別に補完されなくていい人類 ( 「新劇場版:破」 感想 )

( Avert your eyes if you abhor unwanted knowledge. )

まだ「話半分」であるし、資料類もみていないので、本編を見ただけの反射的な感想だが、シナリオの出来がわるく、文字通り破れて破綻している印象を受けた。よく言えば(冒頭で匂わせているように)ポイントを切り換えて別のレールを走り出したと言いたいのだろうが、あまり上手くいっているようにはみえない。

まず今回のパートでだいぶん方向性がはっきりしてきたが、元のオリジナル作品のテーマが「つながりの喪失」というものだったとすれば、新版はその「復興」「回復」というのがそれになるのだろう。本作では元作品で濃密に立ち込めていた「滅び」の陰喩(虫の音、夕焼けなど)は影をひそめている。しかし両者は向きが正反対のものであるから、そうであるのならぜんぜん別の作品(あるいはまったく別の脚本)を用意するべきだった。それをせずに、元の作品向けに調整された部品群に、リメイクとして無理やり逆のテーマを接ぎ木してつなぎあわせているため、ナスの枝にじゃがいもが生えているような、すわりのよくないものになっている。

一例をあげれば、鈴原トウジの扱いがそうである。オリジナル版では、つながりへといたる最後の細い道が結局挫折し、断ち切られる重要な伏線の役割だったが、今回はそれを全面肯定させている(妹のシーンが象徴的)。旧作では悪かったね、ご苦労さん、これが褒美だよ、という以上のことはない、特に意味のない存在、扱いで、物語の流れには深くからまないまま退出する。

「ATフィールド」の設定も無意味化され、ただのアイテム化された。原作では、それは見る側の心理や内面に呼応する裏付けを持っていたが、改版ではそれは欠けており、その不足分をCG技術への驚きで底上げし、埋め合わせようとしている。とはいえ当然のことだが、前者が後者なしにも百年でも響くものだとすれば、前者のない後者は所詮半年で剥げるものでしかない。

また、今回なぜアスカがあのようなひどい目に合わせられるのか、ということも、同じ脈絡の中に置くと導線が透けてくるものがあるだろう。

劇中で彼女は作品のテーマや展開とは直接関係なく、とにかく辱められ、無残な仕打ちを受け続ける。エヴァンゲリオンとのシンクロに関する中心的な設定を無視して、使徒に乗っ取られるテスト機のパイロットを彼女に変更し、そのうえでコクピットを叩き潰すだけでは足らず、口にくわえて噛み潰すということまでする。また、新キャラクターを出して自身の搭乗機も明け渡し、サブのそのまたサブにまで落としたうえで廃人にする。それも前回のように精神的にそうするだけでなく、身体的にも粉微塵にすりつぶす。「修復」される彼女は病室ですらなく、ごみ捨て場のような施設の奥底に置き去られ、誰もさわれない穢れものの扱いである。そして多用される無意味な性的露出(特に後半部の搭乗スーツが象徴的だ)。

これらは展開上の関連性が特にないため、とにかくこのキャラクターを辱めたい、貶めたいという目的のためだけに行われる格好になっている。しかもその底意を「観客サービス」という名分の布切れをかけて隠している。

今回の作品テーマと、その建築強度が上記のように鉄筋不足で脆弱なことを照らしあわせると、しかしながらこのことは裏側においては充分な必然性を有している。旧劇場版のラストで示されていたように、この登場人物は「補完計画」の完遂をもってしても噛み切れない他者性、「他人という恐怖」を体現させられた存在だった。その彼女が元の強烈な匂いをまとったまま闖入してくると、もともとの建てつけが弱いだけに、物語が簡単に倒壊してしまうのである。だから本当のところをいえば彼女には今回は出演自体してほしくない。かといってまるきり出さないわけにもいかないので、妥協策として、出さないけれど出す、出さないようにして出す、という曲芸的対応をとることになった。それがすなわち、ひとり彼女だけが、まるで放映中に不適切な発言をした出演者がクマのぬいぐるみに取り替えられるようにして別人に取り替えられていることの理由である。しかもそうまでしてなおまだ、彼女は真っ向戦って勝てない相手として深く恐れられ、忌避されている。憎まれているのは改版の薄められ、腱を切られた彼女ではなくて、旧作の残像、残り香の方で、片割れへの憎しみのあまり無関係のもう一方の双子の姉妹がいじめられているような江戸長崎状態になっていて、そのことがいっそう復讐の嗜虐性を高めている。本作から入った観客も、そして作品中の彼女自身も、なぜ彼女がこんなにひどい目に合わなければいけないのか理解できないだろう。

そうやって彼女を遠ざけ、痛めつけて無効化しておかなければ物語の展開とテーマが保てないというのであれば、その程度の登攀力をしか作品が力を持てないというのであれば、それは前者が後者が成立することの条件になっているということである。言い換えれば、彼女をそういう仕方で痛めつけて外に一時締め出しておくことが、他の者たちが再結合することの前提、前準備になっているということである。切り離された者たちが再び手を取りあって気持ちよく酔うためには、かつてそれを「気持ち悪い」とまで言い切った者をその前にまずどうかしておかないといけない。始末しておかないといけない。だから彼女だけはそれこそ「似て非なる」別人でなければならないし、そうですら出てきてそうそう退場してもらわないといけない。主人公と直接格闘するようにもし向けられなければならいし、追加の腕を継ぎ足してまで主人公を攻撃しなければならず、そのうえでこれからハッピーエンドを迎える主人公自身の手は汚さないよう配慮しつつも、「機械仕掛けの神」の自動過程によって完膚なきまでに撃退され、捩じ伏せられるのでなければならない。しかも害意も露わではせっかくの美談も興が醒めるので、これらは実行はされなければならないが意図は悟られてはならない。よってそれが「サービス」であることは必然となり、観客のためというよりむしろ主催者のためにそれが必要になる。「つながりの回復」は結構だが、それがこうした敵対物の安直な排除と弄びによって支えられているのが気になるところだ。まるで安易に敵を設定してそちらに醜い感情を全部寄せ集めたうえで、内輪だけの麗しい魂の救済と世界の意味の回復を安請け負いする、安っぽい堕ちたカルト宗教のようになっている、とさえいえなくもない。本作を「カタルシス」(この語の原意も異物を体外に瀉血して排出する医術のことだが)として楽しめるかどうかも、これらの疑問を「かっこ入れ」し、小さな曇りとして素通りできるかどうか、また、このような陳腐で原始的ながらもいつの世にも効果の高い催眠的手法に対して心的な盲点が形成され、親和性を有しているかどうかにかかっている。しかしそれは「進展」どころか、元いた出発点にゴムで引き戻されるようにまた戻ってしまったということにならないのか。

アスカとともに、膿んだ虫歯のように扱いに困ることになってしまったのは言うまでもなく「補完計画」だろう。四苦八苦しながらこうやって抜け穴を作り出した以上、それはどん詰まりでやけくそ的な「最終解決」ではなくて、何らかの「成長」あるいは「脱出」であるほかないが、上述のような逃避と迂回の中でようやく確保した脆弱な達成において、それはどのような種類の「成長」でありうるのか。ひょっとしてそれは、われわれ大人が普通に健忘によって子どもの自分を恥じ、それをもって錯覚の中に認めて満足するような「成長」ないしは「進歩」のことか。あるいは実際の犯罪行為ではなくフィクションによって同じものを表現した当時の同時代性が、 リアルな人死にに手を染めていない分より気楽に、悪い夢と洗脳から醒め、「自分ときたらなんであの時はあんなことをしていたんだろう」と首を振りつつ歩き去るかのようなもののことか。あるいは、若い時分血気にはやってゲバ棒と街頭デモに熱中した団塊世代が、豊かさに埋もれ、すっかり毒気が抜けて蕎麦打ちと環境保護と若者世代の搾取に精を出すようなものをもってそう呼ぶのか。いずれにしても乗り越えられなければならないのが、あのような悲壮な荒唐無稽によってしか断ち切れないほど深甚な、人間と社会の永劫変わらぬ業ではなくして、ただ単に「幼くて貧乏でちょっとどうかしてた昔の恥ずかしい自分」という程度のものでしかないのなら、そんなものは千年昔から営々と繰り返されているわれわれの微笑ましくもつまらない、鼻くそみたいな「ルーチン」でしかないのであって、そのために人類全体が巻き込まれてとばっちりを受けなければいけない理由も、そしてまた、あの異常なまでの感傷を異常なまでの強靭な現実主義で鎧い包んだ特務機関の指揮官が、そのために一切をふり捨てて全ての情熱を注がなければいけない理由も、ますます薄弱になっていくことだろう。

以上は辛口の評価かもしれないが、そうはいうものの、だからどうしたということもない。本当は伸びた蕎麦がどんな具合に伸びてしまったかを縷々説明するのに時間を費やしたところで意味はないのであるが、そこは元のたいへんな料理があればこそである。昔あれだけの作品を作った作家が、同じ人生の中で二度三度と同じだけのことをやれというのもどだい無理な話しであるし、若さの力も借りてあまりに大きな仕事をなしとげた者は、若すぎる時に大ヒットを飛ばした歌手や世界新記録を出してしまった競技選手のように、過去の自分に囚われ続け、それをいじりまわしながら自分自身の影法師としての余生を生きるしかない、ということは、他でもないこの作品自体の中でかつて痛切に予言されていたことだった。それでいい思いができ、かりそめにもみなに喜んでもらえるというのなら大いに慶すべきことには違いなく、その荒野を自覚的、確信犯的に突き進んでいこうというのであれば、それこそは秘められた真に前人未到の実験といっていいことだろう。そのありようは、この作品に匹敵するもう一つの途方もない、不世出の作品を書いた永井豪氏が、その後をどう朗らかに、自由に過ごしてきたか、ということと比べあわせれば、いっそう感慨深いものとして目に映ってくることになる。





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2009/08/04 | TrackBack(0) | 漫画・アニメ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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