第136話 走る伝令*
ヒイィィィィ――――――……。
と、尾を引くような音を残しながら、鏑矢の音が聞こえて消えた。
この矢は、アンジェが射たものではない。
北方から射られてきたものだ。
「良し、射よ」
アンジェがそう下令すると、部下の者が「ハッ」と頷き、長弓に鏑矢をつがえた。
引き絞ると、弦をはなした。
ピイッとけたたましい音が一瞬聞こえ、バキッという音とともに絶えた。
太い枝に当たって、矢が折れてしまったのだ。
「なにをやっておる」
アンジェはクスリと笑いながら、部下を叱った。
「す、すみません」
慌てた様子で頭を下げてくる。
「まだ四本ある。落ち着いてやれ」
部下がもう一度射放つと、今度の鏑矢は見事に森を抜け、ピイイッ――――と音を伸ばしていった。
暫くすると、エピタフのいる本陣のほうから、鏑矢の音が聞こえた。
音が聞こえた、という返答だ。
こちらから山の方へ最後の鏑矢を射放つと、準備は整った。
アンジェは、鞍を掴みながら鐙に足をかけ、介助なしにひらりと馬にまたがる。
アンジェが身につけているのは、
あとは軽量の金属兜と、戦場で女を隠すための薄布が鼻部から下を覆っている。
纏っているのはそれだけで、板金鎧を身にまとっている時と比べれば、身軽なものだった。
「進軍を開始する。小休止をやめさせよ」
「了解――休憩終了! 全軍、前進の準備をせよ!!」
副官が大声で号令をかけ、皆が動きはじめた。
*****
部隊を前進させ、発見した敵の前線陣地には、木材で作った簡易な柵……といっても、大小様々な木をただ積んだだけの防壁があった。
形だけ作ったもので、こちらに向かって尖った木枝が突き立っているわけでもなく、容易に乗り越えられそうだ。
そこからかなり遠くに、道路を縦断するように、一本の太い白線が引いてあった。
なんらかの目印なのだろう。
石灰粉だろうか?
「五十歩前進せよ」
「五十歩前進せよ!」
アンジェの言葉を副官が大声で復唱し、隊は動き始めた。
そして、白線にかかるかかからぬか、というところで、銃声が鳴った。
遠雷のような発砲音が聞こえたかと思うと、次の刹那、カァン! と小気味いい音が聞こえた。
挺身騎士団から借りた兵の頭が弾け、その場に倒れる。
「止まれっ!」
そう大声で号令をかけると、副官の復唱を待たず、全隊が停止した。
唯一馬上にあるアンジェから見ると、止まった兵のうち最前線にいる者が、しゃがみこんで兵を世話しているのが見えた。
撃たれた騎士団員は、さすが精鋭だけあって、目を覚ますように頭を振りながら、起き上がった。
彼らは板金鎧こそ着ていないが、兜を被り、鎖帷子を纏っている。
撃ったところから、ここまでの距離は、ゆうに百歩はある。
肉に当たれば弾け飛ぶ距離ではあるが、兜を貫ける距離ではない。
空気に乗って飛ぶ矢と違い、丸い
恐らくは、敵方の銃は、こちらの物を奪った……つまりは鹵獲品だろう。
殺された斥候が持っていたものかもしれない。
「ふむ……」
「射掛けてきませんな」
今回の遠征にあたって、副長を勤めているギュスターヴ・オルデナントが、老年にさしかかったしゃがれ声で言った。
ギュスターヴは、父の代……つまりレーニツヒト・サクラメンタに仕え、そのままアンジェリカの家臣になった男である。
射掛けてこない、というのは、続けて発砲してこない、という意味だろう。
続けて射掛けてくるなら、突撃なりなんなりする必要があるが、そうではない、ということだ。
もちろん、こちらにも銃はある。
だが、もう少し近づいて銃撃戦をするというのは、無理な話だった。
敵が築いている防壁は、もちろん銃弾を通さないが、こちらは丸裸で盾も用意してきていない。
こちらが消耗するばかりの展開となる。
もっとも、百歩という距離は、銃撃戦をするにしても遠すぎた。
敵は豆粒ほどにしか見えないし、そんな小さな標的を狙うのは無理がある。
さっきは偶然命中したようだが、一般的に見て、これほど距離が離れていては双方弾と火薬を浪費するだけで、じれったいダラダラとした戦闘になる。
それならば、壁を乗り越え刃を交えるため、突撃の命令を下せば良い。
が、アンジェに任された仕事はそれではなかった。
アンジェの仕事は、エピタフが担当する本隊が押しに押し上げ、
それに専心すれば、金髪が万一森に逃げた時に手が足らず、逃げ漏らす怖れがある。
どれだけ戦闘で勝利しようとも、それを逃してしまってはなんの意味もない。
アンジェがここに居るのは、肝心の標的を万が一にも取り逃がさないためなのだ。
つまりは、ここで部隊の前進を止め、敵の動きを待ちつつ森の中に部隊を広げ、用意を万端にしておくのが正解であろう。
「我が部隊は、打ち合わせ通り両翼に浸出せよ。挺身騎士らは前進せず、この場に残れ」
アンジェは、以心伝心の行き届いた部下を森に置き、手元に借り物の兵を残すことにした。
*****
ヒィィ―――、と、また鏑矢の音がした。
「先程から何なのだ。ギュスターヴ、なにか聞いているか?」
少し苛立った声で、アンジェは言った。
「いいえ、聞いておりませぬ」
待ち構えるように鎌のような陣を敷いたアンジェは、エピタフ率いる本陣からやたらと飛来する鏑矢の音に、不安を感じていた。
アンジェは、エピタフとの間で、鏑矢の回数や種類で符丁をつくるとか、二度目の鏑矢はこういう意味だとか、そういった打ち合わせは全くしていない。
それなのに、鏑矢はやたらと鳴り響いてくる。
つまりは、鏑矢の音が何度聞こえても、まったく意味がわからないのであった。
最初の2~3回は、もしやかして伝達が不備に終わっているのを怖れて、念のために射ているのか、と思ったのだが、ここ三十分ほどの間に、鏑矢の音は10回ほども聞こえてきていた。
なにやら不穏なものを感じる。
しかし、戦力差から言って、エピタフの本隊がなにかしらの危機に瀕するというのは、少し考え難い。
だが、戦場では何が起こるかわからない。
父が言っていた言葉であった。
千、二千という数の騎兵が大挙坂を登ってきて、疾風のように背中を突いた、というような可能性も、考えられないではない。
敵が橋を落とし、退路を断ったのも、そういった勝算あってのことなのかも。
「分からん。彼らは危機を伝えているのだろうか……」
矢の音だけでは、危機を伝えているのか、援軍を求めているのか、そんなことは分かりようもなかった。
「
副長のギュスターヴが言った。
「まだ早い。エピタフ殿が突撃なさってから、まだいくらも時間が経っていない」
怒涛の勢いで前線を崩し、即座に敵の潰走が始まったとすれば、そろそろ
だが、そう簡単に突き崩せているとも限らない。
まだ敵が出てこない、というのは、不思議ではなかった。
「そうですな」
ギュスターヴは、さすが色々な戦闘の局面を経験してきただけあって、アンジェの言いたいことはすぐに察したようであった。
「どう思う?」
と意見を求めると、
「
と、ギュスターヴは言った。
「そう、か……」
その瞬間、アンジェの心を不安が撫でた。
大勢の人命を生死の現場に立たせているというのに、正確な判断を下せる確証がない。
判断の正誤が運任せになってしまう。
領地経営でやってきた様々な判断とは違い、失敗に取り返しがつかない。
それは、圧倒的な現実感を伴う、始めての経験であった。
「我らはアンジェリカ様の命に従うのみです。もし誤断の結果死せるとも、誰一人不満には思いませぬ」
ギュスターヴは、歴戦の猛者だけあって、アンジェの心情を見透かすように言った。
「……そうか」
だからこそ、全員に勝利の栄誉を持たせてやった上で帰りたい。
だが、戦争での勝利とは、多かれ少なかれ人命の犠牲を引き換えにして得るものなのだ。
「だが、アンジェリカ様はやめろ……、何回言わせる」
とアンジェが言った時だった。
「伝令! 伝令ーーーっ!」
大声で叫びながら、森の中から現れた人影があった。
*****
叫びながら出てきた男が、森を抜け全身を晒すと、あろうことかズボンのほかは、上半身は肌着しかきていなかった。
走るのに邪魔になるものを全て脱ぎ捨て、今まさに走ってきたのだろう。
伝令は、アンジェの姿を認めると、立ち止まり、しかし耐えきれぬ様子で膝をゆるめた。
崩れ落ちそうな膝に両手をかけ、お辞儀をするように腰を曲げ、必死に息を整えている。
「ハァ、ハァ、ハァ」
「ど、どうした。落ち着かれよ」
アンジェは言った。
「はぁ、大司馬殿から、今すぐ」
男は息を荒げながら、片手でまっすぐ左を指差した。
そちらには、今も見えているが、敵方が作った急作りの防壁がある。
「攻めよ、と」
「なに……」
「ハァ、ハァ」
男は息を荒くしている。
血の気が引いてしまっているのか、今にも倒れそうだ。
「疲れているところすまないが、もう少し詳しく頼めぬか。何があった」
「はっ……おえっ」
男は、げろげろとその場で吐瀉をはじめた。
限界を超えて、森の中を走ってきたのだろう。
途中幾度転んだのか、上の肌着は汗と泥で汚れ、何箇所か裂けた皮膚からは血が出ていた。
男は、手の甲で口についた吐瀉物を拭った。
「しっ、失礼、を……」
「構わぬ。貴殿は十二分に任務を果たしておられる」
「……大司馬殿は、
アンジェは、頭の中に冷えた刃が刺さったような思いがした。
斥候の無能に対する憤怒が頭を満たし、次いで冷静な思考力が疑問を産んだ。
いや、橋が燃えていた、というのは事実のはずだ。
教皇領の精鋭が務める斥候が、それを見誤るはずもない。
敵方に転んでいて、故意に誤報告をした、という可能性も絶無だろう。
いや、そんなことを考えている場合ではない。
「敵は、
アンジェは、首を返して、自分が対面しているほうの防壁を見た。
そこでは、人影が動いている。
「ご苦労であった。別命ないなら、貴殿はそのまま休んでおれ」
アンジェは男をねぎらうと、
「大司馬から緊急の命である!! これより我々は前進する!!」
馬をゆっくりと一回転巡らしながら、声を張り上げた。
そして、剣を抜き、射抜くように道の先を指し示した。
「進めェ!!」
*****
そして、馬を進ませようと、
足を掴まれ、それを阻止された。
「姫様、お待ち下さいッ!」
ギュスターヴであった。
「なんだッ!?」
アンジェは馬を押しとどめながら返す。
「この小勢の上、敵は銃を持っています! 加えて、姫様は甲冑を置いて参られたでしょう!」
確かに、アンジェは薄手の金属兜の他は、
顔の半分を女を隠すための黒布で覆っているが、鋼の面頬と違って防御効果はない。
この行軍では、厚目の板金鎧などは、エピタフを除いては全員が船に置いてきたのだ。
「こちらで馬に乗っているのは姫様のみ! あまりに危険すぎます」
馬は森の中を進むには比較的不向きなので、本隊からは騎馬隊は着いてきていなかった。
つまりは、この別働隊の中では、アンジェだけが馬上にあり、体一つ分ほども高い。
「構わぬ!」
「では、せめて前線に出るのはお控えくだされ!」
「くッ――」
”うるさい、黙れ”と言いかけた。
が、アンジェはギュスターヴの発言に一理あることに思い至り、喉元でそれを押しとどめた。