第257話 政治家の葛藤*
オラーセム・ハトランの訃報は、翌日にはガリラヤニンを駆け巡った。
フリッツの指図で、早朝から全ての
一人の男が死んだことで、ガリラヤ連合は、その仕組みを大きく変えようと動き出していた。
*****
「立候補なんか、しなくてもいいんじゃない?」
フリッツが愛人であるノセットの家で話をしていると、ノセットは唐突にそう言った。
ベルビオ・ハトラン側に弱みを見せないため、しばらく来ないほうがいいのかもしれない、と言った矢先のことだ。
「なんでだ? 立候補しなかったら、
フリッツは意味がわからず、子どもに対してするような返事をした。
「……分からないはずないだろ?」
フリッツが出会った頃、彼女は政庁で情報整理というか、
戦争や諜報に関わる重要度の高い機密文書は別便で運ばれてくるので、そういったものに触れる立場ではなかったが、辞める時に様々な情報について口外しないよう文書にサインをして、フリッツが口利きをしなければならない程度には重要な仕事に就いていた。
国家についての教養は下手な男より余程深いものを持っている。
「なれなくたっていいと思う」
と、ノセットはすぐさま返してきた。
予め頭の中で考えていた問答なのだろう。
「お金は沢山あるんだし、私だって仕事するし、南の国にでも移住して普通に生きればいいよ。恩義のあるオラーセムさんは亡くなったわけだし、奥さんだって離縁してあげたほうが幸せなんでしょ?」
フリッツは開いた口が塞がらなかった。
「いい? あなたは、お金を沢山使った贅沢な暮らしをしたいって人じゃないの。
だったら、統領なんて重職につかなくても、幸せな暮らしはどこでだってできる。
それとも、重責に苛まれながらあの奥さんと一緒に暮らして、たまに私のところに通う生活って、そんなに幸せ?
南の国で私とミュセットと一緒に暮らすほうが、ずっと気楽で幸せな生活じゃない?」
フリッツはまったく、開いた口が塞がらなかった。
「ゲリジムが陥落したって話も聞いたよ。もし当選したとしたら、間違いなくあなたの任期中に戦争になる。今南に行けば誰にも罪に問われることはないけど、戦争で負けたら、きっとあなたは酷い扱いを受けることになるのよ。それでも政治家を続けたいの?」
「そんなこと言ったって……」
と、フリッツはつぶやく事しかできなかった。
ノセットの言うことは、彼女からすると、まったく道理の通った理屈なのだろう。
だが、フリッツには異論がたくさんあった。
まず、政治家というのは特殊な仕事で、職人などと違って母国でしか成り立たない。鍛冶や大工の名匠はどの国にいっても仕事はできるが、政治家の場合はそうはいかない。
外国で政治家はできないのだから、国外に出るということは、フリッツの今までの人生を否定することになる。
また、ガリラヤ連合という国家も、フリッツを必要としている。
ガリラヤニンの内部で
クルルアーン竜帝国の龍帝と謁見したこともある。
拝謁の栄に浴した。と言ったら言い過ぎになるが、龍帝と謁見したということは、彼の国では特別な意味を持っていて、様々な方面に顔が通りやすい。
そういった貴重な
というより、育てようと思っても限られた数しか育成できないのだ。それを考えると、その限られた人物が国を捨てるというのは、やはり特別な意味を持っている。
もしフリッツが選挙に負け、ベルビオ・ハトランが統領になったとしても、やはりフリッツの能力は国から求められるだろう。
「国を捨てることはできないよ。今、僕が立候補しなかったら、国情を一番知っている統領代行が逃げたということになる。それじゃ、勝てる戦争も勝てなくなる」
「それなら、立候補するだけして、選挙に負けたらいい」
「選挙活動をするなってことか?」
「そう。なにもしなかったらベルビオさんが勝つでしょう? そうしたら、あなたの責任はなくなる」
選挙活動をしなければ、それはベルビオが勝つだろう。
市長の選び方は各々の都市に委ねられているが、ガリラヤニンの場合、総督の任期は副総督が引き継ぐ決まりになっている。
総督選の際、候補は副総督まで指名した上で戦うので、それも込みで選ばれたということになっているからだ。
つまり、ベルビオはあと二ヶ月はガリラヤニン総督権者でいられる。
一方、フリッツの肩書は現状ではガリラヤ連合副統領だが、これは選挙を行うまでが期限で、選挙が終わったと同時に消滅する決まりになっている。
もちろん、統領の任期を引き継ぐこともできない。
そうなっているのは、長く時間のかかる総督選挙と違い、統領選挙は各都市の市長が集まって決めるだけのものなので、比較的迅速に終わるからだ。
一ヶ月以内に大きな戦争が予想される場合は延期できる決まりになっているが、それはあくまで緊急時における措置だ。シヤルタ王国軍が来襲するまで、どう迅速に見積もってもあと三ヶ月以上かかる。なので、フリッツは既に市長たちを招集してしまっていた。
歴史上、副総督と副統領が対決するといったことは何度も起きてきたが、副統領のほうが圧倒的に不利なので、ほとんど勝てた例はない。
ガリラヤニン総督は、名声や肩書といった象徴的な要素に加えて、当然だがガリラヤニン市が持っている投票権も有しているからだ。
各市が持っている票数は、一定の率で連合に上納される
つまり、フリッツは最初から四分の一の差を開けられた状態で戦わなければならない。
その差を埋めるには、各都市長へ袖の下、つまり賄賂を渡すしかない。
もちろんベルビオのほうも、念には念を入れて各都市長に賄賂を贈るだろう。
元々が不利なフリッツが選挙活動をせず、賄賂も一切贈らなければ、これはもう勝ち目があるわけもない。
「だが……」
フリッツは渋った。そもそも、フリッツは当たり前に努力するつもりでいた。
それがオラーセムの遺志だ。
それに、通常の感覚から言って、この国の頂点にたどり着くチャンスがありながら、それを投げ捨てて南に引っ越すというのは常識では考えられない選択だ。
「お願い」
ノセットは、テーブルの反対側からフリッツの手を掴んだ。
家事で少し荒れた、温かい手がフリッツの手を包む。
「あなたが人生の集大成として
***
正直なところ、ノセットの申し出はフリッツの心を大いにゆさぶった。
ノセットの家から出たあと、自宅に戻ると、フリッツは書斎に籠もって思い悩んだ末、マージェリーに声をかけた。
「マージェリー、祈っているところすまないが、少し話をさせてほしい」
礼拝室にて祈っているマージェリーの背中に呼びかけると、彼女は立ち上がって振り向いた。
今日も今日とて修道女の服を着ている。
「はい、なんでしょう」
「一つだけ聞いておきたいんだ。君は、私と離縁して修道院に入りたいかい?」
フリッツは、オラーセムに恩を返したかった。オラーセムはすでに居ないが、死したとて恩がなくなったわけではない。
マージェリーの幸福というのは、祖国の未来と同じくらい、強くオラーセムが望んでいたことだ。
「いいえ、入りたくありません」
しかし、返ってきたのは意外な答えだった。
「私にまで本心を隠す必要はない。べつに、離縁したいというのはイイススの宗旨に反することではないだろう」
「フリッツ様は
「いや……そういうことじゃない。正直に言うが、今までは、君を通じてオラーセムさんの縁者になっているということが、私の立場にとっては重要なことだったんだ。だけど、オラーセムさんはもう亡くなった。きみが離縁したいというのなら、ええと……その、状況は変わったということだ。なんというか、私に引き止める理由はなくなった」
正確に言えば、状況はあまり変わっていない。マージェリーという存在が持つ機能を、政治家としてのフリッツは引き続き必要としている。
だが、ノセットに新しい展望を与えられたフリッツは、そうやって政治的に優位に立つために打算を働かせるのをやめていた。
「私は、フリッツ様を愛しています。妻で居続けることに、なんの不満もありません。ただ、フリッツ様が私を愛していないというのも、わかります。臥所を共にすることを嫌という妻など、離縁されてもいたしかたありません。修道院での生活は……神への愛はもちろんありますし、嫌ではありませんので、フリッツ様がお望みならば喜んで向かいます」
愛してる?
一体、どういうことなんだ。
「愛してるなら、なぜあのように嫌がるんだ」
異常な性癖のはけ口にしたというのなら分からないではないが、臥所で体を撫でただけで異常なほどの嫌がり方をするのだ。
それでは、いくらなんでも好んでいるとは思えない。
「……私は、妊娠するのが怖いのです」
フリッツは、開いた口が塞がらなかった。
「まだあのことを気にしているのか――?」
「はい。いけませんか?」
「――――――っ、いけないことは、ないが……」
マージェリーは、一度妊娠はしたが、失敗して流産してしまった経験がある。
流産といっても、腹が目に見えて大きくなってからのことではない。月のものが来ず、医者がご懐妊ですと言って、結局産まれなかったというだけの話だ。
翌月に月のものが来たと言われて、残念だったと慰めた覚えはあるが、そんなことはフリッツも忘れかけていた。
普通に十月腹の中で育み、待望されて産まれたのに死んでしまったという話とはわけが違うのだ。
それも、もう八年かそこら昔の話である。
「じゃあ、八年もずっとあの子どもの冥福を祈っていたのか?」
信じがたい話だ。
「はい」
だが、マージェリーはさも当然というように頷いた。
「何故黙っていた。私が理由を訊ねても、答えなかったじゃないか」
それでは神への愛に目覚めたのだと思いたくもなる。
「……自分が異常なのだ、ということが分かっていたからです。また産めばいい、と言われるのも怖かった……」
「ああ――」
フリッツは腑に落ちる思いがした。
マージェリーは、臥所を共にするのを嫌がっていたのではない。怖がっていたのだ。
なぜ気づいてやれなかったのか、という思いと、そんなことは言われなければ解るはずがない。という思いとが錯綜する。
「その気持ちというのは、変わるものなのか?」
「……いえ、フリッツ様には申し訳ないのですが、変わらないと思います。私は一生、ここで亡き子どもと父の
「そう、か……」
フリッツには、マージェリーの心理はよく理解できなかった。
男には生来、理解しがたい類の話なのかもしれない。
一つ解ることがあるとすれば、マージェリーはやはり、人格のどこかにかなり極端な部位を有しているようだ、ということくらいだった。
フリッツには子どものいない、性の営みもない家庭など想像できない。
愛情だけをもってマージェリーと暮らし続けるという未来は、想像できなかった。
「そうか。お前の気持ちはよく分かった」
「……そうですか、なら……」
「答えは、選挙が明けてからでもいいだろうか。どのみち、おまえが貧窮するようなことはないようにするつもりだ」
マージェリーが入るとするならば、それは女子修道院だろうが、これは献金をすることで相応の待遇を受けられるよう取り計らうことができる。
離縁してから選挙に挑むこともできるが、フリッツはできるだけそれはしたくなかった。大騒ぎになってしまえば、離縁の理由を探られる。そうなれば、ノセットとミュセットに累が及ぶだろう。
選挙で負けたあとであれば、フリッツは政治という大舞台の中で、主役から端役へと転落する。そのあとであれば、騒ぎになることもあるまい。
「分かりました。
マージェリーは、まさに従順な
「そうか。なら、少し待っていてくれ」
フリッツは、そう言い残して礼拝室を出た。