緒になくなってしまうことを知っているし、その動きの激しい世界に新たな面白さと新たな危険が対になって生まれれば、自分の方がそれに合わせて身軽に新たな靴を履き替えればいいことも知っている。

規制に依る者と格付に依る者との違いがここくらい鮮烈に際立つ場所もないのではないか。両者をいくつかの観点から比較しよう。規制主義者は最も質の低いものをどうこの世から追い払うかばかりに気をとらわれているが、格付の使用者はそれによって最も質の高いものが世界から失われることの方をいっそう気にしている。規制主義は実際には自分自身の頭がそれらの愚劣なもののとりこになっていて、それに自分が占領されてしまうことを恐怖しているために、他人も巻き込んで北風を吹きつけてそれと戦おうとする。規制の最も声高な推進者と統計上のそのいちばんの加害者の属性がいつも奇妙に重なっているのはそのためである(外から縄で縛りつけ、全員がお付き合いして足並みを揃えてくれない限り他ならぬ自分がそれに対抗できないと彼らの内なる真実が耳元で囁くのだ)。反対に格付使用者は自分の心が最も質の高いものを味わい、作り出す娯しみに向けられているために、隣人や未来を担う子どもたちも同じようになることについて楽天的であるし、その日差しの恵みが影の力も自然に減じていくことも信じている。

規制主義者は自分の隣人、子どもたち、そして人間とその可能性を信じない。放っておけばなにをしでかすかわからない、見張っておかなければならない、よからぬ存在だと思って常に疑っている。彼らは地の底まで追いかけ、検索して洗いざらいのその証拠を探し出す。規制主義者によって何より愛され、案じられていると主張されている弱き被保護者たちは、彼らによってなにより疑われ、軽蔑され、その監視の目に四六時中かつ行住坐臥、付け狙われ、睨めつけられている。

規制主義者はこの世界には「雑草」だとか「害虫」だとかのような存在がイデア(範形)として実在し、固形的、静的に自分がそれを同定でき、追い回して叩き潰すことを善だと思っている。一方、格付使用者は、この世にはそれ自身で雑草や害虫であるような存在はなく、時代や文化で移り変わる観点の動的な違いでしかないと思っている。彼はそれらもまたこの世界を構成し、固有の役目を持つ、まぎれもないわれわれの一部であり、この世の最も美しい形成物といえどもその暗がりと内通し、養土として根を張らずには生まれえないことをありのままに理解している。

規制主義者はこの世界は本来安全無菌であることが常態であるべきで、危険はあってはならない異常なものだと思っている。格付使用者は、反対にこの世界は定常状態で既に人間自身がそうである程度には危険なものであり、それを消毒し尽くすという幻想に過度に人生を浪費すべきでなく、避けられないその試練に効果的に対処することがむしろ自分を高めるとすら思っている。前者はどこまでも「安心」を求め、後者はどこまでも「安全」を求める

世界が危険なものであるのは不当だと感じている規制主義者は、その必然的な帰結として、石を蹴っても釘を踏み抜いてもそれに対して自分の責任はないとも思っている。それを求められることは不当な「自己責任」要求であり、「他者責任(この自分を守らなければならないはずの他者の自己責任)」の放棄だと激しく立腹し、足をばたつかせて抗議する。彼は自分を生かすこの世界という供給者に対する生まれながらのモンスター顧客である。

規制主義者は自身で責任をとる気はこのようにさらさらないし、他方彼らが頼みの国家は国家で(失敗の)責任を取らないことにおいてこそ国家であり、官僚であるので、規制主義が主導する社会では、結局誰も責任をとらずに法令の付文と役人の裁量可能性だけが空しく積みあがっていく壮大な総・無責任状態が出現する。

格付使用者は、新しい技術、土地勘のない未知の場所はとりわけ危険であることを知っており、いっそう注意深く慎重に振る舞う。規制愛好者はそんなことに興味はない。彼は新しい土地も自宅のように気安くあり、新しい技術が慣れた家電のようであることを当然の権利として要求する。それで痛い目にあえば、そのために新しい技術の可能性をまるごと閉ざしてしまうことも躊躇しない。彼は自分が安全であるために何もしないが自分が安全であることがなにより大切なのだ。彼は自動車の前で旗を振らせる。

規制主義の司令部とその頭目たちがもっとも必要とするのは、蛇に怯じずにどこへでも踏み込んでいってどこででも怪我をしてくれる、この種の他人まかせで不用意な素足の軽装兵たちの兵団である。が、そうかといって彼は先回りして甲斐甲斐しく彼らの世話を焼き、守ってやるということはしない。その理由は、規制が完成する前には彼らは被害にあうためにこそ存在しているからであり、ちゃんと被害に遭ってくれなければ、規制で社会を縛る根拠がなくなってしまうからである。規制主義者が権力の威を借りて大いに楽しみ、税金の分け前を引き出し、天下り先を山ほどこしらえるためには、その法的根拠たる規制がなんとしても必要である。そのため規制主義者は、なにが起きるかを自らははじめから十二分に弁えながら、被害の既成事実が運転記録装置に蓄積されるまで、自分の無二の友たる彼らをあえて野に遊ばせ、好きにさせて放っておく。そのためとあらば彼らはしばらく自由主義者、自由の尊重者であることすら装うし、捜査や摘発も、「皿を嘗めた猫」に科(とが)をかぶせて点数を稼ぐよりは、大元の問題を作り出している元凶の黒幕に対してずっと不熱心だ。逆に群衆の側もそれをもって恨みに思うでもない。自分の身に何が起きているのかはじめに気づくことも当然なければ、事が済んでからさえ気づかない。それどころか大怪我をしてから計ったように真っ先に手を差し伸べてくれる規制主義者に対して随喜の涙を流して感謝さえするだろう。憂い顔の裏に隠せぬ喜色を噛み殺しながら、お前たちも決まりがないのにまかせてそんな無茶を働かなければ新たな罰も必要あるまいに、こんなことは自分としても本意ではないのだ、というお決まりの口上とともに、彼は重々しげにその場に登場する。

かくて規制主義者はその被保護者たちと同盟し、彼らと合体して醜怪な連合軍を組む。まさしくドストエフスキーがカラマーゾフの兄弟で描いたあの「大審問官」のようにである。

これをイデオロギー的な面からみるなら、規制闘争の最終的な局面においては、国家主義者とリベラリストの双方の内側から、強制権によって社会を統治しようとする点で共通する一派が飛び出してきて、両者による(一見)奇妙な同盟、奇怪なキマイラ(合成獣)が出現するのが観察されるだろう。彼らは強制、義務化、一律化、他律で人間を縛って対処するという以外の方法を知らない。それ以外の方法が存在するとは想像すらしたことがなく、その出刃包丁一本であらゆるものを料理しようとする。その点で彼らは精神の根において共通する、本質的な部分で同じ作りの人間、共通する車体のサブモデルである。規制と強制の刃が加えられないということは、彼らにとっては即「無法状態」であり「野放し」を意味するのであって、どうしていいか分からずにパニックになる。彼らにとっては人間は信頼できない、勝手にはまかせておけない、より上位の位階にたつ自分たちによって計画され、善導されなければならない永遠に半人前の存在である。とりわけ後者が土壇場で化けの皮が剥がれて苦しまぎれのあれやこれやの理屈を試し着しながら結局規制主義者でしかないことを暴露するのは、この世でわれわれが経験できる中でも最も気味悪くも無残な見せ物だろう。

繰り返し述べているように、規制主義においては、ほんの一握りの、場合によっては非常に微々たる事故や不祥事を救済するために、社会の全員がそれを利用する権利を取り上げられ、我慢しなければいけない。規制は一律でなければならない(さもなければ正当性の根を失う)からである。債務管理に失敗した一部の破産者のために、返済能力があり、現に返済している利用者も含めて全員が融資を受ける権利を取り上げられ、あきらめなければならない。一人の容疑者がその作品に影響を受け、唆されたと供述すると、全員がその作品に接するのをやめなければならない。なにかの食品を一人二人が不注意で喉につまらせると、その商品の生産と出荷はすべて停止されなければならない。悪用や誤用のおそれがあるので、過疎地で近くに買える店がない老人や、排卵検査薬などの対面で買いづらい薬を買うのに重宝していた利用者も含めて、全員がネットで医薬品を購入するのはやめなければならない。すべて同じである。規制は一律に、機械的に適用されなければならないからである。ところで、その一律の縛りつけにおいて、最も甚大な被害を受け、脚を取られ、地に叩きつけられて台無しになってしまうもの、それこそは規制精神が甘やかし、救済しようとする不用意と精神的弛緩の正反対の極限で活動しているもの、すなわち「創造」である。それは経済的なものについても芸術的なものについても等しくそうである。


フィルタリングと企業

以上の整理から導かれる結論としては、われわれは、国家がどんなホワイトリスト、どんなフィルタリング機能を持つかについてあれこれ頭を悩ませ、「議論を深める」必要などはない、ということである。そもそも国家はそうしたものに関与させない、触らせないということだけが重要であって、なにをどのように持つかなどは問題ではない。むしろそれをどう持つかを議論することは、持つことそれ自体は当然の出発点としているのであるから、その時点で既に致命的に行き違っている。

逆にこの最初の仕切りを事業者の側からみれば、彼らもまた自分の提供するフィルタリングサービスの格付内容についてこの点から過度に神経質に思い煩う必要はないということになる。おのおのが自分が妥当と信ずる「ドレスコード」に基づいて自分の営業の範囲を粛々と清掃し運営すればよいだけである。最終的にそれが社会通念から見て「コンプライアント」であるかどうかは、顧客が厳しく品評してくれるだろう。しかしそこに国家が登場してあれこれ指図を始めれば、自主的な経営の指揮権はこの点では無効化され、解除されてしまうのであるから、それぞれが持つ基準のいかんにかかわらず、結束してそのような介入を拒否し、押し返すというのが最も必要な行動ということになる。逆に国家の関与を見かけ上だけ弱め、糊塗しようと裏庭に呼び込んで馴れ合ったり、あるいはその鼻息の方向に気を使ってお先棒をかつぐなどいうのは、それとは正反対を行く対応である。

検閲というのは確かにきわめて強力な機能であり、企業が手にしてさえ相当に危険な刃物である。だからわれわれは企業がそれをどう扱うかをしっかり監督しておいてほしいと国家に頼みにいくような愚を犯すのではなく、むしろそうであるからこそ、それをせいぜい企業が手にしている程度のところで我慢し、強制権を持つ国家には触らせないように気を配っておくことが重要なのである。せいぜい企業がそれを弄んでいる限りは、それがどんな強大な独占企業、支配的なOS企業や検索サービス企業であろうとも、われわれはそれにいやだと口にするだけの権利、未知の新たなサービスがその場所を占めるべきだという「需要」を抱く権利だけは最低限留保している。それが十分有形で根拠のあるものに顕在化すれば、新たな企業が横から目敏くそれをつかみ取って、内々に支持を失っていた旧い企業は、特に現代のような移り変わりのきわめて早い時代では「可及的に速やかに」追い払われるだろう。そのような融通無碍なシステムと、国家がそれを公権力で義務として固定化、コンクリート化して固めてしまうこととの間にはまだ無限の開きがある。

国家がこの場所に出てきてはいけないのは、技術進歩が早く法律整備で対応していたのでは間に合わないからでも、民間業界の自主規制にまかせておいてほしいからでもない。もっと根源的、原初的な問題である。





関連記事 情報の非対称性と格付ビジネス(目次) 「官製資格ビジネス」あれこれ 情報の非対称性と「政府」の役割 「赤旗」の苦境をどう読むか MW


2010/04/26 | TrackBack(0) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

この記事へのトラックバック
FC2 Analyzer
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。