”命をつくるのは願い”
― Kalafina Magia
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まどかマギカの前編は、設定された魔女や魔法少女たちの「魔力」の増減や出し入れが、まるで企業会計や貨幣経済における金銭のやり繰りのように、定量的かつ閉鎖的に組み立てられている。魔力はわれわれの心理エネルギーの隠喩であり、それを求めて地球にやってきた侵入者と、地上の見えない怪異にとっては、現実の物理エネルギーとつながっている。それは、続く「叛逆の物語」がフロイトの著作を素材にしていたことから敷衍すれば、心理現象を物理的なエネルギーに準じた形で物理学のように組み立てようと格闘していた、その初期の理論に似ていて、先の「快感原則の彼岸」の記述に従うなら、心理的な現象と過程の「経済論(エコノミー)」である。
こうした想定に基づいて心的なプロセスを検討することは、われわれの研究において経済論(エコノミー)の観点を導入することを意味する。
物語の敵役である「魔女」の持つ、悪い闇の魔力(これを「魔力B」としよう)は、魔女が生まれたときに充填100%で、魔女が魔力を使うことで減耗する。その起源は、人間の呪いや絶望などの負の感情が変化したものであり、人間を襲ってそれを捕食することで、充電され、積み増すこともできる。魔法少女が魔女と戦って退治すると、魔女は卵(グリーフシード)の状態に戻って活動を停止するが、呪いのエネルギーを補って100%に戻ると、再び魔女として復活する。
一方、魔法少女の振るう、良き光の魔力(これを「魔力A」としよう)は、魔女の魔力をちょうど裏返しにした、希望と願いの力である。魔法少女が魔女と戦って魔力を消費すると、それは魔力Bに変化し、老廃物、汚れとして蓄積する。それは戦利品のグリーフシードに空き容量があれば、そちらに吸わせて移し替えることができ、それによって、彼女たちは自分の鮮度を維持する。更新作業が途絶えて、魔力Aが排泄されないまま全部魔力Bに置き換わってしまえば、本体のソウルジェムは全体がグリーフシードに転化して、魔法少女は魔女へと生まれ変わる。彼女たちが戦っている魔女は、呪いを新たに取り込んで分裂・複製されたもの以外は、すべて元は魔法少女だった存在である。
魔女の魔力Bは、魔法少女のものも含め、すべて人間が生成したものに由来し、利子がついて勝手に自己増殖したりはしないようである。魔法少女の魔力Aは、ソウルジェムのクリーニングに成功し続けるにせよ失敗するにせよ、最終的には必ず全量が魔力Bに転化する。結局、魔力Bが有効に費消されるのは、魔女が魔力を使って活動したときだけであるので、ちょうどわれわれの生態系で、動物の死体を嫌われ者の蠅や腐敗菌が処分してくれているのと同様、魔女を放ってそのままにしておいた方が、有効に分解され、世の中が浄化されているようにも思える。一方、魔法少女の活動は、魔力B(に転化する魔力A)を生身の人間よりもはるかに盛大に無駄遣いし、生み出すので、魔女がむやみに人を襲うのを防ぐという利点を除けば、逆にそれをただ増やしているだけである。それはわれわれの現実の世界の燃焼や生命現象において、活動が激しいほど燃料の消費が速やかで、汚れとしての「エントロピー」の生成が大きく、死の解体と低落に全力で抗いながら結局はそれに貢献し、増量することしかできないのと同じである。
その魔法少女たちは、いずれも自分本来の地金(じがね)に対して、甚だしく無理をして、逆に見せかけようとしている存在である。巴マミは、ほんとうは誰より寂しがり屋で甘えたがりなのに、契約によって自分ひとりが事故から生き延びて、周りに誰もいなくなってしまったため、後輩たちに姉ぶって先輩風を吹かせることで、無理に気を張り、自分を奮い立たせて生きている。美樹さやかは、年頃の少女相応に、片思いの少年を独り占めして自分だけを見ていて欲しいのだが、理解ある控えめな援助者を演じ、彼の怪我が治って自分の夢を追いかけてくれればそれでいいと、思い込もうとしている。佐倉杏子は、反対に過剰なまでに残忍に、欲得づくに生きているかのように自分と他人に見せているが、それは以前、その逆を突き詰めたことで、自分と自分の家族が、最悪の形で破滅したからである。
彼女たちは、いずれも最初に現れたときに周りに見せていた姿とは、ほんとうはまるきり正反対の性分である(だから一番凶暴で度し難いように見えた佐倉杏子が、ほんとうは一番友達思いで心根の優しい性格である)。
インキュベーターが契約の候補者を選び出すとき、求めていて審査するのは、この「無理」の量だと思われる(「キミにはその資質がありそうだ」)。契約によって変換され、生み出された魔法少女の魔力の力は、そうやって本来の下地から強引に引き上げて上げ底している歪みの量と同等で、無理にまとっていたその「メッキ」が剥がれて素の状態に戻っていくことがすなわち、「希望」が「絶望」に相殺されて無の状態に回帰することである。彼女たちはヤセ我慢に疲れて、登場時とは逆の、化粧を落し、肩の力が抜けた素顔の美しさと弱さをますます顕らかに晒しながら、ますます深く傷つき、絶望していく。自分で自分に作り出したその落差の量は、劇中に登場する順番に強くなっていくように見えるが、それが前の三人と比べても桁外れなのが、最後に焦点があたる暁美ほむらである。
彼女はその思い込みの強度が段違いに強力で、その結果、それが現実の存在の中にまで具現して、自分を正反対の極のところまで高めている。元の彼女は極端に引っ込み思案で動揺しやすい性格だったが、魔法少女として現れたときには、冷徹で計算づくの、まったく逆の姿になっていた。病み上がりで体力も知力も同年代の一般人の中ですら、誰よりも劣っていたのに、最後には誰も追いつけないほどの、逆の頂点にまで達していた。強がりの量があまりに巨大だったため、現実の自分も鍛え上げてそこまで変えてしまったのである。
彼女は同輩の巴マミについて、「無理し過ぎていて、そのくせ誰よりも繊細」なので苦手だと評するが、苦手なのは鏡を見ているように自分も同じだからで、しかも度合いはその比ではない。とはいえ、それも所詮は見せかけた作り物の鎧にすぎず、最後には剥がれ落ちて全部消えてしまうことになる。彼女の描写では、よく長く伸ばした黒髪を振り払うように手で梳く動作が出てくるが、それは突き放した冷たい無表情の裏側で内心が激しく動揺したときの徴で、まるで静電気をアースで逃がして回路を保護するかのように、精神的な負荷を外に逃がして排出しようとしているように映る。結って鬱屈しているものを解放する、あるいは逆に閉じ込める、という意味において、魔法少女になる前後で、彼女の髪形の変え方が佐倉杏子とちょうど反対向きになっているのは、(「叛逆」編の決定的な覚醒の場面と思い合わせても)興味深い点だろう。
ところがひとりだけこうした無理がない、その必要もまったくないのが、五人目の候補者である鹿目まどかである。彼女は家庭は円満、暮らしは裕福で、両親からも大切に育てられ、友人関係も良好で、それらに感謝していてなんの不満もない。美樹さやかの言うところの「幸せバカ」であり、自分本人にはさしたる取り柄がなく、平凡な人生であることを悲しんではいるものの、それも率直に受け入れていて高望みはしない。だから彼女は自分のことに関してはなにも「願い」がない。なにか考えろと言われて懸命に考えても、笑われてしまうような恥ずかしいものしか出てこない。彼女が最後の最後に強い願いを持つのは、他人のことについてである。それは彼女の身近で、他の魔法少女が次々と残酷に破滅していく中で、ますます強まっていくが、最後にすべての経緯が明かされたときに絶頂に達し、魔法少女になることに踏み出すことになる。
しかし、それは同時に、鹿目まどかの存在に、はじめて希望によって上げ底にされた巨大な歪み、無理が生じた、ということでもある。その大部分は、事情をすべて把握した彼女自身が、先回りしてあらかじめ繕っておいたのだが、ただひとつ忘れられた形で小さく残った抜け穴があった。その穴は、現実の彼女の生活が満たされて幸福だったものが、それゆえにこそ軽んじられ、見捨てられて反転したものである。それはまた、観客自身が感じるところのものでもあって、鹿目まどかの神の力によって全体がジャッキ上げされた新しい世界は、ほんとうにわれわれみんなが安心して寄りかかり、祝福できる、安定した堅固なものなのか、彼女の力によって新たにつけ加えられた成分は、ほんとうに代金を払わなくていいものなのか、そして、この物語はほんとうに完全無欠に大団円たりえるものなのか、ということへの一抹の不全感、不安感である。そこで完全無欠であることが求められるのは、もともとこの物語では、無理に外からつけ加えた黒字は、常に見せかけだけの儚い粉飾であって、必ず等量の失望の赤字によって収支相殺され、償われる仕組みだったからである。
その小さな虫食いの穴が、やはり実際にはそのまま捨ておかれるものではなく、大きく傷跡を広げ、周りを食い破る形で次の物語へとつながっていくのだが、そこで物語全体の構造も、魔力と魔法の単純な経済論を脱して、一段上の、愛と裏切りの、別次元の相克へと移っていくことになる。
もうソウルジェム、あるいは魂の小遣い帳は、どうでもいい。
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