政府が、東京電力福島第一原発の1~3号機事故と、一九四五年の広島への原爆投下で、それぞれ大気中に飛散した放射性物質の核種ごとの試算値をまとめ、衆院科学技術・イノベーション推進特別委員会に提出していたことが分かった。半減期が約三十年と長く、食品や土壌への深刻な汚染を引き起こすセシウム137の放出量を単純比較すると、福島第一原発からの放出量は広島原爆一六八・五個分に相当する。(略)このほかの主な核種では、福島事故で大量に飛散したヨウ素131(半減期約八日)は、福島が一六万テラベクレル、広島が六万三〇〇〇テラベクレルで、福島は広島原爆約二・五個分。半減期が約二十八年と長く、内部被ばくの原因となるストロンチウム90が、福島が一四〇テラベクレル、広島が五八テラベクレルで、広島原爆約二・四個分となる。/ただ、政府は特別委に対し、福島事故と広島原爆との比較自体には「原子爆弾は爆風、熱線、中性子線を放出し、大量の殺傷、破壊に至らしめるもの。放射性物質の放出量で単純に比較することは合理的ではない」と否定的な考えを示している。
文部科学省は30日、東京電力福島第1原発から約45キロ離れた福島県飯舘村を含む同県内6カ所の土壌から、同原発事故で放出されたとみられる毒性の強い放射性物質のプルトニウムが検出されたと発表した。事故後、同原発の敷地外でプルトニウムが検出されたのは国の調査では初。原発80キロ圏内の広範囲で放射性物質のストロンチウムも検出され、影響が広範囲に及ぶことが改めて裏付けられた。(略)東電は、プルトニウムは放射性ヨウ素と比べて重く、拡散しにくいと説明していた。
このことは、はからずも環境に対する破壊的な負荷という観点から、技術の軍事利用と平和利用の対比について、われわれに新たな光を投げかけるものとなっている。原子力の平和利用に対するわれわれの幻想が潰れた三点目がこれである。たしかに数万を超える死者があった原爆と比べて、今のところ原発事故が直接の原因で死亡した被害者はないらしいし、人間に対するものはもちろん、自然環境に対してもそれが実際にどの程度悪影響があるのか、という点も、諸説が紛々と入り乱れていて定かとはいえないのは現に目にしているとおりであるけれども、さしあたってここでは、それは広く嘆かれているとおりに、また、経済的現実もそのように動いているとおりに、一定の破壊的な影響があるものとしよう。そのうえで、軍事的過程と、平和利用のそれとを比べてどうか。
これまで平和運動家たちは、「平和の尊さ」と「戦争の悲惨さ」を「訴える」感傷的なレトリックのひとつとして、戦争がもたらす環境破壊について言及することを好んできた。確かに戦争の過程では、生産設備が破壊されて燃料や毒性のある化学物質などが処置なく垂れ流されたり、軍隊の侵攻や砲爆撃によって山野や動植物が配慮なく踏みにじられたりすることを通じて、甚だしく環境が破壊される。それをもってして彼らはこう言ってきた。「戦争こそは最大の環境破壊である」「だから戦争は悪だ」と。
しかし、今こうしてわれわれの目の前にあり、それをもっと確かめたいと思ってわれわれが電力会社に計算させたひとつの現実は、それらのスローガンとはまったく異なる、それを全否定する、それを粉も残さず吹き飛ばすものである。技術の平和利用は、それを軍事利用したときよりも、話にならないくらい、百倍も環境破壊的だった。そしてわれわれが一笑に付して立ち去れずに、その場につなぎ止められてしまうのは、このことは、これ一件だけの特殊な例外ではなくて、ほんとうはすべてに当てはまる普遍的な真実ではないのか、という冷たい恐れの刃が後ろから脇腹に突きつけられているからである。
とはいえ、もとよりそんなことは、事実をありのままに見ようとさえすれば、言われるまでもなく知れきったことではなかったか。戦場で使用される飛行機や車両や銃器や爆薬やコンピュータも、作りがちょっと違うだけで、同等の民生品と同じ鋼鉄やプラスチックや半導体でできており、同じ燃料や火薬を消費して動く。戦場の製造品はしばしば意図せざる破壊を被るが、今回の事故のように、民生品だってそれは同じことだ。
ひとつだけまったく違うのは消尽される物量と規模である。戦争は非日常の営みで年中しているわけではないが、民生利用は、戦争が部分的あるいは全面的にそれを中断させる以外は、のべつまくなしに延々と続く。後者の消費がいかに桁違いに大きいかは、それこそ反原発論者が強調してきたとおりに、核兵器と原子力発電所の炉内に保蔵されている核燃料の量を比べて、後者の量がどれほど圧倒的に巨大かをいま一度想起するだけで充分だろう。そして環境への負荷という点で最終的にものを言うのは、人間にとっての使途ではなく、この量だけである。違うのは、民生利用の場合の方が(そう心がければ)直近の後始末が比較的身ぎれいに行えるということぐらいだが、これも、途中の過程で意図せざる放出を経由するしないにかかわらず、長期的な視点からは大きな違いがないことは熱力学が教える通りだ。これは核物質だけでなく、われわれ人間の利用にかかわるすべての素材物質について変わらない。戦争も石油や石炭を使うが、平和はそれをもっとはるかに多く使う。戦争も鉄やゴムを使うが、平和はそれをもっとはるかに多く使う。原子力発電が核爆弾よりはるかに多くの核物質を使うのとまったく同じように。
以前、中東でイラクが産油国のクウェートに侵攻し、占領に失敗した腹いせに油井を破壊してまわったとき、地を見渡す限りの炎と天を焦がすもうもうたる黒煙の、まるでこの世の地獄のような映像が、この破壊で日本一国だかドイツ一国だかが一日に消費する石油と同じだけ量が燃やされた、という解説つきでさかんに流されたことがあった。こうした形容に接して、なんと途方もない量なのかと、戦争の非道な破壊性により深く憤りを覚えるのか、それとも、これほど甚大な量をしてなお、われわれがふだん使う石油のたったの一日分でしかないのか、とむしろそちらの方に衝撃を受け、それが可視化されたことに対してより強く印象づけられるのかは、考え方とふだんの心がけの違いによるだろう。そしてこのエネルギーを使うということの本質から来る「可視化された汚染」というのは、原子力廃棄物の「けっして消すことのできない穢れ」と同じものだ。
核物質という点でいえば、昨今の戦争は、たかだか燃料を作ったあとの低質な残り滓(劣化ウラン)を控えめにリサイクル使用したに過ぎなかったが、平和利用中の事故は、精製された核燃料(の核分裂生成物)そのものの方を、盛大に野山にバラ蒔いてしまったので、今となってはつい先まで喧々諤々論じ合っていたことはいったい何だったのかと脱力感におそわれるくらいのありさまである (放射能の強さでは、後者は前者の10億倍―グラム当たりでウラン238が1.2万Bqに対してセシウム137が3.2兆Bq等―も違うそうだ)。
戦争がわれわれ人間の平穏な生活を破壊し、おびただしい不幸を作り出すのは確かで、われわれはあえてそれを自分から望む理由はなにもない。しかしだからといって、言われのない咎(とが)までなんでもかんでもそれに着せて、それで片づけた気になるのは、ゆえのない特赦と自由許可証を与えるという点において、逆に平和の名誉を穢し、それを正しく維持し、制御していくことからかえって遠ざかることになる。少なくとも環境への負荷という点からいえば、平和の費消するエネルギーは、戦争のそれに比べて桁違いに多量である。よって戦争よりも平和の方がよっぽど夥しく環境を破壊する。これは厳然たる事実だ。戦争が環境破壊の一回性の急性症状だとすれば、平和は、慢性病のように持続的に、根気強く環境を腐食し続ける。点滴が激流をものともしない岩をもついに穿つのと同じように。そうであるならむしろ、戦争の破壊の祝祭性は、平和の破壊性を破壊するという意味で、平和による破壊を一時的に止め、和らげる。戦争は最大の環境破壊である平和を破壊する。近代では敗戦国の国民は戦争終了の知らせを澄みきった青空とともに聞くことが多いが、それは単に心象のせいばかりでなく、工場生産や交通などの民生活動がいっさい停止して汚染物質の排出が極端に減るからである。「原発は原爆の何個分か」――この問いは、われわれがふだん忘れようとしている、ほんとうは単純な、そうした事実にあらためて注意を呼び起こす。
われわれが自分たちの中で平和に心楽しく生きている限り、それは自然環境にとっての利益にも自ずから添い、牙を剥くことがより少ない、というわれわれの根深い誤解は、おそらく自然に対する、また、われわれと自然との間の関係に対する根本的な誤解、あるいは曲解に基づいている。そしてそのことは、他ならぬエネルギー問題において「自然」エネルギーを判断する際の、大きな障害にもなっている。このことはまた改めて別の機会に述べよう。