この作品は、作者の最終作の、有名な「豊饒の海」の構想と同時並行で執筆されたもので、表と裏のような関係の、兄弟作ともいえる作品だが、外観上の趣向はもう一方とはまったく違っている。こちらの方は、「UFO」「空飛ぶ円盤」に取りつかれたある一家が、自分たちを宇宙人の出自と信じこんで、人類救済の大命に目覚め、蟷螂の斧をふるってある地方の小都市を舞台に空しく奔走する、という筋立てで、SFチックというか、最後になんでこんな妙なものを書きはじめたのか、というような、作家の経歴の中では異様な光を放つ作品だ。ただ、ことさらに露悪的な強調されたその突飛さの影で、作家の当時の心情をかなり率直にのぞかせているようなところもあって、「表」の側の、きらびやかで目一杯気を張った演目の裏で、ちょうど程よい具合に力が抜けた結果、逆に完成度のきわめて高い出来になっており、個人的には三島作品の中で特に印象が強く残っている佳品である。文庫版の解説によると、当時作者は自分でもその手の集まりへの顔出しやら、資料収集やらを熱心にやっていて、周りからは、作家が「そちら」の方に行ってしまったのではないかと、ずいぶん心配されていたらしい。結果からすれば、それらはむしろ他のよっぽど重い気鬱の気晴らし、熱冷ましの方ですらあったことは今や誰もが知るところであるが。
また、自分ではまったく忘れていたのだが、この作品には、当時各国で陸続と実施されていた核実験を背景に、放射能汚染に関する描写が繰り返し出てきて、作品の主調にとっても重要なモチーフになっている。これには、今起きていることとの暗合に、さすがにしんみりした気持ちにさせられた。
しかも春、死の灰の春がやって来ていた。たびたびの核実験の放射性物質は成層圏に舞いあがり、半減期の長いストロンチウム90やセシウム137などが、塵の形で降下の折をねらいながら、消えもやらず漂っている。北半球の春が来て、俄かに高まる気温が空気を擾すと、今まで成層圏に浮遊していた死の灰は、中緯度地帯の圏界の切れ目を漏れて、とめどなく対流圏に散華する。春にはかくて、死の灰の降下量は二倍になり、学者たちはこれをスプリング・マキシマムと呼んでいるが、去年の秋のソヴィエトの核実験は、おそらく未聞の降下物をもたらすにちがいない。これを思うと、重一郎は人類の緩慢な自殺の姿に、言いしれぬ気持ちになった。死は今や美しい雲の形で地球人を取り巻いていた。夕空に映える高い紅や紫の雲は、みんな有毒だった。
「かぐわしい放射能!」
「美味しい、蜜のような放射能!」
「放射能を讃えよう!」
作品の最後では、一家はそれぞれが夢破れて挫折し、人類はもはや救済に値せず、積極的に滅ぼすべきだ、という、どぎつい主張を携えて乗り込んできたもう一組の自称宇宙人、羽黒助教授一派との、「ドストエフスキーばり(文庫版解説)」の壮大な哲学論争にも心身を髄まで打ちのめされて、この星での生活を切り上げることを決意する。が、最後の地へと向かうその車中で、家長の主人公は、変わらぬ賑わいをみせる夜の繁華街の軽佻にも無垢な眺めに心を打たれながら、全身の失意と寂しさの中に、ふしぎな信頼と慈しみを顕してこうつぶやく。
「何とかやってくさ、人間は」
絶望ゆえに執着していた泥濘から、希望ゆえに離れる――今しもこの世を旅立とうとする者の、単純な算術では割り切れない、さまざまなものが入り交じった感情の透明な化学変化が、よく現れた言葉といえるだろう。
翻って現実のわれわれが、ほんとうに「何とかやって」いけるかどうか、それはまだ分からない。
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美しい星 (新潮文庫) 三島 由紀夫 新潮社 |