「エイリアン」

SF映画の記念碑的傑作「エイリアン」で観客を驚かせたのは、なんといってもあの「戦うヒロイン」というまったく新機軸の劇中人物の造形だった。楚々として儚く、受け身で置き物的なヒロインというハリウッドのそれまでの固定像からすれば、それはまるで異質な、かけはなれた存在で、当時はたいへん斬新で野心的な試みだったが、腰の抜けてしまった哀れな男たちを尻目に、異世界のわけのわからぬ見るもおぞましい化け物と一歩も退かずに渡り合い、泥まみれになりながらも猛然と戦い抜く筋肉質の主人公の姿に、人びとは来たるべき女性時代の予兆と新たな美的規範の登場を重ね見、それが高らかに謌いあげた人間の尊厳の崇高さは、大いに世の喝采を浴び、好感をもって迎え入れられた。

だが、この作品にはそうした表層的な、社会レベルの見やすいテーマとは別に、それに覆われてやや見えにくいものとなっているもう一つの土台が下敷きに横たわっている。そしてそれはこの表層の音階とも響き合い、行き来している。それは何かというと「自然と人間」という対立軸である。

次から次と畳みかけられ、いやがうえにも煽りたてられる恐怖やパニックから一歩身をひいて冷静に事の推移を眺めると、われわれはこの異生物が、意外にもきわめて紳士的で知的でさえあり、抑制というものを心得た、平和な生き物であることに気づく。見ていると彼らは群れの仲間が殺されたり、生殖活動が妨害されたりしたとき以外は人間に手を出さず、決して力にまかせて人間を殺したりしていない。自分たちの縄張りに傍若無人に踏み込まれた時でさえ、彼らはいるかいないか分らないほどひっそりと息をひそめてただ物陰から様子をうかがっており、そのさまは、あれほどの力を持ちながらも、たぶん他のすべての動物がそう感じたであろうのと同様に、自然の普通の常識の通じないこの人間という狂った鈍感生物に対する心底からの恐怖にかられ、何とか関わり合いにならずに無事に出ていってもらいたいと心から願っているかのようである。

エイリアン2 われわれ自身が感じるのと何変わらない互いの距離感と違いとに対し、彼らの心はあくまで穏やかで、その行動は沈着であることも注目されねばならない。それに対し人間側の態度、わけてもわれらが女主人公のそれはどうだろうか。するとそこに如実に明らかになるのは、相手の顔を見ただけでもう卒倒するほど狼狽動転し、その結果、相手を次々に意味もなく惨殺してあえてその怒りを誘い、あげくはこの高貴で美しい戦闘種族を核爆弾で一挙に絶滅させることさえ主張し、しかもその非を一切の知的洞察を拒否して頑強に認めようとしない、一人の依怙地で哀れな生き物、ヨーロッパ的文明人の姿である。ことに最後の場面で、どうせ間もなく何もかも爆発して消滅してしまうのに、にもかわらずあえて彼女が相手の目の前で何よりも大事な卵を焼き払い、爆破してみせるのは、ただの盲目の怒りと理不尽な恐怖、根本的には異形のものに対する有無を言わせぬ憎悪からであり、そこには自分と姿格好の異なる者に対する嫌悪のみ優越して、同性としての子を思う母の気持ちに対する一片の顧慮も見られない。

気づかれるように「エイリアン」にはがないが、このことは深い象徴をなしている。後に語られたところでは、怪物の製作を依頼されたギーガーは、初め目を持った姿をスケッチしていたのだが、ある時気づいてそれを取り除いてみたら、はるかに気味の悪い恐ろしげな生物に仕上がったのだそうである。目が無いために彼らは剥き出しの本能性としてわれわれからの一切の人間的共感を拒絶し、眼が無いためにかえって彼らは光なしでも自由に行動でき、その驚くべき知覚能力によってどこまでも我々を探りあて、襲いかかる。

以上に素描したこの作品の根底にある構図とは、「反生命」対「生命」の対立、「文明」対「野蛮」、人間性の動物性に対する対立であり、内面的には、フロイト心理学の用語を使えば、理性の我々の内なる野蛮、直感性である「エス」に対する対立である。あくまで自分自身の知覚と体力だけで勝負するエイリアンに対し、赤外線カメラから動体探知機から重機関銃から何から何まであらゆる「福祉機器」で歩けなくなるほど重武装した兵士たちの対照的な姿はその典型である。まるでアマゾンの原生林に土建屋のブルトーザーが突っ込んでいくように、当代筆頭の芸術家の手になる、美しい曲線と粘液の世界(言うまでもなく芸術家は人間の社会の中の直感と生命の原理の代理人である)に、女戦士駆るところの機械産業の産物である醜く無様な鋼鉄の戦車が突っ込んでいく、これ以上に生命に対する死の暴力、野生に対する近代の冒涜を衝撃的に凝縮した表現があろうとは思われない。怪物の巣が階下はるか下にあるのは無意識の世界の象徴である。こちらからちょっかいを出したものを最後には死物狂いになって追い払い、息の根はとめられないまでも厚い鋼板の扉の向うに追い落とすのは夢の機制そのものである(「あいつらはいつも夜になると襲ってくる」)。怪物が去ると主人公はようやく深い、機械の庇護に身を任せた眠りにつくことができる。フロイトは、「無気味なもの」とはわれわれがよく知っていて身に覚えがあるが抑圧されているもののことである、と指摘しているが、それはここでも完全にあてはまる。何となれば、あのような生命の原理が生み出した曲線と粘液の玄黒の世界は、系統的にも個体的にも本来われわれの故郷であり、知らぬはずがないところのものだからである。

また、ここから必然的に導かれ、行き当たるのは、この近代と生命、合理と直感の対決の構図は、実は野蛮なインディアンを文明的な西洋人がやっつけた、あの悪名高い「西部劇」の枠組を忠実に再現したものに他ならないということである。思いかえせばそこでも同じように野蛮に対する文明の、闇の直感に対する光の理性の勝利が歌われ、勇敢なものに対する卑怯なもの、美しいものに対する醜いものの勝利、優れたものに対するより劣ったものの勝利、そして何よりも根付いたものに対する根無し草の勝利、押しかけ強盗の平和な生活者に対する勝利がうたわれていた。観客は拍手喝采大喜び、口々に新しい時代とその主人の到来を称えあったものだった。そこでも同じように単に自分たちと姿形や生活の営みがかけはなれているというのが相手に対する問答無用の皆殺しを正当化する根拠となり、後で正気に返ったときに愕然とするヒステリー性の恐怖と憎しみが無際限に煽り立てられていた。まさにインディアンこそは非SF時代における彼らの「エイリアン(異邦人)」だった。

異教徒に接した航海者や宣教師は,確認のため,ローマ教皇あてに「異教徒は人間か否か」との問い合わせを頻繁に送った。その回答は,「人間ではないので,殺すも奴隷にするも自由である」ということが中心だった。よって神の命令の確証を得たキリスト教徒が現地を征服すると,原住民をいともたやすく滅ぼしてしまう。その後,アフリカから連れてきた奴隷をその土地に輸送して強制労働をさせ,利潤を上げることが一般的となった。


この土台部分に対する理解を踏まえたうえで、もう一度はじめの話にもどってくると、われわれがあの時手放しで飛びついた新たな社会規範というものがいったい何だったのか、その位置づけについて、あらためていろいろのことを考えさせられずにはおかない。たとえばこの二つの話は互いに噛み合っているのか、それとも単に無関係な具がいっしょのどんぶりに押し込められているだけなのか。関わり合っているとして、それが不可避ですらあるとしたら、どのようにか。そしてまた、それはどのような照り返しを元の像に反射するのであるか。そういったことごとを。

あの頃フェミニズムの初期の純朴さが主張し、新聞に全面広告まで出して訴えたように「すべての人間は女性から生まれた」のであり、人間の社会と文明における女性成分の増量が自然性への回帰を誘導するのであるのなら、その「自然」とははたしてどんな自然なのか。それは人間にとっての自然か、それとも自然自身にとっての自然か。人間生物自体がなにか脱線した、調子の狂った生物で、自然と相対してそれを不可避に客体化する存在であるのなら、その人間が自分にとって自然に息のつける自然は、人間と対立する自然そのものと同じ自然か。あるいはこうもいえる。人間というマイナスの母体をそれまでそれに対するマイナスの成分をふりかけて相殺し、中和していたところが、そのマイナスの要素をプラスに増進させる因子を乗じたとして、マイナスにプラスを掛けたその産出は外側から見た時にはたしてプラスに転じるのか。それとも元のマイナスの火焔が加速せしめられ、輪をかけて周りに撒き散らされるだけか。「すべての人間(man)は女性(woman)から生まれた」は、はたしてあの時たいした「発見」がなされたのか。それともそんなことはそれこそアメリカ大陸なみに百も承知の話で、その上である種の引け目と気恥ずかしさから、あらゆるトーテミズムは「俺たちの始祖は狼や蛇や鷲や熊の子孫なのだ」と言い張ってきただけだったのか。

シッティング・ブルとバッファロー・ビル (Wikipedia) この作品がこれほど見事に象徴的に描かれるのは、逆に彼らが自分の「インディアン・シンドローム」にあいかわらずよく気づいておらず、無自覚だからである。夢遊の中で手を動かしているから、必要な構成要素がすべてしかるべき座を与えられて、躊躇なしに全開放される。こうして違う時代の中を同じ業を繰り返しながら過誤の階梯を一歩づつ上がっていく時、もともと「西部劇」において、自分の膂力を恃みに弓と槍で闘うインディアンを、手を汚さず遠巻きに銃で簡単に撃ち殺して快哉した行為すら既に「マッチョ」な「男らしい」行為といえたのかどうか。あるいはその行為によって背後に護持される、楚々たる弱きヒロインが一種の燻製鰊(にしん)として店先に吊り下げられていたために、外見上そう見えていただけなのか。そしてさらに時代は改まって、あの時銀幕の虚空の宇宙船の中に突如発生したのは、はたして本当に「新しいヒロイン(女性英雄)」だったのか。それともただ単に、いよいよいっそう化けの皮がしようもなく剥がれてきたというだけか。

時代の変わり目においては、新しい理想を身をもって体現する主人公が、気味の悪い恐ろしげな怪物をとことん痛めつけ、退治する、恐怖と希望の物語が人びとを魅了しなければならない。その際、敵(かたき)役に仕立て上げられた怪物はわれわれを存分に気味悪がらせ、震え上がらせる必要があるが、そのためには怪物はなにか「ねばねばしたもの」でないといけない。「ねばねばしたもの」とは、今し方まで自分自身だったのが切り離され、異化されかかっているもの、脱ぎかけた脱皮の皮みたいなもののことである。離れかかりながらまだ未練たらしく糸を引いてくっつき、まとわりついているもの、それが「ねばり」である。怪物が充分にねばついておらず、われわれにまったく無縁なくらいそれほど超然と怪物であるならば、われわれはきょとんとしてしまって、物語に充分思い入れをもって入り込めないだろう。そしてその床板までねばねばした舞台に颯爽と登場した新たな英雄は、光の名の下にそのねばつき、つまり今し方まで己れ自身だったにもかかわらずすげなく切り捨てようとしているものを鮮やかに蒸結させ、怪物を暗黒のかなたに蹴落として永遠に封印する。この精神洗浄の過程において人間がいっそう深く退化し、いっそう「人間らしく」生まれ変わっていくものであるのならば、本当は怖くもないのに無闇に怖がられ、一方的に切り刻まれ、千もの足蹴に踏みつぶされる怪物の振る舞いと、欲情を吐くだけ吐いて人けの去った後のその無残な死骸をこそ、われわれはむしろ哀惜し、はるかに中身の詰まった、充実した素体として注意深く検分する意義がある。

内容からわかるとおり、自分は3作目以降はもう興味がなくなったので見ていない。だから以上は、連作の「1」と「2」についての当時の感想をまとめたものである。この度またシリーズの新作が製作される計画があるとの報があった。続編というよりは「前編」の位置づけになるのだそうである。

どんな内容になるだろうか。


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2009/09/19 | TrackBack(0) | 漫画・アニメ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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