「糸巻き遊び」と「死の衝動」

”飛んで行けぬものならば、足を引き摺ってでも行かねばならぬ”
― 快感原則の彼岸


まどかマギカ「叛逆の物語」で、物語のひとつの鍵となる小道具として繰り返し登場する 「糸巻き」「いないいない遊び(fort-da)」 は、S・フロイトの有名な論考「快感原則の彼岸」に出てくる同じ挿話を下敷きにしているとのことなので、内容をあらためて確認した。

この小論は、フロイトの思想の中でも重要な転換点になったもので、それまで確固として守ってきた「快感原則-現実原則」という枠組みから外に踏み出して、はじめて「死の衝動」という概念を取り入れ、その心理学上の適用可能性に考察を巡らしたものとされる。

実際に詳しく中身を追っていくと、本人も思弁的な試論と断っているとおり、フロイトの文章には珍しく、論理が混濁して乱れていて、全体としてすっきりしないものになっている。

考察の出発点は、災害被害者や帰還将兵にみられる「外傷性の夢」で、われわれの夢が、フロイト理論がそれまで維持してきた仮説に従って、「願望充足」の機能を基本とするものであるのなら、それらの人々は、なぜわざわざ、最も辛いはずの昔の記憶を自分から生々しく呼び返して繰り返し苦しむのか、ということへの疑問である。このことは、強い心的衝撃によって夢の機能が破壊され、不全になった例外事象として、はじめから問題になっていた。

そこでこの新たな論考で突破口になるのが、自分の孫がしているところを観察した、糸巻きを使ったひとり遊びで、この子どもは、糸巻きを繰り返し放り投げては「いない(fort)」「いた(da)」と声を上げ、ひとりで遊んでいたのだった。幼児が糸巻きに託していたのは自分の母親で、母親がいなくなる場面を自ら繰り返し再現していた、というのが、フロイトの見立てである。

展開が少々強引になるのはこの辺からで、フロイトは突然そこに、快感原則よりも強固で原初的(蒼古的)な「反復強迫」への傾向を認め、そこから自己保存の生の衝動と対立し、元あった状態へ戻ろうとする欲望として、「死の衝動」を取り出していく。「糸巻き遊び」は、こうした文脈の中で登場するエピソードである。

しかしながら、考えてみれば、われわれの多くの行動と同じく、上記の例でも、何が「生の衝動」で何が「死の衝動」なのかは、必ずしも判然とするものではない。帰還兵は耐えがたい経験をなんとか自我の世界像の中で消化し、その中に組み入れようとして夢にそれを再現し、失敗して睡眠が打ち切られるということが繰り返されるのかもしれない(これは精神分析においても最初の解釈だった)。糸巻き遊びの例でも、フロイト自身可能性を指摘しているとおり、幼児は見えなくなる糸巻きで、母親の不在に慣れてその状況を制御しようとしているのかもしれず、あるいはそもそも何らかの理由から母親は既に嫌われていて、不在はそれ自体が望まれていたのかもしれない。あるいは、もっと複雑に、かつ充分にありうるものとして、母親という別存在に強く愛着し、自分の生存を依存している状態そのものに本能的なリスクを感じて、それこそ「アンビバレント(両価的)」に、それを嫌悪していたのかもしれない。そうであれば、そこに現れていたのは「死の衝動」ではなく、自己保存のための、またそれに資する「生の衝動」であるともみなされる。

それでは子供が自分にとって苦痛な経験を遊戯として繰り返すことは、快感原則とどのように一致するのだろうか。あるいは「いないいない」になることは、母親が再び姿を現すという喜ばしい体験のために必要な条件として演じられたので、母親が姿を現すことを再現するのが、この遊戯の本来の意図であったと説明できるかもしれない。しかしこの説明は、「いないいない」という最初の場面が、それだけで遊戯として演じられていたこと、しかも喜びに満ちた結末をもたらす「いた」の場面よりも、はるかに頻繁に演じられたという観察に矛盾する。


続く考察の中でも、生の欲動と死の欲動は、起源も動態も、同じように相互に侵襲し合っていて、よく区別がつかないものになっている。フロイトの説明では、死の欲動は暖簾分けされる以前の始原状態では生の欲動と不可分であり、同じ心理機制をある箇所では生の欲動、別の箇所では死の欲動に基づくものだとも言っている。

原初の生命体は最初から変化することを望まなかっただろう。そして、条件が同一であれば、同じ生活の推移を絶えず反復しただろう。...有機体の保守的な欲動は、生命の推移において強制されたすべての変動を受入れ、これを反復するために保存しているのである。...生命は、発展のすべての迂回路を経ながら、生命体がかつて捨て去った状態に復帰しようとしているに違いない。これまでの経験から、すべての生命体が内的な理由から死ぬ、すなわち無機的な状態に還帰するということが、例外のない法則として認められると仮定しよう。すると、すべての生命の目標は死であると述べることができる。これは、生命のないものが、生命のあるもの以前に存在していたとも表現することができる。(同上)


以上の確認を受けて「まどかマギカ」に戻ると、暁美ほむらの時間遡行の能力は、同じ場面を何度も繰り返す「外傷性の夢」、あるいは「反復強迫」そのものである。また「叛逆」の夢の結界も、彼女の最大の苦しみ、外傷に関わっており、そこに出現する糸巻きは、母的存在としての鹿目まどかの象徴であると同時に、彼女を結び目に丹念に巻き取られてきた「因果の糸」、あるいは言い換えれば、暁美ほむらが全精力を注ぎ込んできた努力の結晶の象徴である。

フロイトの論と同様、ここでもやはり、何が生を志向し、何が死を志向しているのかは、容易には切り分けできない。帰還兵が夜毎にうなされる悪夢と同じく、ほむらも彼女の努力を強迫的に反復することで、ますます破滅へ近接し、深みに嵌まっていくが、彼女がそうするのは、苦境を切り抜けて生きようとする執念からである。「叛逆」における夢の結界は、同時に彼女の願望の充足夢でもあり、絶望の外傷夢でもある。彼女の潜在意識は「糸巻き」に強く執着しているが、ある時にはそれを邪険に蹴り飛ばし、最後にはそれを、噛み砕いた自分の魂で塗り替えて別のものに仕立て上げる(そこに至るまでの周回の中で、ほむらはおそらくかなりの回数でまどかを殺害する羽目になっているが、そうしなければならないのは、まどかが彼女の言うことを聞かないからである)。まどかの神としての統合と救済の能力は、彼女たちを使い捨てカイロのように燃料として使い捨てる侵略者の死の破壊に対する生命と創造の勝利なのか、それとも、フロイト自身「死の衝動」の別名としてそう呼んだとおりに、「涅槃(ニルヴァーナ)原則」で満たされた、死と静止の平和なのか。さらに、そうであるのなら、その静穏を再解体して世界を醜い亀裂で満たし、そこにまどかの人間としての生を取り戻す悪魔の破壊と死の能力は、逆に生の衝動が生を目指したものなのか。ほむらが「記録機械=蓄音機」としての外傷夢・反復強迫の迷宮を脱して、黒々と開けた新たな段階へと乗り出したとき、転換し、勢位が高まったのは生と死のどちらの衝迫なのか。そもそも神と悪魔のどちらが生を代表していて、どちらがどちらの取り分なのか。簡単にこうだとはいえないし、渾然と、ないまぜになってもいる。

これらの混乱は、心理学の息切れというよりは、もっと深く、われわれすべてにとって親しいものである。多くの宗教では、死んだ後のあの世の生が「真の生」で、この世の生は死に脅かされているがゆえに、むしろ死にいっそう深く侵された、不完全な仮の生(有余)である。われわれにとって、何が死であり何が生なのか、永遠への回収と救済は生で、分解と破壊は死なのか、はたまたその逆なのか。何が何に対して叛旗を翻し、「叛逆」したのか、突き詰めていくとどうもはっきりしなくなる、という点で、作品自体も、典拠の論考が肉薄し、覗き込もうと試みた深淵の深さによく叶っている、添っていると言えるのかもしれない。


自我論集 (ちくま学芸文庫) [文庫]
自我論集 (ちくま学芸文庫) [文庫]
ジークムント フロイト (著)
筑摩書房




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2014/06/15 | TrackBack(0) | 漫画・アニメ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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