第143話 もう一つの戦い 後編*
「アンジェさば!」
鼻づまったような聞こえにくい声で、背中からそう話しかけられた時、アンジェは相変わらず歩いていた。
「ん?」
アンジェは振り向いた。
そこには顔を腫らした騎士がいた。
ユーニィだ。
「おまっ……どうしたその顔は!!」
彼は目と鼻に大きな青あざをこしらえていた。
見るからに、殴られたあとだ。
鼻からは血が溢れているようで、真っ赤になったハンカチでしきりに鼻の穴を擦っていた。
「まさか……」
アンジェは、驚きもないままに言った。
驚かなかったのは、頭の中で一瞬で組み上がった論理の帰結が、あまりにも取るに足らぬ、くだらないものだったからだ。
それは、よほどの馬鹿にでも可能な推論であり、従って、子どもにも分かる問題の正解が分かった程度の驚きしかなかった。
霞が晴れてきた頭で思ったのは、それに今の今まで気づかなかった自分への驚きであった。
ユーニィは、血まみれのハンカチを鼻に当てると、ブッ――とかんで、無理矢理に鼻を通した。
「申し訳ありませんッ! あの二人を、挺身騎士団どもに奪われてしまいました」
*****
馬に乗ったアンジェが急行し、そこで見たのは、なにもかもが手遅れな状況であった。
死体が二つ。
死体は、二つの木でお互いを見つめながら、吊るされていた。
裸に剥かれた上、爪を持つ獣が戯れに殺した肉のように、体中をズタズタに引き裂かれていた。
親子ともそうであった。
今まさに生きたまま嬲り殺しにされ、まだ肌が瑞々しい屍体は、目を開けたままぶらさがっている。
ついさっき話をした子どもの屍体を見た時、アンジェは思わず吐き気を催した。
「うっ……」
吐き気を堪え、口を覆う。
「おや、どうしました? アンジェリカ殿」
近くにいたエピタフが言った。
というより、エピタフは休憩中であり、この残忍な絵を鑑賞しながら休んでいたようであった。
「なぜ、このようなことを……」
「ああ、貴方の部下のことなら謝ります。ですが、わけのわからない事を言っていたのですよ。悪魔を無事送り届けるとか、なんとか……」
「ええ、そう命じました。私の不手際です」
あんな簡単なことに思い至らなかった自分が情けない。
ああなるくらいであれば、いっそ森の中で通り過ぎるのを待っていろとでも言っておいた方が良かった。
そちらのほうが、万倍も安全だったろう。
単純に、彼女らの進路に挺身騎士団がいることが、頭から抜けていたのだ。
「命令の不備は良くないが、仕方がないですね」
やはり、エピタフは勘違いをしていた。
「いいえ、そうではありません。私は彼らを無事に逃したかった。私の不手際は、あなたがたの存在を忘れてしまっていたことです」
「まさか、生かして通すつもりだったのですか?」
「その通りです。だがあなた方は私の騎士を殴り、護送していた彼女らを殺してしまった」
アンジェがそう言うと、エピタフは困ったような顔をした。
「やれやれ、アンジェリカ殿は悪魔どもに感化されすぎているようだ」
「私は同情しているわけではない。無意味な残酷を起こしたくなかっただけです」
「無意味……? これだけのことでも、見せしめになります」
「見せしめになると思っているということは、彼らにも心があるとは認めているわけでしょう。それなのに、貴方はこういった残酷をする。これまでもしてきた」
アンジェは、道中で見てきたエピタフの凶行を思い出していた。
戦に負けた腹いせのように、置いていかれた死体を切り刻み、今のように飾っていた。
もっとも、それはいい。
既に死んだあとのことで、彼らの人生はそこで終わっているし、死体が切り刻まれようと彼らが痛がるわけではない。
だが、彼女らは……恐らくは違うだろう。
「あなたの趣味でぶらさげてきた、年若い敵兵たち。敵の騎兵があれほど激しい追撃戦をしてきたのは、あれを見たからだ。貴方一人の趣味のために、どれほどの兵を失うおつもりか」
「もう敵は追ってこないという判断には、貴方も同意されたはずでは?」
「私は現状の話をしているのではない。戦争の流儀の話をしている」
「流儀……? 戦争には流儀などありませんよ」
「これをしてしまえば、逆の立場になったとき、我らは絶やされても文句は言えません。敵が我らが領に迫り、無辜の民を殺しはじめようとも、慈悲を乞う資格もない」
「アンジェリカ殿、時が時なら異端審問ものですよ。そもそも、
アンジェリカは、ここ数日で何度も味わってきた、諦めに似た感覚をおぼえた。
話が通じない。
だめだ、この男は。
心が閉じている。
ここで喧嘩をしても意味がない。
「わかりました。だが、彼女らの遺体は我々で葬らせていただく。これを敵の目に晒されれば、この危難の状況をさらに悪化させる可能性がある。それは看過できません」
アンジェは適当に理由をくっつけた。
本当は、二言三言とはいえ話をした二人を、せめて埋めるだけでも弔ってやりたかった。
「いいでしょう。好きになさい」
目元に薄い不快感を滲ませながら、エピタフは言った。
*****
「アンジェ様、斥候の報告です。村を発見したそうです」
ギュスターヴがそう報告を伝えた時、アンジェは馬車に座っていた。
「そうか。今日はその村で夜営を張る。戸数は?」
「……五戸、ということです」
「そうか」
アンジェは、内心でがっかりしていた。
このあたりの土地は、人々が逃げ延びるのに使う主要道ではないため、食料が軒並み尽きているということはない。
だがその代わり、人家そのものがなかった。
初夏の今はそれほどの寒さも感じず、生存すら険しすぎる地域とは感じられないが、冬は凍てついた世界になるのだろう。
狩猟や耕作が成り立たないほどの極寒なのか、大多数が定住地を持たぬ遊牧生活を営んでいるのか……。
詳しいことは分かりかねたが、人家が少ないことだけは事実だった。
たかだか百五十余りの兵といえど、五軒の民家の食料……しかも冬を越した残りの食料では、百五十の腹を満たせるはずもない。
こういったときは、猟師あがりの弓兵などに野生動物を狩らせれば、食料の足しにできたりもするものだが、精鋭を集めてきたのが逆に災いし、生きるに長けた術を持った徴募兵の類がいなかった。
犬に追い立てられてきた狐を射る程度の経験では、まったく見知らぬ土地の野生動物を狩るのは難しい。
「アンジェ様、歩くのはおやめに?」
ギュスターヴが、少し嬉しそうな様子で聞いた。
やはり、苦しげに足を引きずって歩いているよりも、素直に馬車に座っていたほうが嬉しいのだろう。
「ああ、やめた」
「なぜなのか、聞いてもよろしいでしょうか」
「私は、今日判断を一つ誤った。意地を張って歩いたせいで、まともな判断ができなくなっていたからだ。将たる者は常に意識を明瞭にしておらねばならぬ。無理をしてでも歩くのが仕事ではないと知った」
「ご立派でございます。このギュスターヴ、感銘いたしました」
ギュスターヴは、なにやら脱帽した様子で頭を下げた。
だが、アンジェのほうは、まったくさっぱり感銘してはいなかった。
ただただ、自分に失望するばかりだ。
自分は才気溢れる者だったと信じていたが、どうやら違ったらしい。
無能であれば、せめて如才なくいれば良いものを、あのように噛み付いてしまった。
ここで教皇領と対立しても得なことは何一つないというのに。
自分を止める自制心すらなかった。
呆れるばかりだ。
「お前も、このアンジェを見限りたくなったろう。これが終わったら、離れてもよい」
「はて」
「私はどうやら、それほどの人物ではなかったらしい」
アンジェがそう言うと、ギュスターヴは鼻で笑った。
「ふっ、若者らしい挫折を味わっておられる」
「……そうだな」
挫折とは思っていなかったが、言われてみれば挫折なのかもしれなかった。
「少し厳しいことを言ってもよろしいでしょうか?」
「勝手にするがいい」
「我々は、たかが十八歳の小娘の判断に、さほどの期待はしておりませぬよ」
ギュスターブの言葉は、内容に反して優しげな声色だった。
「……そうか」
「たかだか十八かそこらで、神の如き名将たりえるなどという人間が、この世にあるとお思いですか?」
どうだろう。
十八歳にして既に百戦を率いた、というのは流石に聞いたことがないし、難しいところだろう。
「アンジェ様はお若い。ですから、未熟なのは当たり前です。そんなことは、皆分かっております。皆が期待しておるのは、成長でございます。教訓を得て戻れば、アンジェ様ならば必ず秀でた名将、名君になってくださる。皆、そう考えておるからここにおるのです。でなければ、誰も一回りも年下の少女に命など預けますまい」
「………」
アンジェは答えられなかった。
感極まって、しかし涙してはならぬと自分に言い聞かせていた。
今のアンジェの配下には、父代の者は少ないが、父に近く仕えていた者たちの子弟は多い。
彼らは、アンジェを自分たちの王と見なし、ついてきてくれている。
「失礼を申し上げました。それでは、少し仕事が残っていますので」
ギュスターブは、アンジェの視界に入らぬよう後方に消えた。
自分は、なんという身に余る献身を受けているのだろう。
だが、その献身に応えるすべを、アンジェは持っていない。
ギュスターヴの言うとおり、成長することで応えればよいのだろうか?
そもそも、自分に、そのような将器がほんとうにあるのだろうか?
あるのだろう。
もしなくとも、努力をして嘘を真にせねばならない。
アンジェリカ・サクラメンタは、目尻に浮いた涙を、汚れた手で拭った。