NAM総括 運動の未来のために
著 者:吉永剛志
出版社:航思社
ISBN13:978-4-906738-44-1

NAMを歴史化せよ!

これからの社会運動に興味がある人へ

倉数茂 / 作家
週刊読書人2021年3月26日号


 かつてNAM(ナム)という社会運動があった。New Association ist Movement、二〇〇〇年に始まり、二年後に潰えた。指導者は批評家の柄谷行人、他にも錚々たる思想家、芸術家が名を連ね、短い間に会員数も七百人を超えた。

 しかし活動期間がわずかだったことと実績らしい実績を残せなかったせいで、NAMがどのような運動であり、何をしていたのかについては記録や証言が驚くほど存在していない。NAMはほとんど忘れ去られ、批評史や思想史に関心を持つものの間だけで柄谷らの失敗の記憶として揶揄まじりに囁かれるだけだった。具体的なことはよく知らないけど、NAMって喧嘩ばかりしてひどかったらしいね、と。

 活動停止から約二十年を経て、ついに包括的なNAMの記録が登場した。『NAM総括』は名前の通り、NAM創設から崩壊までを時系列に従って、さらに組織原理や末期の分裂騒ぎの経緯にまで踏み込んで語る書物である。現時点でNAMについての唯一信頼できる大量の情報を含んでいるだけでなく、今世紀初頭の思想界の状況を活写しているという点からも興味深い。

 著者は当時NAMに参加して一メンバーとして運動していた。NAMの特徴のひとつに対面にこだわらず──というより積極的に避け──方針決定をほぼメーリングリストで行っていたことがある。だからNAMで活動するとは日々配信される大量のメールを読み、そこで行われている多様な議論に参加することだった。著者はそうしたメールを多数引用することで、NAMで何が行われていたかを内側から描き出すことに成功している。これはNAM会員であったからこそできたことだ。

 実は評者もNAMに加わっていた。だから本書には私の名前も何度か登場する。読み進めながらさまざまな思い出と感情が去来するのを抑えることができなかった。しかしそれとは別に、創設までの関西での動きや崩壊に至る末期の複雑な対立をはじめて明瞭に理解することができた。NAMはメールでのやりとりを主な活動としていたが、当然メールには出てこない部分がある。そして東京と関西という二つの中心があったせいで、自分の周辺以外で何が起こっているのかよくわからなかった。当時同じように感じていた会員はたくさんいたと思う。幹部たちの意見が衝突し、相次ぐ方針転換が表明され、いきなり沸き起こった議論の嵐に翻弄されているうちに、突如として解散が宣言されたのだ。

 それではNAMはどのような運動だったのか。

 NAMは「資本と国家の揚棄」という壮大な目標を掲げていた。揚棄、すなわちアウフヘーベンであり古い形態を脱ぎ捨ててより優れたありかたへ変化していくことだ。そのために国家と資本への対抗運動を広げるのだとされた。具体的にはそれはフリースクールだったり有機農業だったりさまざまな形がありえたが、期待されていたのはQというネット上の仮想通貨だった。

 さらに組織形態に特徴があった。メンバーは同時に三つのグループに多重所属するのだとされた。自分が暮らす地域ごとのグループ「地域系」、興味があるテーマごとの「関心系」、学生や退職者などの「階層系」。各自がそれぞれのグループで自由に発話し議論することで、そこからさまざまなプロジェクトが生まれてくると見込まれた。グループでは皆平等であり、自分の興味やリソースに従って適切な対抗運動にたずさわればいい。NAM本体はそうした多様な対抗運動をつなぐ会議体であり、具体的な運動の孵卵器として位置付けられていた。また権力の固定化を防ぐためにトップのくじ引きが導入された。

 NAMの理念は柄谷行人が『トランスクリティーク』(二〇〇一)で主張した交換様式の議論に基づいている。柄谷はそこから導かれた指針を『NAMの原理』(二〇〇一年)として発表している。「NAMは、資本と国家への対抗運動を組織する。それはトランスナショナルな「消費者としての労働者」の運動である。それは資本制経済の内側と外側でなされる。もちろん、資本制経済の外部に立つことはできない。ゆえに、外側とは、非資本制的な生産と消費のアソシエーションを組織するということ、内側とは、資本への対抗の場を、流通(消費)過程におくということを意味する」。資本制から出ていくための協同組合、資本制の内側で抵抗するための消費者運動、それらを「非暴力」的な形で編み上げていく。

「原理」の言葉は明快で美しい。しかし、私はNAMにいたときのとりとめのない無為の感覚を思い出す。国家と資本の揚棄というめまいのするような目標を前にして具体的に何をしたらいいかわからなかった。倫理的起業? フェアトレード? 生産者組合? 以前から地べたを這うような社会運動に関わってきた人もいたが、大多数の会員は何の運動経験もない世間知らずの素人集団だった(まさに私自身ちょっぴり現代思想をかじっただけの大学院生だった)。誰もが戸惑い、手をこまねいているうちに、仮想通貨Qこそが最重要のプロジェクトであると打ち出され、NAM全体がそれに夢中になった。そして、Qの限界にみんなが気付き出したころ、Qの運営部門とNAM指導部の対立が起こり、そのまま組織の全体に波及した。

 その混乱を具体的な個人名や日付とともに描き切った部分が本書の白眉だろう。それははっきり言って些細でくだらない軋轢の連続である。当時の実感としてそうだったし、今詳細な経緯を読んでも嘆息を禁じ得ない。

 資本主義の終わりを想像するよりも世界の終わりを想像する方が容易いという「資本主義リアリズム」(マーク・フィッシャー)からすれば、NAMの試みはドン・キホーテ的な愚行だったと見えるだろう。また本書が詳述するように、その内実はなんともショボいものだった。しかし崩壊から二十年の間、歴史を画するような運動や現象を目撃するたびに何度もNAMのことを思い出したのも事実だ。ネットを通じた社会運動(アラブの春、二〇一〇年)、金融資本主義への抵抗(オキュパイ・ウォール・ストリート、二〇一一年)、国家に帰属しない仮想通貨(ビットコイン)、反グローバリゼーションを掲げるトランプ政権の成立(二〇一六年)、どれもこれもNAMで交わされていた終わりのない議論を想起させた。NAMで自分たちが稚拙なやり方で手探りしていたテーマが、今現実の嵐となって世界を震撼させている、そう思った。そうした重要な問題意識をNAMが社会運動へ接続できなかったことがとても残念だ。

 奇しくも「NAMの原理」が再録された柄谷行人本人によるNAM総括とも言える『ニュー・アソシエーショニスト宣言』が今年二月に発売されている。これからの社会運動に興味がある人は、ぜひこの二冊を読み比べてNAMを歴史化してもらいたい。(くらかず・しげる=作家)

★よしなが・たけし
=元NAM関心系LETS連絡責任者。