家族の職場見学

最近社員の家族を実際に働いている職場に呼んで見学してもらう社内行事を企画する企業が増えている。これはとてもいい試みなのでもっと普及して、どこでも普通に行われることとして定着するといいと思う。

昔からのことだが、会社員の家族は、父親(最近では母親も)が長時間会社で働いていて、そこで実際に何をしているのか、子供がまるで知らないことが多い。夫が働いていて奥さんが主婦だったりすると、奥さんも知らない。朝早く出かけていって夜遅く疲れて、あるいは酔っぱらって帰ってくる。言葉だけで説明してもなかなか伝わりにくいし、すれ違いでコミュニケーションの機会さえないことも多い。たいていは本人は家族の存在を励みに辛いことにも耐え、身を粉にして奮闘しているのだが、家族から見るとまるでよそものみたいで、単なる給料の自動運搬装置のようになってしまう。楽屋裏に戻って困憊した時の姿だけを見ているので尊敬心も育ちにくい。実感をもって知ってもらうには、生々しい普段の仕事場を見てもらうのがなによりである。社員の仕事への理解も、家族の連帯感も深まるし、それによって社員自身の仕事への意欲も高まる。お金を稼ぐということが蛇口から水が出るようなものではなくて、たいへんなことなのだということも感じてもらえるだろう。

またこの機会に、特に子供に自分の家族が生計を得ている現実の仕事がどういうものかを知ってもらうという社会教育的な意義も大きい(いわゆる「ジョブ・シャドウイング」)。現在の社会では言うまでもなく、たいへんに大きな比率の人々がビジネスの世界にかかわり、そこで働くことで生計をたてている。その子供たちも、現実にほとんどといっていいほど多くが、やがてこの世界に入ってくることになる。にもかかわらず、その機会が欠けているので、足を踏み入れるまでまるで何も知らず、ほぼ目隠しをしたような状態で入ってくる。せっかく会社に入ってもすぐ辞めてしまう新卒社員が多いことが問題になっているが、入ってくる方も受け入れる方も、こうした状態が互いにとって健全な状態であるわけがない。

説明と理解が難しいのは、現代の高度化し、組織化されたビジネスの世界が、子供にとってわかりにくいからでもある。それが漁師や農家であれば、あるいは、床屋や野球選手、パン屋、医者、教師などであれば、やっていることの大もとのところはシンプルで外形的に可視的なので子供にもイメージしやすい。しかし多くの一般的なビジネスマンがやっている仕事がどのようなものかは、外側にいる伴侶や子供にうまく説明するのは困難だろう。

このことはたとえ現場を見る機会を持ったとしてもまだ十分とはいえない。たとえば証券会社であれば、社員が家族を職場に呼んで小さな子供から、そもそもここで売り買いしている「株」とはいったい何なのか、と問われたら、日頃考えたこともないほど当然のことなのでかえって答えに窮してしまうのではないか。あるいはそれが工場であれば、ここで親が毎日働いているのだという視覚的なインパクトとしては大きいにしても、その中で細分化された一部分を受け持つ自分の親の仕事が、そこの全体の運営にどう関わっているのか、ということは、これまた説明が容易でないだろう。

加えて特にホワイトカラーの場合には、今日では業務の多くはIT化されているから、せっかく仕事場を見に行っても、目に入るのはみんなで黙々とディスプレイに向かってキーボードをたたいている姿だけ、というケースも少なくない。

そうした職場であっても、実際の職場を見ることの意味は、何も根っこのないところに言葉だけを使って説明する困難に比べれば、小さなものではない。しかし適切な説明の補完があってはじめて効果は十分望ましいものになる。ビジネスの外側の世界にいる彼らに対して、担当している仕事の本質的な事柄を噛み砕いて分かりやすく、また要領よく説明しなければいけない。

そこは企画を主催する総務・人事部門の腕の見せどころなのだと思う。予想される展開をあらかじめ先回りして想定し、対象の社員のために十分に準備して入れ知恵をし、サポートしなければいけない。この催しのもう一つの隠れた意義は、このように社員自身も、そしてまた組織全体も、日頃当たり前に繰り返してともすれば惰性と内部論理に陥りがちな自分たちの仕事の社会的な意義を、家族という外部の無垢な目を通して、もう一度根底から問い直すことにある。教えることにによって自分が学ぶのである。

上に漁師や理髪師、パン屋などであれば仕事の中身は子供にも分かりやすいと書いたが、名誉のために付言しておくと、本当の姿はもちろんそういうものではない。携わっている人は知っているように、仕事としてのそれらの職業の本当に重要な部分は、可視的な直接の職業技術とともに、見えないところにもある。たとえば漁師であれば、最重要なのはもちろん魚を獲る技術で、それがなければ話にならない。しかしそれに加えて、船を動かす動力や魚群探知の技術動向、燃料費の相場、あるいは漁業行政や漁業資源の規制、そして何より最終消費者の嗜好と市場の値動きといった要因が大きな影響を与える。だから現代の漁業従事者は当然それらに細心の注意を払っている。魚を獲ること自体が商売の「仕入れ」「原価」に当たるとすれば、それらの周辺要素はみな「利益」に関わる。そして漁師の家族が生きていくための原資となるのはこの「利益」の部分のみである。実際、多くの個人事業が立ち行かなくなって潰れていくのは、この「仕入れ」の部分と「利益」の部分の混同(理髪師でいえば、整髪技術のみが良ければ繁盛するだろうという誤解)、この「利益」を出すために必要な配慮の欠如に原因がある場合がほとんどである。

言い換えれば、漁師や理髪師やパン屋や医者は、もちろん直接その職業技術としての腕前が良くなければ生活していけない。腕が悪ければ漁師は魚が獲れず、パン屋は客が買ってくれない。しかしそれがただの等閑の趣味ではなく自分と家族が生きて行ける「仕事」であるためには、魚を獲りパンを買ってもらったその後のこと、あるいはその前のことが決定的に大切なのである。このことは、より大がかりになった組織的な仕事でも何ら変わらない。工場に勤務する社員の家族が実際の工場を見上げた時、そこで自分たちの生活の糧となっているのは、本当はそれを取り巻くもろもろの見えないわざにこそあり、目の前の感嘆するような装置群はそのための手段、表現の一つでしかないのだ。本当はそこまで見なければ仕事の厳しいところ、仕事が仕事であるゆえんのところを見たことにはならない。

段階として子供はそこまで理解しなくてもいい、表向きの見える部分だけ見て子供らしく純真に感心してもらえばいいという考え方もあるかもしれない。しかし私はそうは考えない。そんな生易しい時代ではないし、早くスタートできるならその方がいい。ありがちな多くの「社会見学」で決定的に欠けているのは、まさにそこのもう一歩の踏み込みであり、だからこそ多くの子供が職業に対し根本的に無知で浅薄な認識のまま成長するのではないか。子供の頭では全部理解できないにしても、少なくともそういう要素があるのだというところまで知ってはじめて、つまり漁師は単に魚を獲ってきて並べさえすれば幸せになれるというものではないのだ、というところまで知ってはじめて、単なる漠然とした表面的な憧れではない、将来にまでつながる職業観の芽を持ったといえる。またそこまでいってはじめて、組織や従業員自身も自分の仕事の洗い直しを本当にやったといえる。困難なことだが、どうせやるのなら、ぜひともそこまで到達することを目指したい。





関連記事 ビジネスマンの見た「狼と香辛料」 壁のあとさき GMを救う者


2008/10/30 | TrackBack(0) | マネジメント | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

この記事へのトラックバック
FC2 Analyzer
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。