実際にどの程度の期間と実現性で核武装が可能になるのかとは別に、この潜在抑止力が国際政治の中で有効に機能していることは誰も否定できない事実である。多くの国が「原子力の平和利用」をしたがるのも核兵器への下心とこの潜在的抑止力を狙ってのものであることは隠れもなく、そうでなければ核保有国を中心とした先進国クラブが、それらの動向や核物質の管理にあれほど過敏になる理由もない。
フランスが原発に舵を切ったのは、地球環境問題がやかましく言われるようになった1990年代以前のことである。フランスはCO2を排出しない発電方法として原発を選んだわけではないのである。それには、西側にいながら米国と一線を画したいと考えるドゴール以来の外交方針が関連していると考えるべきであろう。同様の思いは、国防に関心が深いスウェーデンやスイスにも共通する。また、フィンランドは常にソ連の脅威にさらされてきた。そう考えると、西側の中でもイギリスの原発発電量がスウェーデンよりも少なく、フランスの約1割に過ぎないことがよく理解で きよう。イギリスの外交方針が米国と大きく異なることは多くない。原子力の力を誇示して、ことさらに米国と一線を画す必要はないのである。韓国に原発が多いことも理解できる。米国が作り出す安全保障体制の中で原爆を持つことは許されないが、北朝鮮が持っている以上、何かの際に原爆を作りたいと考えている。その思いは台湾も同じである。
イラン国営通信(IRNA)は4日、南部ブシェールにある同国初の原子力発電所が稼働を開始したと報じた。西側諸国が核兵器への転用の可能性を懸念する中、当初の予定より大きく遅れてのスタートとなった。(略)原発が実用化されるのは中東の湾岸諸国でこれが初めてで、イランは化石燃料への依存低減と完全に平和的な原子力計画を実現する核施設のネットワークになると主張している。イラン政府は、同国が進めるウラン濃縮作業が原発燃料や医療・農業に利用される低レベルのものに限られていると説明。しかし、濃縮作業を山岳地帯の施設に移す動きも見せている。
一瞬耳を疑うようなニュースが飛び込んできた。韓国政府系の原子力研究機関がひそかにウランの高濃縮実験をしていた。そんな事実を韓国政府が国際原子力機関(IAEA)に通告した。IAEAの査察官が現地で緊急の調査に入った。実験はIAEAに全く申告されていない。核不拡散条約(NPT)をないがしろにする行為だ。発電用の低濃縮ウランと違い、80%という高い濃縮度は、核兵器開発を疑われても仕方がない。(略)韓国ではかつて、朴正煕軍事政権の時に核開発に手を染め、米国の圧力で中止した経緯がある。今回の実験が行われたのは、北朝鮮に太陽政策で臨み、金正日総書記との首脳会談もした金大中前政権の時代だ。金政権が自ら核の能力を持とうとしたとは思いたくない。とはいえ、高度な設備や技術が必要な実験を一部の研究者だけで、できるのだろうか。
自由党の小沢一郎党首は6日午後、福岡市内で講演し、軍事力増強を続ける中国を批判して「あまりいい気になると日本人はヒステリーを起こす。核弾頭をつくるのは簡単なんだ。原発でプルトニウムは何千発分もある。本気になれば軍事力では負けない。そうなったらどうするんだ」と述べた。小沢氏は、最近会いに来た「中国情報部」関係者に対して、自身が語った言葉としてこの発言を紹介した。小沢氏は「願わくば中国と日本が共生できる社会が望ましい」と両国の連携強化が真意であると強調したが、中国が暴言と反発するのは必至。日本の核武装の可能性まで持ち出して、中国をけん制する姿勢は内外で波紋を広げそうだ。
前回、核兵器保有と原発事故対処の関係について検証したが、このうちスウェーデンは、核兵器保有国でないにもかかわらず、今回の事故で、日本に原子力災害の環境下で活動できる作業ロボットの提供を申し出ることができた(2011.5.17 朝日)。核兵器保有国でなくても、原子力利用と安全保障との結びつきについて意識を強く持ってきた国ほど、それがもたらす災害への感度も高く保持しているだろうことは当然想像できる。
原子力の推進側が軍事上の戦略的意図を押し包んで動いてきたことが、このようにひとつの現実であるのならば、それを阻止しようと動いてきた側にも、同じ文脈からの誘導が働いてきたことを推量していけない理由はなにもない。このことは、東西冷戦の最前線という地政学的位置にあって、現にありありとそれが目の前で繰り広げられてきたところを目にしてきたたわれわれの国について特にいえる。
日本国民がなぜ次第に賛成反対以前に原子力の具体的な問題に無関心になり、推進側に白紙委任状を手渡して距離をおいていったかの理由の大きなひとつとして、多くの論者が、それが本来関係のないイデオロギー対立と政争の具になり、それにすっかり辟易させられたことを指摘している。これは今なおそうであり、ひどい悪臭に息を詰めながら、偏った空想論に厚く覆われた草むらを掻き分けることなしには、その内部に一歩も近づくことができない状態は少しも変わっていない。
まず、今後、国内で原発を新設することは極めて困難である。定期点検中の原発を再開するだけで、現状は大変な政治的な軋轢(あつれき)が生じている。原発の耐用年数を40年とすると、新設が行われなければ、2050年までに日本の原発はすべて停止して、廃炉の準備に入るしかない。また、廃炉は即時にできるのではなく、数十年単位の時間がかかる。つまり、「即時廃止」「段階的廃止」「利用継続」といっても、結局同じようなプロセスになり、実態は大して変わらないのである。しかしながら、原発廃止、原発維持と、まるでイデオロギー闘争のように論じている人が多い。これが無意味であることに気が付かなければならない。(略)福島原発事故以前、原発反対論者には「左派」というレッテルが貼られ、原発推進論者は「原発絶対神話」を前面に立てた。結果として、リスクとベネフィットの最適化という、本来行うべき合理的な議論が封じられ、悲惨な事故の要因となった。今、逆に「原発維持グループ」が魔女狩りの対象となり、エネルギーのベストミックスという合理的な議論が、またも封じられている。
反核運動と反原発運動はほぼ重なっており、その意図するところは、客観的にみて原発推進側と変わらぬ、甚だいかがわしいものだった。自国と同盟国としてその防衛を担っているアメリカの核については口を極めて非難するが、ミサイルがこちらに差し向けられ、直接の脅威になっている東アジアの核についてはぴたりと口を噤んで嘯くような勢力が反核・反原発運動をやってきた。彼らにとっては原子力は方便のひとつにすぎず、ほんとうはそれ自体がいちばんに問題視されているのではなかった。
この原子力と核兵器とのリンクの可能性およびアメリカとの関連があったからこそ左派の政治家、学者とインテリ層が激しい原子力反対の急先鋒となったのである。その対策として、原子力賛成派はその絶対的安全性を強調して来ており、両派ともそれぞれ極論に走り、その対立は今日まで続いた。
その主張は説得力に著しく欠けた完全な二重基準であり、動機は見るからに不純だった。その中には公然とそれらの国々に対する讃美と同調を表明している者も多く、彼らの言う「日本国民のため」という言葉は大幅に割り引いて考える必要があるのは当然である。その隠れた本当の意図、「語られざる本音」は、はっきりと言えば、自分たちの安全保障の水準を引き下げてガードをこじあけることによって、それらの国々の核装備の軍事的および政治的価値を相対的に高めることにあった。彼らは、まさにその原子力の発電利用の潜在的な軍事的性格についても容赦なく攻撃を加えたが、その指摘が事実なら、当然彼ら自身もまた、その表面上の「平和的」な衣の下に隠れた軍事的な意図を警戒されるべき理由を有することになる。また、彼らは原子力推進がアメリカの資金と情報の影の支援に支えられてきたことを暴き、非難したが、そのことは同じように彼ら自身がその利益に添った、不自然な行動をしている軍事的対立国の資金と情報の支援を受けていることへの疑念をも、いっそう確からしいものとして根拠づける。
一方で、これらの派手派手しい思想の空中戦が大方の国民を白けさせ、関心を減退させていったという点で、彼らの活動は、結果的に原子力の推進側にとっても、このうえない援護になった。原子力発電所を幟(のぼり)とマスク姿のバリケードが取り囲んでくれたおかげで、周りからは容易にそれに近づくことができなくなり、その茨の生け垣に安全に守られ、隠れこんで、事業者は自由に、思い通りの開発を進めることができた。蔓草が棘を纏うように、河豚が貝毒を取り込むように、推進者は反対派の反対をも巧妙に逆手にとり、毒汁を全身に塗り付けた異様な姿で、己が信じる道を突き進んだ。
以上の経緯を踏まえたうえで、今とりわけ必要とされているのは、「潜在的抑止力」を含めたこれらの軍事的な要素を、全体的な形で意識のテーブルの上に一回曝け出して、「顕示的」にもう一度考え直し、駒を並べ替えることである。そのときわれわれは、単に反対派の主張にそって賛成派の潜在意図を摘発するだけにとどまらず、その双方の潜在意図を同じ一本の串に刺して、まるごと火にくべて、焼き色を占うのでなければならない。(まさにそれが本稿の企図するところでもあるが)賛成派、反対派両方の意図を等分に俎上に上げ、並べ比べて、そのうえでどうするかを考えなくてはならない。
「潜在的核抑止力」論は、上にもみたように、それ自体が筋が悪いものではない。国際政治の現実の中で、核抑止力が現に有効であり、自国が公然とそれを持つことが許されないのであるならば、これまでスイスやスウェーデンもそうしてきた通りにそういうアプローチの仕方もあってもおかしくない(そして何度もしつこく繰り返しているように、それは核軍縮と平和の希求とは別の話である)。ただ、その場合には、原子力がそのような目的と存在であることは、国民自身はもっとはっきりと自覚しておく必要がある。そうであれば「絶対安心」などとは口が裂けても言えないだろうし、戦争は起きうることが前提でもっと踏み込んだ、より周到な準備がなされるだろう。その中には当然ロボットも含まれるだろうし、それらは万一の事故の際にも有効に活用されるだろう。あるいは今回の事故のように、メリットと比べて災害リスクの方が大きく割に合わないからやめよう、というのであれば、それによって生じた安全保障上の穴はどの程度で、埋め合わせが必要ならそれをどのように手当てするのか、ということについても、冷静な議論が行われるだろう。
共同体が自衛のためのなんらかの軍事的装備を保有し、倉庫に武器や爆薬を蓄える、あるいは銃所持が合法で認められているスイスやアメリカで家庭が自宅の引き出しの中に銃器を所持するとき、それは危険を作り出すための用具を扱うのであるから、当然それだけのリスクが増すことになる。しかしそれでもそうするのは、その危険を通じて総体の安全に達することができると思ってこそであるから、そこにはあえて危険を帯同することへの「覚悟」が生まれる。危険であることを知り、危険であることを望んだうえで、自ら選んでそれを身に帯びるのであるから、幻想の安心感とは無縁の、正反対の緊張感の中でそれらと共存する。(潜在的なものであろうと顕在的なものであろうと)「軍事」とは要はそういうことだろう。
逆に、潜在的抑止論の「潜在」が対外的なものだけではなく、自分自身の心に対してまでもそうであるようでは、ただの制御不能の夢遊状態というしかなく、これまでとなにも変わらない、どうしようもないことになる。これまでと同様に、空っぽの言葉だけの罵り合いと覚悟なき安住の裏側で、無審査・無警戒にことが運ばれ、安全を馭(ぎょ)する危険も、危険を馭する安全も、どちらにもたどりつくことなく、ただお守り替わりのプルトニウムだけが漫然と、なんとなく溜まっていく。真に戒めなければいけないものがあるとしたら、そのような不毛な「潜在性」こそがそれである。
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