「だけど紅天蛾のようなガウナもいる。対話して平和に
解決することだってできるかもしれないよね」
解決することだってできるかもしれないよね」
「シドニアの騎士」に登場する非武装主義者の描写で面白いのは、周囲から馬鹿にされている彼らの主張が、結局のところ、大筋で真相を言い当てており、正しいということである。このことの向こうには、われわれの今の状況にとどまらず、人間の社会全般にまで行き渡る、深い視界が広がっている。
非武装主義者たちの主張によれば、漂流する残存人類の仇敵「ガウナ(寄居子)」が、シドニア宇宙船を執拗に追い回し、攻撃してくる理由は、むしろ人類の側に原因があり、特にガウナを撃滅する唯一の有効兵器である「カビ(穎)」にある。物語の展開の中で、これが事実そうであることが示される。また、船内の研究所はガウナと同じ肉体を持つ「融合固体」を隠しており、それが発する放射線も敵をひき寄せている。さらに、(原子力の比喩とみられる)物語内の高度エネルギー「ヘイグス粒子」にもガウナは強く惹きつけられるが、これも非武装主義者たちは放棄するよう求めている。さらにまた彼らは、シドニア宇宙船の最高指導部が、艦長を筆頭になんらかの理由により不死であり、数百年にわたって代替わりで交替しているとされる歴代の艦長は、同一人であることまで大胆に推論し、衆人に訴えるが、この推定もその通りで、正しい。
前回も振り返ったように、非武装主義者たちの主張は、他の船員たちからは、あまりに突飛だとして、取り合ってもらえないことが多いのであるが、一方で、にもかかわらず、実際にはそれは真相をおおむね正しく言い当てている。この食い違うふたつの現象は、並べ比べることで、次の二点の問いをわれわれに投げかける。すなわちひとつは、「彼らは、いかにしてその事実までたどりついたのか、知ったのか」という点であり、もうひとつは、「彼らは正しいことを主張しているのに、なぜ皆から取り合ってもらえないのか」という二点である。
「機密」とはなにか
まず後の方からいくと、「正しいことを主張しているのに真面目にとりあってもらえない」ことの第一の理由は、何よりまず、事実の方が公衆に対して深く隠されているからである。そして、隠されているのは、それが船内の軍事上、あるいは政治上の機密だからである。シドニア宇宙船が不死の生命技術を持ち、最高幹部会である「不死の船員会」が、施術を受けてその名の通り不死であることは、船内の秩序を乱す最高の禁忌として、一般の船員には固く秘されている(一般船員は、宇宙船の閉鎖経済系の有機物サイクルの中で、「有機転換炉」に入って残りの船員のための資源、「肥やし」になる期間を持つために「死んで」いるのかもしれない)。幹部会はその存在そのものが伏せられ、連絡役となる女艦長の小林は、一般船員と会ったり、戦闘の指揮を採るときは、常に仮面をつけていて、老いないままの素顔を知られないようにしている。ガウナの肉を持つ「融合固体」の遺骸も船内の最深部に隠匿されており、一般の船員は、存在すら知らない。機密として外部に隠されるのは、一般に、なにか驚きや動揺をもたらすもの、外側の通念常識と落差の大きいものだろう。表に出しても段差が少ないような情報なら、そもそも隠しておく必要がない。そこで仮に誰かが、その一般の常識と落差の大きい隠された事実を、確かな証拠なしに、ただ推定だけによって言い当て、そのままに明るみに出したとしたら、よしやそれが正しく的を射抜いていたとしても、それが持つ落差、突飛さゆえに信じがたいものとして笑い飛ばされ、悪くすれば正気を疑われさえする、というのは、普通に起こりうる社会関係の様態である(昨今の事件になぞらえれば、たとえばエドワード・スノーデン氏が具体的な証拠を持ち出さずに同じことを主張したら、どうなっていたかを考えてみればいい)。
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フィクションとしての特殊性を通して、このことが注目されるのは、我々の実際の社会や組織においても、機密保持のための第一の理由と第二の理由がごちゃまぜで曖昧になり、第一の理由と称しながら第二の目的で行われることが多いからである。言い換えれば、外の敵に対する不可避な措置と称して、内部の締めつけを正当化する例が多い、ということである。このことは、たとえば、同時テロ以降のアメリカ国内の状況や、戦時中の日本の状況、あるいは、今の日本で進められている法整備の議論などをみれば、明らかなことだろう。シドニア宇宙船社会では、物語の環境として、この第一の動機が脱落しているため、機密というものの持つ、もともとの異様で得手勝手な性格が、よりはっきりと浮かび上がっている。すなわち、彼らは外敵のガウナに対してというよりは、はるかにより多く、船内の同じ人間のために、強固な機密システムを運用しているのである。
仇敵のガウナ(ヤドカリの古名「寄居虫(ごうな)」に由来するらしい)は、人間と同じ意味で生物といっていいのかもよく分からない存在で、生物のような反応をみせる一種の鉱物なのかもしれず、あるいはウィルスのように生物と物質の中間的な性質を持つ存在なのかもしれない。彼らは強力な耐久力に加えて、何でもコピーして真似る可塑能力を持っており、実際の戦闘の現場では、操縦士の人間が食われて取り込まれれば、次は人間の姿、ロボット兵器の衛人(もりと)が捕獲されればロボットの姿をとり、ヘイグス粒子砲で攻撃すれば、次は相手も輪をかけて強力なものを撃ってくる。一度有効だった戦法は、殲滅しきれずに一部を巣(衆合船)に帰してしまうと大々的にやり返されて通用せず、土台の基礎能力の差で、相手が常にこちらを上回っている状態のまま、より強力で大規模な戦争へと急激にエスカレートしていく。そのため、軍人たちの間にすら、こんなその場しのぎの繰り返しがいつまで続けられるのかと、動揺が広がりつつある状態である。非武装主義者の主張はこの点でも正しく、終わりの見えないまま戦闘と損耗の規模だけが拡大していく中で、戦うこと自体にどれだけ意味があったのか、そもそも根っこの部分の大局的な判断に誤りがあったのではないか、との主張が説得力を持つのは、こういう現実があるからである。
反体制派である非武装主義者たちの事実認識とそれに基づく主張が、おおむね正しいということは、裏を返せば、体制指導部のそれが、根幹の部分でそれだけ間違っており、不義だということと同等である。反体制派が推定によって特定し、読者にだけは俯瞰的に明かされている重要な情報が、一般の船員たちにすべて開示されたとしたら、彼らはそれまでと同じように指導部に従うだろうか。顔すら見せようとしない謎の最高指導部から、損耗率が最大九割にも達する無謀な作戦に出撃するよう命じられて唯々諾々と承服するだろうか。消尽する兵士を補充するためにクローン技術で促成培養され、わずか数年で命を落とさなければならない運命を黙って受け入れられるか。間違った指導部が、間違ったまま、統治と支配を維持しようとするとき、「機密」が不可欠になる。一般人には窺い知れない秘密の空洞の中に、隠された正当性があるかもしれないと匂わせることだけが、不義を糊塗し、疑問を押さえつける拠り所になるからである。昭和の大東亜戦争で、帝国日本の指導部は、国民に対してまさにそのようにして、目隠ししたまま不義の戦争へと駆り立てていった。「機密」は敵軍に対するものというより、はるかに自国民に対するものだった。そのことをわれわれは後世の視点から、俯瞰的、特権的に知っている。物語の読者のように。
国民生活を犠牲にしても、財政的に日本は米国に劣る。英米班に所属した経済学者の故・有沢広巳(元法政大総長)は回顧している。「日本が約50%の国民消費の切り下げに対し、アメリカは15~20%の切り下げで、その当時の連合国に対する物資補給を除いて、約350億ドルの実質戦費をまかなうことができ、それは日本の7.5倍にあたる」秋丸中佐は陸軍部内の幹部会議で、こうした内容を示した。統帥部トップの杉山元(げん)参謀総長は内容を「おおむね完璧」と認める。しかし、「その結論は国策に反する。従って、本報告の謄写本は全部ただちにこれを焼却せよ」と命じたという。
内閣直属の「総力戦研究所」(1941年4月設立)は「模擬内閣」を組閣し、机上演習を行っている。(略)その結果、対米関係は悪化するが、国力的に開戦は不可能――との「閣議決定」を下す。それでも対米戦に踏み切った場合は「船舶被害増大によりシーレーン崩壊」「長期戦になり石油備蓄消耗」「中南米諸国との外交途絶」などに至ると判定。最終的には「ソ連が米国と連携し、対ソ関係が悪化」し、模擬内閣は「総辞職」した。1941年8月、東京・永田町の首相官邸大広間。近衛文麿首相をはじめとする閣僚らに、研究員たちは「閣議報告」を行った。ストレートな表現は避けられたが、結論は明白だった。終始熱心にメモをとっていた東条英機陸相は発言したという。「日露戦争で勝てるとは思わなかった。しかし、勝ったのであります。戦というものは、計画通りにいかない」。そう強調しながら、最後に付け加えた。「なお、この机上演習の経過を、諸君は軽はずみに口外してはならぬ」
国民に防空の義務を課す「防空法」が制定されたのは1937年4月。その4年後の41年11月に改正され、「空襲時の退去禁止」が規定された。働ける市民は都市からの退去を禁止され、違反者には半年以下の懲役または500円以下の罰則が科せられた。500円というのは当時の教員の給料10か月分に相当する大金だ。(略)
NHKの朝の連続テレビ小説「ごちそうさん」の中で、主人公が「空襲なんて怖くないらしいですよ」と話す場面が出てきた。当時、政府は「空襲は怖くない」という誤ったイメージを持たせていたのだ。(略)「弾はめったにあたらない。爆弾、焼夷弾にあたって死傷するものは極めて少ない」「焼夷弾が落ちてきたら、砂や土などを直接、焼夷弾にかぶせ、その上に水をかけ火災を抑え延焼をふせぐ」
当時の政府が恐れたのは戦争の恐ろしさを国民が知ること。開戦と同時に、内閣直属の機関「情報局」が「大本営の許可したるもの以外一切掲載禁止」と発表。大本営発表がうそだとわかっても軍の報道規制が厳しいこともあり、新聞、ラジオ、雑誌は国の宣伝機関と化していった。(略)一夜にして10万人が亡くなった東京大空襲を伝える大本営発表は「3月10日零時すぎより2時40分の間、B29約130機主力をもって帝都に来襲、市街地を盲爆せり。都内各所に火災を生じたるも宮内省主馬寮は2時35分、その他は8時ごろまでに鎮火せり」と、10万人の犠牲者は「その他」でしかなかった。
六、国債の将来
(1)国債がこんなに激増して財政が破綻する心配はないか
国債が沢山殖えても全部を国民が消化する限り、すこしも心配はないのです。国債は国家の借金、つまり国民全体の借金ですが、同時に国民が其の貸手でありますから、国が利子を支払つてもその金が国の外に出て行く訳でなく国内に広く国民の懐に入っていくのです。一時「国債が激増すると国が潰れる」といふ風に言はれたこともありましたが、当時は我国の産業が十分の発達を遂げてゐなかった為、多額に国債を発行するやうなときは、必ず大量の外国製品の輸入を伴ひ、国際収支の悪化や為替相場、通貨への悪影響の為我国経済の根底がぐらつく心配があつたのです。然し現在は全く事情が違ひ、我国の産業が著しく発達して居るばかりでなく、為替管理や各種の統制を行つて居り又必要なお金も国内で調達することが出来るのでして、従つて相当多額の国債を発行しても、経済の基礎がゆらぐやうな心配は全然無いのであります。
「シドニア」のアニメ版では、最初の場面で接近した小惑星にガウナが潜んでいることを、小林艦長と不死の船員会だけははじめから知っており、発見された谷風の素の能力を試すために、資源探査の名目で、訓練生の身分のまま出撃させる。いっしょにチームを組まされた、忠実な軍国少女、山野栄子は、有効な情報も武装も与えられないまま、哀れにも捨て石としてその犠牲に供せられる。戦死者を出せば、長い平和で緩んだ船内の軍紀も引き締まるだろう、との指導部の計算の下に(非武装主義者の老人が叫ぶように、まさに「でっちあげ」である)。
より正しい認識と主張が、体制指導部の外にあり、内側には嘘と不義がある。それを証する事実は機密として守られ、一般の市民には知らされない。「正しいことを言っているにもかかわらず、まともに取り合ってもらえない」というのは、以上のような情報環境の構造を示している。重ねて言えば、シドニアの司令部が、敵であるガウナと交渉不能であることを不毛な闘争の絶対的根拠に打ち出せば打ち出すほど、彼らが内部に敵を意識した機密システムを持たねばならない根拠はそれだけ薄弱になる。両者は論理的に背馳していて、どちらかを取ればもう一方は捨てなければならないからである。この点、作品内の組み付けは、自己強化的な循環によって地滑り的に破綻していて、物語の外の(現実の)世界であれば、非武装主義者は、当然、敵方との内応を疑われ、機密制度の必要性の理由づけを押しつけられるところであるが、誰もそれを思いつくことができないくらい、ガウナは甚だしく交渉不能ということになってしまっている。ガウナが人間にとってそれほど理解不能な存在なら、彼らもまたわれわれを理解はできないだろうし、何が機密であるかも当然分からず、また、どうだっていいだろう。何らかの理由で機密が漏れる形で、彼らが戦法上の先手を打ってきたことはなく、こちらが解禁したものを後追いでただ真似るだけで、彼らは既に十分に強力である。
「陰謀論」と政府の情報の非対称性
では、非武装主義者をめぐる、もうひとつの問い、彼らはどのようにしてその事実まで達したのかという疑問についてはどうか。上述のように、シドニアの船内社会で一般の船員住民には知らされない軍事的機密は、まさに非武装主義者のような反体制勢力から隠すために存在している。よって、それが機能している程度において、彼らは直接的なやり方では、その知識に絶対に到達することができない。
そこで、彼らのような外部の集団が、認識にまで行き着くためには、より間接的、迂回的な方法に頼る他はない。すなわち彼らは、出来事の外面を注意深く観察し、外に漏れ出てきた小さな埃のような断片を丹念に積み上げ、想像を最大限に逞しくし、直感力を働かせて、それらを互いにつなぎ合わせることで、なんとか裏側に隠れている論理構造を読みとろうとする。
これらの方法論と知的な営みは、主に体制側に拠る立場の者たちから陰謀論の名で呼ばれる。そこにはもちろん最大限の侮蔑と嘲笑のニュアンスがこめられているのであるが、それでもそれは、機密を口実に権力の不義を隠された民衆にとって、取りうる唯一の、貴重な手段である。それは知的に劣った鈍さと怠惰の現れどころか、逆に研ぎ澄まされ、全開に発揮された、最も高度な知的営為のひとつである。
当然ながら、この営みは失敗して、ピントがうまく合わなかったり、見当違いの頓珍漢な方向にさ迷い出てしまうことも多い。とはいえ、そうしたことが起こる理由の第一は、骨格になる事実が彼らにはまったく与えられず、体制の側に集中していて、最も強い強度の「情報の非対称性」があることがそれであり、第二に、論理的な推論を行う能力という点からいっても、高度な能力と教育を持つ人的リソースが、権力の側にすべて雇われて吸い尽くされ、これもまた集中していて、ただの素人の一般住民である彼らの側は、徒手空拳に近い、乏しい状態だからである。しかしながら、そうであるにもかかわらず、物語の中で、非武装主義者たちが、根幹において正しい事実認識にまで達しているということは、まさに彼らのために設けられた機密の柵を突破して、この間接的な営みが見事に成功していることを示している。生存の根底が脅かされるような状況で人間が(というより動物が)みせる直感力の鋭さは、当然ながら侮りがたいものがあり、同様の現象は現実の社会現象においても、むしろ普遍的なものとして広く観察される。たとえば、先頃のアフリカを中心としたエボラ出血熱の蔓延では、流行地で大規模なパニックと騒乱が起きたが、その根幹は、要約すれば「伝染病そのものより自国政府と外国人たちこそが自分たちにとって危険だ」というものだった。想像を絶するような凄惨な内乱と、英米仏を中心とした外国勢力による侵略で血塗られた同地の近世史と現在の政治状況をたどれば、これが紛れもない事実であり、それに基づいた行動に生死のかかった切迫性があったことが、容易に確認できる。彼らが支援組織が持ち込んだ近代医療を忌避して地場の伝統医療に固執し、伝染病をかえって拡げる結果になってしまっていると指摘されているのも、外部の活動の方が自分たちにとって危険であることを、体験の中から直感しているからである。
「エボラ出血熱が存在しないと主張する人々は、『何か』に反抗している。彼らは、与えられるべき情報が与えられず、権力に操られていると感じているためだ」と説明した。現地で働く医師や看護師(多くは国際機関に所属)は、エボラウイルス以外にも、コミュニティーに深く根付いた『不信感』とも闘っている。そのなかには、ウイルスが欧米諸国によって作製されたものだとか、感染症のそのものが作り話という「風説」もある。8月には、リベリアの首都モンロビアにあるエボラ出血熱患者の隔離施設が、「エボラなんて存在しない」と叫ぶ若者たちからの襲撃を受け、患者ら17人が逃げ出した。
だが住民が不信感を抱くのには十分な根拠がある。1961年に英国から独立して以降、シエラレオネを統治してきたのは、全人民会議が20年にわたって一党独裁支配したのをはじめとして、腐敗した政府ばかりだったからだ。この間、シエラレオネ東部の辺境地域に住む人々は概ね無視され、これらの地域の政治的な権利は抑圧された。辺境地の人々は、国が提供するサービスにアクセスすることが今もほとんどできない。政府が提供する医療サービスを、人々はほとんど信頼しておらず、多くの人々がいまだに伝統的な神霊治療家(ヒーラー)に頼っている。(略)「政府はこれまで嘘ばかりついてきた。そんな政府が、病院に行かなければ死ぬと言ったって、信じられるはずがない」
「エボラ兵器は1990年の終わりには製造できるようになっていた」――。99年の著書で衝撃的な事実を告白したのは、元ソ連軍大佐として生物兵器の開発計画を担当していたカナジャン・アリベコフ博士だ。(略)88年には、エボラに類似する「マールブルク・ウイルス」の研究中に、研究員が誤って同ウイルスに感染して死亡する事故が起きた。ソ連はその後、研究員の遺体から分離したウイルスを培養し、砲弾やミサイルの弾頭に詰める「兵器化」を実行。マールブルクに比べ培養が難しかったエボラも、90年ごろに兵器化できたとされている。
米ホワイトハウスの科学諮問委員会は17日、遺伝子操作技術を使ってインフルエンザや中東呼吸器症候群(MERS)などのウイルスの感染力や毒性を高める研究に対し、新たな公的助成を一時停止すると発表した。病原体が研究室から漏れ出たり、生物テロに悪用されたりする懸念があるのが理由。来年にかけて専門家や学術機関と研究の安全な実施の在り方を議論し、審査体制を見直した上で助成を再開する。
米食品医薬品局(FDA)は25日、エボラ出血熱の検出に米国のバイオファイア・ディフェンス(本社:ソルトレークシティ)が開発した2つの検査システムの使用を緊急認可したと発表した。バイオファイア・ディフェンスは、臨床診断薬・システムを開発・販売しているの仏ビオメリューの米国法人で、生物剤(生物テロに使用されるおそれのある病原体・毒素)の検知システムの開発・提供を中心に事業展開している。
米オバマ政権が、予防接種を装ったCIA(中央情報局)の情報収集活動を今後は行わないと決めたことがわかった。パキスタンで医療チームがテロの標的となるため活動が困難になってポリオ(小児まひ)が広がり、国内外で批判が高まっていた。2011年に米軍がパキスタンに潜伏していたオサマ・ビンラディン容疑者を殺害した作戦を巡っては、CIAが、協力するパキスタン人医師を通じて、予防接種を装ってビンラディン容疑者の家族らからDNAサンプルを採取したとされている。この後からイスラム武装勢力が本当の予防接種もスパイ活動と疑うようになり、予防接種に携わる医療関係者が殺害される事件が発生。パキスタン政府や国連の活動が困難になっていた。
「あいつらは嘘つきだってお父さんが言ってた‥‥ということは基地から脱出できた人たちがいるのかもしれない。あいつが、悪魔が来ていることを知らせなくちゃ。これを使うなら今しかないわ」
一方で、機密の名の下に不義が大衆の目に隠されるとき、民衆の側の陰謀論の冒険的な試みを、その必然的な特徴のゆえに嘲笑い、否定する行動は、それを糊塗する活動の不可欠な一部を成している。体制指導部にその装飾品として付属する知識人は、その知識と閑暇、資力をすべて注ぎ込んで、人品としても財力としても貧相で無教養な陰謀論者の、周辺的な矛盾を取り出して最大倍率で拡大強調することで、その根幹部分の正しさを故意に無視したまま、いくらでもあげつらい、動揺させることができる。否定論者たちが相手を口汚く罵倒しながら強く推奨し、導こうとする、確かな事実と科学的手法に基づく方法は、すべてが隠そうとする側の所有なのであるから、それを受け入れるということは、体制側の隠匿の行為をそのまま了とし、それ以上の探求の鉾を収めるということ以外のものも意味しない。逆にいえば、陰謀論の名で切り捨てられ、引き返すよう呼びとめられるとき、機密を隠された民衆は、諦めない限り彼らが取りうる唯一の正しい道を進んでいる。原始的で不完全な視力でも、眼が生物にとって充分役立つのと同じように、たとえ事物とピントが充分に結んでいなくても、致死の毒から身を避け、生きるか死ぬかの基本的な走向を決めるうえで、陰謀論的手法は充分に役に立つ。彼らにとってそれが必要な情報を判断する唯一の手だてであるのなら、不完全な解像度だからといって、それを手放す合理的な理由はなく、そうさせることもできない。できた例もない。
隠された側が行動の判断を専ら推定に頼って行わざるをえないのは、そのための情報がまさに隠されているからである。不信と叛意をもって遇されるのは、自分こそが相手に不信をもち、害意すら抱いているからである。陰謀論の枠組みにおいては、それを隠している当の側が、正しい情報に基づいていないといって嘲笑う。「機密」という不信の堰(せき)を相手との間に築いているまさに当人が、不当な不信を持たれているといって嘆く。足を踏んづけて、相手をそのような状態に突き落としている本人が、走れないことを差別し、笑うのである。この不毛な対立を突破し、解決するには、この案件に必要な情報のあれやこれの断片は慈悲深くも投げ渡してやったというだけでは当然足りない。原因を作っている側がまずそれを解き、「機密」という不信のシステムを停止させるしかない。
同じように隠されている側にいるが、素朴に権威を信じ、頼っている種類の人たちはまだ申し開きの余地はある。問題は、上記の構造と事情をすべて把握できる立場にいながら、なお、非武装主義者のような人々を嘲笑し、分断のシステムを盲信する人々の方である。それは、作者自身なのかもしれないし、読者の中の一部もそうかもしれない。小林艦長本人は当然そうである。どれほど自分で自分に嘘をついているのか、それに自ら進んで飼い馴らされているのか、という話になるだろう。そういう者たちは、自らと自らの想像が作り上げた敵が隔つ情報の壁が、御することのできない裂け目が、ほんとうは自分の外にではなく、自らの心の中にあるのである。
上記の伝染病の例でいえば、報道の断片からは、ウィルスそのものがそうであるかはいまだ明かされていないものの、少なくともその悪性化と兵器化については現実に長く研究が行われ、充分な成果が達成されたこと、軍事的なレベルでは対処策も既に用意されていたが、蔓延が相当悪化するまでそれは隠されていたこと、また、それらの国からの医療上の支援が行われるときには、軍事的な目的も、裏側で同時に並行して遂行されていたこと、などを強く推定させるものになっている。それらの情報を片手に得ながら、同時に、現地の人たちの疑心と混乱を、未開だの無知だのといって笑おうとするなら、同じ裂け目は、今度はわれわれ自身に問われるものとなるだろう。
以上までの議論で、非武装主義者という切り口を通して、この物語そのものが、厭戦と主戦の間で揺れ動く思いと複雑な陰影を、靄(もや)のかかった、整理されない状態のまま包胎して進んでいる姿を概観してきた。ところで、物語の中における非武装主義者の活動とそれをめぐるこれらの葛藤は、もっぱら軍事の現場からは離れた、船内の一般生活空間の中での競り合いであるけれども、登場人物の中に、この錯綜とねじれを、そのまま戦場の中まで持ち込んでいる者がいる。それは他でもない、本作のヒロイン、星白閑がそれである。彼女の存在は、物語の根底を流れる対話と戦いの間の迷いと葛藤に、さらに立体的な厚みを加えている。
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