GMを救う者

GMの破綻処理の過程で目を引いたのは、さあ困った、どうしようといって表に出てきた人たちの面子である。まず政府は自国の伝統ある巨大メーカーが倒産しそうだから当然とても困っている。また労働組合と引退した元従業員たちも弱っていて、たくさんインタビューを受けていた。現役従業員はもちろん雇用の場がなくなってしまうし、元職はアメリカの場合、年金や医療などの社会保障を会社に大きく依存しているのだそうだ。それから、部品メーカーや系列ディーラーも涙目で、議会に呼ばれて窮状をさかんに訴えるなどしていた。彼らも仕事を依存しているので発注がなくなったり、契約を切られてしまうことになる。しかしながら奇妙なのは、これらの中に本来真っ先に影響を被るはずの肝心な利害関係者の姿をあまり見ないことである。誰かというとそれは「顧客」である。世界最大のメーカーは世界最大の顧客を抱えているはずである。それもアメリカ国内だけでなく、世界中に。なのに彼らは舞台袖に控えて推移を遠巻きに見守っているだけである。誰も声をあげないし、誰も彼らに話を聞きにいかない。

銀行やら病院やら航空会社やら食料品店やらスポーツクラブやらその他もろもろがそうなった時のことを想像してみればいい。通常社会の中で機能している企業であれば、倒産して真っ先に迷惑を被るのはその企業の製品やサービスを利用している顧客のはずである。営業マンや整備士や事務職員や部品会社は、どちらかといえば被害者というよりは責任者の側で、彼らだって自分の生活があるからそれは困るけれども、自分の辛いのは飲み込んで、何はさておき泥はねを浴びた顧客のために頭を下げ、走り回らないといけない立場である。なのに彼らの方がまず前景を占領して自分の都合を述べたてるのに忙しく、顧客の方がなにか恐縮して後方に置き去られるという図になっている。

黙しているのは、顧客は実際のところ別に困っていないからである。自動車ユーザーはもうGMがこの世になくても、トヨタやフォルクスワーゲンもあれば、BMWやダイムラーもあるので別に困らない。玉数が足りなくなることもない。各社生産量は潤沢、競争は激烈で、むしろ多すぎるくらいである。つまり肝心の顧客のいない真空で、「供給」側の関係者ばかりが困った困ったと右往左往して騒いでいるおかしな状況――GM問題の急所はここにある。

GMの経営不振の大きな要因が、労働組合の影響が強すぎることにあることは長く指摘されてきた。強大な労組の威光に足をとられて経営者は誰もが必要と認める対処がとれない。ということは、GMは実態上は経営者ではなく労組が自分の都合に合わせて裏から院政的に取りしきる、一種の「労働者自主管理企業」のような企業統治にあったといえる。地位上の経営陣は、外見を世間一般の株式会社らしく見せかけるために据えつけられた実権のないお飾り、「傀儡(かいらい)」でしかなく、流行りの言葉でいえばただの「名ばかり」経営者でしかなかった。長らく経営不振が続いたにもかかわらず経営者の地位が妙に安泰だったのもそのあらわれである。今回の破綻処理スキームの中でも、労組は債権者(会社にお金を貸していた人たち)を上回る、本来はありえない、破格の厚遇を受けたけれども、それもそうした歴史的前提あっての話である。

オバマ大統領は労組を守るため、金の貸し借りにかかわる資本主義のルールまで曲げた。(略)米「ワシントン・ポスト」紙は社説の中で、労組に偏った不公平な処理を批判し、「オバマ政権はGMをできるだけ早く民営化したいようだが、民間投資家は労組の存在を恐れて投資できないだろう」と予想した。経営不安が表面化した際に、尊重されるはずだった債権者の権利が軽んじられるのを見た後では、怖くて誰も投資などできない。


また、従業員への福利厚生についていえば、「自動車メーカーではなくて『車輪のついた年金事務所』」だと揶揄されるくらいで、退職者医療費の全額補填など、業績がファイナンスできるレベルを無視した権益が、内部交渉の結果のみを反映して無理に獲得され、維持されてきた。この意味で破綻したのは自動車メーカーというよりは、ファイナンスの裏付けを欠いた一つの硬直的な社会保障システムだったともいえる。

こうしたことはそれ自体ただちに悪いことではない。それでうまく行くなら、社員たちが高待遇に感激して発奮し、お客が喜ぶ素晴らしい製品を作れてそれが次から次と売れるなら、三方みな満足でたいへん結構なことだったろう。しかしそうはならなかった。こういう内部関係者の自己都合から積み上げて外側にそのツケを転嫁するやり方がうまくいかないのはソ連の実験で実証済みである。社会主義経済は農業でも重工業でも全部こういうやり方をしていてそれが立ちいかなくなって潰れた。結局今回の出来事は、ソ連崩壊に十余年遅れて今度はアメリカ資本主義のど真ん中でその象徴が倒れたというよりは、ソ連崩壊に遅れて「アメリカ資本主義の中にあったソ連」、アメリカ資本主義の内部に吸血して、その養分で余計に生き長らえていた「もう一つのソ連」が、ソ連そのものに続いて、そしてそれと同じメカニズムから瓦解したのであり、株主統治による純粋な株式会社が倒れたというよりは、アメリカの中のもともと最も社会主義色の濃かった部分がそれゆえに朽ちて、倒れたのである。

実態からすれば、GMはとうから従業員の、従業員による、従業員のための会社だった。それを糊塗するために、粉飾的な配当を握らせて株主を黙らせ、度を越した値引きやリスキーなローン、それを転売するための妖しげな証券組成技法を使って見せかけの売り上げを積み上げてきた。資本主義経済の中に労働者のリゾート、夢の楽園を作ってそれを維持するために無理なごまかしを重ねればこうなるだろうというのを絵に描いたような軌跡で、会社は迷走し、最終的にすべての矛盾を吐き出して空中分解した。そしてなかば無視されてきた顧客は誰もそれを悲しんでいない。この会社がいかに顧客軽視だったかは、どんなに言われてもハンドルの右左どころか(テールランプの仕様等の)細かい部品すら規格に合わせようとせず、対応できる部分は販売代理店(!)が自分で改造して尻拭いしていたという事実から、日本のユーザは身をもって知っていることである。その姿は労働者に職を与えることを一義とし、そのために煤煙を吐きながら紙製のボディーを走らせる車を国民に押しつけていた東独の「トラバント」の末期(まつご)を彷彿とさせる。

GEを長く率いてきた有名経営者のジャック・ウェルチが口ぐせのようによく言っていたのは、給料は上司や株主が払ってくれるのではなくて顧客が払ってくれるのだ、ということである。これは真実だろう。内輪の細かい駆け引き話はこの際全部後回しにして、自動車の利用者にどうやってもう一度自分たちを必要だと思ってもらうかという一点に全エネルギーを傾注すること――当たり前すぎることだが、それのみがGMを再生させる道である。従業員の手厚い福利厚生も、経営者との交渉によってふんだくってくるものだと考えたのが間違いのはじまりだった。それが維持可能になるのは顧客がそれをファイナンスし、妥当なものとして許可した時だけである。そうみれば、GMという巨大組織のこの問題は、身につまされるわれわれ自身のものでもある。すなわち、稼ぎの話をそっちのけにして、縮むパイをめぐってどこからどこにどう金を移し、誰が何枚金貨を取るかという内輪の分配の相談だけにかまけていても無益だという教訓がそれである。そう考えればこれは対岸の他人の家の火事と高見の見物を決めこんですむような、ひとごとの話でない。

議会やカリスマ大統領や株主や債権団や凄腕経営者や金融工学や夢の電気自動車がGMを救うのではない。GMを救えるのは、ただその製品を欲しい、必要だと言ってくれる顧客だけである。レクサスもホンダもポルシェもごろごろある中で、それらを押しのけてわれわれにはシボレーが、キャデラックが必要だ、と言ってくれる顧客が舞台表に出てきてはじめて、そして従業員や系列群がそれを支える黒子の役割に正しく収まってはじめて、それは社会の中に生き続けることを許される。永続企業(going concern)としては企業は彼ら以外の誰からもお金をもらうことはできない。

また企業は株主のものか、従業員のものかという論争がよくあるが、同じ理由からこれも虚しいものである。会社は法的には株主のものであるが、社会的には株主のものでもないし、むろん従業員のものでもない。会社はひとえに顧客のものである。顧客を幸せにすることによってのみ、そのお裾分けをもらって、株主も従業員も幸せになれる。雇用の創出にせよ年金医療への下支えにせよ、社会への責務も果たせる。当世風の流行りの言い方でいうなら、企業は顧客によって、ということは市場という欲望の生態系によって、ただ「生かされている」だけの存在である。

今回の再建スキームでGMは「国有化」「社会主義化」され、政府と労組が株を持ち合って舵取りすることになったけれども、以上から考えれば、資本主義の会社が失敗して社会主義化されたという評価は妥当とはいえない。逆にもともと社会主義的で、その社会主義の自己中心性によって潰れた、民間会社の皮を被った疑似企業が、引き取って面倒をみてくれる篤志家が誰もいないので、仕方なく「親方アメリカ」政府と労組が自分で引き取ってさらに深く深みにはまるしかなかった、というあたりが、ありていに見た実相である。本家のソ連はシステムが崩壊したのち思い切ってそれを全部脱ぎ捨てたが、「こちらのソ連」は皮肉なことに負けた同じ賭けにさらに賭け金を注ぎ込み、一種の「マルチンゲール戦略」を取る格好になった。それがさらなる深手を招く破産者への追い貸しになるのか、天も哀れと思し召して心機を転じた回心と蘇生につながるかは、その生産ラインから新たに押し出されてきた産生物が、アメリカと世界の顧客たちの目にどう映るか、ただその一点にかかっている。





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2009/07/23 | TrackBack(0) | マネジメント | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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