自分で狙っていたのか編集の方針なのかは知らないが、絵柄も台詞回しも話の造りも、荒木飛呂彦作品の影響が濃い。これも悪くない。
特によかったのは、仇(かたき)役の造形が彫りの深いところだ。格闘ものの場合、敵方をどう生々しく作り込むかが主人公のそれより大事なくらいで、作品の出来はほとんどそこで決まってしまう。そこの踏み込みが浅いと作品全体が気の抜けたものになってしまうが、そうはいってもこれは容易なことではない。谷の深さが必要なのは、それに立ち向かって最後には乗り越える主人公の潜在力が、作品の中で残りなく発揮されるからであり、それこそが作品の醍醐味になる。だがそれは、あとで昇って戻ってくる海の底を、その覚悟を持ったうえでどこまでも潜っていくようなもので、浅すぎれば戻ってくるのは容易だがつまらないし、深すぎれば獲物も大きいが溺れて一緒に沈むことにもなりかねない。そのためには、ちょうど哲学者のフリードリッヒ・ニーチェが古代ギリシャ人を評して「善にも悪にもその限りを尽くした」と讃えたような、天使と悪魔の上下の両方に振幅の広い感性が作者自身にも要求される。作中の台詞を借りて言っているように、闇がなければ光もまたものを照らし出すことができない。世界を毒する悪の化身の中に、主人公以外の誰も、本人ですらも救い出せないほどの深い漆黒の業(ごう)があってはじめて物語全体が立体的に姿を立ち現し、光輝く。そこがよく描けている。
本作は、あまり人気が出なかったのか、中途半端な形で終わってしまった。こういう形で終わった作品の中で、だからこの作品くらいそれを惜しく、残念に思ったものはない。これだけの器を持った作家なので、次回以降の作品も楽しみなのはもちろんだが、できることならこの作品自体を満開の状態で見てみたかった。「センゴ」や「モナ」や「ファーブル」といった魅力的な脇役(この三人が特に好きだ)が縦横無尽に飛び回るところを見たかった。まだ試行錯誤の戦闘活劇中心の展開から、もともとのモチーフである「トラウマ」にもっと深く切り込んで抉り出したところを見たかった。そうしたら荒木氏をはじめ最も優れた作家たちがそうだったように、自身とともにわれわれを、まだ誰も見たことのない場所に連れ出してくれたかもしれなかったのに。
とはいえその厳しい制約の中で、作者が精魂を尽くし、バットを最後まで猛烈に振り抜いたのは感動的だったと思う。途中で荷物をまとめて撤収することが告げられても、作品は放たれた石のように滑らかな弧を描いて落ち、書き手は引き剥がされる恋人達のように脇目もふらずに作品そのものに没頭した。その軌跡は、頭の取れた女神像のような立ち姿となってわれわれの前にある。欠けた部分はもう戻らないし、それが支えのない想像をなおのこと掻き立てるけれども、時間と現実が外側から爪痕を加えたその状態で作品は完成しており、以て完璧という以外ないのである。
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トラウマイスタ 4 (少年サンデーコミックス) 中山敦支 小学館 |