それはまるで全体ができの悪いテレビゲームのような作品だった。登場人物が痩せて奥行きや重量感がなく、次々差し込まれる事件も含めて展開も浅く予定調和的で、今にも紙相撲のようにへなへなと二次元の向こう側に倒れこんでしまいそうだった。作者は漫画のコマ割の中に無理やりロールプレイング・ゲームの世界を移植し、鑑賞者の手元に操作端末のないゲームのオートプレイ(自動実演)を見せようとしているかのようだった。
壁は明らかで大きく、この人はこのあとどうするのかと思っていたら、長い空白をあけて次に出してきたのがこの作品である。絶対的な評価としてはともかく、前作と比べれば見ちがえるような良い出来で、人気の点でもめでたくかなりのヒットになった。その逆境のはね返し方も含めて、あらためて面白い作家だと思った。
前回とはどこが変わったのだろうか。前作は上記のように、ゲームの骨法に漫画の衣を被せて、そこにアルゴリズムを走らせれば面白い作品になるのではないかという基本的な想定を核に製作されていた。しかし作者にはそこに肉付けするために必要な、ゲーム的なものでない生身の現実世界に対する知識も経験も想像力も欠けているようで、明らかに矢筒が空っぽの中で、骨組みだけが露わに残る形となって、それで挫折した。
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哲学思想でいえばまるでカントかデカルトみたいな、ぎりぎりまで追い込まれた中でうまれた、窮鼠猫を噛むこの切り返しは、それ自体が劇的で見事なものだったと思う。ポイントは、言うまでもなくそれが作者ひとりの経験ではないことである。作者が手さぐりにたぐりよせた内なる現実は、孤立した単子ではなく、しかるべくあるものとして社会全体のそれと地下茎で広くつながり、共振している。作者が感じる困難は、同じ現在を生きる多くの人たちにとっても共通の現実であり、困難であるだろう。前作では作者は、あたかも現実がゲームであるかのように描こうとしていた。対して今回は、ゲームという現実を描こうとしている。新しい主人公が度しがたい重症のゲームマニアであるのに対して、前の主人公は道場の息子で武道に長じていた。前作ではそういう、仮想世界などにほとんど縁のない、健康的で行動的な主人公が、ゲームの地下要塞のような非現実的な異世界に投げ込まれた顛末を描こうとした。それに対して今作は、仮想世界にしか興味のない主人公が、現実の人間の世界に投げ込まれるところを描いている。
これはまた、以前取り上げた作品でいえば、エヴァンゲリオンの新劇場版とちょうど方向が逆になっている。エヴァンゲリオンのオリジナル版では、いわば「現実感がないという現実」とでも呼ぶべきものが生々しい舌触りで描かれていた。無を描くための重さがこれでもかとばかりに執念深く作り込まれ、それによって重さの中の無と空虚感が圧倒的なリアリティーで表現されていた。それに対して、新作の改版の方では、現実の感覚を取り戻したのだと自らに言い聞かせ、それを祝おうと焦るあまりに、かえってそこから遊離し、ざらざらとした生活感、質量感はむしろ見る影もなく劣化し、退化している。場面同士のパスの受渡しははなはだ不自然で、CGを駆使して描写される人がきや街並みの動きは、群衆プログラムによって動かされる大戦ゲームの生気のない雑兵のようだ。まるで精神病の患者が景色を壁絵の書き割りのようだと訴える時のそれと同じくらい、薄っぺらで現実感がなくなっている。若木氏が苦しんでよじ上った坂をこちらはやすやすとすべり落ちてしまった。
「人間」と出会う科学
ところで、この作品についてそのような感慨をめぐらしながら、似たような構図として並行して思い浮かべていたのは、「科学」と「科学者」との間の関係である。前作では作者は、作品世界をテレビゲームのように作ろうとしていたのと同時に、あたかも科学者が科学理論を構築するように作りあげようともしていた。登場人物たちはそれぞれが自分の特性を示す元素記号を割り当てられ、全体の構成もはじめからすべての部品が精密に計算されたうえで整然と組み上げられていて、作者はそれを作品世界の全能神として、完全に外からコントロールしていた。それがどうも勝算通りいかなかったという事実は、そのようなやり方で読んで面白い物語作品が作れるだろうという作者の想定になにか行き違いがあったということである。場外の作者から完全に操作される登場人物たちは、作者さえも裏切って自分でどんどん進んでいくような自律的な存在にはならず、少しでも目を離して手取り足取りするのをやめるとたちまち電気が切れて止まってしまった。彼らは神たる作者から、ただ「生かされて」いたのであって、自分で勝手に生きていたのではなかった。
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しかし科学といえども、科学と科学者のその両方をまるごと外から眺めるさらにメタ的な視点をとるならば、本当に謎めいていてもっと面白いのは、それが解くとびきりの難問もさることながら、その蟻塚の回りを夢中になって飛び回り、土を塗り付けている科学者本人の方であるのかもしれないのである。科学者が苦闘の末に仕事を前に一歩進めすることに成功した時、理論がパズル全体のピースとしてぴったり整合的であるのは当然であるけれども、それを彼がいったいどうやってそこに連れてきたのかはしばしばまったくの謎で、理論が埋めた空隙そのものよりも、もはやそちらの方がはるかに不可解なこともあるくらいである。その全体の過程を包括的にみるなら、ちょうど人が部屋を掃除する時に、汚れという擾乱が消えたわけではなくてチリ箱の中にただ移動しただけであるように、謎という虚穴が科学の観察部屋の中から科学者本人にただ飛び移っただけの話であるのかもしれない。
1914年に発表されたこの公式はしばらくその秘めた力が表に現れることなくじっとしていました。インドのラマヌジャンを英国ケンブリッジ大学に招いた数学者ハーディはラマヌジャンにこの式の証明を迫りますが、彼はナマギーリの女神が舌の上に書いてくださるのですといってハーディを驚かせます。(略)時は流れ、1985年にウィリアム・ゴスパーがこの公式と電子計算機を使い1752万6200桁をはじき出します。最初の100桁部分が一致していることにゴスパーはこの公式が円周率を表すことを確信します。そしてついに1987年ジョナサン・ボールウェインとピーター・ボールウェインの兄弟の手により、その証明がなされたのです。
この作品の作者が、最初は科学者がフラスコの薬品を調合するように自分の作品を作ろうとして行き詰まり、開き直って世界と科学者を隔てる屏風を踏み倒して向こう側に踏み込んでいった時、それは科学者たることの一番の掟を破り、投げ捨てた、ということでもある。物語作者の仕事は、科学のように人間を描くことではなくて、科学すらも生み出す人間を描くことである。作者は理論物理の研究者ではなくて漫画家なのだから、そうしたいと思ったのなら遠慮なくそうしていいのだ。
そうやって生まれたのは、科学と科学者がマニピュレータで分厚いガラスの向こう側から一方が一方を遠隔操作している存在ではなく、両者が融合して相互浸透し、境なく融通無碍に行ったり来たりしている、なにがなんだかよくわからない、ある意味でたらめな世界である。作者と作品が作る磁界の中にもう局所的な絶対神はいない。それは作者というニセモノの、ちゃちな神ではなく、触れえぬ本物の神として誰も目に見えないその外側にそうあるべく追い出された。かつてゆえなく神を僣称していた「作者=主人公」は、翼を切り落とされた「かつての神」として現実の理不尽の中に投げ入れられ、川の流れの中の小石のようにせわしなく小突きまわされ、あっちこっちでボコボコにされる。下界からの眺めにもはやなにものも確実なものはなく、さしあたり予定されているものすらも定かではない。作品世界が作者自身を包んで、揺れ動いて自走する、想像もつかない危なっかしいものになったということ、それは作家なら誰でも一度はそういうふうに書きたいと願う、本物の、優れた作品としての切符を手に入れたということに他ならない。このあとそれが転がっていってどうなるのか、たとえばかつてあの高橋留美子が達したような高みにまで行き着けるかどうかは、まだ作者すらも知らず、まさに作品だけが知っていることである。
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神のみぞ知るセカイ 8 (少年サンデーコミックス) 若木 民喜 小学館 |