東電の代表訴訟と「想定外」

あまり注目もされず、報道も抑制気味の観がある東京電力の株主代表訴訟だが、漏れ伝わってくるところでは、ここでも指摘してきたような多くの矛盾が集中的に現れた、興味深い展開になっているようだ。それらを浮かび上がらせただけでも、この訴訟には大きな意義があり、本来であれば、非力な個人株主に無理をさせず、原発事故で大損害を受けた主要株主こそが、堂々とこの訴訟を率先して行うべきだったろう

まずその一点目は、会社側の「補助参加」という論点である。原理的には(であれば当然法的にも)企業を所有し、体現している代表者は、経営者ではなくて株主であり、経営者はその一時雇いの業務受託者にすぎないから、代表訴訟とは、会社そのものが経営者を履行義務違反で訴えているのであり、本来は、訴えられた経営者は個人で、すべてのリソースを自分ひとりの持ち出しで、訴訟に対応しなければならない。しかし、それではあまりに気の毒にも思えるし、訴訟マニアのようなケースも考えられくもないということで、会社が経営者の訴訟支援をする「補助参加」という奇妙な制度が認められている(従業員が会社から訴えられたときと比べてみればよい)。これが認められる条件は、その会社の監査役が不当なものでないことを審査してゴーサインを出すことであるが、東京電力の代表訴訟でもそれが承認された。「補助」参加とはいっても、これが認められると、訴訟の前面に出て対応するのは実態としては「助言者」である企業そのものになり、裏側でも相当大きな経営リソースが投入されるので、株主と経営者の力関係は逆転し、認められるのと認められないのとでは、訴訟の姿は大きく様変わりする。

通常の場合でも「会社(株主)」が経営者を訴えているのに、「会社」がその経営者を支援する、という二股の掛かった納まりの悪い構図になるが、東電の場合には、輪をかけて奇怪さが増すものになる。というのは、指摘されているように、今の東京電力は公的資金が過半で入って事実上国営化された状態であり、「お前はちゃんと安全対策をしないで原発事故を起こし、会社に大損させた」と怒って訴えている株主に対して、異を唱えて対抗している旧経営陣を、国が(ということは国民一般が)バックアップして応援している格好になるからである。しかも訴訟対応に動員される弁護士費用その他の高額な出費の出もとは、注入された公的資金である税金である。そもそも「補助」参加が可能になったのは、上記のように会社の監査役がそれを承認したからであり、その前段として、株主からの要請に対し、監査役が自分で旧経営陣を背任や注意義務違反で訴えることを拒否したからであるが、それは監査役自身が旧経営陣には賠償を伴うほどの経営責任はないと考えているということであり、経営が操舵不能になって公的支援まで受けたにもかかわらず、東電は相変わらずそういう考えの監査役を抱えているということである。これでは、国そのものが、原発事故をそのようなものと考え、そのための支出まで承認して、旧経営陣を擁護し、株主に対抗していることを意味することになる。東電訴訟における「補助参加」とは、そこまでのことを含んだ話である。

東京電力福島第1原子力発電所の事故で東電が巨額損失を出したのは、安全対策を怠った経営陣に責任があるとして、歴代の取締役ら計27人に東電への総額約5兆5千億円の損害賠償を求めた株主代表訴訟の第1回口頭弁論が14日、東京地裁(垣内正裁判長)であり、被告側は争う姿勢を示した。東電は「今後の事業遂行に影響がある」として補助参加を申し出たが、株主側は「投入された公的資金で弁護費用を賄うのは納得できない」と異議を申し出た。(略)株主側は昨年11月、東電の監査役に対し経営陣への損賠訴訟を起こすよう要請。東電側が今年1月、「取締役の責任は認められない」として提訴を見送ったため、今年3月、株主代表訴訟を起こした。


二つめの注目点は、経営陣が、事故は「想定外」だったということを相変わらず言い張って、それを論拠の中心に据えていることである。これは「想定内」となったらその途端に訴訟は敗訴で、まさにこのときにそう主張するためにこそ、無理してそれを言い続けてきたのであるから、そう言うしかないのであるが、言えば言ったで、今度は「想定外と異常に巨大」の稿で書いたような、論理破綻がなおさら強烈に浮かび上がってくることになる。ほんとうに「想定外」だと思ったのなら、経営者は会社と株主資産を守るために、原賠法の免責規定を国に申請する経営上の義務があるが、それは果していない。それを咎めて別の株主が訴えた裁判では、一審で「想定外(異常に巨大)ではないので免責申請の必要はない」と、都合よく棄却してもらえたそうであるが、片一方の手でそうしておいて、こちらの代表訴訟で裁判官まで引きずられて、「想定外だから経営陣に賠償責任はない」と、お墨付きを出してしまったら、経営者が責任逃れをしたいばかりに支離滅裂なことを言っているのに歩調を合わせて司法もいっしょに支離滅裂になることになり、もう目も当てられないくらい目茶苦茶なことになる。

東京電力の福島第一原発事故をめぐり、当時の経営陣らを訴えた株主代表訴訟の口頭弁論が16日、東京地裁であり、経営陣側を支援する立場で補助参加した東電が「津波は予測できなかった」という書面を提出した。この訴訟で経営陣側が具体的な主張をするのは初めて。株主側は「過去に起きた津波をもとにした試算などから、今回の津波は予測できた」と主張している。しかし東電は書面で、「あくまで試算であり、具体的な対策に使えるものではなかった」などと反論した。

「想定外と異常に巨大」の論考で茶化したのは、、そのことを指摘したもので、この二つの概念の間には、電力会社の経営者がいざというときにはその中に逃げ込めるほどの、国民と被災者は放ったらかして自分だけは避難できるほどの、法律上の巨大な間隙があるのか、ということである。もちろんそんなものは本来存在するべくもない。原賠法で電力会社の「無限」責任が定められ、「異常に巨大」のときだけを免責しているのは、(そのことの当否はともかく)法律上の責任の割当ては、遺漏なくあらかじめきっちりと埋めてあるということに他ならない。だから、裁判官も、経営者の破れかぶれに足を取られて、そんなものをうっかり認めてはならない。前稿の関電や九電の経営者のコメントにある通り、電力会社の経営者は、その法的リスクをはっきりと自覚してもいるのである。

そのうえまた、その旧経営陣の主張を「助言」支援しているはずの国・東電は、同じ口で、同時進行で、「いや、あれはやっぱり想定内だった」と言い出しているのである。なぜ急にそんなことを言いはじめたかというと、現在の再建計画の中で経営破綻を避けるために、なんとしても柏崎刈羽原発を再稼働に持ち込む必要があり、そのためには「想定外だった」と頑に言い張っているような状態では、世論の軟化がまったく望めないという判断に急速に傾いてきたからである。前稿の記事にあったように、柏崎刈羽が再稼働できず、三期連続赤字で融資残高が銀行の規則で不良債権に振り分けられると、融資がストップし、運転資金が続かなくなって、引き続き前のめりに肩入れしているメガバンクともども企業そのものが頓死してしまう。そのため、東電は背に腹は変えられないと、態度を急変させ、急遽、国外の識者を招いて箔付けした即席委員会を組織して、自己批判をはじめてみせた。

原子力改革監視委員会の委員で元米国原子力規制委員会(NRC)委員長、デール・クライン氏は12日、第1回委員会会合後に開かれた記者会見で「過ちがあったことは非常に明らか」と述べ、「当委員会の目標はこのようなことが二度と起こらないよう、東電が適切な慣行と手続きを採るよう徹底することだ」と語った。昨年の事故を受けて調査を進めてきた政府や民間セクターの諮問委員会からの度重なる批判にもかかわらず、東電はこれまで事故を防ぐために最善を尽くしてきたとの主張を繰り返してきた。今回の報告書はそこから180度の転換といえる。東電は先に実質国有化されており、東電生え抜きの元会長は退任し、原子力損害賠償支援機構のトップが会長職に就任した。東電が過ちを認めたことで、事故関連の訴訟問題から同社がどこまで事故の損害賠償を負担するのかまで、幅広い影響が予想されるが、どのような影響になるかは不明だ。


つまり、東京電力は表向きでは世論に対し「あれはやっぱり想定内でした、すみませんでした」と言っておきながら、裏の代表訴訟では「あれは想定外だった、経営者に責任はない」と言い続けて旧経営者を擁護していることになる。しかも、ほとんど同時期に相前後して、その両方に税金を使って、である

もはや一貫した経営体の形をなしているように見えないこれらの悲惨な混乱ぶりの背景には、東電内部での改革派と守旧派の暗闘があるという指摘もある(日経 2012.11.5)。そうであれば、この「想定内」宣言は、窮境を切り抜けて組織がなんとか生き残るために、裁判中の旧経営陣を切り捨てることに決めた、守るのをやめた、ということを示唆していることになる。原子力の経営リスクに対する、より適切な認識に近づき、自由化の受入れ等、電力市場の適正化につながるのであれば、それもいちがいに悪いことばかりともいえない。また、ほんとうにそうであるなら、東京電力は、税金を無駄遣いして矛盾した両面作戦をゴリ押しするのをやめ、旧経営陣への訴訟支援から手を引く方がよいし、いっそのこと、本来当然そうすべきことでもあり、当初手順に基づいて求められもしたように、株主に余計な負担をさせず、会社自身が旧経営陣を自分で告訴し直してきっぱりと糾弾するのが、筋の通った対応であり、真相解明や、事故に対する組織の再出発という点からもはるかに望ましいことである。また、その如何にかかわらず、司法の側も、「助言」支援している企業自身が表裏で正反対のことを言っている完全な二枚舌の状態になっていること、及び、訴訟を手助けしている企業自身が、その論拠をもう持たないものとして自分から捨て去りはじめていることを、充分に考慮に入れたうえでこの案件を扱うべきであるのは当然だろう。





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2013/01/27 | TrackBack(0) | マネジメント | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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