―捏造や歪曲があってはならない
―公衆衛生上あってはならない
―暴力行為はあってはならない
―冤罪はあってはならない
―いじめはあってはならない
―あってはならない無駄な命
―あってはならないことだがそれが現実だ
―あってはならない事故が多すぎる
―副作用はあってはならない
―憲法改正はあってはならない
―日航の破綻は絶対にあってはならない
―あってはならない企業との癒着
―あってはならないバグ
―万に一つの間違いもあってはならない
―あってはならないことで誠に申し訳ない。再発防止に努めたい
とにもかくにもまあ世の中みごとに「あってはならない」ことだらけである。こう見ると、われわれが日頃この言葉で呼んでいることごとは、字義どおり根絶を絶滅を期待できるような物珍しい稀な出来事などではなくて、むしろそういう可能性自体がはなからありえないような、そこらにいくらもある、ありふれたものごとが多い(副作用とか企業破綻とかいじめとかシステムバグとか)ことがわかる。まるでそれは、起きたら驚くような稀な出来事にではなくて、むしろごく普通にあるものに対して特に狙って貼りつけられる標識(タグ)であるかのようである(たとえば憲法改正は、本来「適当な手続きを定めることによって革命やクーデターといった非合法な体制の変更を防ぐ」ためのものであり、アメリカは18回、スイスは140回超、ドイツは戦後だけで51回も行っている)。そこからすれば、「あってはならないことが多すぎる」という上の嘆きも面白い。多すぎるようなことはむしろあたりまえに普通に起きていることであって、根絶を期待できるような飛び抜けて稀なことではないからである。多く起こりすぎる困りごとは、多すぎるカラスや多すぎるエチゼンクラゲと同じように、通常滅却どころか抑制することさえ困難で、覚悟を決めて立ち向かい、本腰を入れて粘り強くつきあっていくしかないようなものである。「あってはならない」などと路肩から品評している場合ではない。また逆に、身に引き受けざるをえないそうした困りごとを「万が一にもあってはならない」というところまで追い詰めてしまったら、感度を上げすぎた試薬や解像度を上げすぎた顕微鏡のように、稀少に収まっているその「万が一」にまで、毎度蹴つまづいて大騒ぎすることになってしまう。言葉の勢いだけでなく本当にそこまでの純度が求められるべきなのかはよく考えた方がいいだろう。
また、こんなふうにまるで耳なし芳一の体さながらに、経を書き込む寸分隙もなく世の中あってはならないことばかりで、あってはならないのに起きてばかりいる出来事で満ち満ちているというのであれば、それはほとんどこの世界そのものに対して否(ノー)を告げているのと同じではないか、「この世界そのものがあってはならない」ものとみなしているのとほとんど同じではないかとさえ思えてくる。あたかも下手な努力にもかかわらず汚れるだけ汚れてしまった家屋を、もう掃除するのはあきらめて家ごと引っ越して取り替えるしかないように。それほどまでにあってはならないことばかり、あってはならないことが多すぎる世の中ならば、そういう汚れた世の中自体「あってはならない」のではないか。それはむしろ世界改良願望ではなくて世界消去願望、自己消去願望にすら等しいのではないか。
最近ますます耳にする機会が多くなったこの語の裏側にある思考経路をどう考えたらよいか、ということについての詳細は次回見ていく。