「あってはならない」というアニミズム

このところ何かの事故や事件が起きた際に、それへの評価として「あってはならない」という表現が用いられる機会がますます増え、ほとんど決まり文句のようになっている。評論家も言えば一般の人も普通に言うし、何より責任を問われた事の当事者自身が真っ先に言う。だが、あらためて考えるとこれは相当におかしな言い方である。

まず当の事象が起こる頻度を冷静に振り返ってみると、われわれは、この言葉で形容される出来事が、ことがらの内容からいってそれ自体はけっこう容易に起こりうる、当然はじめから想定しうる、それどころか実際にそうなっていて現に山ほど起こっているものが多いことに今さらながらに気づく。考えてみればそれも当然の話で、本当にほとんど起こらないような縁遠い出来事であれば、そもそもあってなるものかどうかすら案ずる必要がない。だからこの警報がわれわれの脳裏に点灯したということは、実際にはあってはならないどころか波音がもうすぐ近くまで迫り、事態そのものは大いに起こりうる状態にまで切迫していること、われわれが本当は既にそのことを知っており、十分認めていることをともに示している。それに対して投げかけられるこの言葉は、対象となっている当の事象への強い拒絶感情において言葉ひとつでそれを押し返そうとするものであり、発生の可能性が今や破裂しそうに膨れ上がっていることも、自分が既にそれを知っていることも認めまい、見まいとする決意の表れである。まるで地響きが間近に迫っているのに両耳を塞いで浜辺にしゃがみこめばそれがかき消えてしまうだろうと期待する人のように、われわれは半ば呆然とこの語を発し、そのままなすすべなく津波にのまれる。

2009/4/14 麹町クレーン倒壊事故(Daylife.com)


またこの言葉は、後ろ半分は見てのとおり「ならぬ」という接辞で一種の倫理的な評価をしているのであるが、前半分とそれがぜんぜん噛み合っていない。行為の主体が同じ人間ならばまだ倫理的な評価を問うこともできようが、それなら言い方は「あってはならない」ではなくて「してはならない」だろう。あるかないかの次元を問うのであれば、それは単に機械的に起こるか起こらないかだけの話であって、その無価のプロセスに倫理の物差しを取り出してあてはめても、ちょうど昆虫や蜥蜴が人間の作法で食事をしてくれないと嘆くのと同じくらい詮ないことである。もちろんそのような中立の出来事に対して、人間的な視点からそれが望ましいか望ましくないかを判定することはできる。だがこの言葉は評価を起点にこちらが行動を起こすものではなくて、見たとおりに相手の進路に介入し、相手の側の行動を呼び起こすことを期待するものである。注意して聞くと分かるように、この言葉を使う人は、ことをしでかしたのが(犯罪や不祥事のように)人間である時でさえ「あっては」云々を言う。つまり、人間行為を交通事故の事故件数のような統計現象にわざわざ引き直しておいて、そこにさらに禁止の指示を追いかぶせるというけっこう複雑な処理をしているわけだ。逆にいえばそこまでして非-倫理的、価値中立の機械現象に倫理の矛(ほこ)を振りかざして追い立てようと図っているのである。

これらからみてとれるのは、この用語が多量にアニミズム的だということである。それもネジのいかれた、暴走した、相当質の落ちるアニミズムである。それは無色の確率の世界にやすやすと意図(犯意)を持ち込み、あるかないかでしかないような物事の自然の生起に対してまるでそれがわれわれと同等の思慮ある存在であるかのように倫理的な気配りを求める。まるで行いを正していれば水に落とした斧を女神と化した池の精が金銀に飾って返してくれると期待する童話の主人公のように。そこにあるのは思念によって現象に働きかけようとする「サイコキネシス(意思念動)」への過大な評価である。私はこうした思考を後(おく)れた不条理なものとして一概に切って捨てるつもりはない。日本人がいまだにもっている根深いアニミズム的な心性は愛しむべきよき伝統であり、自然世界や他者に対する慎みや気遣いという点でよき効用もたくさんある。しかしそれはこと危機管理という点においては、害をなすことが多く、そのことを自分たちの生得の弱点として意識的に自覚する必要がある。未来の危機事態は、ただ起こりうるかそうでないかだけを冷徹に考え抜いて対処すべきもので、相手が現にそういうものではない以上、言い換えれば人間の作法を求められた昆虫や魚や鉱石などに勝るものではない以上、それ以外のおかしな色目を判断に持ち込むと道を誤って広げなくてもよかった被害をさらに広げるからだ。「あってはならない」という弔いの歌で柩(ひつぎ)の列を見送る者は、まさにそれによって判断を誤り、その無為の罰を受けているのである。

加えてこの「あってはならない」というレッテル貼りは、以前取り上げた議論でいえば「安心病」でもある。「あってはならない」とまで言いきってしまうと、なにしろ絶対にあってはならないのだから、もしそれに対して対抗策を講ずるのだということになったら、その対策費用は青天井ということになり、寝食を削っても生計を損ねてでもやるべきだということになってしまう。しかし何度もいうようにそれは本末転倒である。安全はどれほどそれが重要で根底的なものであったとしても、あくまで生活のために安全があるのであって逆ではない。安全には常にコストという身も蓋もない限界がある。われわれがこの国の中でそうと望めばほとんど無制限と見紛う強度の無理な社会的対策をとれるのも、われわれの社会がそれだけ相対的に裕福、すなわち現に存在する購買可能などんな楯も買いつけることができるくらい経済的な余裕があるからである。とはいえどれほど裕福であっても、どれほど遠くにそれを追い払うことことができたとしても、おのずと限界はあり、あきらめなければならない、断念しなければならないことは、問題が厳しいものであればあるほど、必ず出てくる。「あってはならない」という断定は、その限界に見切りをせずに、いやいやをして絶対に認めないということであり、幼児的で不毛な悪あがきに固執し続けるということである。

先に論じた中で、安心とは他人の努力によって安全を得ようとする受け身な態度のことであり、基本的に人任せだ、と述べたけれども、この構えも「あってはならない」の思考と完全に重ってくるものがある。無心の現象を擬人化し、人であるかのように禁止を命じるこの言葉は、それだけ危機回避のための努力をこの幻想の偽人格に押しやり、自分自身の責任をそれだけ減じることになる。「あってはならない」という言い訳を発する者がほとんどの場合それに対処するための自身の努力を何もしない、という特筆すべき現象はここから生じる。まさしく「あってはならないくらいなのだから何もしなかった」のであり、対象に対するアニミズム的な期待が具体的かつ面倒な事前対処の心的代替物になっているのである。そしてこの何もしない傍観者が、いざ事態が実際に生起してしまったあとではどうなるか。今度は上に述べたような非現実的な無際限の防御を周りに強いる恐怖者に突然激変する。無為無策から青天井の防壁へと極端から極端に飛ぶ。これは願いを聞き入れてくれなかったアニムスへの原始的、幼児的な絶対恐怖から生じたものといえようが、どちらの態度も結局他人まかせで、自分自身で危険を計量してそれを回避するための労苦の多い努力をしない、という点では通底している。述べたように安心を求めるのはそもそも外部が危険だからであり、外部頼みで安心に執着する心性は、自分に向けられた大砲の砲口に保護を求めてこちらから飛び込んでいくような一種の病的倒錯なのであるが、その非現実性はこの悪性化したアニミズムに裏打ちされており、そこからこのような共通性が出てくるものと考えられる。

「あってはならない」ことはわれわれが強く拒絶する未来であり、実際に起きるとたいへんなことになる出来事である。従ってそうであればあるほどこの金縛りによる思考停止と武装解除はかえってわれわれを恐ろしいまでの危険にさらすことになる。この心性はわれわれにおいては非常に根深いので、見る限り高度に知的、科学的な教育を受けた人でも絶望的に変わりはないようだ。たとえば核戦争はどうか。それはわれわれにとって絶対にあってほしくないことなので、(それへの恐怖を意識的に喚起し、執着しているわりには)備えもまったくしていない。そんなひどいことになったらもうどうにもならないから万一そんなことになってしまったらなってから考えようなどというようなことを投げやりに思うともなく思っている。あるいはそこまでいかなくても戦争全般はどうか。あるいは今や簡単に起こすことのできる生物・化学テロ、あるいは財政の原資先送りによる国家破綻、原発の破局的な震災事故、食料やエネルギーの輸入途絶、不安定な隣国の体制崩壊、その他もろもろについてはどうか。いずれも厚く備えることでかえってそれを引き寄せてしまうのではないかという恐れの感情が、われわれの防備を鈍く、後ろめたい、かつ支離滅裂でほとんど役に立たないものにしている。凶事に備えるために戦車や迷彩服の特殊部隊や重装備の防疫隊が街中に繰り出すと、実地に則した訓練を怠りなくしてくれて頼もしい、安心だという気持ちが高まるのではなくてかえって不安が高まってしまう。ミサイル迎撃部隊が町にやってくると、やってきたところにミサイルが飛んでくるような気がするので不吉もいっしょに引き連れてどこかよそに行ってほしいなどどいうことを願い、実際に幟(のぼり)をおしたてて抗議しに行ったりする。「有事」に国民を保護し被害を最小化する法律がないことが不安なのではなくてそれを作ることの方が不安である。一方で実務上それらに対処しないわけにはいかない国家官僚や政権中枢は、たいてい国民の眼から深く匿した「極秘計画」として、実地の手足を欠いた密室の手さぐりの中でそれらに備えるしかない。本来いざとなったらみなで一致して行動できるように最も目につく場所で貼りだされ、常に現状に則して更新されるべきものが「極秘」扱いで深く隠匿され、埃をかぶっていなければならないとは、これほど滑稽な話もない。

日本人の危機管理に関する心理としてよく指摘され、実際にこうしてたいへんな障害になっている「言霊信仰」、口に出して言ってしまうとそれが起きてしまいそうな気がする心理というのはまさにアニミズム的反射の強い現れである。言葉が憚られるのは「それを解する者」が念頭に想定されているからで、悪魔の話をすると悪魔が肩に舞い降りてきてしまうような気がするのだ。従って、われわれが一致して熱心に取り組めるのは、本当はそれほど実感をもって恐れておらず、深入りしても凶運を招き寄せるような気がせずにいい気分のままでいられるもの、要するに深い本音の部分ではどうでもいいとさえ思っている張りぼての標的に対してだけである。われわれは危機回避の事前行動において、それが役に立たないものであるほど身を入れて精励することができる。それが気安めないし真の恐怖からの逃避になるからである。このためわれわれの被災訓練はいつもなにか形式ばった、笑いを噛み殺した、魔除けの儀式のようになってしまう。逆にそれが役に立つ程度に具体的、実践的で、生々しいものに近づくと、そこに近似するほど怯えて身がすくんでしまう。この結果、やる必要があることには何もやらずにやる必要のないことに貴重な資源をつぎこんで浪費するという二重に悲惨なことになるが、放っておくとこれがベルトコンベアーのような自動過程で繰り返し起きる。昔の竹槍訓練は言わずもがなであるし、近年の例でいえば温暖化阻止運動も、科学的にも政治的にも実効性から遊離した精神論でしかない点でその轍を踏むものだろう。


起きてから繕う ・ 隠蔽行為

この思考がわれわれにもたらす害悪はそればかりではない。事前段階だけでなく事が実際に起きてしまってからの事後の始末においても心理的、儀式的な面に偏った歪んだ対応は糸を引く。その一つは事が起きたあとになってからあべこべにそれに備え、羊が逃げてしまってからもう中に何もいない檻を懸命に繕うという転倒した補償的行動である。これはたとえば、ある都市で震災が起きた後に、その被災の深刻さが肝に刻んだ教訓を、次に高い確率で被害が予測される都市ではなくて、事実上当面は被害が生じるおそれはなくなり、確率順位で最後尾に劣後し直したその「当の」都市に集中的に注ぎ込むような反応がそうである。必要の薄い対象に拘りすぎることは必要性の高い対象がそれだけ手抜きされることであり、起きる前に「あってはならない」から無防備でいたのとなにも変わらず、なにも学んでいないことになる。しかるにやっている当の本人は、汚れたそばから足跡を追いかけて掃除してまわろうというわけであるから、効率的で的確な対処のような気がして得した気分ですらある。こうした行動は、「株を守って兎を待つ」という故事を思い起こさせる。これはある日うさぎが偶然切り株にあたって死んだのを見て、またうさぎが捕れないかと同じ木の前でずっと待っていたという逸話であるが、われわれが当たり前のつもりでやっている多くのことが、これと同じくらいの限られた時間と体力の浪費になっている。当然ながら、うさぎは常に飛び回っているのであるから、それを本当に獲りたいのなら、その動きに先まわりしなければならない。

もう一つは当然想定されることとして、起きた事実自体を後ろ足で砂をかけて隠滅することである。これは事が起きる以前に未来の対象に対して向けられていた「あってはならない」の殺意が、それが実際に起きてしまってあとで今度は過去に対して逆向きに向けられたものといえる。「あってはならない」からそれはそのとおり「なかった」のだ。とはいえそれが達成できるかどうかは、事を目にした者の頭数が少ないかどうかにも依存する。そこで「あってはならない」思考の愛好家は、人目が多すぎて事実自体を否認しきれなければ、ことさら豪華に弔うことによって上述のように献花の山の中にそれを隠し、反対に目が少ないとみれば人知れぬ林の土と小枝の下にもっていってそれを隠す。だからこの二つの、過度に手厚い葬祭と過度に冷淡な遺棄はどちらも根は同じで、現実そのものを畏れ敬する姿勢からは同じくらい遠く距離が離れている。

組織的隠蔽は消費者から強いプレッシャーを受ける企業や腐敗を糾弾される官僚組織の十八番ではない。教育におけるいじめ問題や警察・司法における冤罪、原発や医療現場における事故などを見れば、求められる高い職業倫理や教育されてきた高度な科学的・合理的思考と無関係に、それがいくらでも起きるありふれた事象であることがわかる。戦争の時には、あろうことか軍によってそれが乱発された。国民の生命を守るという組織の存在目的すら、その嘘のために蹂躙され、放棄されたので、戦後は軍自体を「あってはならない」ものとしてしまうことによって国民は同じように心理的にそれに復讐した。

ミッドウェー島攻略の図上演習を行った際に、「赤城」に命中弾九発という結果が出たが、連合艦隊参謀長宇垣少将は、「ただ今の命中弾は三分の一、三発とする」と宣言し、本来なら当然撃沈とするところを小破にしてしまった。しかし、「加賀」は、数次の攻撃を受けて、どうしても沈没と判定せざるをえなかった。そこでやむなく沈没と決まったが、ミッドウェー作戦に続く、第二期のフィジー、サモア作戦の図上演習には、沈んだはずの「加賀」が再び参加していた。


このように「なかった」ことにしてしまうことによって起きる厄災は、もちろん「あってはならない」が未来にもたらすものに劣るものではない。「なかった」ことになってしまえば、当然そこからなんの教訓も学ばれず、なんの警告も共有されない。現に起きていることが視界の中で目隠しされて盲点になるので、補修も通行止めもされずに橋桁が落ちたままの高速道路のように、大穴に次から次へと次なる犠牲者が飲み込まれ、被害が複利で膨れ上がっていくが、最初の隠蔽行為自体まで巻き戻す決意が固まるまでその出血が止まることはない。宗教と良心の呵責を待つまでもなく、軽んじられた現実自体が、はるかに残酷な刑罰で隠蔽者を処罰する。


アニミズムの悪性化の入れ子構造

ここまでこの「あってはならない」思考の基底をなしているアニミズム的心性を目の敵のように書いてきたけれども、私は問題を克服するためにこの特性をわれわれの中から「除去」すべきだとは少しも思っていない。むしろ最初に示唆したように話は逆で、この心理特性の病的悪性化は、われわれがそこからできもしない脱出をはかろうとし、中途半端に排除した「つもり」になっていることから生じている。いまさら言うまでもないことだが人間は全体としてみればそんなに隅から隅まで筋の通った透明な存在ではない。それが不可避に有する不合理な濁った成分は、ちょうど蒸留や精製という人間行為が全体的には不純物の抹殺ではなくてその一時的移動と濃縮でしかないように、また、科学が発達すればするほど宗教とオカルトの力も同じ社会、同じ個人の中で増すように、脇に押しやれば押しやるほどむしろ集約され、積みあがって巨怪化する。

アニミズム的な世界認識は、ヨーロッパ人にとっての一神教的な行動特性と同じように、われわれの思考と行動のすみずみにまで入り込み、その深い土台をなすもので、人格も知恵も言葉も社会関係も全部その上に乗っている。従って、文化というものはおしなべてそういうものであろうが、みんなで一斉に頭をリセットでもして別の家屋を建て直さない限り都合で勝手に脱いだり着たりすることはできない。われわれはそれとつきあって、それを生かして生きていく以外にない。その弱みが横串に公約される集団心理においてはなおのことそうであるし、実際には一人一人の個人においてもそれは同じである。

アニミズム的思考が悪性化し、糸が切れた凧のように制御不能になっているのは、われわれが表面的にはそれを拒絶し、軽く見、身に覚えのない罪として非自己化しているからである。上述した実際行動からすれば恥ずかしいくらい根拠のないことだが、われわれは意識的にはこうした魔術的な思考をとっくに卒業して現代の技術文明の中で自分が十分合理的になったつもりでいる。実は自分自身に合理的に振る舞えと命じ、言葉でそう考えさえすればそれが達成できるというこの前提自体が、既に意識的自我の魔術的な過大評価である。ここには一種の自己過給的な入れ子構造、鏡に鏡を移すような無限後退がある。われわれは「あってはならない」という思考を生み出す回路自体をないもの扱いし、それこそ「あってはならない」ものとして闇の向こうに押しやり、見ないようにしている。泥の汚れを泥を塗って隠そうとし、あってはならないという精神を同じあってはならないという呪言で打ち消そうとする。「あってはならない」的な思考が自分の中でまず「あってはならない」もの化されているために、自分で踏みつぶした膿の袋でかえってそこら中が膿だらけになり、この妖怪が視界のいたるところを蚊のように飛びまわって、この気分だけ合理的なつもりの現代人がその残像を白昼追いかけまわす奇怪さに自分でよく気づかないでいるのである。それが証拠に、この「あってはならない」的思考の問題性に気づき、健気にもそれに対抗することを試みたこれまでの論考にいくつかあたってみるといい。その最良のものですらも、自分が克服しようとしている当の対象同様に、禁止の言霊の力を魔道士のように誇大視して、「あってはならない」に同じあってはならないを言いつけることでこと足れりとするものではなかったろうか。

思考と行動の基体をなす世界認識は、それ自体は一つの全体であって良いとも悪いともいえないものであり、都合の良い面悪い面が生じてくるのは、個々の現実の問題解決や行動の中においてである。アニミズム的世界観も、全部の貸借を通算すれば、上に述べたように良い面の方がずっと多いと思うし、リスク対処という点についても、より包括的な視点から見るなら、他者や自然存在の同位性を先験的に認め、その中で分を守って自制的に生きるという姿勢は、本源的にはより多くの安全をわれわれにもたらしてくれるはずだ。だから変な粗相をしないようにきちんと躾けておくためにも、邪険にして放ったらかさずにしっかりと身に引き寄せて愛し、同伴してその価値を積極的に生かして生きる方がずっとよいことである。上記ではアニミズムと幼児性を同一視する記述を多くしたが、それはわれわれの生まれながらのアニミズム的思考がそのまま捨ておかれ、磨かれぬ原石のままとどまっているからである。キリスト教徒やイスラム教徒にとっての一神教がそうであるように、また、われわれ自身過去に一度はそうした素養を我がものとしていたように、発達した知性によって深くつきつめられ、高度に洗練されたアニミズム的行動様式というものもまた充分に成立しうるはずだ。その方向に堂々と正面突破を目指すことが、逆に最も効果的に弱点を補うことにつながる。

見てきたように「あってはならない」はリスクマネジメントの筆頭の敵である。「あってはならない」は「起こるはずがない」や「起こりえない」とは同じではないし、反対に「起こりうる」は「起こってもかまわない」や「起こるにまかせる」を意味しない。「戦争を希望しない」ことと「戦争を想定せずそれに備えない」ことは別である。「起きてほしくない」と「起こりうる」が脳髄の中で正しく結合することがあらゆるリスク対処の大前提であり、それを正視できない限りどんな入念な準備も割れた照準で撃つ射撃に等しい。そのためには現象をやみくもに擬人化、悪霊化した魔術的、祈祷的な思考を現実に則したものに矯正していかなけらなければならないが、それは問題の根から遠ざかり逃走するのではなく、逆にその中に飛び込み、しっかり抱きとめることによってはじめて可能になる。獣に噛みつかれた時に歯の向きに逆らって腕をあわてて引き戻すのではなく逆に喉に押し込めるようにして外すのが経験豊かな猟師のやり方という。問題に向き合うわれわれの態度もそのような腹のすわったものであることが望ましい。なぜ自分の中で起きてほしくないことと備えをしたくないことがすぐ一緒になってしまうのか、なぜ凶事の備えをすることが自動的に不吉に思え、気が重くなってしまうのか、なぜそんな幼児的で不合理な集団心理に今さら引きずられ、振り回されてしまうのか、われわれはあらためて自分自身と問答する必要がある。「『あってはならない』はあってはならない」ものでなどない。それがわれわれの中に存在していることにはれっきとした理由がある。それは十分「ありうる」ものであり、現にわれわれの目の前にいくらでも「ある」ものである。気に入らないからといって「あるな」と言葉で命じただけでは消え去ることはない。この思考は、かつてわれわれの同胞を何百万人も殺し、民族全体を破滅の淵におとしいれたことすらある。そのくらい根が深いものであり、朝思い立ったからといって夕にどうかなるような、そんな簡単なしろものではないのだ。現実にこれほど大きな実害をもたらすものであるのなら、あらゆる具体個別のリスクの前にこの思考パターン自体がわれわれにとって最大かつ危急のリスクである。この見えないものを「あってはならない」ものではなく痛切に「ある」ものとして目の前に引き据え、それがあることを前提に個々の実践を組み立てていくことがこの問題を解きほぐしていくための唯一の扉である。「あってはならない」を言ってはならないというのなら、なによりまず「あってはならない」にこそ「あってはならない」を言ってはならない。


失敗の本質―日本軍の組織論的研究 失敗の本質―日本軍の組織論的研究
戸部 良一, 寺本 義也, 鎌田 伸一, 杉之尾 孝生, 村井 友秀, 野中 郁次郎
ダイヤモンド社




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2009/11/19 | TrackBack(0) | マネジメント | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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