能力と超能力 (荒木飛呂彦を読む)

荒木飛呂彦作品の魅力の一つは、ご存じのように、登場人物たちの多くが「スタンド」と呼ばれる奇怪な異能を持ち、それを駆使して縦横に活躍するところにある。それらの力はみな、世間でいうところの「超能力」に相当するものなのだが、興味深いのは、作者も登場人物たちも、その力を必ず「能力」と呼んで、決して「超能力」とは言わないことだ。

ジョジョの奇妙な冒険 28 (ジャンプ・コミックス)
これは、彼らにとってはその力が、たとえ人とは違った風変わりなものであっても、何かの特権性を示す恩寵のようなものではなく、箸でご飯を食べたり、階段をあがったり、あるいは舌ベロでサクランボの身だけを上手にこそぎとって食べたりするのと同じ程度の、ありふれた特徴のひとつとして自然体でとらえられていることを示している。箸でご飯を食べることはそれができる人にとってはありふれているが、指や腕を事故でなくしてしまった人からみれば貴重な「能力」だし、膝や踝(くるぶし)を痛めてしまった人や出来のよくないロボットにとっては階段を上がれることも立派な「能力」である。同じように、彼らはちょっと変ってはいるものの、自分の持つ力を、手持ちのただの道具のひとつと感じ、身体の延長としてごく自然に使いこなしているのである。たとえば、われわれの耳の機能で可聴域を超えた音波は、われわれにとっては「超」音波であるが、それをじかに聴き取れるコウモリやイルカにとってはただの「音波」のひとつでしかなく、それを聴き取れる力はとりたてて鼻にかけるほどのこともない、ありきたりの「能力」でしかない。それと同じである。

荒木作品のこの基本構造は、「超能力もの」の創作でよくある、「能力者」という呼び名の中にあるそれと並べるといっそう引き立って映る。同じ「能力」でも両者はどこまでも似て非なるもので、前提の考え方がまったく違っている。後者の場合には、それが示しているのは、基準となる視点、カメラワークを、物語の中心点である登場人物の水準に移して固定したことを単に宣言したというものだけだ。人にはない異能力を持つことの特権性と、持たない者との間の階層性は、問うまでもない当然の所与として、平行移動でそのまま維持されている。それを示しているのが、この型の作品で超能力を持たないふつうの一般人にしばしば与えられるところの「無能力者」という呼称である。超能力者が自分の能力を基準点に据えたことによって、彼らは、もう一段下に蹴落とされて、価値なき雑草、哀れなエキストラにまで零落した。貴種の人びとが、特権者の身分であるままで下界に降りてきて、見せかけだけ親しく下々の生活に交わったことで、今までそれと感じていなかった者たちは、突然自分の袖口のみすぼらしさを思い知らされる羽目になったのだ。

ジョジョの奇妙な冒険 63 (ジャンプ・コミックス)
これに対して荒木作品では、「超能力」にそのようななんらの階層性も特権性もない。それは他ともろもろのそれと同等の、単なる特性や個性のひとつにすぎない。ある人は人より余計に早く走れ、ある人は絵が上手だったり美味しいピザを作れたりするのと同じように、ある人はたまたまスタンド能力を持っている、ある人は勉強は苦手だが運動なら得意だというように、ある人は目は見えないがスタンド能力なら持っている、それだけである。ただ、それが現実世界の中にはない、意想外のものであるために、それが差し込まれた作品世界が、思わぬ展開に向けて作家の想像力を自由に羽ばたかせ、われわれの目を瞠らせて楽しませるのであり、異能力はそのためのとっときの香辛料として、主に創作技術上の要請から物語に仕込まれているだけである。同じことができるなら、別にそれは他のなんだっていいのであり、これも知られているように、作者が試行錯誤の末にそこにたどりつくまでには、同じ役割を「手品」や「賭け事勝負」などが受け持っていた。

同じ前提から、荒木作品の中の登場人物が持つ「超能力」は、そう呼ぶにはとても気恥ずかしいほどの、ほんの耳掻き一杯くらいの、われわれのふつうに持つ「能力」にすら見劣りするほどの、非力でちっぽけなものであることも多い。作者はむしろそういう仕様をこそ、熱心に掘り出して、好んで描いているようにみえる。それはあまりに貧弱で微弱なので、当の本人も含めて誰もそれに気づかないまま働いていることすらあり、「超=能力」どころか「劣=能力」である。だが、所有者の本性がそのまま具現したところのそれらの小さな異能は、これまた読者はみな知っているように、決して外から一見してそう見えるくらいのつまらないものではない。それどころか、使用者が本能的な体感を通じて、その小さな能力の潜在力を十全に引き出すと、それは最強の百獣の王すらをも脅かし、足を掬って蹴転がせるほどの、真に恐るべきものにまで巨大化する。

なあ、好奇心できくんだが、DIO、君が出会ったスタンドの中で一番「弱い」能力ってどんなヤツだい?

史上最弱が最も最も最も最も最も最も、最も恐ろしィィィ

たとえば第4部の女主人公の能力は「ものを柔らかくする」能力である。それだけ見たら、こんな力をもらったからといってそれが何の役に立つのか、むしろ邪魔で不便なだけじゃないかというくらいの奇妙で無意味な力だが、それが主人公によって十全に開花されると、どれほど凄まじいものとなるか、誰も破ることのできない強大な逆境をすらも捩じ伏せることができるほどのものになるかは、読者はみな知っている。荒木作品が最も光り輝くのは、登場人物がこういう一見珍妙な力を得て、それを育んでいく間の過程の描写であるが、その中で読者は、それらの力がその人物の最も深い精神性とつながった発露であること、また、それがどのように自分そのものの表出であることにおいて、その力を極限まで汲み尽くして使い切るということはどういうことであるかを、教えられる。目の前に現れては次々立ちふさがる異能者たちが主人公と競って敗れ去るとき、彼らはアイテムそのものの優劣においてではなく、それを生かしきる発想力や、そのしなやかさにおいて、いつも敗れるのだ。

そしてわれわれはまた、この現実世界の中で、それに近いことを実現しているいちばんの実例、生きた例証が、作者たる荒木氏本人であることも十分によく知っている。ペン一本と紙一枚からあれだけの奇蹟を放埒に産み出し続けること以上の驚異が、この世に他にあるだろうか? 身に授かった力に意識することすらないまでに全身で感謝し、楽しむことによってそれを生かし、生かすことによってまた楽しむ、作者本人がなにより先頭を切ってそれを自分自身の身で実演し、実証することで、それがまた作品に力強さと説得力を与える、このうえない循環を作っている。

荒木作品を読んだ後で清々しさとともにわれわれの中に埋め込まれるものは、今の自分を上回る、自分の困難を一変させる一桁上の恩寵を羨み、夢見る前に、果たしてわれわれは自分が今既に持っている手持ちの手札の可能性をすべて引き出し、使い切っているのだろうか、ということへの謙虚さの感覚である。足りないもの、あるいはその小ささを嘆かれているものは、天から授かり、既に与えられたわれわれの手持ちの装備なのか、それともそれを使いこなすための別の何かなのか。自分の人生の問題は、誰も持たない希有の力を自分もまた持たないことか、あるいは誰もが持っている力、使ってよい力がまだ十分に使われずに埃をかぶって物置の隅に置き去られていることか。

自分に与えられた本当の恵みが、一人一人に与えられた目に見える装備や燃料の小さな、あるいは大幅な威力や備蓄量の差ではなく、なにか別のところにあるのだとすれば、われわれはどこからでも、またいつでも、朗らかな気持ちで出発できる。自分を超え、想像の限界を超えて、任せられた小さな泉からさえも無尽蔵の可能性を汲み出すことができるもの、有に無を掛け合わせて無から有を作り出し、追い詰められた絶体絶命の危地の中からも猛烈に起爆して逆境を跳ね返す不屈の跳躍の力、それこそがきっとわれわれの誰もが持っている、また、真に驚くべき「能力」である。


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荒木 飛呂彦
集英社




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2012/12/09 | TrackBack(0) | 漫画・アニメ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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