|
はやぶさ帰還時のtwitter公式アカウントのツィート |
そもそもプロジェクトを進めた科学者たちがそうした感情の昂りを隠すことができなかったし、運営組織自体も、宇宙開発のさらなる予算獲得を目指して、人々のそうした心情に積極的に食い込み、掻き立てた。公式サイトでは探査機は「はやぶさくん」であり、メッセージボードには、プロジェクトの運営者に対してよりも、より多く「はやぶさ」そのものに対して、応援と共感のコメントが殺到した。
笑みが漏れたのは、心境の変化を問われた場面。「行方不明になってからだと思う(2005年末の通信途絶)。決してオカルト的にやっているわけではないが、あるところから先はやっても分からない、そう思わざるを得なかった。神頼みもするようになった」と振り返り、「越えられそうもない困難を克服して、このような会見が開くことができた。今でも夢のようだ」と喜びを見せた。
しかし、はやぶさの最後の重要任務は、小惑星の試料を納めた可能性がある内蔵カプセルを機体の前面から地球に向けて放出する作業。 それに必要な姿勢を保つため、底面のカメラは地球が見えない方向に向けている。相次ぐ故障を乗り越えて帰ってきたはやぶさに、その「目」で、もう一度地球を見せたい――。はやぶさ計画を率いる宇宙航空研究開発機構の川口淳一郎教授らが撮影を思い立った。カプセル放出から大気圏突入までの約3時間、残るエンジンなどの力を振り絞ってカメラを地球に向ける。
それらの激しい感情の動きの中に、今なお深く根を張っている日本社会のアニミズム的な伝統を感じ取ったという指摘は多く見られたし、以前書いたとおりそれは自分の見立てでもある。その情動の海のうえに、ロボットに対して強い思い入れを抱く日本の特異なロボット産業や、ペンで引いたシンプルな枠線の中に深く感情を移入する漫画やアニメの文化も乗っかっていることも、あらためて見せつけられた(「はやぶさ」の擬人化漫画も素晴らしいものがたくさん作られた)。
すべてに神が宿るアニミズムとアニメーションは語源が同一である。
しかし、ここで取り上げるのは、われわれのその擬人化感情への親密さそのものではない。焦点をあてたいのは、もう一段踏み込んで、それが今回のように強く引き出されるのは、どういう条件下においてなのか、ということについてである。今なお濃厚なアニミズム原理を基底に駆動している日本社会は、それが強調された形でいちばん観察しやすい場所であるはずだ。
出発点として提起できる仮説としては、「思うままにはならないが、つながりは切れてはいないこと」といったあたりになるだろうか。相手の対象物が、リモコン操作で完全にわれわれの意の通りに動き、そこに予想外のことはなにも起こらないのであれば、それは無機の機械以上のものにはならないが、われわれからの要求、指令に対して不測の突発行動が起きる場合、それは相手の側の「抵抗」とか「主張」といった印象をこちらに喚起しうる。同時に、同じ思うままに振る舞ってくれないとしても、こちらとの交信が完全に切れてしまっていて、糸が切れた凧のように勝手に振る舞っているのであれば、その場合も内面同士を結ぶつながりの回路は開かれないのではないか。そのことは、仮に「はやぶさ」において、先方との交信が完全に途絶えてしまって、探査機が自分の力だけでどうにか仕事をし終えて、また忽然と天空に姿を現したのであったなら、はたして同じだけの振幅の感興が生じただろうか、ということを想定してみれば想像できる。
こうした観察は、ロボットやソフトウェアが単なる産業機械や補助器具を超えて、われわれの生活の中に溶け込み、親しみやすさとパートナー的性格を備えるための壁を乗り越えるうえで大きな示唆を与えるもので、本職の技術者たちはもっとはるかに深い視点で行っていることだろう。似たような社会現象で、人工の音声合成ソフトウェアとして大人気になった「VOCALOID(初音ミク)」も、それが使用者の擬人化感情を強く引き出したのは、初期の設定性能でちょうど程よい具合に「出来が悪く」、完璧でない歌の生徒だったところが、使い手からみれば思わずかまってやりたくなるような可愛げが感じられてよかったのかもしれない。
ここにみられるように、われわれの中で擬人化感情が強く発動される相互関係の原形のひとつに「育てる(子育て)」という様態があるだろう。「はやぶさ」も開発者は「自分の子どものようなもの」と言っていた。子育ては、心理的関係としてみれば、ちょうど彫刻家が無秩序な石くれの中から意味を持った立像を掘り出すように、ただの物質と無機の非共感の溶質の海の中から、共感可能な対象を掬い上げ、拭い出していく過程である。そこにおいて無二の導きとなるのは、まだ応えないものが応えてくれることを信じて呼びかけを続ける擬人化感情の前のめりの、あるいは早とちりの過剰さである。それは火をおこす時に、燃えついて自分で燃え続けるまでは、思いきり力をこめて摩擦を加え続けるのに似ている。育ての親は、そこからいずれ共感可能性が生まれてくることを信じて、木石のような、人形のような存在にひたすら話しかけたり笑いかけたりし、意味ある反応が少しでもみられたように思えばめざとく見つけて大喜びし、褒め称え、鼓舞する。そうした過程を通じて、ゼンマイ仕掛けの反射反応が中心だった存在が、眠りから目覚めるように育ての親を個別に認識し、眼差しを絡め合い、言葉で応える存在へと変わっていく。ただの物質の塊、木偶の坊に近い状態が、働きかけによってそのように少しづつ心理的な感応性の高い関係の中に入ってくる、この移り変わりの感覚が、われわれの子どもを見た時に感じる本能的ともいえる「可愛らしさ」の感覚の大きな部分を形作っている。
山川草木悉有仏性
ところでこうした考察はおのずからさらに先へと歩を進めることになる。「はやぶさ」はどれだけ擬人化されようとも当然ただの機械である。では、われわれが擬人的な感情の交感を投げかける他の存在はどうか。あるいは、上記のような研究開発がもっと進んで、人工的な製造物がわれわれにとってもっとはるかに親密な、感情の絡み合いの中に組み込まれて存在するようになった時、そこにできるのはどのような関係なのか。そこにあるのは新たな「バーチャル」と「リアル」に対するわれわれの感覚の惑乱なのか。それとももともとそういうものと割り切るべき何かなのか。以前、使っている机の上に小さな蜘蛛の子が入り込んできて、一心に這っている様子を気散じにしばらく眺めていたことがある。意地悪をして指で行く手を遮ってやると、少しとまどった風な様子を示して向きを変え、八本の細い脚を美しく操りながらまた進みはじめる。虫眼鏡でみると、透き通った頭部の上には八つの丸い眼が整然と並んでいて、まるで精密な軍事機械のようでもある。行く手に障害が現れた時に対処しようとする挙措には、一瞬の「ため」、迷いのようなものがみられ、蟻などの他の昆虫の同じ動作と比べるとかなり知能が高いようにも感じられる。さて、この蜘蛛の子どもは機械だろうか。あるいはたとえば、あなたが家で黒猫を飼っているとして、台所で腹をすかせて足元にまとわりついてきたのを抱き上げると、顔を見ながらさも情けなげににゃあと一声鳴いたとする。この黒猫は機械か。
中田博士は「頭をなでると手足をふってよろこびを表現する」「逆に押さえると手足を縮める」という規則をペットロボットに用意し、その規則を「(1)100パーセント規則どおりに動作する」「(2)50パーセントの確率で規則を守る」「(3)規則を無視してランダムに動作する」と3つのパターンに割り振った。そしてそのロボットを人に見せて「もっとも“知的な印象”を感じるのはどのパターンか」と反応を確認したところ、やはり知的な印象を与えたのは(1)の、規則どおりにふるまうパターンだった。しかし、では(1)の反応をつねにペットロボットにとらせればいいのかというと話は別で、質問を「もっとも“かわいい印象”をあたえるロボットはどれか」と変更すると、おもしろいことに人間の回答は、全部規則どおりの(1)のパターンから、完全にランダムな(3)のパターンにまで分裂してしまうのである。
たとえば教授は「1時間いっしょに過ごして、相手に人間だと思わせることができるアンドロイドは、あと100年かけてもできないだろう」と言うが、しかし2秒の時間であれば、相手に悟らせないことはすでに可能なのだそうだ。被験者に2秒間、アンドロイドを見せて「アンドロイドだと気がつきましたか」と問うとわからない。この2秒という時間感覚はけっこう長い。
ここで研究者がこじ開けることに成功したこの小さな二秒は、人間的に充分に有限な短さにおいて最後には結局気づくことのできる技術の限界をあらかじめ線引きしたものなのか。それとも他の多くの技術がそうであるように(たとえば倍々で伸びて、当初は不可能と考えられていた銀塩カメラやほんものの網膜すらも結局超えてしまいそうなデジタルカメラの感応度など)、膨大ではあるが決して無限ではない技術的な攻勢によって乗り越えることのできる、充分に意義ある長さの時間が、潜在的な起爆力として折りたたまれて内蔵されたものとみていいものなのか(たとえばそれが50年にまで延ばせたとしたら、もはやそれは「錯角」といえるだろうか)。
|
NHK広報担当のある日のtwitter投稿 |
「観察者」のつもりの人間自身の方はどうか。かつて精神分析の創始者のS.フロイトは、彼の心理療法において治療者と患者の間に形成される対人関係の微妙さを、著作の中で印象深く「恋人」のそれに例えて表現した。
しかし、みなさんは、批評に際して、問題が大きいということと、その特色が人目をひくということとを混同してはおられないでしょうか。非常に意義深いことであるのに、ある時期、ある条件のものでは、全くかすかな徴候としてしか姿を見せないというような事柄もあるではありませんか。私は、造作なくいくらでもその証拠をごらんに入れることができます。ここにおられる方々のうち、若い男性諸君におききしたい。みなさんは自分が女性から好意をもたれていることをほんの小さな兆候から読みとっておられるではありませんか。まさか赤裸々な恋の告白をされたり、情熱的な抱擁を受けてはじめてそうかと合点なさりはしますまい。人には気づかれないくらいの眼差しや、ちょっとした身のこなし、ほんの一秒くらいながく握手するだけで、証拠はもう充分ではないでしょうか。
恋する人が、ちょうど「はやぶさ」に対するそれのように、今にも切れそうなほどの、か細いつながりの糸を愛しみ、それをたぐって向こう側にあるものに想いを寄せる時、そこにあるものはなにか。それもまた機械か。
|
「はやぶさ」からの最後の信号(JAXA) |
どこからが機械でどこまでが機械なのか。外から客観的に双方を眺めれば、「はやぶさ」的でない何かがその特権に安住しつつ「はやぶさ」に感動しているのか。それともそれとも知らずに「はやぶさ」が「はやぶさ」に感動しているのか。われわれはこれから機械と暮らすことになるのか、あるいは既に暮らしているのか。あるいは機械「が」暮らしているのか。機械だけが暮らしているのか。自分は本当の人間なのかと煩い悩むレイチェルはレプリカント(製造品)なのか。あるいはそれを冷徹に判定テストで識別する務めにおいて当然自分は「こちら側」のつもりでいるデカードもレプリカントなのか。二人が惹かれ合うのは、「にせもの」と「ほんもの」の壁を超えたからなのか。それとも「にせもの」同士の、知るか知らぬかのままに凍える不安の埋め合わせからなのか。SNSやネットゲームで「bot」と気づかずに相手をしていたと愕然とするアカウントは、そのことによって自動的に「bot」ではないことの市民権、あるいは証明書を獲得したのか。それともそれもまた、そう表明することで、いっそう巧妙にそれらしくみせかけて懐に入り込もうとしている、後から気づかず相手をしていたことに愕然とさせられる、さらに手の込んだ「bot」なのか 。
われわれのもつ思い入れの前のめりの過剰さと積極的、能動的な走査性が、共感的な関係を形成するうえで起点として欠くことのできないものであり、「間違った」対象にも任意に投げかけて飛び移ることができるという現実において、それはそのような問いを呼び起こさずにはおかない。
|
カラー版 小惑星探査機はやぶさ ―「玉手箱」は開かれた (中公新書) 川口 淳一郎 (著) 中央公論新社 |