指導者責任と全体責任

みんなで責任を取れば指導者の責任は不要か。指導者の責任を問えば、みんなの責任は不要か。

第二次大戦の戦後処理で日本が異様だったのは、多くの人から指摘されているように、「敗戦」の責任が誰にも問われずにそのまま済んでしまったことである。

もちろん「東京裁判」はその代わりにはならない。東京裁判は、戦争の勝者が、勝者の視点から敗者を処断したもので、占領処理の一部であり、勝者の褒賞の一部である。それは敵将の首を取って自己の勝利を祝し、自らが受けた戦禍の痛みを癒したものだ。勝った側に対してなにか罪を成した者と、戦いをしかけて負けたことへ責任がある者は、当然一致しない。「前者ではあるが後者ではない」者が当然いるし、逆に「後者ではあるが前者ではない(ために、そのまま見過ごされた)」者も当然いる。それが全部そのままに、有耶無耶(うやむや)になってしまった。自国民にもあれだけの惨禍と屈辱を与えたのであるから、アメリカがどうアジアがどうとは別に、自分たちの目から見て、罪ある者を特定し、断罪して、そのけじめをつけたうえで再出発すべきだったが、それをしなかった。それは結局「敗れたこと」「敗戦という現実」を正視できなかった、ということであり、負けを認めることがなかなかできなかったために、ずるずると戦いを続けて被害をいたずらに大きくした戦時中の最も大きな過ちを、戦後もそのまま無反省に続けた、ということである。「終戦記念日」というあいまいな名称の中に、それは今でもはっきりと残っている。

また、戦争の遂行では特にマスメディアの宣伝責任が明らかに大きかったが、それを打ち消すために、国民全体の責任と反省がことさら強調された。「一億総懺悔」という巧妙なキャッチフレーズがそれである。全員に応分に罪があるのであれば、罪ある者は罪ある者を裁けないはずだ、という暗黙の、汚い期待が、そこには含まれていた。驚いたことに、マスコミも一社も潰れずに、社名すら変えずに、そのまま全部存続した。彼らは勝者に厚い忠誠を誓ったために、敗北に対する責任を逃れた代表格である。

一方で、極端に希釈された連帯責任をお前のものだといって手渡された国民は、まさにそれによって痛痒を感じなくなった。戦争は「軍部」が全部悪かったのであり、自分たちは無垢で「騙されていた」だけだ、「軍国主義」の被害者だ、と思うようになった。

こうして、みんなで責任を取れば指導者の責任は不問でよく、指導者の責任を問えば、そのみんなの責任は不問でよい、という、捩じれた、いかにも「民主主義的」な、永遠に行ったり来たりすることで誰もそれを持たない、馴れ合いと逃避のための共犯回路ができあがった。指導者責任と全体責任はどちらかひとつを選ぶ排他のくじ引になり、連帯責任と無責任は背中合わせの表裏一体になった。

今回の原発事故でもまた、そっくり同じ路線が踏襲されている。あれだけの大きな被害を与え、人災であることが指定され、政府・企業一体となったでたらめな事故対応をしながら、一年以上過ぎてまだ誰も罰せられていない。電力会社の経営陣や所轄官庁の幹部は誰一人解任されておらず、誰も逮捕されず、個人賠償を要求されず、破産していない。それどころか電力会社は逆にもっとも倒産から遠い企業として莫大な税補填で保護され、ひとつの行政法人も整理されず、一人の天下り役人、天下り学者も解雇されていない。すべて元のままである。これらは他の事故や不祥事と比べてどれだけ異様で、どれだけ不公平であることだろうか。

焼き肉チェーン店「焼肉酒家えびす」の集団食中毒事件で、特別清算中の運営会社「フーズ・フォーラス」(金沢市)の勘坂康弘元社長の代理人弁護士は27日、富山地裁高岡支部に元社長の自己破産を申し立てたことを明らかにした。(略)弁護士によると、申し立てた負債総額の内訳は、被害者への賠償額約7億5千万円のほか、フーズ社の取引業者などへの債務で元社長が連帯保証人となっている約5億7千万円など。フーズ社は特別清算手続きの中で、約1億3千万円とされる同社の資産を被害者に優先的に分配する考えを示しており、取引業者などに債権放棄を求めている。これに対し一部業者は、債権放棄の条件として、債権を回収不可能なものとして会計上処理できるようにするため元社長の自己破産を求めていた。

山口県和木町の三井化学岩国大竹工場でプラントが爆発し、周辺住民を含め23人が死傷した火災で、山口県警は23日午前、業務上過失致死傷容疑で工場事務所の家宅捜索を始めた。(略)三井化学は週内にも社内に事故調査委員会を設置し、原因を調べる。岩国大竹工場は火災発生後、全てのプラントで運転を停止している。

群馬県の関越自動車道で46人が死傷した高速ツアーバス事故に関連し、群馬県警は、運転手の河野化山容疑者=自動車運転過失致死傷容疑で逮捕=とバス運行会社「陸援隊」(千葉県)の針生裕美秀社長を近く道路運送法違反の疑いで逮捕する方針を固めた。(略)関越道で事故を起こしたバスは陸援隊の車両で、名義貸しにはあたらないが、県警は陸援隊と河野容疑者の間で名義貸しが常態化していたことを重視。事故の重大性も考慮して、逮捕の方針を固めた。


しかし、政府案では、東電が債務超過に陥って破綻しないように、特別法を策定して設立する「機構」が優先株を注入する。「援助には上限を設けず、機構は必要があれば何度でも支援し、電力会社の債務超過を防ぐ」と盛り込んだ。破綻しないことが確約された上場企業が誕生したことになる。


追及の矛先を鈍らせるために「みんなの連帯責任」、原発版「一億総懺悔」を主張する自動機構も発動し、その陰画として「騙されていた」と騒ぎ出す者も増える一方だ。

突然ですが、僕のお父さんは東電の社員です。3月27日の日曜日の毎日小学生新聞の1面に、「東電は人々のことを考えているか」という見出しがありました。「NEWSの窓」です。読んでみて、無責任だ、と思いました。(略)

原子力発電所を造ったのは誰でしょうか。もちろん、東京電力です。では、原子力発電所をつくるきっかけをつくったのは誰でしょう。それは、日本人、いや、世界中の人々です。その中には、僕も、あなたも、入っています。(略)

発電所の中でも、原子力発電所を造らなければならなかったのは、地球温暖化を防ぐためです。火力では二酸化炭素がでます。水力では、ダムを造らなければならず、村が沈んだりします。その点、原子力なら燃料も安定して手に入るし、二酸化炭素もでません。そこで、原子力発電所を造ったわけですが、その地球温暖化を進めたのは世界中の人々です。

そう考えていくと、原子力発電所を造ったのは、東電も含み、みんなであると言え、また、あの記事が無責任であるとも言えます。さらに、あの記事だけでなく、みんなも無責任であるのです。

僕は、東電を過保護しすぎるかもしれません。なので、こういう事態こそ、みんなで話し合ってきめるべきなのです。そうすれば、なにかいい案が生まれてくるはずです。あえてもう一度書きます。ぼくは、みんなで話し合うことが大切だ、と言いたいのです。そして、みんなでこの津波を乗りこえていきましょう。


一方、原子力推進を支援してきた専門集団からは、個々の個人の失敗責任を厳しく問うと、関係者が情報を隠すようになり、真相解明に支障が出るので、(自分たちの)過失を問わないでほしい、というアピールが、先手を打つ形で手回しよく出された。

東京電力㈱福島第一原子力発電所事故に関する事故調査・検証委員会が事故原因の調査を進めている。多くの被災者の皆さまに対する責任はもとより、我が国がこのような重大事故を起こしてしまったことに対する国際的責任を果たすには、事故原因の徹底的解明は不可欠である。そのためには事故対策に当った政府並びに東京電力の関係者の正確で詳細な証言が必須となる。 しかし、これまで、我が国の重大事故の調査においては、本来組織の問題として取り上げられるべきことまでが個人の責任に帰せられることをおそれて、 しばしば関係者の正確な証言が得られないことがあった。今回、もしそのような理由から十分な原因究明が行われないこととなれば、重要な技術情報を得る機会を失うこととなる。


事故から学び、再発を防ぐために真相を解明することが最優先であることはまったくその通りであり、悪い仕組みの中で臨機応変の対応をたまたましくじってしまった不運な作業者の責任が個別に問われるべきでないのも確かである。暗闇で、連続する余震と瓦礫の中、ろくな訓練も受けず、装備もない状況で機器の操作を誤って、結果としてそれが大惨事の引き金を引いてしまったからといって、どうしてその者に責を負わせられるだろうか。彼らに求められるべきことは、確かに処罰ではなく、自らの経験をありのままに語り、正確な記録を残すことだ。

しかし、その話は「仕組みを作った者」「組織を率いた者」には当てはまらない。それらの者たちの責任はあまりに重大であるので、すべての犯罪捜査と同じく、責任追及と真相解明は「同時に」「両方」行われなければならない。責任者としての懲罰を正しく受け、「かつ」真実も包み隠さず明らかにするという両方を行うことが、多くの人の命運を左右する意思決定に関わり、そのことで高い地位と報酬と名誉を得てきた者としての責務である。現場の一作業員と全体の指導部が、同列に扱われていいわけがない。罰を受けるのが嫌なので説明を忌避するなどという姑息な保身が、それら高位の者に許されるわけがない。

だから電力関係者が子どもの名を借りて新聞に投書したり、関連学会が先走って上のようなアピールを出したことは、とてもよいことだった。彼ら自身、自分たちの責任は逃れられるものではないと内心感じていることが、それではっきり分かったからである。彼らは自分を罰するなという言葉で逆に自分たちを罰してほしいという魂の声を語った。その「名乗り出」には、望み通りの厳しき処遇があてがわれることがふさわしい。

「検証委員会に対する要望は、個人の責任追及を目的としないことを求めているが、これは当たり前のことであるのに、学会があえてこのような声明を出した狙いは何か。畑村委員長は個人の責任は一切追求しないと言っているのに、何を恐れているのか。また、声明は保安院、電力会社を対象としており、自分たち専門家については、一言も触れていない。責任解明のために自分たち専門家こそ積極的に話をするという協力の提案をすべきではないか」


みんなで仲良く責任を分担すれば指導者の追及は不要なのか。あるいは、指導者ひとりを生贄に吊るし上げさえすれば、それでみんなの責任は転嫁され、清算されるのか。そうではないはずだ。逆に指導部を正しく断罪することは「みんなの責任」の不可欠の一部であり、それを怠けることこそが責任の放棄である。それは咎(とが)あるわれわれ以外の誰も、われわれに代わってやることのできない仕事だ。成員が自分の責任から逃れるための身代わりに指導者を処罰するのではなく、これからその責任を負って生きる覚悟を示すために、それを率いた者ときっぱり縁を切り、罰するのである。

責任者を特定し、厳しく、また明示的に処罰することによってこそ、それが示される。その責任がわれわれの一人一人の額にも焼きごてで烙印されていること、既に生まれ落ちてしまった失敗は二度と取り返しのつかないものなのだということが、それで逆に示される。

東京電力の企業再生や電力料金の引き上げ、あるいは原発の再稼働で、事態が思うにまかせず、政府と電力業界が厳しい批判と不信を浴び続けているのはなぜか。事故の原因と責任をいつまでも明らかにせず、すべてを元通り抱え込んだまま、それらを無理やり押し通そうとしているからではないか。食品や環境の放射線汚染で、専門家からの説明が消費者や小売事業者に信頼されず、いっこうに浸透しないのはなぜか。学界や行政、メディア業界が、身内への批判を遠慮し、自分の内側の責任問題、構造問題について頬被りしたまま、一般市民の「リテラシー」だけを一方的に批判して事を解決しようとしているからではないか。原子力の技術者や研究者のコミュニティーが過去に区切りをつけて山積する課題に向けて自分たちの存在意義を立て直し、仕切り直しが切れないのはなぜか。汚れた重鎮たちを内に匿(かくま)い、いまだにその言いなりになっているために、集団全体が著しく自浄能力の欠けた、腐敗した存在と見られているからではないか。

第二は、「責任の所在の明確化」です。 福島原発事故から一年経っても、この事故を防げなかった行政としての責任が明らかにされていません。原因究明に伴って、責任の所在を明らかにし、しかるべき厳正な処分がなされるべきでしょう。その厳しい姿勢を政府が示さなければ、国民は、政府を信頼することができないでしょう。 (略)

そして、いかなる理由があろうとも、いかなる状況にあろうとも、政府は、この「本来、どうあるべきか」という基本論を、絶対に曖昧にしてはならないのです。なぜならば、政府が、この基本論を明確に理解し、遵守しようとする姿勢を示すことこそが、国民から政府への信頼を回復する唯一の道だからです。そして、その信頼が回復できれば、政府と国民の間に「現実を見据えた暫定的な方策」について対話をする余地が生まれてきます。その手順を誤ってはならないのです。逆に言えば、いま、多くの国民が最も懸念していることは、政界、財界、官界のリーダーの方々が、「そうは言っても、現実の電力需給は逼迫しているし、化石燃料のコスト増の問題もあるので」という理由により、「本来、どうあるべきか」の基本論を曖昧にしたまま、拙速な手続きで再稼働に走り込もうとしているように見えることなのです。


首相の招きで内閣参与として事故収拾にあたった田坂氏のこの見解は、全面的に賛同できるものだ。

われわれは連帯責任という無責任に逃げ込むこともしないし、失敗の責任を引き受け、その屈辱の屍を乗り越えて、放射能まみれの汚れた大地をこれからも生きていく――その決意を世界に示すために、責任者を徹底的に探し出し、処罰することが必要だ。国家によるふしだらな運営によって大きな傷を追ってしまったエネルギー産業の活路と再出発も、唯一そのきっぱりとしたけじめの中だけに、わずかな光を見い出せるだろう。





関連記事 リスクのゴミ捨て場としての国家 市場vs.学者、もしくは原発計算論争 「原子力社会主義」の終焉 東日本大震災と福島原発事故(目次)


2012/06/17 | TrackBack(0) | マネジメント | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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