「欠如モデル」と情報の非対称性

原発事故の後対応の中で、食品・環境中の低線量放射線被害の問題がクローズアップされ、流通規制その他をめぐって混乱が続いている。専門知識に通じた科学者や啓蒙的な立場に立つ識者らは、一般の市民のまと外れで度の過ぎた警戒ぶりや無知を嘆き、小売りや外食の民間事業者が金儲けのためにそれに媚びて科学的には無意味な過剰検査を勝手に行うことで、偏見を解くのではなくいっそう踏み固めているといって非難している。一方、それらの専門家以外の人びとの側は、すっかり疑心暗鬼になっていて、専門家の側がいくら「正しい」情報を浴びせかけても、それを既に信頼に値しないものとみなしているので、怯えた獣のように上目遣いで遠巻きにそれを眺めて、なかなか耳を貸そうとしない。両者はどこまでいっても平行線のままである。

この情報の信頼性をめぐる混乱について、以前、日経ビジネスオンラインで、大阪大学准教授の平川秀幸氏という方が、イギリスでBSE問題が起きたときの状況と照らしながら、興味深い内容を述べていた。

英国の安全神話の崩壊はBSE問題でした。BSEが発見されたのは86年ですが、その3年後に英国政府の科学者委員会は「BSEが人に感染する可能性は極めて少ない」と結論し、政府はそれを根拠に安全宣言をしました。しかしその後、感染したと見られる症例が多く見つかり、96年3月についに政府は、安全宣言は誤りだったことを公式に認めます。その結果、政府や科学者に対する国民の信頼がガタ落ちになり、当時出回りはじめたばかりの遺伝子組み換え食品についても、政府や科学者がいくら安全だと言っても、誰も信じなくなってしまいました。これには政府も科学界もなすすべがありませんでした。

―― なるほど、日本でも同じようなことが起こっていますね。

平川 ええ、まさに。そして、なぜ政府も科学界もなすすべがなくなってしまったかというと、彼らがよりどころにする「正しい知識」自体の信頼性が、BSE問題によって大きく揺らいでしまったからなんです。従来、科学技術に対する不安や批判が社会に広がったとき、専門家や行政に典型的だったのは、そのような不安や批判が生じるのは、人々が科学の正しい知識を欠いているからであり、専門家がそれを教えてあげれば安心するはずだという考え方でした。これを「欠如モデル」といいます。しかしBSE問題は、この考えの前提にある「正しい知識」自体への疑いを増大させました。

3.11以降の福島第一原発事故とその放射線汚染をめぐる情報発信にしても、いまだに政府や科学界の多くは「放射線や原子力知識が足りないから不安になるんだ」という欠如モデルに丸ごとよりかかり、知識の信頼性そのものに対する疑いが社会に広がっていることへの危機感が欠けているように思います。


平川氏はいわゆる「科学論」の研究者とのことで、そうした指摘はまったくないが、ここで言われている「欠如モデル」というのは、このように情報の信頼性についての問題であることから、経済学上の格好の題材のひとつであり、この場所でも何度か取り上げてきた「情報の非対称性」の指摘とかなりの部分が重なりあっているように映る。放射線汚染をめぐる情報環境の問題を、非対称情報の観点から読み解いた分析は、これまで複数の経済学者が試みているのを目にしたが、この「欠如モデル」と両にらみにした論考は(どちらの側にも)見当たらないようだ。両者が無関連なのか、あるいは単に学問上の棲み分けと無関心のせいなのか、あるいはまた(科学という)学者の世界自体が当事者で、同業者で言いにくい部分があるからなのか、事情はよくわからないが、さしあたりここでは、双方の視点を往還(trans)しながら、何が見えてくるのかを追ってみよう。


「御用学者」論はなぜ生まれるのか~科学というレモン市場、科学者のサブプライムローン化

上記のように、今や情報や知識それ自体の正当性よりは、その信頼性に焦点が移っているとすれば、それは、科学と科学者が、それ自体、外側にいる者の目からみて「レモン市場」になっており、「逆選択」「悪貨が良貨を駆逐する」状態に陥っているということである。ある業種、事業者カテゴリーにおいてこのような状況が発生するには、いくつか複数の条件が重なる必要があり、それは、(1) もともと特性として情報の非対称性の強度が強く、(2) その業界がなんらかの重大な問題を引き起こして、外部から危険な脅威とみなされるようになり、(3) しかしながら、業界関係者自身によっては内部の危険部位の特定と修復が行われずに、全体のあいまいな汚染状態が垂れ流しのまま放置されている、というものである。これらの条件が重なると、外部からは、そのカテゴリー全体に対するリスク評価の再構築がはじまる。

注意しなければならないのは、このとき、再評価の手だてとなる素材として「知識」ははじめから使えない、ということである。それはしばしば真っ先に検討の対象から外されてしまう。なぜか。その理由は、非対称の強度が強いということは、知識は脅威を生み出している当のカテゴリー自身に独占されていることと同じだからである。業界自身の手によって内部の危険部分と安全部分の切り分けが充分なされない状態で、外部の人間が危険から身を守るためにその業界自身に知識を依存するということは、問題になっている脅威そのものと非常に高い確率で無防備に向き合う、ということを意味する。それはいわば泥棒と警備員がごちゃまぜに混ざっている状態であって、最悪の場合、そこでは防犯教室の講師に当の泥棒本人が派遣されてきて、泥棒に防犯を習い、泥棒に有望見込み客をこちらから引き合わせるようなことにすらなりかねず、学習する内容の如何以前に学習行為そのものの正当性が担保できない。そのため、事情に疎い外部からは、内部の情報に依存した知識の習得自体は早々に断念し、対象の全体を危険をもたらす集団としてまるごと拒絶する以外の選択肢はなくなってしまう。

理解を進めるために、他のいくつかの情報の非対称性が強い業種のことを、ここでもう一度頭に思い浮かべてみよう。「葬祭業」でも「住宅販売業」でも、例はなんでもよい。それらの業界で不良事業者が目立ち、レモンが取り除かれていない状態で、今あなた自身が、たとえば急に葬儀を行わなければいけなくなる等、そこに関わりを持つ必要が生じたとする。もしもあなたがそれらについてなんの事前知識も持っていなければ、必要な知識と事業者に関する情報を、事業者自身にまる投げで依存することが妥当な行為に思えるだろうか。それでは文字通り、鴨が葱を背負って火にかかった鍋にみずから飛び込んでいくようなものではないか。そのようにあなたが直感して、針ネズミのように最大限の警戒心を逆立て、慎重のうえにも慎重に前に進んだとしても、それはむしろ称賛されるべきことでありこそすれ、なぜお前はその道の専門家である俺達をもっと手放しで信用しないのか、と責められるようなことだろうか。あるいは自分の善意を過度に前面に押し出し、そのようなことを嵩(かさ)にかかってことさらに求めてくる事業者に対しては、どのように対処するのがリスク回避の観点から望ましいか。自分でそう言っているのだから、彼はその通り信用度の比較的高い存在なのか。それともかえって逆と考えた方がいいのか。

こうした状況で、汚れた内部から派遣された、折り紙つきの専門家よりも、素性のよく知れない外部の煽動家の方がはるかに耳目と信用を集めるという現象が目立つようになるのも同じ背景からのものである。そこでは、なるほど専門知の豊富な保有者ではあるかもしれないが、脅威の心臓部から派遣され、盗賊の一味である危険性も高い「専門家」よりも、外部のあやふやで安っぽい宣伝者の方が、まだしも無関係でクリーンで危険度が低い、ということが直感的な形で判定されているのであり、そうであるとすれば、その判断は、実は見かけの軽率さよりもはるかに(情報)経済学的な意味で「合理的」であり、外部者が被り得る被害の確率も、現に有効に低下させている可能性がある。害意のある「専門家」は、あやしげな素人などよりはるかに危険だからだ。

非対称性の脅威の中では、対象の評価が区別なく全体的に下落するということもまた、こうした中でごくふつうに発生する、ありふれた現象のひとつである。外側からは外皮に包まれている実の中の有害部分を分別できないので、危険を避けるためにはその全体をジャンク扱いにしてゴミ箱行きにせざるをえないからである。一般の事業活動で非対称が強いとされる代表的な業種は、上の葬儀業界の他に、同じくここでも取り上げてきた中古車業界や金融業界等だが、これらの業種では、質の低い事業者が紛れ込んでいても、事業特性における非対称性の強さから、そのままでは利用者の側からそれをうまく識別・排除できない。そのため業界全体が十把一絡げに汚れた、いかがわしいものとして疑いと侮蔑の目でみられ、評価が下落して、一種の「マタイ効果」(定義されたものが定義の力でますますそれらしくなる)によって実態もその状態に落ちぶれていくということが起こる。それがほとんどの善良な従事者にとっては謂われのない理不尽な扱いだったとしても、レモンの世界ではそう見られてしまうのである。所詮彼らは軽蔑すべき、詐欺師すれすれの「中古車屋」「葬儀屋」「金融屋」なのであり、その程度でしかないのだ、と。科学という職業活動をめぐって今同じ問題が起きているとすれば、それはこれらの非対称情報の典型と目される業態の末尾に、今や「科学屋」という業種が新たに付け加えられなければならないのかどうかが問われているということである(事実ほとんど仲間入りしつつあり、だからこそそれが困惑を呼んでいるのだろう)。

また、汚染が識別できない内部関係者からの知識の習得を断念して、他の経路で信頼性を推定するための有力な手段のひとつが「資金源をたどる」という探偵的な手法である。知識による防御という有力な手段が断たれた以上、使えるものはなんでも使いたい切羽詰まった状況で、そこに目が向くのは当然のことであり、これもまた充分に理に則った行動である。このことは、先のサブプライム危機でも実際に顕著に観察された。サブプライム危機では、住宅ローンの派生証券を格付けした格付会社が、周知のように販売業者自体から収入を得ていたことで、癒着を問われてメディアや有識者から激しく攻撃され、世論からの集中砲火を浴びた。格付会社の側も、誰がスポンサーになり、どこから活動資金を得ていようが、自分たちの仕事の公平性には影響はない、と必死に抗弁したけれども、それが聞き入れられることはなかった。議会に呼びつけられて四面楚歌で面罵され、彼らを魔女狩りの魔女のようにこきおろしたおどろおどろしい映画や告発本がもてはやされ、新しい事業規制がまるで懲罰のように山と設けられた。反論してもさらに攻撃がつのるだけと知って、ついには彼らもあきらめて黙ってしまった。現在、原発運営の安全審査を行う学者や、放射線被害を低く見積もろうとする論者が、誰から資金を得て活動してきたのか、また、いるのかが強く問題視されている状況は、これらと酷似している。

全国最多の原発14基を抱える福井県から依頼され、原発の安全性を審議する福井県原子力安全専門委員会の委員12人のうち、4人が2006~10年度に関西電力の関連団体から計790万円、1人が電力会社と原発メーカーから計700万円の寄付を受けていた。朝日新聞の調べでわかった。 政府は近く、停止中の原発の中で手続きがもっとも進む関電大飯原発(福井県おおい町)3、4号機の再稼働について福井県に同意を求め、県は県原子力委に助言を求める見通しだが、5人の委員が関電など審議対象と利害関係にあることになる。5人はいずれも寄付の影響を否定している。


早野龍五 東大教授のツィート
早野龍五 東大教授のツィート (2012.4.26)


この「資金源問題(スポンサー問題)」の根底にあるのは、知識によるリスク評価が遮断されたために、他の手だてが積極的に探索される中で、倫理性が外部の目によってそれまでよりもはるかに厳しく問われるようになる、ということである。「どこから資金が出ていて、誰のために働いているのか」への関心が以前にはなかったほどに急激に高まるのはその一環であり、知識による測定が不能になったために、その代替物として、誰がより倫理性が高いか、という指標をもって判断の根拠を補完し、内部からは提供されない部分的な信用度と危険性を必死になって見極めようとしているのである。

これを評価を受ける側の内部関係者の視点からみれば、職業の直接能力とは本来関係のない品行態度に急に焦点があたり、風当たりがむやみに強くなるということであり、そのことは、自分の技術的な仕事の評価に全人的な倫理性がそこまで関係があるのか、という戸惑いや不満にもつながるだろう。事実、今回の一連の経緯を受けた科学界の中からの反応でも、科学者は専門能力の高さをもって科学者たりえているのに、さらに一般レベルを上回る倫理の高潔さまで求められてしまうのか、なぜ自分たちだけそんな過大な要求をされるのか、「聖人君子」でなければ科学をやってはいけないのか、と反発する声が出ているが、これらは上述の力学の中に納まるものだ。

ついでながら、科学の世界の「中のひと」の反応で、他にもいくつか代表的なものを拾ってみると、「一部の学会(原子力学会)の仕出かした不始末で、われわれからみればまったく別分野の物理学者や放射線技師までひとからげにいっしょにされてはかなわない」「国から研究費をもらって悪いなら科学者はどうやって研究し、飯を食ったらいいのか。金をもらって悪いなら俺たちに金の心配をさせるな」「素人連中は自分で最低限のことすら知ろうと努力もせずに不満ばかりでいいご身分だ」「こちらは手弁当の善意で啓蒙活動に汗してるのに返ってくるのは不信と罵りばかり。これでは誰も情報を出さなくなる」「相手が無知ならまずは知識をそこに流し込み、底上げをはかることは当然でないか。対話といったってそれなしに何を対話しろというのか」等々、といったものがある。それらの多くが、彼らが非対称情報の生み出す病(やまい)の渦中にあり、そのことに困惑していることを、よく示している。

とはいえ、これらはいずれも非対称情報の強度が高い分野では等しく問題になることであり、金融業者や格付会社の従事者たちだって、たぶん本音では同じように主張したかったことだったろうが、彼らの場合には、そうしたあけすけな不平憤懣が容れられる余地はほとんどなかった。その理由を推察するなら、おそらく彼らのようなプロフェッショナルの職業人の場合、それらの事態に対処することも含めて職業活動の一環であり、そのような言い訳をしたところで、その場の気の慰めにはなっても問題の解決に特に役立つわけではないので、経験を積んだいい大人が人前で軽々しく口にするのは恥ずかしい、らしからぬものである、といった感覚が(当人と周囲の双方に)あったからではないかと考えられる。科学業界の所属者自身、相手が立場の弱い(顧客に対して強く出ることのできない)民間の事業者のときには、それを是として、輪に混じっていっしょになって石を投げていたということもあったかもしれない。が、彼らが今嵌まりこんでいるのはそれと同じ形の穴で、今度は彼らがそれを受け止める側である。その際、科学業界の上のような反射的な反応は、すべて「外部」に向けられたものであって、自らの内側に向けられ、「内部統制」「自浄作用」が意識された自省型のものが(金融業界や中古車業界と比べてさえ)ほとんどみられない、という点もこの業界の今後を占ううえで注目される点だろう。本来必要なことは、言うまでもなく、外部の者たちが知識という手段ももう一度手に取れるように、内部関係者自身がまず内側に向かい、自らの手で業界の腐敗部分を摘出し、切り離すことで身の潔白を取り返す、ということであるから、これらの見当違いな方向感は、心情的には理解できるものであっても、問題を改善するのではなく、逆に悪化させる方に働く。


二つの「ゼロリスク」~無知と不信

サブプライムローンと放射線汚染は、リスクの層構造がよく似ており、互いに参照できる部分が多い。双方ともに対象となる「モノ」の層と、それを扱う「ヒト」の層にそれぞれリスク要因があり、前者は危険な有毒成分の遍在、後者は専門性の集中という形で、そのそれぞれが非対称情報の状態にある。その中で「モノ」のリスクの不鮮明さを「ヒト」の審査(格付)を間に挟むことでコントロールしようとしていたのだが、後者が壊れて機能しなくなったことで、前者も収拾がつかなくなった。

純粋な「知識」のレベルにおいては、「モノ」の側のリスク強度はおおむねごくごく小さな、危険性の低いものにすぎない、ということも、同じように強調されたことだった。サブプライムの場合、格付会社は住宅ローン派生証券を、ちょうど原子力学者が放射線汚染食品を評価するように最先端の金融理論に基づいて慎重に評価したが、その審査は原子力の専門家同様、多少の引き倒しはあったとはいえ、衆人環視の中で、合理的な技術と根拠に基づいて行われたものであり、おおむね妥当な内容だったはずだ。個々の証券商品でいえば、ほとんどが良質な債権の中に微々たる毒素が配合されていただけであり、商品単体としてはただちに健康に影響はない、健全性はトリプルAでまちがいない、として太鼓判を押されていたのは、個々にみればそう大きくピントのずれた話ではなかったろう。しかし上記のようにその審査自体の有効性が疑われ、否定されてしまえば、リスク強度が低いというその情報そのものが信用ならないものになる。人びとは、もともと審査の緩衝を必要としていたような稜線のはっきりしない、不分明なリスクに突如として剥き出しの状態で投げ出され、晒される。「知識」としてのリスク評価が突然全面解除され、金融市場全体が崩落するほどの大混乱を引き起こしたのは、まさにこの不信と疑心暗鬼の急激なインフレーションだった。

サブプライム・ローン(場合によってはプライム・ローンでも)の貸し手に投資していた投資家たちが、次々と株を手放して(クレディットサイツのアナリスト、デビッド・ヘンドラーに言わせると「質問は後まわしで」)いる状況では、投資家の売り方はパニックにかられた不合理な行動に見える。これもまた、「リスク回避」の傾向がどんどん増えている兆候だ。米住宅金融大手カントリーワイド・フィナンシャルのアンジェロ・モジロ最高経営責任者(CEO)はこのほどテレビ出演し、投資家たちは、ローン貸し手の財政状況が実際にどうなのか全く気にも留めず、どんどん株を手放していると批判。「流動性の危機が起きつつある。事態は今後さらにひどいことになるだろう」(略)

「空が落ちてくるわけじゃないと、リーマンもゴールドマン・サックスも前向きな発表をしたにもかかわらず、投資家の不安は続いている」

実は、シニアを買った人の中にも、グレードCの債権が混じりこんでいるかもしれないのです。本当にCの人のデフォルトが起きて、劣後だけで吸収できなくなると、じわりじわりと影響がシニアにも及んできます。そうすると、シニアにおいても、これが安全なのかどうかという疑心暗鬼が広がり、売ろうとすると値段がつかなくなってしまったのです。(略)理論的にはシニアは極めて安全なのですが、証券としての流通性がなくなってしまうと、市場価格は暴落してしまいます。米国は時価で評価を行う会計ルールですから、そこで大きな損が発生してしまうのです。

お茶碗の中のおコメに汚染米が5、6粒入っていたら、食べても実は大して害がないとしても、ただ汚染米が入っているというだけで、誰も食べなくなってしまったのです。米粒なら注意深く取り出すこともできるかもしれませんが、証券化は人為的に切って分けてしまうのです。汚染米が黒かったとすると、2回も証券化すれば、全体がうっすらと色がついた白米になってしまいます。害が優良債券にまで及んで全部が損になってしまう。これこそが問題の本質です。


同様に、問題になっている食品その他の低線量汚染においても、目下、検査だ風評だと右往左往している一般の消費者は、「ゼロリスク幻想」に侵されている等の評で、専門家たちからやり玉にあげられ、笑い物にされているが、店頭で野菜や鮮魚を実際に手にとってそれを家族に食べさせる親たちの側からすれば、問題はもはや知識の正しさではなくてその信頼性であり、検査結果が完全にゼロであることだけが、唯一それを確実に排除できる材料なのであるから、彼らがそれを重視するのは見かけよりははるかに合理的な側面をもつことも考慮される必要がある。調査結果が信用できるのは調査主体が信用に足る場合のみであり、対象以前に調査自体が既に疑われているのであれば、不正な調査結果を真に受けることで、場合によっては甚大な実際被害、健康被害を受ける可能性も現実にあるからである(事故後に外気や水道水の汚染情報の公開がしばらく伏せられていたように、その憂慮には充分な根拠がある)。それは、金融市場で劣悪なサブプライムローンの成分が完全にゼロであることが保証された証券だけが、かろうじて疑心暗鬼と信用崩壊の渦から圏外に逃れられたのとまったく同じである。サブプライム・ショックで債権保有者がパニックになったのは、彼らが「プロ」でなかったから、「金融リテラシー」がなかったからではない。

こうした端的な事例から見えてくるのは、われわれのリスク回避行動には、「知識」(の欠如)からくるものと、「不信」からくるものの二種類があるということである。あるいは、言い換えるなら、単に知識をあてがってやったからといってそれだけでは対処できない種類のリスクがある、ということである。

上記の平川氏の科学論の文脈における「欠如モデル」を自分なりに咀嚼するなら、非対称情報の脅威の中での、このふたつのリスク回避行動の評価の混同、それもなかば意図的な混同、というのがそれになる。それは、不信によって作り出され、知識による解決ができない、あるいはその経路がはじめから破壊されている種類のリスクを、その脅威をもたらしている当事者集団自身が、なお知識を無理やりあてがうことで解決しようと試みる。既に述べた理由から、そのような試みがうまく運ぶことはないのははじめから約束されているが、その結果は、当事者内部からの貴重な知識の分与と、その厚意に応えることのできなかった蒙昧で無能な相手の側に咎(とが)があるとされる。それは回避行動の中の不信の部分を故意に捨象し、知識の部分しかみようとしない。行動の動因のあらかたを占めるものを、あらかじめ存在しないものとして意識の中で伏せてしまえば、それがまるっきり「了解不能」に、「愚者」にみえるのはあたりまえである。

また、このやり取りを俯瞰すれば、要求者自身の行動によってあらかじめ不可能にされていることを無理やり実行するように求められるという、精神医療や労働衛生管理の用語でいうところの「ダブル・バインド(二重拘束)」の状態になっていることすら観察される。つまり、「せよ」という公然の命令と「するな」という暗黙の命令の、両立しない両方が課されている状態である。リスク評価ではじめから使いものにならない知識を無理強いされる外部の視点からみれば、足を踏んづけている当人から走れ走れとけしかけられているように、あるいは、ロシアン・ルーレットのように皿のどれかに毒が盛られている料理を、自分たちの心からの好意なので、ぜひ選んで食べてほしいと、固く結んだ口元にしつこく押しつけられているように、感じられるだろう。あいまいさを排するためにもっと直截な表現をすれば、食卓のリンゴにとまった不衛生な蠅が、目の前の人間にリンゴを食べることを熱心に勧めている状況である。蠅は自分の存在は自分の中では棚にあげ、「カッコ入れ」して、なぜこんなに美味しそうな蜜たっぷりの実を食べないのかとさかんに訝しがるが、勧められている方からみれば、その蠅がとまっていて撫でまわしているからリンゴを食べられない。その同じ脚先でさっきまで何を触ってきたのかと思うととても食べる気にならない。リンゴを食べられない原因は、一義的にはリンゴにも忌避している者の病的に潔癖性にもなく、蠅にある。「科学」に関してそれをうまく想像するのが難しく、金融や中古車のしつこい営業勧奨に置き換えてみれば合点がいく、というならそれもけっこうだろう(受ける側からすれば、勧誘行為がかえって勧誘したい行動の足を引っ張っている点ではどちらも変わらない)。

「ゼロリスク」にはたしかに知識と経験の不足によって生じ、知識の補填によって有効に対抗できるものがある。それはリスク評価の審査者自身がリスク要因となるような、不信の人間的要素が間に介在していない場合である。(日本の)BSE騒動や新型インフルエンザ対策、あるいは昨今の食品規制問題などがそれに該当するだろう。日本の社会でそれらのリスクに過敏に反応する傾向が増していることも(この場所でもたびたび指摘してきたように)事実で、政府や中央官僚、科学官僚たちがそれらに手を焼いてきたのも確かである。しかし、今回の放射線汚染をめぐって起きている事態は、それとは異なる要素が上に覆い被さって、そちらが主になっており、それを正しく見定めない限り理解することも改善することもできない。サブプライム問題を引き合いにしてここで浮き彫りにしようとしているのは、その部分の性格についてである。平川氏の挙げている例もそうだが、サブプライムの派生証券でパニックが起きたのは、主に日本の外の話であるし、逃げまどったのは既に最も高いレベルで能力的に装備された人たちで、それ以上知識を頬袋に詰め込んでやったらどうなるというものでもなかった。日本人でなくても、知識が充分あっても、強烈に発生するゼロリスク回避行動が現に存在する。この問題で日本の文化性や社会性を前面に押し出すのは、実相の隠蔽にしかならない。

この観点からすれば、消費者が「ゼロリスク」を目印にしていることにも、今回は一概に愚かとばかり言い切れない、それ相応のれっきとした正当性があるということである。また、そうであるなら、その元になっているものに冷静に目を向けてそれを断たない限り、彼らをどれだけ威嚇してどやしつけたところで事態は好転しない。言葉よりも行動で意思を表明する一般消費者としての彼らは、専門家たちのように口八丁手八丁ではなく、自分の言いたいことを能弁に主張できるわけではないけれども、それでも自分の行動の報いを受けるのが自分自身であるというインセンティブを体で実感し、それに忠実に、専門家たちからの嘲笑に黙ってじっと耐えながら、自分の感覚の正しさを信じて行動している。その直感に素直に従わずに、専門家たちの甘言をうのみに受け入れたことで原発事故のような厄災を止められなかったとの悔いが強烈にあるので、その決意は実は巌(いわお)のように硬い。専門家たちが無知だと思って触れている硬い腫瘤の中身は、実際にはほとんどすべてこの決意かもしれない。同様に、それと向かい合う小売りや外食の事業者にしても、儲け主義どころか、それらの消費者や、まったく問題がないにもかかわらずとばっちりで売上げが激減して困り果てている生産者自身からの切実な求めに応じて、多大な追加コストをかけて流通量の滅失を最小限にとどめようと自分たちができる最大限の努力をしているにすぎず、そのことは、むしろ政府機関の信用が専門家ごと地に落ちている中で、信用汚損の逆回転状態による被害を最小化する市場の自律的な自己修復機能が機能している健全さの現れといえる。流通業界がそれをしなければ(たとえば自由な検査を無理に法律で禁止すれば)不信の野火は手がつけられないほど燃え広がって、流通市場全体がそれこそサブプライム住宅ローンのように全損、全滅のおそれすらある。この非対称情報の視点から、消費者・生産者ともにその恩恵を多大に受けている点も考慮に加えれば、彼らの行動と、また、汚染の発生元にあたる側が、自らに内に目を向けずに消費者や流通業者の側を一方的に糾弾している状況も、ともにまったく違った見え方で評価されてくるはずだ。

一方で、消費者の側にも無言のそれがあるように、「知識」モデルに固執する当事者集団、情報汚染の発生元の側にも、残念ながらそれを行う強い「インセンティブ」が認められる、という他ないだろう。もつれた閉塞状況の原因を、現になされているように、もっぱら「他責」にできるというのがそれである。そうすることで彼らは自分たちの問題と責任に集中的に光があたることを避けることができ、正面から向き合わなくて済む。外部の「無知」に、日本人の国民性に主要な問題があるというのなら、自分たちの側はなにひとつ変えなくていい、痛い思いをして手を加えなくていいことになる。また、彼らの懇意と尽力にもかかわらず、無知と反抗がいっこうに改まらないのであれば、その主張に耳を貸す意味などはなく、邪魔だてするものは脅しと実力行使によって強制排除し、自分たちのしたいことをこれまで通り強行突破でやることが正当化されることになる。現実の経緯が実際すべてそのままに動いているのは見ての通りである。彼らが正しいことを知らず、知ろうともしないならば、強制によって正しいことをさせるのは善である。(性懲りもなく狼藉でたらめの限りを尽くしている原発推進者のではなく)反対者の側の瑣末な非科学性をあげつらい、証だてることに勢力の大半を注ぐことが、彼らにどれだけ大きな、実効性のない心的満足と慰謝をもたらしているかは、想像に難くない。それが注がれる相手には事実上なんの役にも立っていないこの壮大な空回りの「誠意」は、この世の大方のそれと同じように、彼ら自身の利益には、心理的にも、実利的にも、おおいに貢献している。

既に繰り返し述べているように、今彼らを悩ませている問題は、彼らの外側をではなく「内側」を集中的に対処することで、今の現状に比べれば、ウソのようにきれいに解消する。「泥棒」と「警備員」、「ホワイト」と「ブラック」のハッカーを自分たちでしっかり分別し、情報の流通の正常化に努めれば、伏して拝まなくても行列を作って人びとは自分から「知識」を求めにやってくる。しかし、それにもかかわらず、また、自らの主観的意図とは反対に、彼らは実際には、自分の外側に向けた逃走、行きがかりを無理やり共犯に巻き込んだ逃走をしないでいるということができない。これはなぜそうなるのか。問題はむしろそちらの方の点にこそある。

たしかに、まだかろうじて隅のほうに耳掻き一杯くらいは残っているかもしれない科学者に対する幻想を頼りに、無知な一般大衆を相手に小さな勉強会でも開いてお茶を濁すことは、これまで強大な予算分配権と人事権を振るって業界に君臨してきた大権威、大御所たちに公然と異を唱えるというタブー、彼らの存外に「体育会系的」「軍隊的」「徒弟的」な内部秩序への妄信と条件づけを克服するタブーを犯すことよりは、はるかに気楽なことなのかもしれない。また、その背景には、仄聞するところ私企業以上に空気の悪い専制的な上下関係やクローニズム(依怙贔屓主義)、あるいは企業と違って、それぞれの分野ごとに全体が(学会という)一個の「独占」企業状態であり、複数の組織間による「競争」がないこと、従って必然的に「内部告発者」は干されてもよそにどこにも逃げ場がないこと、といった事情が関係しているのかもしれない。そうなると、職業活動としての構造問題にも光があたってくることにもなろう。

以上の検証からまた、この事態全体を俯瞰し、診断を処方する社会科学者の本来の役割も明らかになる。

ここで概観してきたことが正しければ、非専門家の外部の民衆の側は、非対称情報の観点から充分な理があるが、黙々と行動できるだけでそれを筋道だてて上手く説明することができていない。一方、「専門家」の側は、彼らが知識モデルに拠って外部への攻撃に夢中になっている限り正当性も実効性もほとんどないが、声だけは大きいのでいくらでもそれを目くらましできる。このことが、言論空間に醜い「知識」は充満するが誰もそれに従わない、という不信の不健全な蔓延、連鎖となって現れている。

だとすれば、この事例における社会科学者の真の役割は、当然、民衆の側のこの声なき正当性に声と言葉を与え、「正当性なき声」の偽りの構築物と対決し、いっしょになってそれを突き崩すことにある。この「教えたがる者」と「教えられる者」との役割をめぐるメタ的な権力抗争の中に隠れている自己欺瞞の構造を的確に摘示し、それについてこそ蒙を啓(ひら)いて、知識の名を騙った暴力、それ自身がすでに権力化し、機動隊化した知識に不当に虐げられている側の正当性と名誉を救い出さなければならない。そこではじめて、まともに噛み合う「対話」の可能性が生まれる。硬直し、悪循環に陥っている事態を解きほぐし、打開する急所も、その一点においてのみあるだろう。

しかし、実際はどうかといえば、はなはだ心もとないものがある。上述の平川氏のような指摘は、その侠気ある端緒として高く評価できるものだと思うが、現実に混乱が続き、残っているということからして、それに続く取り組みが広がっているとは言い難い。その背景事情を推し量るに、社会科学は日頃から自然現象を対象とする狭義の自然科学に深い劣等感を抱いていることがあるのではないか。原子力科学が依拠する物理学は、まさにその王の中の王であるが、今、失態を仕出かして病んで床に伏せったその弱った王の姿をみて、社会科学はむしろここぞとばかりに得点を稼ぎ、お覚えをよくしてもらおうと、その率先した代弁者、先兵となり、貢ぎ物を送り、お先棒担ぎを買って出ているというのがむしろ実状である。まるで滅びゆく江戸幕府に過剰な忠誠を尽くすことで、ほんものの武士であるといまさら認めてもらいたがっていた農民出身の新撰組の志士のように。精神医学、心理学、はては民俗学までが動員され、病んだ王を民衆のしつこい無知とリスク過敏症から守るために、いかにそれが根深いもの、病的なものであり、それをどうあしらうべきかを教養の限りを尽くして華麗に議論している。しかし、それが彼らの目論見どおり「改造」されたとして、不信のリスクを不信と感じることすらできない、不審者を不審者と見分けることもできない、行動する主体としての脳幹が破壊された、死んだ魚のような眼をした知識の奴隷、従順な下僕たちを大量生産することが、そんなに意義のある仕事だろうか。嘘を嘘と、認識することもできないほどふらふらになるまで相手を叩きのめせば、嘘は消えるのか。それははたして、「科学的」な態度だろうか。

社会科学は、言うまでもなく人間を研究する科学である。その「人間」には、科学を科学する観察者としての科学者も当然含む。(本来の)社会科学は(当然自分自身も含めた)科学者を「カッコ入れ」しない。特権者扱い、例外扱いしない。それを食べるようせっつかれている側とともに、リンゴと蠅をいっしょに見る。職業活動としての科学それ自体が、われわれにとって問題となり、脅威の源泉と化したのなら、(本来の)社会科学はその下につくのではなく上に立ち、科学を科学する科学者自身をも科学することをためらわない。その営みは、そのまま「声なき正当性」と「正当性なき声」にそれぞれふさわしい椅子を与え、病んだ「知識」を正調に復して再生し、それをみなで再び分け合うことにつながる。その役割を果たせるのは、声なき正当性の味方になって彼らといっしょに戦ってやれるのは、社会科学だけであるが、そうなっているか。


原子力のとりつけ騒動~科学の経済学と経済学の経済学

非対称情報の問題としての原発と放射能は、既に述べてきたように、それが経済学上、特に公共経済学上で一般にいわれてきた主張にも、暗く長い影を投げかけた。それらの主張は、情報格差が生む問題は国家と行政が情報を束ね、身元保証人になることこそが最強の解決策だと主張してきたのだが、今回の場合、その当の国家自身が疑惑の中心的当事者で、その中枢部分がみなが唖然とする中で腐り落ちてしまったので、水中に火がついたように、あるいは、それこそあてにしていた補助発電機が使えなくなってしまった崩壊原子炉なみに、手の施しようがなくなってしまったからである。今や「国策」への関与度合い自体が、怒りと疑念がなだれ込む「腐ったレモン」の識別指標となり、使えない切り札に安易に頼りすぎていたことが、逆に症状を悪循環的に増悪させている。

PR会社の米エデルマンが1月に公開した年次調査によると、長年一定のレベルにあった日本人の政府機関に対する信頼は急激に低下した。今ではウラジーミル・プーチン氏の政府機関に対するロシア国民の信頼度とほとんど変わらない。原発事故は官僚と電力会社に対する信頼を打ち砕いた。報道機関に対する信頼も急落した。自治体でさえ、今は政府に対する不信感を隠そうとしない。福島原発に近い3つの町の町長は、2月に開かれる予定だった汚染土壌の埋め立てに関する閣僚との会議をボイコットした。「政府は嘘ばかり言う」と町長の1人は吐き捨てた。


この状況は、それを頼みにしてきたいくつかの業界(たとえばここでとりあげてきた弁護士業界や医療業界のような業界)にとって、ことのほかバツの悪いものとなっている。彼らは、この「情報の非対称性」理論を、自分たちの業界を市場競争から遠ざけ、国家が庇護することの理論的根拠になるとみて、熱心にその旗振り役を買ってきた。しかし今、その大いなる保護者の面目は丸潰れになってしまった。国家がその庇護下の職業人の「利益相反」の問題を解決すると信じられたのは、それが無色透明で、かつ善良な監督者であることが前提だった。しかしそれはただのフィクションでしかなかった。科学の場合は「国営化」は非対称性の解決策ではなく、むしろそれが問題そのものだった。彼らが妙薬だと思って崇めていたのは病気の本体だった。そこでは国家に抱かれることは問題をなんら解決せず、逆に国家に抱きしめられたままで、メーターの針が振り切れるほどの強烈な非対称性の問題と信頼の危機が起きた。人びとの信頼を失った、いかがわしい金主に囲われ、守ってもらうことで、はたして自分たちは自立しているときよりももっと信用される存在になるのか、それとも逆なのか。彼らは、無知なる大衆はその無知なるがゆえに情報格差から保護されなければならず、国家が責任をもって専門家の面倒をみなければならないと唱え、大衆の無知を彼らの雇用保証、収入保証の根拠に利用してきた。が、科学においては、その無知な駱駝が、いくら押しても引いても、一歩もそこから立ち上がってくれないことが逆に嘆かれている。それが望ましいときは無知の中におれといい、具合が悪くなった途端にそこをどけとはずいぶん虫のよい話にもきこえるが、彼らは民衆が自分たちの地位を脅かさない程度には無知であり、歯向かってきて煩わせない程度には賢くあってほしい、というくらいに漠然と考えていたのかもしれない。まるでほどよい温かみで年寄りの足元を温める湯たんぽかなにかのように。同時にそれは、彼らの黒い保護主が、「欠如モデル」と「パニック幻想」(知りすぎるとパニックになるので情報は教えない方がよい)を場面に応じて都合よく使い分けていたこととも、軌を一にしている。

経済評論家の財部誠一氏は、最近の論考の中で、原子力をめぐる現在の状況を、これもまた金融の世界からの例を引いて、銀行業界の「とりつけ騒動」に比べているが、この例えは、危機の核心がもはや「リテラシー」ではなく「システムへの信頼」にあることを見抜いている点で、さすがに嗅覚の鋭い、優れた指摘だと思う。

(自分は)火力、原子力、水力、再生可能エネルギーとのベストミックスを探りながら、原発依存度の低下をはかる以外に現実的な選択肢はないと考えている。したがって原発再稼働についても現実的な議論を期待する人間の一人だ。 だが福井県の大飯発電所の原発再稼働には賛意の表明などとうていできるものではない。

民主党政府、原子力安全委員会、電力会社、原発の安全に対して責任を負うべき組織が国民からの信頼を完膚なきまで失ってしまったからだ。原発それ自体の危うさもさることながら、原発を直接、間接に管理する組織が全く信用を失ってしまった。

これはもう「とりつけ騒ぎ」だ。

銀行が寄って立つ基盤はおどろくほど脆弱で「危ないらしい」という噂ひとつであっという間に倒産してしまう。銀行の支店には大量の現金が置いているわけではなく、一刻も早く自分の預金を引き出したいと人々が大挙してやってきただけで、その銀行は破綻だ。 噂の火はまたたく間に広がり、金融庁や日銀が何を言おうが、ましてや当該銀行の経営者が何を訴えようと、パニックに陥った預金者の耳には、いかなる真実も、いかなる論理も通じない。(略)

原発問題はあきらかに「とりつけ騒ぎ」状態に陥っている。誰が、何を言おうと、一切信用できないというのが今の現実だ。


医療業界も弁護士業界も、非対称性の理論を自分のためには使うが、不当な非難を浴びている民衆のためにはそれを使わない。民衆は愚かさをあざ笑われているが、専門家と権威の側の信頼が壊れていることについては、みな口を拭って知らぬふりをし、それについて声を上げて異を唱える者はひとりもいない。北風と太陽の寓話のように、嘲笑のファシズムによって、ますます両者の間は離れていき、信頼関係は壊れていく。

さらに、まったく当惑させることでもあり、ある意味で相当滑稽なことでもあるが、燃え上がる疑念と不信の炎は、現在、情報の経済学の本家たる経済学自身も否応なく巻き込みつつある。折しも現在、財務省と政権与党の民主党によって、裏切りへの世論の怒りと政権与党の政権公約の根幹を無視した強引な増税が進められているが、財務省から送り出されて時限機雷のように主要大学にくまなく埋め込まれ、経済学者を名乗っている論者が各メディアに一斉に湧き出してきて、天にも届けとばかりに増税翼賛の大合唱を繰り広げている。ここでも問題になっているのも、知見の正当性、すなわち日本の財政の破綻度合いや緊急度などに関する判断そのものの正当性ではもはやない。まがりなりにも民主主義の政治体制をとっている社会で、正規の意思決定過程を無視し強引に捩じ伏せてまでそれを進めようとする不正を頭から無視し、当然のものとしながら正義を論ずることの不自然すぎる意図および利害である。彼らは経済学の世界に格付会社と同じ、原子力学者と同じ、「スポンサー問題」を呼び起こし、経済学全体の信義を危険にさらしている不良なレモンである。外側にいる一般の国民の目からみて、百鬼が夜行する中、誰がポストと金銭をエサに魂を売り渡したのか、誰ならほんとうの学問的良心に従って発言しているのかが急速に分からなくなりつつある。彼がどこの官僚出身者であり、どういう人事的影響力で今のポストを得たのかに、原発学者と同じように強い関心が当たりつつある。議論の足場自体が腐って泥まみれになったため、問題を真に憂えて提言したいと思っている真面目な発言者が、むしろそれを圧倒的に行いにくい状況になりつつある。これは「腐ったレモン」問題そのものだという指摘に対して、「腐ったレモン」の専門家、品評家であるはずの経済学はどうこたえるだろうか。われわれは経済学者自身の口から、この問題に自己言及している言説をここまで聞いているか。

経済学は、その手にある優れた道具によって、この列島を呻吟させている大きな心の重りを診断し、軽減しうる立場にいるのに、紺屋の白袴、医者の不養生を演じて、自ら知らずもうひとつの同じ重さの重りを人びとの肩の上に上乗せしようとするのだろうか。経済学は、問題全体の上に馬乗りになってそれを観察しうる立場にいるのに、自ら知らず、主なき純粋経済学の眼の下で、ともに観察される側の立場に自分を貶めるのだろうか。


非対称情報と差別の誕生

上にもみてきたように、情報の非対称性は、しばしば強い差別を生む。自分の理解を超える未知の対象がなおかつ危険であると判定されたとき、よく分からないがゆえにそのカテゴリー全体をひっくるめて警戒し、まるごと切り離して遠ざけようとするのは、リスクに対するわれわれの正常な反応のうちだからだ。「レモン」の言葉は既に本質的な部分で差別を語っている。しかし実際には毒が混じっているのは籠全体の中のひとつふたつの実だけであり、大多数の構成者にとってはそれは謂われのない不当な扱いであるので、そこに差別、すなわち評価における評価者・被評価者間の紛争状態が生ずることになる。被・評価者の側が言いたいことはこの場合だいたい決まって定型化しており、それがこの型の評価紛争の目印になる。すなわち「危険を誇張しすぎる」「網をおおざっぱにかけすぎる」「恐れるにしても正しく恐れよ」などといったことがそれである。新しく登場したまだ慣れない危険な疾病や異民族、移民といったものが典型であるが、「専門家」も思った以上に同じ標的になりやすい。専門家はその高い知識のゆえに常人の理解を超え、そのゆえに大きな危険を行使しうる存在だからである。専門家はしばしば尊敬されながら軽蔑される。尊敬されるがゆえに軽蔑される(IT技術者は少し前まで「パソコンに詳しい人」という括りでさんざん同じ目にあってきたのでこの話はよく分かるはずだ)。「尊敬される」と「気味悪がられる」はほとんど紙一重である。専門家の側も当然そういう蒙昧な相手を自然に見下げているので、互いにかみ合うことのない「侮蔑の市街戦」のような乱戦状態が出現する。これが少し前に金融の分野で起きたことであり、今また科学の分野で起きていることである。金融業では下地としても千年にわたって同じ種火が燻り続けており、その根深い職業差別の根になってきたが(言うまでもなくそれは人類史上最大の虐殺の心理的土台にもなったし、その際には知識階級もいっしょに巻き添えになった)、専門能力への畏れの他に、そこで怒りと反感が集中するもうひとつの要因となっているのは、貨幣というものが常にその玩具(おもちゃ)にされてきたところからくる権力機構との避けがたい癒合であり、これもまた現在の科学と並行する問題性だろう(つまり、「リスクは”socialize”するが、利益は自分のもの」と言われている問題がそれである)。

このような非対称情報の磁力が作り出す差別でやっかいなのは、外側からの見方と内側からの見方が、おのおのそれなりに合理的な根拠を持っているからである。外側からみれば、その中に部分的に含まれているが分別できない有毒成分を気にしてカテゴリー全体をまるごと拒絶するのに対して、内側の所属者がその拒絶を拒絶する判断の根拠にしているのは、主に自分個人、自分本人の足元を懐中電灯で照らしたごく小さな範囲の正邪だからである。彼にしてみれば、少なくとも自分で思っている程度にそれが正しいのであれば、この自分はたしかに良心的に、誰恥じることもないように振る舞っている。他ならぬ自分でしていることだから、そのことは自分で知っている。なのにこの無下な扱いはなんたることか、という憤慨がある。しかし外側の観点からは、それはどうでもいいことで、そんなことが恐れられているのではないし、逆に内部の目からは、構成分子の個々の運動ではなく総体的なクラウド(雲)の状態が問題視されていることは通常まったく意識されないので、この行き違いは、どこまでいっても話が噛み合わない不毛なものになる。同じ事柄を話しているつもりで、噛み合っていないことさえ相互に気づかれていないことも多い。

金融と経済の世界でサブプライム問題が起き、投資銀行や格付会社が池に落ちてすがる藁もなく袋叩きになっていたとき、これらの科学者や経済学者たちはそれを自分自身の身の上とは無縁の話で、自分たちは安全圏にいることを当然と思っていたかもしれない。だが、彼らが今巻き込まれている事態が、それと本質的に通ずるものであるなら、その判断や安心感にはずいぶんな抜かりがあったということになる。そうであれば、幻想が現実によって剥ぎ取られ、全員が裸で平等に海上に投げ出された今こそが、その真の困難さが正視され、解決の模索が本当のスタートラインから始められるにふさわしい時となる。金融業界で重ねられてきた議論や、中古車業界で試みられてきた工夫は、彼らにとっても一気に親身で切実に感じられる、興味深いものになるだろう。まだほとんどそれがされていない科学に比べてこれらの分野では内部のガバナンスについての経験をはるかに多く経てきている。当然そこには、金融業界でさまざまな議論が重ねられてきたように、決定打となるような簡単で抜本的な解決策などはなく、だからこそいろいろな新たな工夫や提案が貴重になってくる。原子力学者には自分の「ドッグフード」を食わせるべきだ、という経済学者からの提案もそうしたもののひとつで、それは投資銀行の報酬設計に対するさまざまな提案にも通じていよう。いずれにしてもその際のカギになるのは、「失敗したときの損害・リスク」を非・社会化、私有化、個人化する、実入りと結果が分離されている状態を改めて両者を紐で括りつけ、悪しき結果に対して(著名投資家のウォーレン・バフェットが言った有名な言葉のように)「自分も同じように苦しむ(スキン・イン・ザ・ゲーム)」という点だろう。

自分も同じように苦しむ

スキン・イン・ザ・ゲームは、米投資会社バークシャー・ハザウェイを経営する著名投資家ウォーレン・バフェット氏による造語であるとの説が有力だ。今年の長者番付世界首位になって注目を集めたバフェット氏は、数兆円に上る自己資産のほぼ全額をバークシャー株で保有している。(略)

「私がヘマをして会社の経営が傾いたら、みなさん(株主のこと)と同様に私も苦しみますので、それを慰めにしてください」

要するに、バークシャー株が急落すれば、バフェット氏は一般株主と同様に自己資産の急減に見舞われるわけだ。一般株主とリスクを共有しているということだ。だからこそ一般株主から信頼されるし、経営者としてバークシャーの株主資本を大切に使おうとする。同氏の基準では、スキン・イン・ザ・ゲームを実践しない経営者は失格だ。


一方、この点においても、解決の努力がそのように自らの内側に向かわずに、捩じれた形であくまで外向きに向かい、その道をさらに先まで突き進んでしまうという可能性も、残念ながらここまでみてきたとおりに、想定されることである。その目印になる行動のひとつは、たとえば「科学の商業化(あるいは技術化)」を告発するというものだろう。これは問題の源泉をもっぱら金の出し手である「スポンサー」の側に求め、自分たちではなく彼らの側を改造することで解決をはかることをねらったものである。ひらたく言えば、科学とその担い手自身が悪いのではなくそれを実用に使った連中、金儲けした連中が悪なのだ、ということである。現下科学が被っている苦境と恥辱は、世にはびこる憂うべき下賤な拝金主義、経済第一主義だとかのせいなのだ、自分たちの方こそ、そのとばっちりを受けた無辜なる被害者なのだ、と。

これもまた、他の多くの言い開きと同じく、彼ら自身にとっては、慰めをもたらすものであることはまちがいない。この線に持ち込めば、彼らの問題はもともと見下げていた他の連中のものとはいっしょでないことになる。差別を自分からは切り離し、特定の対象、これまでそれに馴染んできた対象に再度集めて片寄せできる。蹴落とされた岸をもう一度よじ登って、自分はそれをされる側でなく、する側に復帰できる。しかしそれはもちろん、情報の非対称性のもたらす差別そのものと向き合わずに、差別の叩き合いを通じて自分の身の潔白だけを証明しようとする道である。いわばブラッシュアップされ、顔を洗って出直された新たな「欠如モデル」、つまり知識の「欠如」に加え、倫理の「欠如」にまでも原因を求め、しかもそれを内側にではなく外側に求めるその改版である。自身に対しては知識の専門家であること以上の倫理と正義を求められることに色をなした彼らが、外部に対して今度は急にそれを振りかざし、威儀をあらためて倫理学者のようなことまで言い始める。告発された側は、単に無知であるだけでなく、今度は哀れにも道義的にまで不浄であることになり、もはやなにか息をしているのも恥ずかしいような救われない存在として彼らの標本帳にピン留めされる。今や倫理的成分が不足しているのは、不祥事を起こした「我ら」ではなくていつのまにか「彼ら」である。「我ら」の問題と言われているものは「我ら」の問題ではなく「彼ら」の問題であり、「彼ら」が穢れなき「我ら」の二の腕に毒を注入し、おとしいれたのだ。知識階級でもあり、国家の禄に与(あずか)って自分で狩りをする必要のない気楽な身分からみれば、地を這い野に蠢くあまたの凡下たちなどは、今日の糧を求め、おまけに彼らが湯水のように使い果たす税の分まで余分に上乗せされて、至らなくもみっともない悪あがきのような行為を山ほどしているのだから、その気になればその証拠はいくらでも見つかり、槍に突き刺して高々と掲げてみせることができるだろう。

だが、それで万事解決というわけには当然いかない。多くの困難や軋轢が対価として支払われることになるだろう。そもそもそれでは周りが問題視し、警戒していた点、すなわち彼ら自身の国家と権力との近すぎた距離や、それをもたらした利益相反の問題はどこへいってしまったのか、ということになる。さらに、現実に活動のための資金を必要としながらそれを生み出す源泉(経済活動)に呪いをかけることで、自分たちの営みの経済的側面を土台ごと切り崩し、結果的に国家以外のどこにも請求書をつけまわすことはできなくなって、国家の失策とそれとの癒着が問われているさなかに、まるで噴火する火山から麓に向かって逃げずに駆け上がって噴煙の中に身投げするような格好にもなる。ますます国家と税という「公営マネーロンダリング」なしにいられなくなり、それにべったりと頼りきるようになる。そのうえ良くないことは、もともと問題視された内容とまったく噛み合っておらず、話をはぐらかしているために、「啓蒙」への努力もむなしく、周囲からの疑いの目は緩和されるどころかますます強まるだろうことである。彼らが言うことをその通りにしたからといって、放射線汚染に関する今の情報環境がよくなるだろうか。地に墜ちた自らの評価をもう一度上に持ってくるために、上にいる者を下まで引きずり下ろし、非専門家の側に我が身の無教養をいっそう痛烈に思い知らせて、深く恥じ入らせてやったら、こちらの評価はそれだけ相対的に上げ底されて、周囲からの信用が回復するとでもいうのか。

さらに問題なのは、そのとき彼らは、科学の苗床であり、それに資金的に支える社会全体を倫理的に改造し、そのレベルを一段上に引き上げるという、途方もない腕力を要し、かつ自分がまったく土地勘を持たない非専門的な仕事について、別の分野の専門家の威光を流用して無遠慮に踏み込み、自分の言うことをきかせようとするという、彼らが外側からの侵犯者に対してはしばしば手厳しく咎めてきたお手つきに、彼ら自身が盛大に踏み込む危険を犯すことになるという点である。日頃から門外漢の率直な感想にも耳を傾けるべきものがあり、尊重すべきであると表明している者なら、相身互いでいくらでもそうしたってかまわないだろう。しかし彼らが外部に対してとってきた態度と潔癖さは、それを自分にだったらあいまいに許すようなものだっただろうか。

概観してきた、科学が現在おかれている評価と情報の問題は、確かに学問的探究の内部に閉じた純粋な知識の探究と普及の問題ではなく、外部の問題、そしてひとつの「経済」問題であり、その意味で「欲望」の問題である。それにちがいはない。しかしそれは、学問の世界の外にいる無知で欲惚けした悪しき守銭奴どもが、健気に頑張っている自分たちの評価を汚し、金で釣って巻き添えにしている、といった類の、被害者意識に満ちた、仰々しい物語とは次元の異なる話である。それが「経済」と「欲望」の問題であるとは、科学自身の「インセンティブ」の構造の問題、それが誰に仕え、どこから活動資金を得て活動を行うかという、なんということもない、陳腐でありふれた、しかしそれだけに根の深い問題であり、その点が、仕事の中身自体の有効性とは独立して格付会社や葬儀会社が直面していたものと同じものだ、という意味である。その点を共に踏まえることができるのであれば、民間企業の問題や苦労は、無関係な問題として非難できるのではなく、むしろ他人の失敗をベンチマークし、そこから無限の教訓が学べる問題となる。霞を食って生きる仙人というのでもない限り、ゼロから動力を取り出すフリーエネルギーの永久機関でもない限り、経済体制がどうあろうと周りがどうあろうと、それは避けては通れない問題であり、避けて通ろうとすることで、避けて通れたと安易に信じ込むことで、むしろ最悪の陥穽に落ち込む問題である。現職がいやになって転職する転職者や、法人税がいやになって移転する多国籍企業のように、どこか外国に逃げたからといって、あるいは欲塗れの資本主義体制が打倒されて社会主義政権になったからといって、都合のいい金がどこかから降ってくるわけではない。新たなスポンサーとの間で同じ関係に入るだけである。むしろ商業と国家・国策を対比したときに、資金供出における後者の下心のたちの悪さ、悪魔性が顕著に現れた典型例こそが他ならぬ原子力ではなかったのか。

科学の場合に酌むべき特殊性が認められ、事をいっそう複雑にもしているのは、彼らの中の一部が「疑似科学」を駆除しなければならないとの使命感に燃えて、科学の活動を相対化し、他のものと並列におく議論全般を日頃から強く警戒し、拒絶しているという事情があるからであるらしい。そこでは手法自体の絶対性と職業活動の社会的相対性の問題がはじめから混線しがちで、後者が意識の中で強い盲点になっているようにみえるのもそのためなのかもしれない。しかし繰り返しになるが、今問題になっており、疑われているのは、科学の中身の手法や知識の正しさではなく、どこまでもその職業活動としての相対的な社会的位置づけであるのだから、そこをなかば故意に見誤り、あくまで知識の正当性の布教に頼り、その線だけで強行突破して自分を覆う相対的問題の暗雲がいつか魔法のようにきれいさっぱり晴れているだろうと念ずるのは、「ゼロリスク」を目印に科学のレモンを回避しようとしている蒙昧な一般消費者も下回る非合理な行為であり、それ自体がすでに雨乞いに等しい一種の呪術行為である。経済上のフリーエネルギーを前提とした、ありもしない夢想を基準線に自分たちの職業活動を論ずるのは、それ自体がすでに社会科学上の疑似科学である。自分みずからが職業行動において濃厚に「疑似科学」的であることは、社会全般の「疑似科学的なるもの」を根絶するうえで有利に働くものとは、もちろんいえないだろう。よく他人の差別意識を責められるのは自分はよそで差別しているからであり、総量としてはそこに増減のある者はいない、と言われるのと同じように、われわれはどこかにはそのように幼児的、退行的な認識の「逃げ場」を持たざるをえない存在である、というのが、もしかしたら冷徹で本当に「科学的」な人間理解ということになるかもしれないからだ。分を弁え同好の士との間だけで、私的に小さくそれを楽しんでいただけの者と、国家の金を使い、国家権力と合体して自分の認識の歪みを社会全体に押しつけようとした者とでは、どちらがより罪が重いのか、ということさえ問われることになろう。

金融事業者や中古車事業者や葬儀業者が、自らの職業活動の非対称性の強さをあらかじめ覚悟し、その不可避な一部として、事業者間の競争の中で、経営を工夫し、解決策を競い合い、顧客の不満に向き合いながら、そこになにかの糸口が見つかるのではないかとそれに謙虚に耳を傾けるとき、彼らの態度は、社会科学的な意味で、実際にはきわめて「科学的」であり「実証的」な、洗練されたものである。反対に、ある種類の事業者が、非対称性と専門性の強さに立脚していながら、それが生み出す現象に、まるではじめて見るもののように狼狽し、怒ったりスネたり、あるいは泣訴したりしてみせることで、外部が同情と憐憫、恐怖から自分に対する態度を変えてくれるだろうと期待するのは、外部に対して働きかけるやり方としては、すこぶる「魔術的」「幼児的」である。たとえその胸の名札に書いてある職業の名が、名前だけ「科学」というものだったとしても。

ここで述べてきた「欠如モデル」とは、このように単に知識の在庫補充のみをもって問題に対処しようとする無機的な行動のことではない。そのことをもって、現に観察され、語られながら、自分たちが理解できない社会的現象のことを、それ自体が「存在しない」とか「気のせい」とかと、根拠もなく平気で言ってしまう、存在自体を否定して思考的に消してしまう、科学の徒をもって任じる人たちによる、極度に「非・科学的」あるいは「魔術的」な思考形態のことを指す。それは単なる知識に関する行動や態度の型ではなく、周囲を巻き込んで強行される自己欺瞞のひとつの型であり、問題の指定ではなく、ニセの問題の指定による真の問題の否定である。それはただ単に「お前は不勉強なのだから勉強しろ」と言うことではない。単に「不勉強」だけの話なら、勉強しろということになんの問題もない。自分の側の不始末を後ろ足で砂かけして隠すための隠蔽行為としてそれを言うことである。自分達の失態を頭から無視して相手側の知識の補充のみに前のめりになっている点で、最初のイギリスの例がまさにそうなっている。

自然科学者にとって、あるいは社会科学者にとってさえも、自分に理解できないものは存在しない、気にしないというなら、同じような社会現象、サブプライム危機のパニックや、情報の非対称性を背景にした一見不合理な経済行動なども、みな存在しないことになってしまい、研究する意味も理解する意味もなくなってしまう。リスクに能動的に対処しようとし、攻撃や虐待から逃れようともがき、あるいは逃れきれずに混乱する、すべての生きる者たちの行為が全部「気のせい」扱いになってしまう。それが物理現象であれば、自分が理解できないから、気に入らないからそれは存在していない、などという粗忽な態度が科学的なものとして許されようか。経済的・社会的現象であればなぜそれが許されるのか。仮にもそのようなことを口走る者が、それが物理現象であったとしてさえ、ほんとうにまともに科学をしてきたといえるのか。言い換えれば、「認めたくないという理由だけでなかったことにした」ものは、ほんとうにそこにはなかったのか。

あるいはこうもいえるだろう。それがただの気のせいで存在しないというなら、彼らが今現に苦しむ社会からの差別自体も、ただの精神現象、社会現象で、気にしないで笑い飛ばして忘れてしまえばいいことなのか(本当に論理的に貫徹するというなら、そこまでの覚悟があるなら、そうすればよかろう。それなら話はそこで終わりである)。それとも差別自体はこうして現に存在していて気のせいではないが、もともと気のせいから根拠もなく生じた差別だからそれが不当なのか。相手が悩んでいる問題は気のせいだが、気のせいで起こした行動で自分が悩んでいるのは気のせいではないから非難されるべきなのか。情報の非対称性は自分の地位収入を守るときだけ存在しているが、相手がその中でもがいているときには気のせいなのか。このとき、真実にはいったいどちらがどちらをより深く「差別」し、人間の存在の根源のあり方において、侮辱しているだろうか。そしてこの勝手なご都合主義のどこに、個々人の小さな思惑を超えて真実に迫ろうとする、科学的精神が認められるだろうか。


Munchhausen by Proxy

以上の検証を通じてますます露わになってくるのは、自らの失点によって深手を負ったこのひとつの業界、職業集団が、にもかかわらずあくまで「観る者」「教える者」の地位から降りまい、その権力を手放すまいとし、自分が「観られる」側としての問題、病理を生じてさえも、そちらの側には絶対になるまいとして、われわれの目の前で砂煙をあげながら大蛇のようにのたうちまわり、もがき続ける断末魔の姿である。自分自身の問題が問われ、信頼が問われているときにあってすら、あるいは自分がそもそもたいして知りもしないことについてすら、科学は無理やり外側に「教える」こと、「ミニ勉強会を開催する」ことでそれを解決しようとし、また、解決できるとして譲らない。はじめからそれ以外の可能性は全部すっぽり頭から抜けていて、それを疑問にすら感じない。そのありようは、最近の事例を引いていうなら、自ら犯罪を犯すことでそれを支えながら、それでも強引に公判を強行しようとした検事のそれを彷彿させる。検事もまた、被告を彼の神聖なる俎板の上に押えつけて腑分けするのが仕事で、あまりにもそれが板につきすぎ、肘の形がそう固まってしまっているので、それが適切でないときですら同じ構えで対処しようとする。それ以外のやり方を知らず、思いつくことさえできない。

また、ここにあるのは、本来は自分自身の問題であるものを他人のそれにすりかえ、甲斐甲斐しくその相手を介抱してみせることで事態を好転させることを試みる、人間間のこれもまた異様に捩じれた、倒錯的な関係性である。そのためあまりにそれが嵩じると、必然的にそれは、経験豊富な医師が自分の仕事の中で出くわすことのある、ある種の幻惑された症例に、ますます気味悪いほど似通ってくることになる。

入院中の幼い娘3人の点滴に水を入れ死傷させたとして、傷害致死と傷害の罪に問われた××被告の裁判員裁判で、京都地裁は20日、懲役10年(求刑・懲役15年)の判決を言い渡した。起訴状によると、被告は06年3~5月、岐阜市内の病院に入院中の四女(死亡時8カ月)の点滴に水道水を何度も混ぜて呼吸・循環障害で死亡させ、同様に三女と五女を重篤な状態に陥らせたとされる。初公判で起訴内容をほぼ認め、量刑が争点になっていた。

娘3人の点滴に水などを混入し死傷させたとして、傷害致死と傷害の罪に問われた××被告が14日、京都地裁で開かれた裁判員裁判の被告人質問で「子どもが医師から目を向けてもらえることで、私も『特別な存在』と認められ居心地が良かった」と混入の動機を明らかにした。被告は弁護側の質問に、当時の心境を「悪いことをしている気持ちはあったが、(混入と、子どもの病状悪化や死亡とを)関連づけていなかった」と述べた。裁判員の1人は「犯行時、精神的に普通でないと自覚したり、家族が指摘をすることはあったか」と質問。被告は「ありません」と答えた。


ここにあるのは厳密にいえば「疾病」というよりは人間関係のひとつの「型(パターン)」、一方が一方を攻撃し、虐待するときの、無自覚、機械的に施されるほどに巧妙かつ狡猾な、ひとつの様式である。一方は関係の中での権威と、相手を従わせることのできる正当性を有しており、一方はそれに従属せざるを得ない位置にある。また、一方は意識レベルではどこまでも善意であり、自分の利益を犠牲にして他人に心から尽くしているつもりである。他方の連れてこられた側は、しばしば深く懊悩しているが、それは自分の「症状」自体についてというよりは、それを漠然と押し包んで逃れることのできない黒々とした敵意の靄(もや)と、なによりその正体が煙幕を被って姿を隠しているためにどうもはっきりしないことについてである。また、彼は状況から脱出するためには、自分にまとわりついてくる見せかけの善意を振りほどき、切り裂いて、その向こうにあるものにまで達しなければならないが、その見通しのつかない苦しみ、そして自分に対する善意の正体が、害意以外のなにものでもないことをまず自分自身が認めなければいけない苦しみそのものが、彼や彼女を戦慄させ、打ち砕いて、ほんものの病人のようにみせていることすらあるかもしれない。

強調されるべきは、これらの関係の中で、善意の見えない攻撃にさらされている側に「病気」が実際にあるかどうかは必ずしも本質ではないことである。攻撃者の攻撃性とその必要性は、相手の疾病の有無とは完全に独立している。もともとそこに病気がまったくないなら、攻撃者の作為は明らかであり、犯意を現行犯で差し押さえしやすいが、たとえそこに攻撃者の訴える病気が実際に存在したとしても、同じ形態はまったく同じように、あるいはさらに心地よい、完全犯に近いまったき形で成立しうる(上の例でも最初の事例では実際に病気があり、その中で犯意が「目覚めた」)。

政治や科学のような組織的な活動を論ずるにあたって、個人においては実際に存在しうるこうした関係の型が、個人の殺人と戦争虐殺の関係のように集団的なものとしても成り立つかどうか、といった衒学的な問題意識に、われわれが最初の労力を費やす意味はあまりない。重要なのは、人間同士の相互関係の中には、このような陰湿に折り畳まれたグロテスクなものが実際に存在しうることを、現場を自分の目で実際に差し押さえることで確認し、それへの恐れ、心の震えから学べるものが取り出せるかどうか、というその一点にある。確立された一個の人間活動と、そこに向かって流し込まれる教育・訓練が、一定のイデオロギー的、方法論的な型にはまったものであるならば、集団行動としてそれが生ずることも、当然あると疑ってかかるべきだろう。

そこから浮かび上がってくるのは、おそらく次のような一続きの問題群である。すなわち、観る者と観られる者のうち、なぜ後者だけが常に社会心理学の仮想実験室に入れられてレントゲンを浴びなければならないのか。今、なにかを仕出かして、より多く「観察」されるべき、論じられるべきなのはどちらがどちらによってなのか。その当然のことを行うことがなぜそれほどまでに不服なのか。同じ人間であるのなら、なぜ常に一方だけが観察されるべき対象で、一方は常に観察する主体なのか。一方が勉強会の講師で一方が受講者なのか。彼らがいつもその受動性を笑われているのは、主導性さえ受動的だと笑われているのは、人工的に作られたヌードマウスのように、あらかじめ観察者によってすべての主導性が剥ぎ取られ、観察台のうえに裸で縛りつけられているからではないのか。はじめから「教えられる」「裁かれる」側と決めつけられているからではないのか。それもまたひとつの「マタイ効果」ではないのか。彼らの目にとって、すべてが客観化されなければならないのは、自分自身だけは絶対に客観化されてはならず、万能の主観性、主導性、あるいは事実の裁判の検事として常にその外側に置かれていなければならないからではないのか。学問的良心が今ほんとうに調査すべきなのは、科学の高等検察庁から起訴を依頼された審理対象か、それとも彼らの依頼主自身の方か ―― 次第によってはこんなふうに、そのうちのいくつかは、善意の毒槍の柄(え)を逆に手繰って本体の心臓にまでつき刺さり、科学の本質、その尊厳にまで関わるものにさえなるかもしれない。繰り返すが、問題はなぜ科学の場合には、自分が起こした不祥事について、内に目が向かわずに頑(かたくな)に外だけに向かうのか、ということであり、あまりその度が過ぎるようであれば、単に職業活動の社会的な位置づけだけでなく、その中身そのものについても、必然的に疑惑の目が向かうようになるだろうということだ。

金融危機が起きたとき、金融事業者「自身」は、自らを告発する世論に逆ねじを食わせて、責められるべきは一般市民の「金融リテラシー」だとまでは言わなかった(また、彼らはある意味、それに馴れているということもあって、「差別」というマジックワードで議論を封じることもせず、自分達の業界が問題の震源になっていることを受け入れ、謙虚にそれに耐えた)。科学の危機が起きたとき、科学界「自身」が主要な問題は一般市民の側の「科学リテラシー」だと主張することは、それと比べてわれわれになにを物語っているだろうか。これほどまでに頑(かたくな)に、観察する者と観察される者の「gender role(性役割)」を固定化する科学は、偽りのパターナリズムがその中に逃げ込む隠れ家、不破の要塞として、どれだけうってつけに好都合であることか。ひょっとしたらこのような科学は、その種の善意の盲点を持つ者たちを、はじめから漉して自らに吸収する蜜を湛えた壮大な虫取り、巣窟にさえなっているのではないか。それ自身がもとから、レモン事業者のための垂涎の虎の巻を拵(こしら)え、提供してきたのではないか ―― そうした破滅的な疑念を外から招く前に、その危険は担い手の念頭において、どれだけ自覚されているだろうか。





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2012/09/07 | TrackBack(0) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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