第137話 追う者、逃げる者*
号令が染み透ると、まず正面の挺身騎士団が列を組みはじめた。
「ヤッコ、ギリナン! 両翼に伝令、全力で森を進み、防壁両翼から包み込むように攻撃に加われ、と伝えろ! 行け!」
アンジェは、伝令に残しておいた
「ハッ!」
「直ちに!」
ヤッコとギリナンは、飛ぶように駆け、両翼の森の中へと消えてゆく。
その間にも、またたく間に列を整えた挺身騎士団が、各長の号令の下、行進するように前進していった。
隊形がアンジェを残して進みはじめ、集団の最後尾に至った時、アンジェはようやく馬を進めはじめた。
隊の速度が考えていたより遅い。
決して悪いわけではないが、感覚と合わず、知らぬ兵を使っている、というのが実感できる。
アンジェが手ずから教練した兵ではないので、当然であった。
手足のように動かせるわけではない。
ただ、行けと命じれば行くし、退けといえば退く。
程度が非常に良い傭兵と考えれば良いのかもしれない。
少し待ち、挺身騎士団が五十歩ほど前進した時、再び銃声が鳴った。
最前線にある兵が一人斃れる。
腹を撃たれたようだが、この距離で鎧が鎖帷子だけでは、弾は防げない。
挺身騎士団はまったく怯む様子もなく、機械的に穴を埋め、前進していった。
その間にも、かなり早いペースで発砲が行われてゆく。
が、早いといっても、やはり銃は一丁しかないらしく、大勢を覆すわけではない。
そして、更に二十歩ほど進んだ時、
「総員、突撃せよ!!」
とアンジェは叫んだ。
「
将官格が叫び、
「
兵隊が応答した。
話には聞いていたが、初めて聞いた。
挺身騎士団が突撃の時に発するという、特徴的な号令だ。
「オオオオオオォォォ!!!!」
雄叫びとともに、挺身騎士団は一斉に駆け出した。
あっという間に距離を縮め、防壁に取り付くと、一斉に丸太に足をかけ、乗り越えてゆく。
防壁は胸ほどの高さしかなく、乗り越えるのは容易だ。
が、乗り越えた瞬間、下から突き上げられるように、後ろへつんのめった。
防壁の影で、敵がしゃがみこんで待ち構えており、体ごと飛び上がるようにして槍を突き込んだのであろう。
最前列を突き崩したあとは、敵兵たちは防壁の上に乗り、上から下へと槍を突き刺し始めた。
「攻め続けよ!」
ここまで近づけば分かるが、敵勢は厚みがない。
おそらく、五十人前後しかいないのではないか。
その殆どは防壁の両脇を固めており、迂回を防ぐことに専念している。
防壁を守っているのは、更に少ない。
防壁での防衛が上手くいったとしても、左右から攻撃の手が入れば、耐えられるわけがない。
が、そこで敵勢は、妙なことを始めた。
列となった兵士の一人が、裏手から出てきた男と交代したと思うと、鍋のようなものをあおりかけるように振り、騎士団員の頭上に液体を降らせたのだ。
「ああああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛――――!!!」
ここまで聞こえるような絶叫が聞こえた。
それで、何をされたのか、すぐに分かった。
熱した油だ。
大ぶりの鍋はそのまま此方に投げつけられ、残った油を散らしながら、一人の者の兜をしたたかに打った。
グワワワァン、と銅鑼を鳴らしたような音がした。
「怯むな! 進めェ!!」
前線の長たちが激励する。
もう一度防壁から鍋を持った者が現れるが、今度は後ろの者が前列の者の
直撃は免れたようだ。
が、それからはうって変わって攻め手に勢いがなくなった。
熱した油に恐れをなしたのではない。
丸太で作った防壁全体に、油が巻いてしまったのだ。
今まで一足で八分まで乗り越えられていたものが、五分までしか乗り越えられていない。
乗り越える手足にも油が移ってしまっているので、ズルズルと滑ってしまっているようだ。
敵の面前でそんなことをしていれば、良い的であった。
ざくざくと、
アンジェは、チッ、と思わず舌打ちをした。
明らかに弱兵としか思えぬ連中に、強兵が串刺しにされている。
たまらず、兵を押しのけるように強引に馬を進めた。
「どうしたァ! 青史に名高い挺身騎士団の武勇とは、そんなものかァ!!」
精一杯の声を張り上げた。
「その程度の壁、先頭の尻を押してでも乗り越えてみせよ!!」
そう言いつつ、防壁の両脇を見ると、人が重なって見えにくいが、木と木の間に太い針金が巡らしてあるのが見えた。
針金が張ってある高さは腰丈程度だったが、それが逆に悪い。
頑張れば乗り越えられそうで、かつ下をくぐって通るのにはギリギリ
そのせいで、大きく迂回するにしても踏ん切りがつかず、中途半端に押し通ることに拘泥してしまい、針金を境とした遅々とした攻防戦になってしまっている。
たかが針金一本張られただけで、こうなってしまうのか。
よく考えられている。
感心するほどに。
だが、もはやアンジェの手勢も両脇を侵攻しつつある。
針金がどれほど遠大に張ってあるか知らぬが、敵もいない状況ならば切断できぬということもあるまい。
どう考えても、突破できぬはずはない。
アンジェは、そのまま前進していった。
「退け、退けええぇ――ッ!!」
戦場の怒号の隙間から、一筋のシャン語がアンジェの耳に飛び込んできたのは、その時であった。
アンジェは、ほとんど反射的に、
「敵は退くぞ! 追い上げよ!」
と叫んだ。
その時だった。
ある男が防壁の
酒瓶が割れた瞬間、物凄い勢いで火が包み込む。
これは、鷲から落とされたものと同じ兵器だ。
アンジェは瞬時にそう思い、同時に、こちらの兵の攻め手が鈍る、とも思った。
目の前で
また、純粋に火は熱いので、そこに突っ込むというわけにはいかない。
兵を叱咤するため、アンジェは鞘に収めていた剣を抜こうと、目を腰元に移した。
「姫!」
副官の声が聞こえた。
とっさに前を見ると、先程瓶を使った男が、そのままそこにいた。
片足をかけて防壁に立っている。
半身になり、構えているのは銃であった。
目の前に居て、彼を突き殺すはずの兵は、今まさに火にまかれて、踊るように狂っている。
銃口が丸く見えると同時に、脇腹の
同時に、頭に強い衝撃を受け、アンジェの意識は絶たれた。
*****
「――めっ! 姫様っ!」
「んっ――」
アンジェの目が開き、視界に見慣れた顔が飛び込んでくる。
「どうした……? ギュスターヴ……」
副長の名前をつぶやいていた。
「姫様、意識ははっきりしておられますか?」
「姫扱いはやめろと……言っておるのに……」
「申し訳ない。ですが、今は戦争中でございます」
戦争。
その単語を聞いた途端、頭がはっきりしてきた。
頭がずきずきと痛んでいる。
「うっ……どうなっている」
「頭に被弾したのでございます。ですが、弾は兜が弾きました」
頭の感覚から判断するに、兜は脱がされ、代わりに包帯が巻かれているようであった。
鈍痛がする。
「起きないでくださいっ!」
アンジェが起き上がろうとすると、ギュスターヴが止めた。
「大丈夫だ……なんとかな」
アンジェはそのまま上体を起こしたが、目眩がするわけではない。
「本当でございますか」
「ああ」
痛みの元は、額の左、髪の生え際の当たりにあるらしい。
そこを元に酷い鈍痛があり、脳も揺れているような朦朧とした気分だが……気を失うほどではない。
歩けないほどの体調不良も、感じない。
鼻や耳を手でさわっても、幸い何も出ていなかった。
頭蓋を割られた場合、鼻や耳から血や粘液が出て来ると聞く。
耳に水が入った時のように、首を傾げてトントンと耳を打ってみたが、液体が漏れ出てくる感覚はない。
大丈夫なようだ。
ギュスターヴが差し出した手を掴み、立ち上がった。
「どのくらい寝ていた」
「三分ほどです」
「クッ……」
三分というのは、短いようで長い。
特に戦況の転換期においては。
戦場に目を移す。
目の前に、ぼうぼうと燃える盛大な焚き火があるのを、アンジェは呆然とした目でみつめた。
あぁ、油が巻いた防壁に、火が移って燃えさかっているのだ、とすぐに察する。
鼻を使うと、火にかけすぎた油鍋のような、揮発した油の独特な臭いがした。
挺身騎士団の連中は、焚き火を乗り越えることはできないので、左右を大きく迂回して進もうとしているが、こちら側にまだ残りがいるようだ。
「包囲は、どうした」
「敵は射撃の後、風のように引きました。両脇から襲った分隊をかわすと、転身して攻撃に移り――今、向こう側は混乱しているようです」
全部、何から何までお見通しだったのか……。
教科書通りにやったものを、一つ一つ丁寧に逆手に取られてしまった感じだ。
号令によって一斉に突っ込んだものをかわされれば、横からの攻撃に対しては陣が整っていない。
叩かれれば容易に混乱してしまう。
「指揮をしに行く」
「……ハッ」
ギュスターヴは少し迷ったそぶりを見せたが、敬礼をした。
アンジェとて、悔しくないわけではない。
意趣返しをしてやりたい。
そのためには、敵を追い詰めればよいのだ。
橋が無事だというが、今は使えないのだろう。
恐らくは、大量の難民が渡り終えるのを待っているのだ。
でなかったら、こんなところで防衛戦をする必要はない。
後ろに何も守るものがないのであれば、こんな戦闘は無意味なのだから。
つまり、引きしろは無限にあるわけではない。
そして、追うためには兵を混乱から救わねばならない。
「また銃に撃たれぬとも限りませぬ。あまり先頭に近づかぬよう」
「わかっている!」
アンジェは、副官が捕まえていてくれた馬にひらりと跨ると、進みはじめた。
頭には、未だ激しい鈍痛があった。