「想定外」と「異常に巨大」のあいだ

先だって東京電力の株主のひとりが、原発事故の賠償主体を(賠償支援スキームで)東電に負わせたのは、原賠法(原子力損害賠償法)の規定上、法律違反だとして訴訟を起こした。事故全体の被害や政治的社会的影響の巨大さに比べて、片隅の、つまらない話のようにみられているが、実際には問題の根幹に触れる重要な提起で、波及するところが大きい話である。

訴えの主旨は、原賠法では原発事故において、たしかに電力会社が賠償主体になると決めているものの、「異常に巨大な天災地変」の場合には、電力会社は一転、全面的に免責され、あとは国が引き取る、と明確に定めている。では、この「異常に巨大」とはどのくらいの規模なのか、といえば、法律制定時に「地震規模が関東大震災の3倍程度」との国会答弁があって、それを受けて原賠法が成立している。今回の地震は3倍どころの話ではないので(45倍だという)、この基準からいえば明らかに「異常に巨大」の範疇に入るから、電力会社に賠償責任を取らせるのは法的には違法、というものだ。東電に対する世論の感情的なわだかまりはおいて、純粋な法律論としてみれば、原賠法にたしかにそう書いてあるのだから、訴えはしごくもっともな内容で、株主はそれらの経緯を踏まえたうえで東電に自前の資金を出資しているのであるから、訴えは当然であり、それこそ「想定内」といえる。もともと東電の顧問弁護士も経営陣に免責を申し出るよう強く促したそうであるし(2012.6.12 産経)、この訴訟の訴訟主自身も弁護士だという。いずれも法律のプロが制定の経緯からみて充分ものになるとみなしてそうしたものだろう。

東京電力福島第一原発の事故を巡り、東電株を1500株保有する東京都内の男性弁護士が、原子力損害賠償法の免責規定を東電に適用しなかったことで株価を下落させたとして、国に150万円の損害賠償を求める訴訟を東京地裁に起こし、同地裁で20日、口頭弁論が開かれた。(略)原子力事故による賠償責任を定めた同法は、過失の有無にかかわらず、電力会社が損害賠償の責任を負うことを原則とし、「異常に巨大な天災地変」の場合は免責すると規定。男性は、1961年に同法が制定される前の国会審議で、政府が「(免責の対象は)関東大震災の3倍以上」などと説明していたとし、「東日本大震災の地震の規模は関東大震災の3倍をはるかに上回り、今回の政府の判断は誤り」と主張している。国側は、この日地裁に提出した書面で、「免責は、人類がいまだかつて経験したことのない、全く想像を絶するような事態に限られるべきだ」と反論。「3倍以上という説明は、分かりやすい例えに過ぎない」とした。

中曽根国務大臣:今の点は、少し誤解があるようでございまして、第三条におきまする天災地変、動乱という場合には、国は損害賠償をしない、補償してやらないのです。つまり、この意味は、関東大震災の三倍以上の大震災、あるいは戦争、内乱というような場合は、原子力の損害であるとかその他の損害を問わず、国民全般にそういう災害が出てくるものでありますから、これはこの法律による援助その他でなくて、別の観点から国全体としての措置を考えなければならぬと思います(略)

その部分については、ここに書いてありますように「必要な援助を行なうものとする。」と書いたのは、行なうことができるというのではないのでありまして、国がやるのだということを明言しておるのです。しかも、それは「原子力事業者が損害を賠償するために必要な援助」というのですから、その業者の企業能力によっては、銀行から金を借りて、そして被告者に払うという場合もありますし、国が国家融資をしてやるという場合もございましょうし、あるいは補正予算を組んで補助金をやるという場合もありましょう。しかし、いずれの場合にせよ、客観的に損害額が確定された場合に、業者が自分で支払える限度まできて、しかも、もうそれ以上払えない、原子力事業の健全なる発達という面からしましても、これ以上払えないという限度以上の損害額があって、まだ第三者に払ってない、そういう場合には、その全部についてこのような必要な援助を行なって払わせる、そういう意思表示なのでございます。


話がややこしくなるのは、一方で政府と東電は、今回の事態に対しご存じのように「想定外」のものだという主張も繰り返してきたからである。先に急遽成立させた「原子力損害賠償支援機構法」で、政府は東電を法的な賠償主体に立て、国は黒子に隠れる、という基本スキームを法的にすでに決め、それは既に動き出している。そのたてまえ上、政府は今回の災害を「異常に巨大なもの」と認めることは絶対にできない。なぜならそれを認めれば東電は全面免責になり、賠償支援法の枠組みが土台から吹き飛んでしまうし、逆に既に決められていた原賠法の法の定めに基づかずに東電に一方的に責任を押しつけて株主価値を大規模に毀損し、そのような支援法をでっちあげたこと自体の法的責任と賠償責任を、今度は問われることになるからだ。しかし、その一方で政府と電力会社にとってそれは引き続き「想定外」でもあり続けなければならない。なぜならもしそれが「想定内」だったとすれば、事故対策も含めて東電経営陣と政府幹部の、巨大な法的責任が、これまた免れえなくなるからである。想定外なら天災になり、想定内なら人災になる。従ってこのふたつを合わせると、今回の震災は、どうしても「想定外」ではあるが「異常に巨大」とまではいえない、そのちょうど中間くらいに位置する、という、まるで真昼の怪談のような、まことにもって奇怪な位置づけのものにならざるをえないことになる。法律的にはこのように、「異常に巨大」な事態にさえ確かに目配りが及び、あらかじめ「想定」されているにもかかわらず、である。

菅首相は国の中央防災会議で、「今回の大震災は中央防災会議の予測、想定をはるかに超えた大きさだった。防災対策などを大きく見直す必要がある」と述べました。どう聞いても、「想定外」との受け止めですね。ところが、政府は東京電力・福島第一原子力発電所の事故に伴う損害賠償策では、「マグニチュード9以上の地震は時々あるし、津波も平安時代の貞観地震があった」(海江田経済産業相)として、「想定外とは言えない」との立場をとっています。現行の原子力損害賠償法では、「異常に巨大な天災地変」、つまり「想定外」の場合は、東電は100%免責されてしまうので、東電が責任を回避しないようにしているのでしょうが、ダブル・スタンダードであるのは明らかです。

田中(武)委員: そういたしますと、その(「異常に巨大な天災地変又は社会的動乱」という)文句の法律的解釈、これを俗に言うなら、予想といいますか、考えられないような事態、こういうように理解してよろしいのですか。

我妻参考人: ええ、その通りです。


さらにはここに、先に取り上げた「PSA(確率論的安全評価)」との整合性もからんでくる。国はこれまでPSAの評価結果を原発推進の根拠とし、また住民にもそれを使って、やれ事故の頻度は1千万年に1回の確率だ、航空機事故やプラント事故よりずっと低いのだ、とさんざん説得してきたのだった。だが、1千万年に1度の事故を引き起こすほどの天災さえ「異常に巨大」なものではないとすれば、いったい何がそれにあたるというのだろうか? あるいは逆に、天災の方は異常に巨大なものではなかったが、PSAの評価が間違っていて、原発事故はもっと容易に起きるものだというのであれば、璽後の原発のリスク評価は、民間保険にも見放され、PSAも失って、なにをよすがに行うのか。また、これまでそのようなまやかしで国民を欺き、株主や社債購入者、そしてなにより納税者に誤情報の「風説」を流布して、莫大な税金や出資金を盗み取ってきたことの落とし前をどうつけるのか。

福島第一原発の炉心が再び損傷する確率は1基あたり5千年に1回――東京電力は17日に公表した施設運営計画で、こんな試算を明らかにした。事故前は1千万年に1回と評価していたが、運転開始後わずか40年で3基の炉心が溶け落ちるメルトダウンを起こした。


この点で注目されるのは、新たに仕立てあげた賠償スキームが、結果的に免責規定を適用して電力会社を免責したのとほとんど変わらない内容になっていることである。東京電力は税金からの大量輸血によって破綻せずに生き残り、経営陣も責任追及や個人賠償を逃れている。株価は大きく下落したとはいえ、株主と社債保有者、運転資金を融資している銀行団は、それらが全損になることまでは免れた。被害者への賠償は、電力会社は事実上素通しで、国が(つまり国民が)税金と電気料金で自分で払うことになった。目を細めて遠目に眺めれば、免責規定を適用して東電を賠償のプロセスから外し、国が主体であたっているのと、やっていることは何も変わっていない。すなわち、政府は(形のうえでは)免責条項を適用しないまま(実態上は)東電を免責しているのである。このことは、奇妙な話であるが、電力会社が原子力事故による損害で引き受け不能のリスクに襲われて死に体になってしまい、国が前面に立つしかないことを見越していた点で、原賠法の免責規定がそれなりの整合性と有効性を有していたことを示したものといえるし、また、結局そのように国が尻拭いをしているのだから、免責の議論の過程で財務省の幹部が触れてまわったという、免責を適用すると法的に賠償主体が誰もいなくなって被災者が賠償を受けられなくなる、という主張も(上記の中曽根大臣の答弁にある通り、賠償支援法がしたのと同じことを、免責を適用したうえでやればいいだけなので)なんら根拠がないことになる。それならばなぜ国は、すでにあらかじめ決めてあった法的枠組みをそのまま使って同じことをしないのだろうか。それを大慌てで事後立法で上塗りに打ち消してまで、実質的な内容はほとんど同じ、新たな器をわざわざ別に設けたのか。

自分のみるところ、これによって新たに求められ、また実際に得られたのは、次の三つの効果である。

ひとつは、国が東電をおおぴらに放免してしまうと、今度は全部のお鉢が直接自分にまわってくることである。半死体でも腐乱死体でもなんでもいいからとにかく東電を形だけでも生かした格好にしておき、自分が隠れる楯、あるいは「燻製ニシン」として公衆の面前に釣り下げておかないと、「国策民営」で遠隔操作で問題を作り出してきた企みごとのすべてが、いっさいの遮蔽物のない状態で、国民の前に剥き出しになってしまう。国家は問題の頼れる解決者、包丁を持った板前ではなく自分が料理される側の俎板の上のコイになってしまう。つまり、国が、東電をなかば失神したままサンドバッグに立てて叩かせているのは、本来あらかたの責任があるはずの自分自身に人びとの怒りが集中するのを防ぎ、問題を引き起こした当の当事者が救済者であるかのように振る舞う余地を無理やり作り出すためである。国はJALの救済のときにも、あたかも自分が中立で無垢な仲裁者でもあるかのように、同じようにして株主や債権者、従業員を声高に非難し、彼らの財産まで勝手に没収しており、こうした立場のすり替えは、頻繁に繰り返される十八番になっている。免責の申請を断念して対応に窮した東電の経営陣は、次に企業破綻の方向を自ら模索したが、枝野経産大臣が、東電が原発を切り離して自分だけ逃げるのは許さない、とそれを拒否したという(2012.5.14 日経)。識者の中には、東電に対する世論の強い怒りを良識ぶって疑問視してみせる向きもあるが、大臣の言葉が如実に示しているように、東電を磔(はりつけ)に晒してそのように憎悪の矢が突き刺さる的(まと)に仕立てているのは、他でもない国家自身の強固な意思である。

政府当局と、東電へ運転資金の融資を行ってきた銀行団との関係では、政府は原発へ運転資金を融資してきた銀行団の債権者責任を強調し、それを咎めながら、しかもその融資を続けさせ、打ち切ることを禁ずる、という異様な構図がずっと続いている。具体的には、過去の融資については返済せずに踏み倒すが、新しい融資は優良債権の金利のまま寄こせ、という暴力団ですらしないような無茶苦茶な要求をしている。原発に資金を融通してきたことに責任があるといって銀行を責めるなら、その論理的な帰結は融資をやめさせることだろう。しかしそれをせずに、加担してきたことは咎められるべきだからそれを続けろ、と言っているのである。銀行が事故企業への融資から手を引いてはいけないことの根拠が、そのような問題企業に今まで融資をしてきたことになってしまっている。まるでお前は泥棒や姦淫をしたことに責任があるのだから、これからもそれを同じように続けなければいけない、と説諭する、おかしな教誨師のようである。

東京電力の賠償スキームに関する枝野幸男官房長官の発言が大手銀行を揺るがしている。枝野長官が13日午前の会見で、銀行団が債権放棄を行わなければ東電に対する支援は実行できないとの趣旨の発言をしたためだ。(略)もともと東電の支援に当たって、政府は東電に対して金融機関への協力要請を条件にしている。しかし、銀行サイドは「すでに実施した緊急融資が協力の中身だ」(融資銀行幹部)とのスタンスで、債権放棄どころか「金利減免や返済猶予などの条件緩和もあり得ない」(同)という考えだ。


銀行融資の問題が重要なのは、それが原発の存続そのものと直接関わってくるからであり、問題全体の真の急所だからである。原発に銀行がこれまで融資してきたことにはおおいに問題がある、反省しろ、と非難され、わかりました、反省しますと言って融資から撤退するなら、原発は金融上の血液を断たれてただちにそこで終わる。将来の国のエネルギー構成に関する議論がどうとか、大規模なデモが行われるとかに関係なく、それだけで一巻の終りである。国が自分で直接融資を肩代わりするのでもない限り、どうやったってそれ以上続けることはできない。

原発への銀行融資に関するこの異様な馴れ合いの構造は、原発に融資させているほんとうの意思決定主体が銀行本体やその株主などではなく、国家自身であり、機関投資家はその意思を体現するための、ただの操り人形でしかないことを示している。しかもその明白な事実を隠し、自分でやめないように強いている行為を続けているといって、なんと当の主犯の計画犯自身が使い走りの実行犯を非難しているのである。ほんとうの問題の元凶は国家自身であり、金融事業者は矢を代わりに受けるための鉄砲玉にされているということが、これほど極端にグロテスクな形で表れている例もない。これは道義を説く教誨師というよりも、むしろ既に犯してしまった罪を逆手にとって強調することで足抜けを禁じるギャングの手管である。

事実上の免責が狙うもうひとつの効果は、国は自分が単に問題の解決者であるだけでなく、自分の介入が不可欠であることをも示すためである。ここでもしも、あらかじめ決められたルールどおりに免責を適用するか、あるいはそれをしないでそのままきっぱりと東京電力を企業破綻させるかしていたらどうなるだろうか。免責を適用すれば、なるほど電力会社自身に対しては、免責に不満を持つ被災者その他からの訴訟が殺到するだろうし、後者の場合には、今度は膨大な債権と融資が貸し倒れになる銀行団も加わって、免責を求める大訴訟団が発足するだろう。もし銀行が訴えを起こさないなら、銀行の株主が、必要な措置を取らずに会社に損害を与えた背任の罪で経営者を訴え、強力にそれを要求することになる。これらはすなわち、原発と免責規定に関する経営リスク、融資リスクが現状よりもはるかに厳しく議論され、査定されるようになるということである。一方で、企業破綻によって以降の運転資金の調達は当然難しくなり、そのままでは燃料の購入もできなくなって発電事業にも支障を来すことになるので、それを防ぐために、常道に従って、事故の後始末をする原発部門の負債部門と火力他の無傷の発電事業を引き継ぐ新会社に再編するということが行われるだろう。また、免責と破綻のどちらにせよ、これらの影響は他の電力会社にもはるかに深く及ぶ。それらの企業も原発リスクを抱える限り銀行融資を同じように継続することは難しくなり、株主も保有リスクを取れなくなって投資も引き上げられ、株価と企業価値も暴落する。そうならないためには、他の電力会社も原発を等し並みに対処するしかなくなるだろう。

現行法が導く法的帰結とは何か。それは、例えば、「原子力損害の賠償に関する法律第3条1項但し書き」では、放射線の作用などによる損害が「異常に巨大な天災地変又は社会的動乱によって生じたものであるとき」には、東電は賠償責任が免責されるが、東電の経営陣が当該法的根拠に則った法的措置を採ることを真剣に検討した形跡は現在までのところ認められない。

しかし、東電の経営陣は、賠償額が巨額と見積もられており、現に株価や債券価格が暴落し、企業の存続に重大な疑義が発生している原因となっている賠償責任が免責される可能性のある法的措置を採らないとすれば、取締役の忠実義務ないし善管注意義務違反に該当し、株主代表訴訟などの対象となり得ることに、より注意を払うべきだ。

とりわけ、東電の株式を大量に保有する金融機関や機関投資家などは、積極的に東電に対してかかる対処を働きかけるべきであり、かかる働きかけを行わないこと自体が、保有していた東電株式について多額の損失を計上した当該金融機関などの機関投資家の取締役などの忠実義務等違反になり得る。


これらの過程は、既存の市場ルールの中でほとんど自動的に、予見可能な形で進んでいくので、それらをすべて御破算にしてあらたな救済スキームを打ち立てるよりは、政府の関与ははるかに少ないか、あるいはまったくなしで済む。たしかにそれらは大きな痛みを伴うものだが、それは犯した失敗の大きさに匹敵する痛みであり、人びとが失敗の大きさを実感し、同じ失敗を二度繰り返さないために、身に受けるのを避けてはならない罰の痛みである。それは大きな判断ミスをおかした企業が、すべて当然にたどるふつうの経過であり、市場経済が人びとに害を与える毒素を自動的に体外に排出する正常な自己回復過程である。原子力についても、それらの明示的で当然の過程を通じてはじめて、市場経済と株主統治のルールの中で、この巨大プロジェクトがこれまで隠してきた歪みと不正のすべてが白日のもとに晒されるのであり、それは今後どうなっていくべきなのかも、おのずからはっきりしてくるのである。これだけの危険な経営リスクを示した設備(原発)と同じものを運営する他の会社が、素知らぬ顔をしてそのまま経営していけるなどということは、企業経営上も本来はまったくありえない話である。

逆にこれらの自律的な過程を、政府が全身麻酔を打って阻止すれば、その代わりはすべて政府自身が、擬似的人工的に、そしてまた例によってずっとたどたどしい形で演ずるしかなくなる。まさに「政府が民間市場の自律性に手を突っ込んで回線をショートさせると、多くの場合入れ替わりに公的規制が登場する」という指摘そのままである。政府の役割は反対に極大化し、ほとんど全能状態になる。新たに勝手に作ったルールであるだけに、一挙手一投足を政府が振り付けする以外になく、すべての人が政府の顔色を見ながら自分の行動を決めるようになる。すなわち政府は単に問題の解決者であるだけでなく、それに不可欠な存在になるのである。

さらにここから、既存の仕組みを阻止することの第三の隠れた動機も明らかになる。それは、上記のような自動的なバネ仕掛けが起動することで好ましく結果が生じる、特に当の原子力についてそれが生じるので、原子力にそれらの市場の免疫機能が襲いかかるのを阻止し、これまで同様、法律と会計の偽装でその周囲をカモフラージュしながら、これから先の未来に向けて同じような形で送り渡し、存続させることである。「免責」「破綻」そして「疑似免責」の三通りの選択を考えた場合、破綻はもちろん、免責が適用されたとしても原発をそれ以上存続させることは難しく、逃げ切りを実現できるのは、免責か破綻かを明確に選ばないことでそれが顕在化させる問題性も曖昧に伏せたまま先送りする、疑似免責の選択肢が唯一のものだろう。東電の勝俣前会長は、免責の申請を躊躇した理由として、世論の批判が強くなり過ぎて会社が持たない、と考えたからだと述べているが、より正確にいえば、持たないのは免責という特例の保護を受けた「原発を持った東電」であって、持ちこたえられないのは会社そのものではなくて原子力である。原子力が経済活動が作り出した最大最悪の「外部性(毒)」だとするなら、前に述べたように、政府は市場が作った外部性を解毒したのではなくて、逆に自分が作った原発という外部性を市場に無理やり挿入し、市場経済が嘔吐してそれを吐き戻そうとすることもまた無理やりに阻止したのである。その「吐き気止め」こそが賠償支援法による疑似免責に他ならない。

このように、急遽仕立て上げられた「事実上の」免責の仕組みは、政府自身にとって、行わないことは考えられないほど必然的で、それだけ巧妙なものだったとも言えるが、一方で、免責も破綻処理もしないこの「こっそり免責」「裏口免責」の人工的な新救済スキームは、到底堪え忍ぶことのできないような巨大な歪みと副作用を日本経済の中心部に及ぼし続けている。東電は明らかに債務超過の、官製談合ならぬ官製粉飾状態で、死ぬことも禁じられたので死なないようにすることもできない。つまりふつうの企業が当たり前に行う、前に進んで生き延びようとする、あらゆる積極的な経営努力や前向きな投資ができない。しかもこの文字通りのゾンビ企業が、引き続き日本のエネルギー供給の中核を担い続けることになる。この腐った巨大魚が株式市場と社債市場の池の真ん中で堂々と泳ぎ続けるのだから、コンプライアンスもへったくれもあったものではない。さらにその実態は風に吹かれると倒れかねないハリボテにすぎないので、入り口を開け放って風を通し、電力市場の自由化を徹底することも、本質的な意味では不可能だろう。すなわち利用者は、もう顔もみたくないと思っているこの反社会的企業から、これからもずっと電気を買い続ける他はない。当の東電自身にしても、企業破綻の形で責任問題に区切りをつけないまま、だらだらと生き延びたので、経営陣と従業員は、事故の後始末を前向きに行うための適切な報酬と働きがいをいつまでも得ることができず、いつまでも煉獄の非難の炎に炙られ続け、社会からの憎しみを受け続ける。電力供給に誇りと責任感をもってあたってきた従業員も、さすがにこれには愛想が尽きて、会社から離れる者が、時間が経つにつれて、ますます増えていくだろう。東京電力は死ぬことを禁じられたことで、ますます救いようがなくぼろぼろに朽ちて死んでゆく。運転資金を融通する金融機関と株主も、破綻による損害を回避してもらったという弱みを政府に握られた状態で、原子力の継続への資金供給をいつまでもゆすられ続け、しかも理不尽にも株主責任、融資責任ということで、本当の黒幕である政府自身の身代わりに、それどころかその政府自身によってすらも責められ続ける。

東電の純資産は約8124億円(12年3月現在)。一方で、賠償や廃炉費などで今後、負担する金額は数十兆円に達する。それでも市場では「健全な企業」として扱われ、株式も売買されている。賠償に関連する原子力損害賠償支援機構からの支援金が「機構に請求できる権利」として、貸借対照表の「資産」に計上されるため、帳簿上は資産超過となるからだ。投資家を欺いた罪でライブドアの堀江貴文元社長が収監されているが、東電の現状こそ投資家を欺く粉飾ではないのか。(略)

企業が債務超過に陥った場合、法律は破綻処理による解決策を用意している。株券は紙切れに、お金を貸した金融機関は債権をカットされる。株主は損害を被るが、もともと株はリスク資産だ。金融機関も融資の前にその企業の事業をチェックできる立場にある。これらの利害関係者の責任と負担で企業を破綻処理するのが市場のルールである。(略)

事故後、事務次官ら経済産業省の幹部はその「大樹」に隠れる形で上積みされた退職金を手に退官した。スポーツに例えるなら、采配通りに戦って敗れた選手(東電)が観客に向かって土下座する横を監督(経産省)が素通りし、年俸アップまで勝ち取ったようなものだ。その結果、世論の怒りは東電に集中。人材流出が加速した。法律は今もその東電に電気の供給義務を課すが、自宅に生ゴミや生卵を投げ込まれ嫌がらせ電話が鳴り響く中、士気を保ちながら供給責任を果たすのは無理がある。


市場の自律的な治癒機能を阻止してかわりに国が挿入した人工的な救済スキームの実態は、このように国家と政府が、東電や機関投資家などの民間企業をスケープゴートに仕立てて、蓑虫の蓑の中の虫のようにその蔭に隠れ、経済活動とエネルギー供給を保護するという名目で逆に今後数十年にわたってそれを深部から腐食させ、かつ、事故を契機にようやく市場の洗礼にさらされようとしていた原子力をそこから再び隔離して温存するという、凶悪かつ破滅的なものである。それは短期的にはすべての問題を解決するが、長期的にはすべての未来を破壊する。そしてこの壮大な虚構のいっさいを、大釜の底でかろうじて支えている一本の要(かなめ)の釘こそが、最初の、「想定外なれども異常に巨大ならず」という欺瞞的法解釈に他ならない。そうであれば、それは決してどうでもいい、小さな問題であるはずがない。

20日に開かれた東京電力の家庭向け電気料金値上げを検証する専門家委員会で、安念潤司委員長(中央大法科大学院教授)が「東電は最初から会社更生しておくべきだった」と異例の発言をし、会社更生法の適用など法的処理が適切だったとの見方を示した。7月に実質国有化される東電を再建するには値上げが必要とされるが、利用者には反発が広がっている。とりまとめ役の安念氏が思わず胸の内を明かしたようだ。


このような禍々しい横車が堂々と押し通されて道理が退かされるのを見とがめ、正すことのできるチェック機能は世の中にふたつあって、企業の健全性の診断医としての会計(監査)と司法がそれである。前者については、東電の決算は明白な粉飾である、と当たり前に診断・宣告することで、また、それだけで、国家的不正行為を強力に阻止することができるが、日本公認会計士協会を含め、この問題への言及は今までのところまったくなく、自分の努めを果たそうという気はさらさらないようだ。後者の方はどうか。司法界はこれまで、原子力については思考停止の麻痺状態に自らを閉じ込めて、判断を留保することで、政策の推進に加担し、それを裏書きしてきたことの是非を再考されているが、問題意識を持つことすら畏れて疑問を押し殺している監査業界と違って、裁判闘争を通じて激しいやりとりを実際に経てきているだけに、そのことに胸苦しさと悔恨の気持ちは抱いているようだ。

東京電力福島第1原発事故の発生後、各地で原発の運転差し止めなどを求める提訴が相次ぐ中、原発の安全性を巡る過去の訴訟を担当した元裁判官10人が毎日新聞の取材に応じた。ほぼ一様に原発の問題を司法の場で扱うことの難しさを吐露。住民勝訴が確定した訴訟はないが、事故を受け認識の甘さを認めた元裁判官もいる。(略) 92年に確定した福島第2原発1号機訴訟の2審を担当した木原幹郎弁護士は「理系のスタッフがいるわけでもなく、(審理は)とにかく難しかった」と述べた。00年に確定した同3号機訴訟の2審に関わった鬼頭季郎弁護士は「一度原発を止めればすごくコストがかかるので、簡単に止めろなどと言えない。原発推進の社会的・政治的要請の中で、司法が足を引っ張るような判断ができるのか」と漏らした。


原発訴訟において、司法が自分の節を曲げ、職を辱めたところがあったとしたら、それは明らかに、判決の及ぼす効果に先回りして気がねし、影響の大きさに怯むことで、それを行うためにこそ保証されている判断の独立性を自ら汚損したことだろう。彼らがこれまで自分の役割をじゅうぶん果たせなかったことに、恥辱と痛惜の念があるのなら、まさに同じその司法の俎上に上がったこの「異常に巨大」に関わる問いかけは、その上にさらに積み上げられた嘘の堆積物のすべてを一撃で吹き飛ばすインパクトを持ち、汚名を雪いで、遅まきながらこの社会に「法の支配」を取り戻すうえで絶好の、また、おそらく無二の機会になりうるものである。とはいえ、その機会を正しく生かせるかどうかは、まずそのこと自体に彼らが気づいているか次第だろう。





関連記事 「原子力社会主義」の終焉 市場vs.学者、もしくは原発計算論争 リスクのゴミ捨て場としての国家 東日本大震災と福島原発事故(目次)


2012/10/07 | TrackBack(0) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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