▼行間 ▼メニューバー
ブックマーク登録する場合はログインしてください。
亡びの国の征服者~魔王は世界を征服するようです~ 作者:不手折家

第十章 帰路編

142/287

第136話 走る伝令*

 ヒイィィィィ――――――……。


 と、尾を引くような音を残しながら、鏑矢の音が聞こえて消えた。

 この矢は、アンジェが射たものではない。

 北方から射られてきたものだ。


「良し、射よ」


 アンジェがそう下令すると、部下の者が「ハッ」と頷き、長弓に鏑矢をつがえた。

 引き絞ると、弦をはなした。


 ピイッとけたたましい音が一瞬聞こえ、バキッという音とともに絶えた。

 太い枝に当たって、矢が折れてしまったのだ。


「なにをやっておる」


 アンジェはクスリと笑いながら、部下を叱った。


「す、すみません」

 慌てた様子で頭を下げてくる。

「まだ四本ある。落ち着いてやれ」


 部下がもう一度射放つと、今度の鏑矢は見事に森を抜け、ピイイッ――――と音を伸ばしていった。


 暫くすると、エピタフのいる本陣のほうから、鏑矢の音が聞こえた。

 音が聞こえた、という返答だ。


 こちらから山の方へ最後の鏑矢を射放つと、準備は整った。


 アンジェは、鞍を掴みながら鐙に足をかけ、介助なしにひらりと馬にまたがる。

 アンジェが身につけているのは、外套(サーコート)の下には軽い細目の鎖帷子だけだ。

 あとは軽量の金属兜と、戦場で女を隠すための薄布が鼻部から下を覆っている。


 纏っているのはそれだけで、板金鎧を身にまとっている時と比べれば、身軽なものだった。


「進軍を開始する。小休止をやめさせよ」

「了解――休憩終了! 全軍、前進の準備をせよ!!」


 副官が大声で号令をかけ、皆が動きはじめた。



 *****



 部隊を前進させ、発見した敵の前線陣地には、木材で作った簡易な柵……といっても、大小様々な木をただ積んだだけの防壁があった。

 形だけ作ったもので、こちらに向かって尖った木枝が突き立っているわけでもなく、容易に乗り越えられそうだ。


 そこからかなり遠くに、道路を縦断するように、一本の太い白線が引いてあった。

 なんらかの目印なのだろう。

 石灰粉だろうか?


「五十歩前進せよ」

「五十歩前進せよ!」


 アンジェの言葉を副官が大声で復唱し、隊は動き始めた。

 そして、白線にかかるかかからぬか、というところで、銃声が鳴った。


 遠雷のような発砲音が聞こえたかと思うと、次の刹那、カァン! と小気味いい音が聞こえた。

 挺身騎士団から借りた兵の頭が弾け、その場に倒れる。


「止まれっ!」


 そう大声で号令をかけると、副官の復唱を待たず、全隊が停止した。

 唯一馬上にあるアンジェから見ると、止まった兵のうち最前線にいる者が、しゃがみこんで兵を世話しているのが見えた。


 撃たれた騎士団員は、さすが精鋭だけあって、目を覚ますように頭を振りながら、起き上がった。

 彼らは板金鎧こそ着ていないが、兜を被り、鎖帷子を纏っている。


 撃ったところから、ここまでの距離は、ゆうに百歩はある。

 肉に当たれば弾け飛ぶ距離ではあるが、兜を貫ける距離ではない。

 空気に乗って飛ぶ矢と違い、丸い(つぶて)を射放つ鉄砲は、初速は早くとも距離での減速が著しい。


 恐らくは、敵方の銃は、こちらの物を奪った……つまりは鹵獲品だろう。

 殺された斥候が持っていたものかもしれない。


「ふむ……」

「射掛けてきませんな」


 今回の遠征にあたって、副長を勤めているギュスターヴ・オルデナントが、老年にさしかかったしゃがれ声で言った。

 ギュスターヴは、父の代……つまりレーニツヒト・サクラメンタに仕え、そのままアンジェリカの家臣になった男である。


 射掛けてこない、というのは、続けて発砲してこない、という意味だろう。

 続けて射掛けてくるなら、突撃なりなんなりする必要があるが、そうではない、ということだ。


 もちろん、こちらにも銃はある。

 だが、もう少し近づいて銃撃戦をするというのは、無理な話だった。

 敵が築いている防壁は、もちろん銃弾を通さないが、こちらは丸裸で盾も用意してきていない。

 こちらが消耗するばかりの展開となる。


 もっとも、百歩という距離は、銃撃戦をするにしても遠すぎた。

 敵は豆粒ほどにしか見えないし、そんな小さな標的を狙うのは無理がある。

 さっきは偶然命中したようだが、一般的に見て、これほど距離が離れていては双方弾と火薬を浪費するだけで、じれったいダラダラとした戦闘になる。


 それならば、壁を乗り越え刃を交えるため、突撃の命令を下せば良い。

 が、アンジェに任された仕事はそれではなかった。


 アンジェの仕事は、エピタフが担当する本隊が押しに押し上げ、()()()()()()部隊を逃げ散らぬよう抑えることであって、こちらから敵に戦いを挑み、彼らを撃破することではない。

 それに専心すれば、金髪が万一森に逃げた時に手が足らず、逃げ漏らす怖れがある。


 どれだけ戦闘で勝利しようとも、それを逃してしまってはなんの意味もない。

 アンジェがここに居るのは、肝心の標的を万が一にも取り逃がさないためなのだ。


 つまりは、ここで部隊の前進を止め、敵の動きを待ちつつ森の中に部隊を広げ、用意を万端にしておくのが正解であろう。


「我が部隊は、打ち合わせ通り両翼に浸出せよ。挺身騎士らは前進せず、この場に残れ」


 アンジェは、以心伝心の行き届いた部下を森に置き、手元に借り物の兵を残すことにした。



 *****



 ヒィィ―――、と、また鏑矢の音がした。


「先程から何なのだ。ギュスターヴ、なにか聞いているか?」

 少し苛立った声で、アンジェは言った。

「いいえ、聞いておりませぬ」


 待ち構えるように鎌のような陣を敷いたアンジェは、エピタフ率いる本陣からやたらと飛来する鏑矢の音に、不安を感じていた。


 アンジェは、エピタフとの間で、鏑矢の回数や種類で符丁をつくるとか、二度目の鏑矢はこういう意味だとか、そういった打ち合わせは全くしていない。

 それなのに、鏑矢はやたらと鳴り響いてくる。


 つまりは、鏑矢の音が何度聞こえても、まったく意味がわからないのであった。

 最初の2~3回は、もしやかして伝達が不備に終わっているのを怖れて、念のために射ているのか、と思ったのだが、ここ三十分ほどの間に、鏑矢の音は10回ほども聞こえてきていた。


 なにやら不穏なものを感じる。

 しかし、戦力差から言って、エピタフの本隊がなにかしらの危機に瀕するというのは、少し考え難い。


 だが、戦場では何が起こるかわからない。

 父が言っていた言葉であった。


 千、二千という数の騎兵が大挙坂を登ってきて、疾風のように背中を突いた、というような可能性も、考えられないではない。

 敵が橋を落とし、退路を断ったのも、そういった勝算あってのことなのかも。


「分からん。彼らは危機を伝えているのだろうか……」


 矢の音だけでは、危機を伝えているのか、援軍を求めているのか、そんなことは分かりようもなかった。


(わたくし)にも分かりませぬ。ただ、寄せてくるはずの敵は、焦ってもおらぬ様子」

 副長のギュスターヴが言った。

「まだ早い。エピタフ殿が突撃なさってから、まだいくらも時間が経っていない」


 怒涛の勢いで前線を崩し、即座に敵の潰走が始まったとすれば、そろそろ()()()されるようにして、こちらに飛び出してきていてもおかしくはない。

 だが、そう簡単に突き崩せているとも限らない。


 まだ敵が出てこない、というのは、不思議ではなかった。


「そうですな」


 ギュスターヴは、さすが色々な戦闘の局面を経験してきただけあって、アンジェの言いたいことはすぐに察したようであった。


「どう思う?」

 と意見を求めると、

(わたくし)には、判断できかねます」

 と、ギュスターヴは言った。


「そう、か……」


 その瞬間、アンジェの心を不安が撫でた。

 大勢の人命を生死の現場に立たせているというのに、正確な判断を下せる確証がない。


 判断の正誤が運任せになってしまう。

 領地経営でやってきた様々な判断とは違い、失敗に取り返しがつかない。


 それは、圧倒的な現実感を伴う、始めての経験であった。


「我らはアンジェリカ様の命に従うのみです。もし誤断の結果死せるとも、誰一人不満には思いませぬ」


 ギュスターヴは、歴戦の猛者だけあって、アンジェの心情を見透かすように言った。


「……そうか」


 だからこそ、全員に勝利の栄誉を持たせてやった上で帰りたい。

 だが、戦争での勝利とは、多かれ少なかれ人命の犠牲を引き換えにして得るものなのだ。


「だが、アンジェリカ様はやめろ……、何回言わせる」


 とアンジェが言った時だった。


「伝令! 伝令ーーーっ!」


 大声で叫びながら、森の中から現れた人影があった。



 *****



 叫びながら出てきた男が、森を抜け全身を晒すと、あろうことかズボンのほかは、上半身は肌着しかきていなかった。

 走るのに邪魔になるものを全て脱ぎ捨て、今まさに走ってきたのだろう。


 伝令は、アンジェの姿を認めると、立ち止まり、しかし耐えきれぬ様子で膝をゆるめた。

 崩れ落ちそうな膝に両手をかけ、お辞儀をするように腰を曲げ、必死に息を整えている。


「ハァ、ハァ、ハァ」

「ど、どうした。落ち着かれよ」

 アンジェは言った。


「はぁ、大司馬殿から、今すぐ」


 男は息を荒げながら、片手でまっすぐ左を指差した。

 そちらには、今も見えているが、敵方が作った急作りの防壁がある。


「攻めよ、と」


「なに……」

「ハァ、ハァ」


 男は息を荒くしている。

 血の気が引いてしまっているのか、今にも倒れそうだ。


「疲れているところすまないが、もう少し詳しく頼めぬか。何があった」

「はっ……おえっ」


 男は、げろげろとその場で吐瀉をはじめた。

 (いくさ)の前に腹に入れたらしい食事が、汚物となって足元に落ちてゆく。


 限界を超えて、森の中を走ってきたのだろう。

 途中幾度転んだのか、上の肌着は汗と泥で汚れ、何箇所か裂けた皮膚からは血が出ていた。


 男は、手の甲で口についた吐瀉物を拭った。


「しっ、失礼、を……」

「構わぬ。貴殿は十二分に任務を果たしておられる」

「……大司馬殿は、詐計(さけい)であったと。敵は今も、橋を渡っている、すぐさま攻め寄せよ、と言っておられました」


 アンジェは、頭の中に冷えた刃が刺さったような思いがした。

 斥候の無能に対する憤怒が頭を満たし、次いで冷静な思考力が疑問を産んだ。


 いや、橋が燃えていた、というのは事実のはずだ。

 教皇領の精鋭が務める斥候が、それを見誤るはずもない。

 敵方に転んでいて、故意に誤報告をした、という可能性も絶無だろう。


 いや、そんなことを考えている場合ではない。


「敵は、()らなかったのです。防壁に立っていたのは、斥候の屍体でありました。鎧を着せ替えた……」


 アンジェは、首を返して、自分が対面しているほうの防壁を見た。

 そこでは、人影が動いている。


 南方異端(ブードゥー)屍人(ゾンビー)のような存在でなければ、こちらはカカシではないのだろう。


「ご苦労であった。別命ないなら、貴殿はそのまま休んでおれ」

 アンジェは男をねぎらうと、


「大司馬から緊急の命である!! これより我々は前進する!!」


 馬をゆっくりと一回転巡らしながら、声を張り上げた。

 そして、剣を抜き、射抜くように道の先を指し示した。


「進めェ!!」



 *****



 そして、馬を進ませようと、(あぶみ)で腹を叩こうとした時だった。

 足を掴まれ、それを阻止された。


「姫様、お待ち下さいッ!」

 ギュスターヴであった。


「なんだッ!?」


 アンジェは馬を押しとどめながら返す。


「この小勢の上、敵は銃を持っています! 加えて、姫様は甲冑を置いて参られたでしょう!」


 確かに、アンジェは薄手の金属兜の他は、外套(サーコート)の下にこれまた細目の鎖帷子を羽織っているだけであった。

 顔の半分を女を隠すための黒布で覆っているが、鋼の面頬と違って防御効果はない。

 この行軍では、厚目の板金鎧などは、エピタフを除いては全員が船に置いてきたのだ。


「こちらで馬に乗っているのは姫様のみ! あまりに危険すぎます」


 馬は森の中を進むには比較的不向きなので、本隊からは騎馬隊は着いてきていなかった。

 つまりは、この別働隊の中では、アンジェだけが馬上にあり、体一つ分ほども高い。


「構わぬ!」

「では、せめて前線に出るのはお控えくだされ!」

「くッ――」


 ”うるさい、黙れ”と言いかけた。

 が、アンジェはギュスターヴの発言に一理あることに思い至り、喉元でそれを押しとどめた。

  • ブックマークに追加
ブックマーク登録する場合はログインしてください。
ポイントを入れて作者を応援しましょう!
評価をするにはログインしてください。

感想を書く場合はログインしてください。
+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。