― なぜなら、この入口はただお前のためと決まっていたからだ。
どれ、わしも出かけよう。そして門をしめよう
"DER PROZESS" F. Kafka
どれ、わしも出かけよう。そして門をしめよう
"DER PROZESS" F. Kafka
あるとき、一人の物語作者が、あてどもない自分の憂いごとにせめても小さな慰めを添えようと、心の赴くまま、問わず語りにひとつの物語を編んだ。物語の主人公にあわせて仮にその人物を「彼女」としておこう。
彼女が作ったのは、幼少の辛い出来事がきっかけで心の器が完全に割れてしまった少女の後日譚だ。その時少女がなにがあったのか。両親が事故で二人いっぺんに死んで、葬儀の場になぜか自分のための三つ目の柩(ひつぎ)まで用意されていたのを目撃したともされるが、定かでない。そのとき打ち拉がれる彼女のもとに白馬に跨がる王子の幻影が現れ、その慰めを受けてどうにか踏みとどまり、未来に向けて再び歩きはじめたともされるが、それも定かでない。なんといっても彼女はそのときのことを、まるで手拍子を打って催眠を解かれたあとの人のようにすっかり忘れてしまっているのだ。炉心が内側に向かって溶け落ちて、永遠に消えない屈強の絶望そのものと化した幼い自分を厚い壁の内側に封印し、一切を過去に置き捨てて、それを脱ぎ去ることによってしか前に進むことができなかった彼女は、自分の中から徹底的にそれを遠ざけ、見えない黒い中心を渾身の力を込めて押し返し続ける鈍く遠い痛みにおいてしか、もはやそれを感覚することがない。あるいは王子の幻覚自体が、記憶を覆った封印に塗られた襖絵そのものだったのか。
忘れていることさえ忘れているほど深く深くそれを忘れている新しい彼女は、幼いままの絶望が封印の内部で永遠の火を燃やし続ける限りにおいて、そのほんとうの自分自身からはなんの熱量も受け渡されていない、かりそめの、陽炎のような、ゼロの存在である。有り金は全部その場において立ち去ることによってしかその場を抜け出すすべはその時なかったのだが、かといってそれでかろうじて救出できたのは、すべてを捨てて捨てた記憶すらも捨てるというぎりぎり最後の決断を下した純粋な抜き身の判断としての自分、「なにものでもない自分」だけであり、いわば自分の脱け殻、自分の影である。
成長した彼女は、誘蛾灯に蛾が惹かれるようにしてある学園にやってくる。彼女がそこに来たのは偶然のようであるが、実際にはそこは、絶対権力者である学園の差配者が、ただ彼女ひとりに狙いを定め、迎え入れて治療し、救いあげるという一点の目的だけのためにすべてを設え、登場人物を配置した巨大な劇場装置だ。そしてその差配者は、いるともいないとも知れない彼女の想像の王子が、下界に臣籍降下して身をやつした化身であり、その意味で学園を真に仕切っているのは、手術台に上がる彼女自身ともいえる。夜見る夢が主催者と出演者を兼ねているように、循環する無としての彼女自身が、見えないベールで舞台全体を包み、汚染して、いっときの奇蹟に変じているのだ。
見えないものが見えるため
昔の影を微塵も感じさせず、すっかり生まれ変わった新生の彼女は、見かけばかりはどこまでも明るく、快活で活動的な学園の人気者だ。しかしそれはどこまでも空疎で、ぎこちない、中身の欠けた上面(うわつら)だけのなぞりごとにすぎない。遠巻きに礼賛している限りは誰もそれに気づくことはないが、近くに立てば立つほど、周りの人間はその黒い磁力に引っ張られ、掻き乱され、口移しに無理やり毒を飲まされて破壊される。中身を全部捨ててしまった体重のない薄っぺらなマネキンでしかない彼女を突き動かせる原理は、裏打ちのない、純化された「たてまえ」だけである。外面から見たそれは、一見彼女の強い「正義感」や「お節介」として現れるだろう。しかし彼女のそれが酷薄でピントの外れた、安っぽい偽造品でしかないのは、「たてまえ」の縄が、もともとはそれに添わない中身を四苦八苦して押さえ付け、御するためにこそ存在しているという事情をいっさい斟酌しないところにある。彼女は他人のたてまえの裏側にそのようなやむにやまれぬ苦しい中身が付着しているところをいっさい見ない。なぜならその存在を認めてしまえば、翻って自分が全力で拒否している自分自身の中身も認めなければならなくなるからで、軽いトランプ細工だけを組み合わせてかろうじて立体構造を保っている作り物としての今の自分が跡形もなく吹き飛んで破壊されてしまうからだ。だから彼女の他人への眼差しは、自分自身に対する拒絶の不可欠な一部であり、この上もないほどかたくなで、妥協を受け入れない、情け容赦のないものとなる。彼女は薄く研いだその拒否を自分の無敵の兵器として使う。それを鞘を払った真剣を路上で振り回す通り魔のよう無遠慮に振り回し、近づいてきた他人にいきなり斬りつける。「きみも詩織と同じだな。残酷な優しさだ」
「きみはまるで、水瓶座の少年、ガニメデですね。無邪気で純粋だ。だが、その無邪気さが人を傷つける。気をつけないと。他人には触れられたくないことが誰にでもある」
「先輩もそんなこと言ってました。そんなもんでしょうか」
彼女のそうした頑さ、余裕のなさは、向かい合う人びとのそれぞれの思いにおいて、憎悪や敵意、あるいは憐れみや同情といった感情を激しく呼び起こす。妥協しない彼女が呼び起こしたそれらの妥協のない感情が竜巻のように巻きあがってぶつかり合い、斬り結んで捌け口を求める、それにもっともふさわしい様式は「決闘」であるはずだ。彼女と同じ髪の色に設定された、彼女のアンドロギュヌスの片割れ、異性の分身である計画者も言う。
「君はそのイリュージョンによってここに立っているのさ。だから決闘場に入れたのさ」
彼女が他人に向ける刃が逆に自分自身に突きつけられたときにも、彼女の拒否は自動的で、どこまでもかたくなだ。他人とのかかわりの中で自分の内奥の忘却に目が届きそうになると、彼女は全力でそれを阻止する。しきりに話をよそにそらそうとし、あるいは自分はそれを身を入れて聴いてなどいないのだということを自分と相手に示すために突拍子もなく体操を始める。忘却はそれ自身がまるで守り神としての人格を持っているかのような自動過程であり、彼女は自分がそれをしていることに気づいてすらいない(後半部の「影絵少女」との掛け合いを参照)。それを自覚するということは忘却自体の一角が崩れ、忘れていることを思い出してしまうことになるから気づけない。そしてその機械仕掛けの拒否は、相手が自分の懐に深く入ってきて、近づけば近づくほどひどくなり、調子っぱずれの、異様なものになる。
「シャケとアスパラと、あと玉子焼きと、あとどうしよう...どうすればいいかな...ね、なにがいいかな...」
そのとき黒い王子が組み敷いて刺し貫き、どうにか爪弾くことができたのは彼女の肉体ではない。心の殻だ。
ワタシ空想生命体
彼女には学園の差配者が差し向けた一人の少女が常に同伴している。少女はターゲットたる主人公の従者にして監視役であり、救出計画の直接の導き手でもある。しかしそれだけに彼女は、たった一晩行動を共にしただけで、相手のもっとも弱い部分を串刺しにして激怒させるような主人公の毒を最も身近で強く浴びてそれに耐え続けなければならない存在でもある。彼女はひんぱんに暇をとっては差配者のもとに戻り、実の兄でもある彼と夜な夜なよからぬ関係に耽るが、それはそうでもしなければ自己の形が保てないからであり、吸わされた猛毒を別の強い毒で洗い流して組み立て直さなければ自分でいられないからだ。彼女が分厚い鋼板のような無感情でいつも自分の表面を鎧っているのも同じ理由からで、差配者の婚約者が、義妹である少女の鉄球のような鈍感さに対して抱く内心の深い恐れと嫌悪は、それが主人公に対する防御であることを通じて、本質的に主人公に対してこそ向けられたものであり、だからこそ婚約者は、選ばれた刺客の最初の一人として、真の仇である主人公との決闘の場に立つのである。導かれた刺客たちは、殻を剥いて皿に置かれたゆで卵のように、たてまえを取り外されて剥き出しの本心だけになった存在だ。だから彼らはいつわりの自分から解放された黒い喜びと、薄っぺらな剃刀でいいように自分を傷つけてきた主人公に対する全身の怒りとに満ちている。主人公にいつもまとわりついていた親友の少女も、彼女への憧れの裏側で、どんなに深く主人公を憎み傷つき、心が悲痛な悲鳴をあげていたことか。その彼らに対して主人公は決まってこう言う。「目を覚ませ」と。いつわりの自分から目覚めたことで相手にも目覚めを促す者に向かって、はるかに深く眠りこんでいる者、自分自身とどうしても向き合うことのできない者がそれを言うのである。君のそれは悪い夢なんだ、前の正しい夢に戻れ、と。彼らではなく他でもない自分自身が、本心という剣を突きつけられて壊れそうになっている嘘で塗り固めた自分をあくまで守り通し、その夢の続きを見続けるために、そう言うのである。それもまた罪なき罪に染まった彼女の自動過程のひとつである。
いたはしや老の身の、手馴れし劍(つるぎ)も心に任せず、あしらひかねて立ったる處に、兎を覘(ねら)ふ荒鷲の、ピーラス颯(さつ)と驅寄せて、猛って撃てば、覘(ねらひ)は外れて太刀風に、よろめきまろぶ老人(おいびと)よ!さすが非情の城樓(しろやぐら)も、此一撃にや感じけん、炎々たる其頂上、雷火と碎けて落ちければ、ピーラス暫く耳聾(みゝし)ひたり。見よ、白頭の老翁を、斫(き)らんとて揮上(ふりあ)げし、劍は空にとゞまって、画(えが)ける猛者のそれかとも、斫りもやらず、助けもやらず、立縮(たちすく)む。
刺客を仕立てた分身の計画者に「(決闘資格の)指輪が目に入らなければその場で殺されていただろう」と言われたほどの憤怒に駆られ、猛然と決闘を仕掛けていったのも(彼は唯一主人公が自分から決闘をしかけた相手だ)、彼が分身としての自分自身の臓腑の位置を探って示すことで、彼女の防御を跳ね飛ばし、鳩尾(みぞおち)にまで深く手を突っ込んできたからである。そのことへの怒りと最も重い処罰、死罪として、彼はその存在をエピソードごと抹殺され、なかったことにされた。
が、ここに至って物語は意想外に、あるいはまた予定通りに、急速に反転をはじめる。
思い返せばこの話はもともと解決などない、結論などはなから出ようのないものだった。どのみち求めて詮ない、どうにもならないものなのだ。ただ慰めのために、一時の気散じのためにはじめただけのものなのだ。熱しすぎてはいけない。見せすぎてはいけない。そんなことをしたところでなんの意味もない。ツバメや隼(はやぶさ)の翻しのように、真実にはひらりと一瞬、接線で触れるばかりだ。ふつうは物語作者はなにかを理解させるために、感性を結ぶために自分の物語を紡ぐ。しかしここから作者は逆に理解させないための物語、かわすための物語に精を出しはじめる。チェスの駒をでたらめに並べ替え、大道具を手前に引き倒し、夢と現実をつないでそこかしこを漏電させる。所詮はただのお話、ただのアニメだ、それだけだ。主人公はこれまで全部の罪滅ぼしのためにありったけの罰を漏斗の底で受けて奈落へ突き落とされ、廃棄される。それとともに学園にかけられた魔法も消え、金星の名を持つ悪魔のような差配者も、魔力を失して凡庸でしょぼくれた陰謀家へと戻る。同伴者の少女は地獄の苦役と拘束から釈放され、籠から放たれた小鳥のように美しく着飾って、既に滅んだ、荒涼たる外の世界へと歩みはじめる。晴ればれと、解放の証としての記憶をただひとり胸に抱きながら。
何ごとも解決しないのだから何ごとも終わっていはしない。ただ一個の身代わりのための藁人形、涙を流さずに泣く悲しき操りロボットが、永劫にさまよう煩いの輪廻の中で今再び慰みものに消尽されたというだけだ。すべては物語の外側に、はじめにあったままに、そのまま残されている。物語を畳んで物語の外へと歩き出した少女は、荒れはてたその世界に何を探しに行ったのか。なぜ物語の風船に最後に穴が開いて観客もいっしょに連れ出されるのか。まるで絶望が希望であるかのごとくに、葬送が祝奏でもあるかのごとくに、そのことを微かに匂わせながら、舞台の外なる舞台も幕を閉じる。
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バーチャルスター発生学 J.A.シーザー 光宗信吉 上谷麻紀 杉並児童合唱団 他 キングレコード |