東電とライブドア~株主訴訟と金商法

原発事故の事後処理において、東京電力とその株主の間で争われる法律上の起点は、すでに取り上げた会社法(注意義務違反)、と原賠法(免責申請)の他にも考えられる。そのひとつは「金商法(金融商品取引法)」である。原発事故という技術的な災害と金融商品に関する取り決めというと、一見なんの関係もなさそうだが、実際にはそれどころではない深い関わりがある。前二つは既に株主から実際の訴訟が提起されているが、この金商法という切り口から見えてくるものは何だろうか。

原発事故に関してこの金商法の立法趣旨から問題になるのは、事業者は株主に対し、想定される事業リスクを充分に開示したか、という論点である。一般的にみても、いかがわしい投資詐欺でありがちなように、事業会社が事業リスクを化粧した形で小さく見せて投資家に株式投資を呼びかければ、投資家は充分な情報に基づいた判断ができず、騙されて出資することになってしまう。また、ある技術の使用についてニセの情報を与えられれば、会社がそれを採用して経営を行うべきかどうかについて、企業のオーナーとして正しく判断し、舵取りすることもできない。このように考えれば、これもまた、民間企業による技術の活用と企業統治の観点から、きわめて重要なものであることは言を俟たないだろう。この当否は、具体的には 「財務報告(有価証券報告書)に不実の記載がなかったか」 という点を中心に、その周辺の行動を通して検証されることになる。これを東京電力のケースにあてはめるなら、東京電力は、原発にかかわる事業リスクを、同資料で投資家に対し適正に開示していたか、ということである。

結果からみれば、東京電力と、その「産」を実行部隊として操っていた「官・学」の原子力ギルドは、投資家以前に国民全体に対してリスク情報を正しく告知してこなかったことは明白で、東京電力に出資した投資家も当然その中に連なっている。有価証券報告書は公開情報であるから、投資家だけは事前に言い含められていたが、国民一般には知らされていなかった、あるいはその逆だった、ということは考えられない。そこからすれば、東電の株主は、この金商法に基づいても、株価下落による損害を弁償させる可能性は、法的に充分にあることになる。NY州弁護士の増田英次氏は、同じ問題意識から東京電力の有価証券報告書の記述を実際にチェックし、東電の株主は金商法で賠償を求める余地は充分にある、という所見を述べている。実際に、事故前年の2010年に公開していた当該箇所の記述をみると、会社が株主の出資金を使って、現在のような事態が起こりうる事業を進めていることについて、事前に警告を発していたと解釈することはまったく不可能であることが確認できる。

次に、事故や大規模な環境汚染が起きた場合は、東電の「円滑な事業運営に影響を与える可能性がある」との記載は、極めて抽象的なうえに、影響の度合いが矮小化されているのではないかという問題を指摘することができます。新聞紙上で報道されているような「天文学的数字」の損害賠償(補償)を負う可能性がある東電の現状は、単に「円滑な事業運営に影響がある」という程度の状態を遙かに凌駕していることは明らかでしょう。正確なことはもちろん誰にもわかりませんが、このような事象が生じた場合には、単に円滑な事業運営に影響があるというのではなく、むしろ事業運営そのものに危機的状況が生じることをやはり明記すべきであったと考えます。ちなみに、米国では、原発事故から発生する電力会社の責任は、付保している保険の額を凌駕し、会社の事業運営や財政状況に重大な悪影響を及ぼすことが記載されている場合が少なくありませんが、最低でもこの程度の記載は必要であるはずです。



行政当局の運用と機関投資家の動き

ところで、この金商法について興味深いのは、訴訟化した中での司法判断だけでなく、その前段における行政の運用についてである。有価証券報告書への適正な記載という点では、過去にも数多くの有名企業が渦中に呑み込まれ、世を騒がせているが、それらに対する扱いを並べて俯瞰すると、この東電と原発事故のケースの位置づけがどのようなものになりうるかということが、さらに奥行きをもって立体的に見えてくる。

まず直近の事例でみると、北米におけるトヨタのリコール騒動で、アメリカの投資家が日本の金商法を使ってトヨタを訴えるという挙に出たことが、関係者の間で注目された。これは、日米を比べると日本の金商法の方が企業の無過失責任を認めている点で効力が強いため、法廷戦術としてそのようにしたものだと言われている。結局このケースでは提訴自体が認められなかったそうであるが、日本の規定がこのようになっているのは、アメリカに比べて集団訴訟(クラス・アクション)が起こしにくいため、投資家保護のためにバランスをとってそうなっているものとされ、今後企業がグローバル展開する中で、同じような事例が増える可能性が危惧されることから、金商法のこの既定自体を見直す方向になっているという。

米証取法は、わざと虚偽の行為をしたというトヨタ側の“悪意”を投資家が立証しなければならない。一方、日本の金商法は悪意があろうとなかろうと虚偽が発覚すれば原則、会社が賠償責任を負う「無過失責任」を定める。山一証券や西武鉄道の事件を受け、投資家の負担を軽くしたのがきっかけだ。(略)今回、日本の金商法の適用は避けられたが、投資家の保護を想定した金商法が予想外の形で使われる可能性は残ったままだ。今後も同様の戦術で集団訴訟が起きる事態は否定できない。日本側も対応に動き出している。学界や経済界から「無過失責任は企業のリスクが大きすぎる」との批判が出て、昨年11月に閣議決定した追加経済対策には急きょ「金商法の無過失責任の見直し」が盛り込まれた。

金融商品取引法は、虚偽情報を開示した企業の無過失責任を定めている。ライブドア事件のような意図的な粉飾決算でなく、無過失による虚偽記載でも、それが原因で株価が下がれば、突然、株主から巨額の証券訴訟を起こされるリスクがあるのだ。
金融商品取引法では、開示書類について、「重要な事項について虚偽の記載があり、または記載すべき重要な事項もしくは誤解を生じさせないために必要な事実の記載が欠けているとき」は、証券の発行者である会社が損害賠償責任を負うとされている。そもそも、会社が責任を負うべき「虚偽の記載」とはどのようなものをいうのであろうか。言葉を言い換えただけのようではあるが、「虚偽の記載」とは、「真実に合致しない記載」のことであると一般的に考えられている。意図的に利益を水増しするような粉飾決算が「真実に合致しない記載」に当たることは疑いない。もっとも、故意に行ったかどうかは問題とならないため、「虚偽の記載」とされるのは意図的な粉飾決算の場合に限られる訳ではない。


また、この金融商品取引法の関連で、近年最大の事件は、なんといっても上にもあるライブドア事件であるが、これに関し、日経ビジネスの元編集委員でジャーナリストの牧野洋氏は、日本の金商法は抜け穴ばかりで、投資家は騙されっぱなしの泣き寝入りであり、充分な保護を受けていない、と怒って次のように書いている。

このように投資家救済の面ではなお問題が残る金商法だが、2004年12月の改正証取法施行以前と比べればマシである。「だまされたら救われる」という規定さえなく、日本の株式市場は投資家にとっては暗黒大陸のような世界だった。カネボウを筆頭に多数の粉飾事件があったものの、投資家はだれ一人として救済されていないのだ。


一方で、このライブドアの元の不祥事について、それが本当にあれだけの大ごとになるほどの会計不正で、会社が解体され、経営者が逮捕されて実刑を受け、長期に服役までしなければならないほどの悪質なものだったのかということについて、多くの疑問が呈されているのも事実で、その疑いは、関連する多くの訴訟が結審した現在の段階から振り返って、いっそう強く疑われるものになっている。

ライブドアの事案は、その後の立件と裁判を見る限り、最大50数億円相当の利益の不適切な公表であり、これを意図的な粉飾と見るとしても決算期一期限りの問題だった。(略)加えて、株式市場に関わる犯罪の前例を考えると、堀江貴文元ライブドア社長に対する量刑は異例に重い。たとえば、旧山一證券の金額にして数千億円で且つ何期もの決算にわたる意図的な損益の粉飾(いわゆる「飛ばし」)にあって実刑判決を受けた関係者が誰もいなかったことを思うと、先般の最高裁の決定によって2年以上の刑期で収監されることが確定した堀江貴文元ライブドア社長への刑罰は異様だ。ライブドアのケースが「フェア」の範囲内だったかどうかは極めて疑わしい。


つい先の事例でいえば、オリンパス事件はどうだろうか。この件でも、経営者は結局金商法違反の容疑で逮捕され、会社の個人株主からは、虚偽記載で賠償訴訟が提起されている。しかし、この事件が国内でも刑事化したのは、粉飾が海外のオフショアを巻き込んだ国際的なスキームで、先を越されて海外で立件されそうな動きがあったからであり、当初日本の関係当局は、この紛うことなき(ライブドアとは比べものにならないほどの)巨額で長期の粉飾事件を事件化することに、あからさまなほどに腰が引けていたのは現に見られたとおりである。

外国の捜査機関が動いていてるとなると、日本の捜査機関として知らん顔するわけにはいかない。海外の捜査機関からバカにされるようなことはできない。海外からは『日本企業はどこもそうした不正をやっているのではないか』と見られており、日本企業の信用問題になっている。いい加減な捜査で終わらせると、こうした見方にさらに輪をかけることになりかねず、日本に対する信用はがた落ちだ。検察にもそういう社会的使命感はあるだろう


以上のいくつかの振り返りからも強く感じとれるのは、日本の金商法は、投資家保護というのはただの建て前で、実態は、権力機構が企業と企業家を自分の意向に沿ってコントロールし、いいように追い使うための鞭(むち)になっているということである。つまりそれは、株式持合い制度と同様に、日本の「疑似共産主義体制」を維持し、守護する忠実で便利な番犬の役割を担っているのである。当局のお眼鏡にかなう(役員他に高級官僚の再就職の受け皿を提供している)、体制に従順な企業家であれば、相当なあくどいことをやっても株主保護などそっちのけでお目こぼしされるが、その秩序に挑戦する、あるいはそれを踏み外した不逞な輩であれば、ほとんどでっち上げに近い無理をしてでも強引に摘発され、メディア、司法等その他の関係機関が総動員で嵩にかかって攻撃し、地の底まで突き落とされる。法律の効力が、投資家自身に武器を持たせる(クラス・アクション)方向ではなく、当局の武器を増やす方向で常に微調整されるのはそのためである。既存支配層の「クラブ」の成員が脅かされるおそれがあれば調整弁が急いで弛められ、ものを知らない粗野な新参者に無遠慮に割って入られそうになれば逆にそれは強められる。有価証券報告書上の事業リスクについて、原発事故という、いわば史上空前の過少申告をした東京電力の経営陣が、この金商法の関連でどう扱われるかが注目されるのは、まさにこの点においてである。

結局のところはっきりした理由は分からないが、社会観察としては、ライブドアのような新興企業、あるいは当時の堀江貴文氏のような短期間での成功者と、東京電力のような古い名門企業のメンバーとの間には、暗黙の会員システムの会員(=東電)と非会員(ライブドア、堀江氏)のような扱いの差があるのではないか。敢えてこの仮説から想像を発展させると、日本では、新興企業などが、旧来企業のメンバーや官庁から見て、実力以上の成功を収めたと見なされた場合、暗黙の会員システムに対する敬意を表明するとともに、会員達と利益を分け合う形を取り、注意深く身を慎んで、いったん成長のスピードを落とす必要があるのではないか。

高等裁判所がようやく理解したことは、村上が文字通りの金融商品取引法第167条に思わず抵触してしまった一方、その規制の目的と精神を大きく犯していなかったという事実だった。逆に、高等裁判所は、法律で禁止されていない行為を罰しようとする「国策逮捕」そのものを実質的に非難した。
堀江と村上の逮捕と有罪判決についての私の仮説をはっきり申し上げる。この有罪判決は村上が日本に導入しようとしたアメリカ型コーポレート・レーダー活動(Corporate Raider:敵対的買収に関与する者で、いわゆる「企業の乗っ取り屋」)の駆除を目標とした「国策逮捕」である。検察は、2004~2005年に村上と堀江が起こしたニッポン放送株買収合戦は、日本型資本主義に有害な弊風であり、無視できないと判断し、刑事法を利用して潰そうとした。捜査開始の時点では特定の犯罪の被害者も証拠もなかった。検察は刑罰法令違反に該当する材料を積極的に探しに出た。


まさかの上場維持――。金子氏にとっても東証の決定は予想外のものだった。(略)不正会計などで有価証券報告書の虚偽記載を行った場合、上場廃止となるのは「その影響が重大であると当取引所が認めたとき」というのが東証の基準。数字など明確な基準はない。今回の決定は「総合的な判断」によって導かれた。約40年間も株主名義を偽装し、トップも承知していた西武鉄道、粉飾の総額が2000億円を超え、実際は債務超過だったカネボウとは、影響の重大さが異なるというわけだ。


この点で法運用としての金商法が特異なのは、刑事と民事の両方があって、双方の効果が相乗的に倍加するという性格を持つところである。検察や証券監視委員会が活発に動いて、経営者が逮捕されたり、行政処分による課徴金を課されたりすれば、その法令違反が事実根拠となって、投資家が民事で起こした賠償もはるかに認められやすくなり、反対に及び腰になれば、投資家は民事単独でそれを証明しないといけないので、訴えははるかに通りにくくなる。さらに賠償の規模という点でも、ライブドアがまさにそうであるように、特捜部がテレビカメラを引き連れて派手に家宅捜索し、東証が上場廃止にするなどの経過を通じて株価が極端に暴落し、その価格差が投資家の損害額として認定されれば、元の不正の規模と無関係に賠償額ははるかに巨大化するし、逆に抑制的な方向に手綱を曳くことも自在である。これはつまり、当局は、賠償を求める投資家を演劇のサクラの拍手のように、あるいはそれこそ、株主総会における社員株主のように使って手心を加え、事件とそれによる懲罰の規模を、自由に、恣意的に膨らませたり萎ませたりすることができることを意味している。

「クラブ」の主要メンバーでもある機関投資家の動きは、この点からも注目されなければならないだろう。その筆頭である日本生命は、奇しくもライブドア、オリンパス、そして東京電力の、三社すべての主要株主だったが、この金商法と株主損害という面からどのような行動を取ったか。日本生命はライブドアは訴えた(この裁判は昨年100億円という巨額の賠償をもって最高裁で確定した)。しかしオリンパスと東京電力では(今のところ)訴訟は起こさず、逆に保有株式を売却してひっそりと身を引くという行動を取っている。前の二社は経営者が現に逮捕されている。しかし後の二社で対応が違い、線引きがそこでされているのはなぜだろうか。不祥事のあとにおいてすら年次総会で旧経営陣を素通しで承認しておいて、同じ相手を今さら訴えるというのでは整合性もなにもあったものではなく、自分で自分の顔を殴りつけているようで、あまりにもみっともないからだろうか。

ライブドア(現LDH)の有価証券報告書の虚偽記載事件で株価が下落し損害を被ったとして、日本生命保険と信託銀行5行が損害賠償を求めた訴訟の上告審判決で、最高裁第3小法廷(大谷剛彦裁判長)は13日、計約98億8千万円の支払いを命じた。LDH側敗訴が確定した。(略)判決によると、ライブドアは2004年9月期の有価証券報告書で、実際は約3億円の赤字だった連結経常損益を約50億円の黒字と虚偽記載。06年1月16日に東京地検特捜部の強制捜査を受け、同18日には虚偽記載の疑いも大きく報じられて株価が急落した。


最後に、この金商法の関連でもう一つの極め付きの過去事例を確認しておこう。それは西武鉄道とコクドの事件である。このスキャンダルでは、同社が株主の名義を長年偽っていた疑いで、ライブドアと同じような激しいバッシングを受け、華々しく摘発された。経営者の堤義明氏は逮捕され、関係者に同じように自殺者も出た。会社は上場廃止になり、一般株主からの賠償訴訟も湧き起こり、メディアもその不行き届きを株主と市場に対する誠実さの欠如として強く糾弾した。

あってはならない偽装の事実が判明した。堤義明氏がオーナーとして君臨するコクドが実際に保有していた西武鉄道株は公表数値をはるかに超えるもので、西武鉄道の株主構成は東京証券取引所の上場基準を満たしていなかったというのだ。西武鉄道によれば、今年3月末に筆頭株主のコクドと傘下のプリンスホテルが個人名義で実質保有していた分を含む株式保有比率は約70%で有価証券報告書の記載(両社で約44%)を大幅に上回る。3月末の上位10株主の保有比率は90%弱になり、80%を超してはならないという東証の上場基準に抵触する。(略)

具体的被害が特定されなくても、社会と市場を欺いてきた西武グループの責任は重大である。総会屋事件で露呈した内向きの体質と合わせ、自分の都合を優先し、社会のルールを守らない西武グループの企業体質は反社会的と言わざるを得ない。東証は事実関係の調査を始めたが、ルールに照らし厳格に対応すべきだ。有価証券報告書の虚偽記載は犯罪である。証券取引等監視委員会など当局には事柄の重大性を踏まえ真相究明と厳正な対処を望みたい。


しかし、一連の騒動と前後して、なにか奇妙なことが起こった。実はこの株主名義の誤記載というのは、歴史の古い企業では名簿管理の不備などからけっこうあるありふれたことで、号令をかけて調べさせたら当の新聞社やテレビ局などから、まったく同じ例が決まりわるげにぞろぞろと出てきたのだった。なかには虚偽の掲載が同じように数十年にわたって引き継がれるなど悪質なものもあった。しかしもちろんそれらはなんのお咎めも受けず、当の企業自身も(単なる事務手続きの不手際だったとの)通り一遍の詫びの一言で終わりで、踏み込んだなんの調査も、処分もなかった。獄中の堤氏は失意のあまり心身の調子を崩し、自分のどこがいけなかったのかと自問する日々だったというが、その疑問は、今となっては(下々の者にはうかがい知れない事情に通じていた同氏自身よりは)はるかに強くわれわれのものである。


虚偽記載の「犯意」と刑事訴追の可能性

以上を振り返ったうえで東京電力の話に戻ると、捜査当局は刑事事件としての検討を形ばかりは進めているものの、それは刑事告発の申請者が一万人単位で出るという前代未聞の事態になったからであって、立件するつもりはないことをさかんにメディア経由で事前リークしながら、格好だけをつけて終わらせたい意向でいることは明らかである。容疑は事故そのものについての業務上過失ということのようだが、この金商法の虚偽記載という点からはどうなのか。上の日経の社説にもいうように、有価証券報告書の虚偽記載はれっきとした「犯罪」であり、社会と市場を欺いた責任は重大であり、「あってはならない」ことだというのなら、かつてライブドアのときには針小を棒大に見立てて果敢に、オリンパスのときには気乗り無さげにいやいや目の前に置かれたものを銜(くわ)えにいった捜査当局、あるいは東証や証券等監視委員会は、この東電のケースではなにをするのか。あるいはなにをしないことに決めたのか。東京電力の場合は、売上高が数兆円規模の、トヨタに匹敵する巨大会社が現にこうして一撃で吹き飛んでしまったような、事業の根幹に関わる情報についての開示であり、ことの影響の深刻さと広がりは、単に株主の名義をごまかしていたという程度のものとは比べ物にならない。西武の場合は「具体的被害」は特定されなかったかもしれないが、こちらはそれどころの話ではないのだ。

私は原発事故は危険だか、緊急冷却装置が稼動すれば、少なくとも安全に止まると信じていた。だが、緊急冷却装置が働いても、上述A、Bの体制構築が最低限必要であることを知らなかった。このため、原発事故に伴う放射能漏れの防ぐのに、こんなに難しい補修作業・補修コストが想像することはできなかった。/因みに、私の年金資産を含め、多くの年金資産には、安全な投資先との認識のもと、東京電力を含めた低利の社債が含まれる。当然、安全な投資先との認識とした東電の有価証券では今回のような事故で、投資した有価証券の一部、全部が戻ってこない危険がある。このため、私は「金融商品取引法第24条の四」の規定に基づき、このような記載で被った年金資金の損害を、東電経営者の個人財産に償ってもらいたいものである。

更に、中電が浜岡原発の開示につき、再稼動を行うのであれば、今までの開示状況では無理だろう。なぜなら、そのような開示で社債による資金調達を行うには、仲介者である証券会社が引受審査のリスクを負えず、また、安全運用に徹する投資家である年金基金、農協の運用支持者も、低利で資金提供をできないからだ。

東京電力福島第1原発事故で、当時の東電幹部ら33人を業務上過失致死傷容疑などで告訴・告発した福島原発告訴団が22日、東電本店を家宅捜索して証拠を押収するよう東京地検に申し入れた。(略)記者会見した告訴団の河合弘之弁護士は「本店には東電が津波対策を怠った証拠が山のようにあるはず。やらないのであれば手抜き」と述べた。


冒頭の引用にもあるように、有価証券報告書の問題が単に民事賠償だけではなく、刑事訴追の対象になるには、それが「無過失」ではなく企業と経営者の「故意」が証明されなければならないが、では、それは前のめりで突っ込んでいったライブドアや西武の場合にははじめから自明だったのか。あるいは反対に、東京電力の場合には、頭からありえないものと決めつけて、放免してよいものなのか。むしろそれは逆ではないか。

最初にも述べたように、東京電力と原発事故においてこの問題がきわめて重大で看過できないものであるのは、その虚偽性、すなわち記述の貧弱さと実際のリスクの間にあった乖離の度合いが過去に例を見ないほどに巨大だった、という以外にも、日本の原子力運営の抱えてきた「国策民営」あるいは「民有国営」の矛盾がこの箇所、この一片の記述の中に集中的に吹き出ているとみなされるからである。それはすなわち、東京電力並びに各電力会社のIR担当者は、たとえ心中ではその実大のリスクと記述の不均衡について、個人的には認識を持っていたとしても、それを書くことはできなかっただろうということである。なぜなら、それは、民間の株式会社、投資家保護の論理の外で、つまり議会や官庁や原子力学会からの説明で意識統一されて説明されていた内容をまったく裏切るものになってしまうからである。本当のリスクを書けば、株主に正しくそれを伝えれば、原子力はつじつまが合わなくなって続けられなくなってしまい、続けるのであればここに嘘を書き続けなければならない。そこで電力会社とそのIR担当者は、自分がそれに既に気づいていることに気づかないようにするという歪んだ心理状態を長期間にわたって維持する曲芸を、この有価証券報告書という紙切れ一枚の上で、今にも倒れそうで倒れないやじろべえのように踊り続けなければならない。自分は決して嘘など言っていないのだという嘘を、民間の企業経営の緊張感と風通しの外で、議員や高級官僚や学者といった連中が繰り広げていた弛んだ嘘と喜劇とを、一身に背負って言い張り続けなければならない。まるで、致死性の動脈瘤で今にも血が吹き出そうなところを、かろうじて皮一枚で塞き止めている破裂寸前の部位のように。しかしそれは翻って考えれば、既に限りなく「故意」を疑われて仕方ないものではないのか。その必死の、無理な踏ん張りは、要は既に「意図」ではないのか。そしてその主観性は、おそらく、というよりほぼ確実に、彼ら自身の発言や行動の膨大な履歴という確たる物証の中から、別に過去のあの会社この会社のときのように経営者を無理に締め上げて自白させるというような荒っぽいことをしなくても、充分に客観的に、そしてずっと容易に、立証可能のはずである。

――原発の発電コストは安いとされてきましたが、今回の事故で、原子力が安価な電源という考え方を変えざるをえないのではないですか。

発電コストについてはこれまでも、バックエンド(廃棄物処理など後工程)費用を含めた場合や、耐用年数を変えた場合など、いろいろな前提を置いて試算してきた。が、今後は福島の事故のようなリスクをどう評価するかが難しい。現時点で賠償を単純に織り込めばむちゃくちゃ高くなるのは、自明の理だ。(略)

ただ、民間が原発のリスクを全部背負うというのは、正直非常に厳しい。今回、機構法の附則で原賠法における国と民間の役割を見直す、ということが打ち出された。もちろん事故を起こさないよう最大限努力して運営するべきだが、民間がリスクをすべて負うとなると、正直言って皆シュリンクすることは確か。民間としては無理な世界へ入らざるをえないところがある。今回のように「万々が一」が起きた場合、民間として不可抗力であれば、別の形で国が見る、ということをもう少しはっきり作っておくということはあるのではないか。

逆に言えば、全面自由化となれば保証がなくなり、供給の義務を負う会社がなくなる、と真部氏は危惧する。「離島など赤字を出す場所に供給する事業者はいなくなる。むしろ、欠陥がある」/こうした「日本型電力モデル」の最たる電源こそ、1カ所で大規模に電気をつくれる原発だった。しかし、福島の事故は、民間企業が原発を持つ経営リスクがあまりにも大きいことを示した。「保険はあてにならず、損害補償額は青天井、そんな状況で、あんな事故を前提にしたら絶対に経営にならない」

電力各社でつくる電気事業連合会の八木誠会長は16日の会見で、東京電力が原発事故の賠償などで政府に新たな支援の枠組みの検討を求めていることについて、賠償などで国の責任を明確にしたうえで、関係する法律を見直すよう求めました。(略)これについて、電気事業連合会の八木会長は会見で、「原子力はこれまで、国のエネルギー政策の下で、事業者が開発運営を担うという役割分担をしてきた。国と事業者の負担の在り方についても、明確化してもらいたい」と述べ、事故の賠償や除染で、国も一定の負担をすべきだという認識を示しました。そのうえで、八木会長は「今の原子力損害賠償法は原子力事業者に無限責任が課されていて、国際基準からみても事業者に厳しい内容だ。今の法律の見直し作業をできるだけ速やかに進めていただきたい」と述べ、賠償などに関係する法律を見直すよう求めました。

同社は12日、同社の原子力関連改革の取り組みについて監視・監督することを目的として設立された取締役会の独立諮問機関「原子力改革監視委員会」に32ページの報告書を提出した。この報告書は、このような事故が二度と起こらないように東電がとるべき改革の進め方を提案するもので、どのような過ちがあったのか、その原因についても振り返っている。そのなかで同社は「過酷事故対策が不足した背後要因」の1つとして「過酷事故対策を採ることが、立地地域や国民の不安を掻き立てて、反対運動が勢いづくことを心配した」ことを挙げている。そのほかにも、対策が不足した理由として過酷事故対策の必要性を認めることが「訴訟上のリスクになると懸念した」、また、「過酷事故対策を実施するまでの間、プラント停止しなければならなくなるとの潜在的な恐れがあった」などと述べている。


もちろんこの「犯意」は、仮に刑事罰としての成立が現実のものになったとしても、心情的には最大限に理不尽なものにとどまるのは確かである。上の例えを続けるなら、原子力の経営リスクを充分に開示しなかったことで民間企業である電力会社を咎めるのは、動脈瘤が破裂したときに、なんでもっと我慢せずに破けたんだと詰(なじ)って血管を咎めるのに等しい。それは畢竟もっとはるかに罪ある本体に対する「生贄(いけにえ)」であり「人身御供」であり「見せしめ」であるに過ぎない。とはいえ、罰をあらかじめ定められた者のみが処分されるのは気の毒なので釣り合いをとって全員を赦免するくらいなら、見せしめで罰せられる者がわずかでもいる方が、まだしもましともいえる。そのことは、株主に対する罰則のある説明責任を持つ民間企業の経営ルールと、無謬と性善を前提に、なんの責任も負わずに巨大な政治的決定を食い物にする政治家・官僚と学者という対比をいっそう際立たせ、これほどの危険なものをなんら結果責任を問われないまま、後の三者に今後も弄ばせることへの疑念を、人々にあらためて強く突きつけるものになるからだ。

当然のことながら、人は未来に起こる自分の躓きをあらかじめすべて知ることはできず、企業の経営者にとってもそれは同じである。しかし自分の身の丈を越していることをおよそ測り知っていたリスクを、方々で口辺に既にそれを漏らし、事故を通してあらためて思い知らされたその危険性を、あえて明かさなかったのであるならば、その報いは目隠しをされて導かれた者ではなく、教えずに黙っていた者の方が受けねばならない。(金商法以下の)法令が、開示すべき項目のひとつにわざわざ事業のリスクを指定し、知っているだけのことはあらかじめ隠さず教えるようにと断っているのも、もともとそのためのはずである。





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2013/02/24 | TrackBack(0) | マネジメント | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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