トイレの素晴らしさ

成功して名を遂げた経営者の中には、ときどきトイレ掃除に強いこだわりのある人がいることは知られている。中には社員に素手で掃除することまで強いて嫌がられているような例もあって、そこまですると行き過ぎなのはたしかだが、それほどではなくとも、客の立場で外食やカラオケ、スーパー・コンビニの店舗に対して、手洗いが清潔なことを贔屓にするかどうかのポイントにしている人は多く、トイレ掃除を自分でするのが嫌いな人も、逆にそういう人ほど、客として利用するときにはチェックがうるさいのが常である。目当ての男性あるいは女性と身を入れて交際するかどうかを決めるのに、自宅のトイレをどんな状態で使っているかという点は、雑誌の恋愛相談などでもひそかな判断ポイントとしてよくあげられているし、個人や企業相手に資金を貸し付けたり取引を開始する際の与信マニュアルでも、トイレの確認は、その企業や個人の経営姿勢なり生活態度なりを外面的な兆候から見抜く審査点のひとつになっているという話はふつうにある。

それらの経営者ほどではなくても自分もトイレや水回りのことにはそれなりに思い入れがある。掃除も自分で熱心にするし、メンテナンス会社などの本職の人たちのテクニックや、関連企業の動向なども注意してよくみている。手入れは、いったん手を抜いて汚れが残ってしまうとおっくうになってますます汚れてしまうが、こまめにしていればそれほど苦にならない作業で、いつも気持ちよく使え、費用も安上がりだ。強い化学薬品もまったく使わないか、最小限の使用だけで済む。

とはいえ、以前はけっしてそうではなかった。関心もほとんどなく、掃除もご多分に洩れず、大嫌いだった。

考えが180度切り換わったのは、やはり阪神大震災のときである。自分が直接影響を被ったわけではないけれども、被災した人たちがトイレの問題で非常に苦労しているのをみて、水洗トイレや、あるいはそこから先の下水道の設備というのは、ふだん意識せずにあたりまえのように使っているけれども、現代の生活の中でわれわれが健康で衛生的に生きていくうえで、決定的に重要な、このうえもないくらいありがたいものなのだ、ということを痛感させられた。それから心を入れ替えて、まったく違う姿勢で考えるようになった次第である。昔、メガネは顔の一部だ、という秀逸なCMコピーがあったけれども、視力を保持するための眼鏡と同じように、トイレもまた、腎臓や肝臓、大腸などのような体内環境の浄化のための器官と同じ、自分の身体の事実上の一部、その延長である。

東日本大震災で神戸市は13日、仙台市に災害用仮設トイレ390基を提供すると発表した。吸水シートや凝固剤が排せつ物を固め、ゴミとして燃やせるタイプ。市が地震の際に避難所となる小学校などに配備しておいたもので、13日午後からトラックで順次搬送する。送り先は仙台市の宮城県消防学校。担当の三宅聡さんは「阪神大震災では仮設トイレがなく、校庭の地面に穴を掘って排せつした。食料の次は排せつの問題が大切。できるだけ早く送りたい」と話した。

視点が変わると、見える眺めもまったく違ってくる。日本のトイレメーカーが不利な状況から出発して高いブランド価値を築いていることにおおいに驚きと尊敬心を抱くようになったし(システムキッチンなどの周辺分野に事業を拡大するには高いブランドイメージを保つことが不可欠だ)、外国人が日本に観光に来て驚嘆することのひとつに、トイレが清潔でかつ高機能なこと(人を関知して自動で便座が開くとか、やりすぎなところもあるが)をあげるところにも自然に注意が向くようになった。

また、そうした心向きの変化の中で、もっと光があたってその苦労が広く知られて欲しいと願っているのは、下水道の事業に携わっている人たちの仕事ぶりである。今回も地震振動や液状化によって、広範な地域で下水道の設備が破壊されたが、電気が復旧し、上水道が先に復旧しても、下水の機能が回復しないと、排水を流せないから、炊事も洗濯もトイレも入浴もできず、身動きがとれない。事実上その地域は居住がほとんど不可能になる。下水道こそが都市機能のほんとうの要の中の要であることが、こういうときほど実感されるときはない。

東日本大震災の後、習志野市の沿岸部では下水道管が壊れ、1万3400世帯の約2万9000人が不便を強いられている。上水道の復旧に伴い、汚水が住宅街のマンホールからあふれ出る被害も。市は下水道が復旧していない地区の住民に対し、下水を流さないよう呼びかけている。(略)問題が生じているのは、下水が流れにくくなる程度の被害だった地区。仮設トイレもなく、上水道が通常通り出るため、住民がトイレや風呂に使用した水を普通に流すと、汚水が住宅街にあふれ出る。香澄地区などで実際に被害が出ているという。市下水道課は「仮配水管の設置に3カ月以上、正式な配水管は液状化が落ち着いてからなので1年以上かかる。


また、平時においても、現代の都市機能の中では、下水道の仕事というのは、都市の人工の環境と自然の間の境目になる最後のとりでであり、文字通りの戦場に匹敵するような高い緊迫感のある仕事である。たとえば、スーパーやホームセンターにいって、台所まわりの商品棚を眺めてみよう。さまざまな種類の洗剤だの芳香剤だのなんだのがずらりと並んでいるが、それらがみな売れて消費されるということは、最終的にはそれらが下水道を通じて一切合切全部流れ込んでくるということである。化粧品や医薬品についても同じだ。下水道事業者は、それら一切を引き受けて、すべて綺麗に分解し、無害な状態にまで持っていったうえで河川湖沼に戻すのが役目だ。化学物質の検出と分解には本来それぞれ固有の対処が必要で、彼らがそれにしくじると、後ろで面倒をみてくれるところはなにもなく、それらの成分はそのまま外に出ていってしまうことになる。だから下水道事業の従事者以上に、その都市の生活状態の実相に通じている人たちはいないし(違法薬物のその都市の真の使用実態も下水の成分を分析することで正確に測定できるという)、日々いきなり何が流れこんでくるか分からないような緊張感の中で、新たな課題と次々に格闘する仕事は、想像を超えた、英雄的といえるくらい偉大なものである。国土の狭い日本では、下水からの排出口と上水道の取水口がかなり近接した状態にならざるをえないケースも多く、われわれが安全に上水道の水を使えるのも、これらの静脈側の仕事をする人たちの、奮闘があってこそである。こういうことはもっと広く知られ、高く評価されてよいことだ(入口側の製品を作る側売る側ももっと気を使うべきであるのも当然だ)。世の中にあるどんな仕事も、それぞれがなにかしらひとの役にたつ立派なものであるが、下水道にかかわる仕事は、その中でもひときわ貢献度の高い、特に立派なものである。

インフルエンザ流行期に、治療薬タミフルの成分が下水処理場から河川に放流された排水中に高い濃度で含まれていることを、京都大流域圏総合環境質研究センター博士課程3年ゴッシュ・ゴパールさんと田中宏明教授らが突き止めた。インフルエンザに感染している野鳥などがこの水を飲んだ場合、ウイルスがタミフルの効かなくなる耐性になる恐れがあるという。(略)沈殿処理した下水を浄化する標準的処理を行っている2処理場ではタミフルの40%以下しか除去できていなかったが、標準的処理に加えてオゾン処理もする処理場では90%以上除去できていたこともわかった。人が服用したタミフルの約80%は、そのまま体外に排出されているとされる。

東京湾の魚にみられる「メス化」現象の主な原因は、下水処理水に含まれる天然女性ホルモンの可能性が高いことが、東京都環境科学研究所の調査でわかった。(略)同研究所の和波一夫研究員らは02~03年、東京湾の京浜運河など、下水処理場に近い海域を中心に魚19種類861匹を捕獲し調査した。 結果によると、ボラ、コノシロ、サッパ、ヒイラギのオス計23匹のうち5匹の精巣内に、本来メスが持つ卵細胞があった。卵細胞はなくてもビテロジェニンの血中濃度が、汚染の少ない九州などの海のボラ(オス)と比べ、数百~数千倍に上るボラもいた。下水処理水には、メス化の一因とされる人工化学物質の環境ホルモン(内分泌撹乱(かくらん)化学物質)も含まれるが、天然女性ホルモンの方がメス化を促す作用が強いという。同研究所は既に実験で、下水処理水で育てたメダカがメス化する現象を確認している。


とはいえ仕事自体はいくらこうして立派でも、その一方で現実の事業運営は惨憺たる状況というのもまた事実のようで、なんとも残念なことだ。非効率な通常運転で資金的にも稼働面でも融通のきかないところに災害でさらにダメージを受けたら致命的であるし、仕事自体の意義の素晴らしさも、現場で実業務に携わる人たちの仕事への意欲と向上心も、事業体の経営が不健全では盛り立てられずに阻害されるばかりだ。このあたりの話は機会をあらためてまた別に検証しよう。

「下水道事業は経営危機目前の状況です!」。長野県伊那市が全約2万6700世帯にこんなチラシを配ったのは09年末のことだ。「企業経営の原則によらず、国の景気対策に併せ、短期間に整備を進めた」「効率面からの検討がなされないまま、市内全域に下水道整備を進めた」。チラシには、08年度の純損失が5億1500万円に上った理由が記されていた。(略)県庁所在地で唯一、07年度の一般会計と下水道会計の「連結決算」が地方財政健全化法の「早期健全化基準」に抵触した和歌山市。(略)市は「一般会計が厳しくなり、基準外の繰り入れができなくなって赤字が増えた」と説明する一方、整備計画の過大さも認める。現在の人口が36万9088人の市は、昭和の終わりには人口減に転じたが、約37万人だった計画人口を約32万8000人に修正したのは06年度だ。(略)下水道がバブル崩壊後の景気対策に使われたのは、地域の中小業者に発注でき、用地取得費が少ない分、業者に落ちる金も多いためだ。道路やダムなどの整備が一段落していたという事情もある。国土交通省幹部は「返済はいずれ考えればいいと脇に置き、雇用対策にもなると地方は飛びついた。国も事業を探していたし、政治家の票にもなった。下水道の債務の多さは、みんなが共犯関係にある」と自戒を込めて話す。


本題に戻ると、今回も、被災地域では、これらの水回りの問題で、言葉に尽くせぬ苦労があることは変わっていない。長期間入浴できないままだったり、トイレを我慢しようとして、あるいは、そのために水分や食事をじゅうぶん取らずに、体を壊してしまう人も多い。残念ながら災害のたびに同じような状態が繰り返されているのだが、そうした中で、日本の素晴らしい関連メーカーに期待しているのは、これらのトイレや入浴などの問題について、現地に持ち込めるような、なにか移動式の装備が作れないか、ということである。たとえば、大型トレーラーに自己完結式の設備を積んで、あとは川の水くらいがあれば、気持ちよく温かいシャワーが浴びれたり、間に合わせの仮設トイレなどよりずっと落ち着いて、衛生的に用が足せたりできたら、被災地の生活環境はどんなにか改善され、気持ちにも余裕が出ることだろうか。食事の方では、インスタントラーメンのメーカーや、ファストフード事業者が、災害支援兼用でいわゆる「キッチンカー」を常備していて、今回も現地でフル回転していたが、それと同じイメージである。

その意味では、今回注目したのは、洗濯というこれまた必要不可欠な生活行為について、この種の移動設備を持ち込んだ事業者がいた、ということである。当然ながら非常に好評で、おおいに喜ばれたそうだ。

津波で自宅を失った人など400人以上の市民が寝起きを共にする多賀城市総合体育館(宮城県多賀城市)。その入り口付近に大型車両が横付けされ、2台の業務用洗濯機が一日中がらがらと回り続けている。被災地に乾燥機付きの洗濯機を搭載したトラックで乗りこんだのは、静岡県伊豆の国市に本社を構える業務用洗濯機メーカー・東静電気の社員である須田雅太郎さん。(略)多賀城市内でも被災を免れたコインランドリーには長蛇の列ができており、「4~5時間待ち」も珍しくないという。ところどころの避難所に家庭用の洗濯機はあるというが、乾燥機がないのが難点とされている。避難所には洗濯物を干す場所がないためだ。須田さんらの活動は営業を目的としたものではない。そもそも持ち込んだ洗濯機はデモンストレーション用で、「震災時に役に立つとは思わなかった」(須田さん)。だが、プロパンガスボンベ10本(10日分)を搭載するすぐれもので、「水さえあればどこの場所でも動かすことができる」


トイレや入浴についても同様に、住宅展示場等でのデモンストレーション用や、イベント会場、キャンプ場などへの貸出し用として用意しておき、災害発生時には装備を対応のものに入れ替えてただちに被災地に送り込む、というような運用が想定できる。とはいえ、本職の人たちだって当然このくらいのことは考えて切歯扼腕しているだろうから、それがまだ実現していないというのは、技術面でそれだけハードルが高いということなのだろう。今回も、現地に自己完結型の入浴設備を持ち込めたのは、自衛隊と米軍だけだったようだ。実現が難しいことが容易に想像がつく分野だけに、民間事業者の工夫で、同等あるいはそれ以上の支援が可能になればインパクトは大きく、いっそう素晴らしいことである。





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2011/05/24 | TrackBack(0) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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