非武装主義者たち

この機会に、満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び、今後の日本の
あり方を考えていくことが、今、極めて大切なことだと思っています


弐瓶勉のロボットSF「シドニアの騎士」で注目される点のひとつは、その政治的な性向である。しかもその「政治」は、作品が諷刺の手法を取り入れているために、侵略者の攻撃で地球を脱出し宇宙を寄る辺なく漂う、都市規模の人口を持つ巨大宇宙船という、孤立し、作品内に閉じたシステムの中で、金魚鉢の外から観賞されるものにとどまらず、仕切りなく我々のこの現実世界の中にまで染み出し、むしろ、そちらの方にこそ強い視線を向けたものになっている。加えてそれは、特にここ数年で表に出てきた日本の世相や集団心理とも相互に照応する構造をとり、その映り込みは、単なる表面的な模写を超えた、最も深いところまで及んでいる。

シドニアの騎士 1 (アフタヌーンKC)
作品が示している方向性は、高度なロボット兵器やバイオテクノロジー、機械化された都市といった未来的なSFの設定の隙き間に紛れて、「東亜」「特攻」「撃墜王」「転向」などの歴史用語や、神社や木造家屋、乏しい物資や継ぎ接ぎだらけの衣類(外部との交易がない閉鎖環境のため、有機物が貴重であるらしい)、人口増殖計画、日本刀、戦況モニターの兵棋表示などの意匠や設定の中に、それとない形で暗示的に埋め込まれているけれども、もっとはっきりと前面に打ち出しているのが「非武装主義者」なる登場人物の存在だろう。

作品によれば、非武装主義者はシドニア宇宙船住民の中の有力な一派で、物語内で地球を侵略し、残った人類も執拗に付け狙って脅かし続ける「ガウナ(寄居子)」と呼ばれる敵性存在に対して、指導部、あるいは軍当局とは大幅に異なる意見を持っている。その主張の中核は、敵性体は、むしろ人類が彼らから自分を守ろうとする武装にこそ引き寄せられているのであり、こちらがそれを放棄することで襲われることはなくなる、というものである。彼らは一般住民からなる反主流派であるので、運動はもっぱら街頭のデモをもってし、言論で人々の共感に訴えるだけで、それ以上の実行力を行使することはない。先方からの攻撃によって何度も全滅しかけたほどの、恐ろしく、正体の知れない異形の敵に対して武器を捨てるよう促す奇矯さと、ところどころが辻褄が合わなかったり、妄想じみたりしていることから、軍属を含めた市民の多くからは、嘲笑され、馬鹿にされてまともに相手にしてもらえない存在であるが、それなりの説得力も含んでいるため、ときには船内の厭戦気分に乗じて多数派を占めかねないところまで勢力を伸ばすこともある集団である。反文明、反高度エネルギーの傾向も持つ彼らが、何のカリカチュアであるかは、特に震災前後の日本の社会状況をみたときには明らかで、実際に読者の多くも当然のものとして、そう受けとめているようだ。その箇所だけ無遠慮なくらい踏み込んで現実との間合いを詰め、まるで異物のように挿入されている彼らの存在が、この作品を妙に生々しく、特異なものに仕立てている。

興味深いのは、フィクションから現実世界への唐突なこの照らし合わせが、実際になにかの諷刺であるとして、それが行われている意図と、同時に、それがどの程度妥当性をもつのか、という点である。

物語内の敵は、地球外からやって来た、人外の、生物なのかすらも定かでない存在で、意思疎通を前提とした交渉による解決は、誰の目にも不可能なものにみえるので、その相手に対して武装解除を主張するのは、あまりにも無謀で遊離した印象を与える。そこで、それが諷刺であるとするなら、「非武装主義」を主張するような連中は、それくらい「非現実的」で、基礎的な判断力の欠落した、相手にするに値しない者たちなのだ、という評価にも導きうるだろう。

一方で、そのような物語上の人外の異生物に対する設定を、実際のわれわれの現実の中に短絡させ、そのまま持ち込むことは、別の違った危険も持つことは、これもまた容易に想像できる。

なぜかといえば、われわれの現実世界の中の、実際の「非武装主義者」が問題にしているのは、あくまで対人間の話だからである。異なる社会背景やそれぞれの内部事情から、外観上どれほど対話不能にみえても、相手との間で常に交渉の接点を持つことは常に可能であり、争いの原因を取り除くことで、武器に訴えて悲惨な犠牲を出さずに済む余地は、いつでも、そして最後まで残っている。

戦後の日本社会で「非武装主義」が一定の影響力を持ったのは、戦中に敵をことさらに人外の怪物のように誇大に見立てて開戦やむなしとしたプロパガンダに乗っかって途方もない天文学的な犠牲を出し、後から我に帰って振り返ってみたら、まったく問題なく対話可能な普通の隣人で、戦争まで至らずに駆け引きする道はいくらもあったことを皆が頓悟するほかなかったからである。そこからすれば、闇雲に突き進んだ好戦主義こそがむしろ「非現実的」思考の最たるものであり、手を後ろに回して極力戦いを避け、粘り強く妥協を計る道こそが、結局尾羽打ち枯らしてそうするしかなかったことをはじめから行い、はるかに少ない損失でより多くのものを得るための、まっとうな「リアリズム」だった。

そのことを再確認したうえで上記の構造にたち戻るなら、架空の怪物に対する、頑なで滑稽な振舞いが、現実の中の対応物に対する諷刺として直結的に機能しうるとみなすとき、その論理的な足場は、誰かを告発して嘲笑するだけのものとしては思いのほか脆弱で、反対に、二重の意味で道義に悖(もと)るものにもなる。「二重に」というのは、すなわち、れっきとした同じ人間でありながら、簡単に共感不能の怪物に見立てられて交渉を遮断された仮想敵たる相手方と、そのような視野狭窄への安直な退落においてのみ、妥協への非難が正当化されるにすぎない自陣の交渉派の両方に対して、という意味である。その程度のからくりが諷刺であるというなら、それは対象とされた相手の軽率さや粗忽さではなく、自分の方のそれを踏み固めるものにすらなりかねない。「転向」や「特攻」についても同じで、宇宙怪物に対する戦法がのっぴきならないものであることが、現実の人間同士の戦争におけるそれを裏書きし、ただちに正当化するという話になるだろうか。

同様の傾向は、本作と並行して進行中の、類似の切迫感をもつ人気作品「進撃の巨人」をめぐる評価の中にも見られる。追い詰められて堅牢な城壁で残された生活圏を守る人類に、外から問答無用で襲いかかって貪り食う、得体の知れない「巨人」は、作者がたびたび語っているところによれば、元のモデルはまったくの「人間」である。

無表情に、人間をつまんで、ばりばり咀嚼(そしゃく)する巨人が不気味だ。念頭に、東京の繁華街の深夜のネットカフェでバイトをしていた時の記憶があった。「言葉なんか通じない酔っぱらいの客もいた。いちばん身近に接している動物であるはずの人間が、何を考えているか分からないのが怖い」


日本漫画の世界的な人気に乗って、同作も世界各地でヒットしているというが、作品への「共感」は、上記のような対応構造を、それぞれの社会の政治状況に乗せているものが観察できる。すなわち、今の日本や、あるいは香港、台湾の読者にしてみれば「巨人」は「中共」の暗喩であり、逆に中国の若者にとっては、根強く残り燻り続ける日本軍国主義である。ヨーロッパの漫画ファンにとっては、ロシアやイスラム教徒かもしれない。いずれも交渉不能、共感不能なわけの分からない敵と、交渉不能のまま戦って身を守らなければいけない敵として捉えられる。「鬼畜米英」のように。もともとは地方から出てきた青年にとっての、繁華街のただの酔っぱらいでしかなかったものが、不安のレンズを通してそこまで巨大に投影されたのである。その先には、「共感不能性に対する共感」という細い糸だけを介して、互いに対話不能だと強く感じている者同士が、とことんまで殴り合う、という事態すら想定されるし、実際にそうしたことはこれまでの歴史の中で頻繁に起きてきた。象徴的にいえば、たとえばこれから日本と中国が戦争になり、相討ちになった双方の若い兵士がともに同じ作品の愛読者で、それを心の頼りにしていた、といった状況である。

「壁を破って襲撃する巨人に、雨傘で戦っている」 香港の芸術家、黄国才(ケイシー・ウォン)さん(44)は、民主的な選挙制度を求めて抗議を続ける若者たちを、そう評した。警官隊の催涙ガスを傘で防いだことから、「雨傘革命」とも呼ばれる運動がたち向かう「巨人」は、中国共産党・政府である。マンガ好きならお気づきだろう。「進撃の巨人」。日本では単行本が累計4千万部を超す大ヒットとなり、香港、台湾、韓国、 米国など12カ国・地域でも出版された。人を食う巨人を防ぐ城壁の内側で暮らす人々が、自由を求めて戦う物語だ。香港ではときに、大陸中国に向き合う自らと重ねあわせて語られる。

ウォンさんも、昨年の中国への返還記念日7月1日に「進撃の共人」というオブジェをつくって話題を呼んだ。共産党をもじった「共人」は段ボール製で背丈3メートル。「経済力にものを言わせて、香港の政治や文化を中国色に染めていく姿を、ユーモアをこめて表現した」。


日本のSFやアニメが戦争や戦闘を描くとき、あまりに破壊的だった戦争の記憶をひきずってきたため、そこには後ろめたさや、ためらいの感情が長くつきまとってきた。エヴァンゲリオンや神林長平の「戦闘妖精雪風」に登場する「使徒」や「ジャム」は、シドニアのガウナと同じ、理解不能で非人間の敵であるが、たとえば後者では、作者は、敵方をそのような存在に設定したのは、同じ人間を殺させたくなかったからだ、というようなことを述べている。エヴァンゲリオンで漢字や漢字熟語の表現を多用して斬新さを評価されたのは、まだ単なる意匠にとどまっていて、そこには政治的な含意はほとんどなかった(萌芽くらいはあったかもしれないが)。しかるに、上記のような作品では、もはやそうした遠慮からはほぼ脱して、同じ設定や意匠も、むしろ逆向きの指向のために用いられている。人間を死なせる現実を直視せずに兵器や闘争に対する嗜欲を満たすための抜け穴だったものが、人間を死なせる現実を正当化することでそれらを満たす抜け穴へと変質している。相応する社会状況と読者の支持を背景にした、新しい世代の作家による、新しいタイプの作品といえるだろうし、戦後の日本の文化史の中でも、後から振り返って期を画する転換点になるような作品になっているのではないかと思う。

打ち砕け 時満ちて 生きるため 解き放て(略)
誓い立てる間もなく この身を投げ出せ
重責と困憊と 運命(さだめ)には負けじと


「シドニア」の非武装主義者については、以上の議論に関連して、「一般の民衆が政治的な真実に達するための経路」という点からも興味深い描写が描き込まれており、それは原発事故を経たわれわれ自身の状況とも重なっている。それを次で確認しよう。


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2015/05/05 | TrackBack(0) | 漫画・アニメ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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