クリントン家の猫

Socks from Wikipedia クリントン一家で大統領夫妻時代に飼われていた、ソックスという白靴下の猫が亡くなった。

直接は何の関係もない遠い異国のこの猫は、自分にとっては思い出深い特別な猫である。

インターネットの黎明時代にはじめて閲覧したホームページがクリントン時代の大統領官邸のサイトで、この猫はそのサイトを通じてインターネットの威力をまざまざと教えた存在だったからだ。同じ経験を持つ人は多いのではないかと思う。

私の場合は、インターネットという面白いものがあると伝え聞いて、なんとか実物を見てみたいものだと思案していたところ、職場の先輩から接続できる環境を作ったけど見るかい、と声をかけてもらったのが最初だった。感激して二つ返事で了解すると、小さなパソコンがおごそかに鎮座する小部屋に案内された。コンピュータの電気を入れてソフトを起動すると、大統領官邸の英語のサイトが色鮮やかに上からゆっくりと表示されはじめた。

「ここを押すと猫が鳴くんだよ」といってアイコンボタンを押すと、しばらくしてからスピーカからくぐもった録音の声で本当になにか聞こえてきた。

「な~ご」

これには腰が抜けるほどびっくりした。技術に関してこれほど驚いたことはそれまでなかったし、その後もない。こんなことは百年二百年でそうそうあることではなかろうから、これから先ももうないかもしれない。

そこからしばらくは質問責めである。

―このデータはどこから送られているんですか?
 「アメリカのコンピュータからだよ」
―何ですって!どこかに中継で蓄積されたものじゃないんですか?
 「ないよ。今アメリカの大統領官邸のコンピュータと繋がっていてそこからじかに送られてるんだよ」
―こんなに大量のデータを国際通信で送って料金は大丈夫なんですか?よく予算が取れましたね
 「これはデータはタダなんだよ」
―何ですって!そんなバカな!通信業者はそれで損しないんですか?
―この画像と音声を一本で扱っているのはどうやっているんですか?それにアメリカのコンピュータから
 データを送っているのにこんなに表示が早いのはなぜなんですか?信じられない...
 「パケットというデータ送信専用のフォーマットに画像も音も分解して一緒に詰め込んで送っているから
 早いんだよ」

こうしたことのすべては、おそらく伝統的な通信事業者があと二十年くらいたったら実用で社会に普及させたいと思い描いていたことだったと思う。当時通信事業者が似たようなことをやりたがって入り口のところで悪戦苦闘しているのはもちろん知っていた。日本では例の「キャプテン」というやつで、時代後れのテレビゲームのようなお粗末なドット絵が、席を立って湯を沸かしお茶を入れてカップ片手に戻ってくるとようやく出ているか出ていないかといった程度のしろもので、それでも専用端末も通信料金もどちらも目の玉が飛び出るくらい高かった。鮮明な写真映像やナマの音声が送れるなどというのは夢のまた夢で、海外の拠点と接続してそこから自由にデータを取り出せるなどというのはさらにその先の、ほとんど空想科学に類する世界だった。それが当たり前みたいな涼しい顔をしていま目の前に既にある。明治の頃にはじめて電話を見た人が、電線の中を実際に人だの物だのか移動しているのかと思って電線に荷物をぶら下げて電柱の下で待っていたという逸話があるけれども、 自分の心持ちもそれに近いものがあった。

そこから現在の状態に至るまで、起きてきたことの密度と速度を考えるとまるで百年も経たかのような気がする。だがそれらは振り返ってみればまさにドッグイヤーならぬキャットイヤーで、全部猫一匹が生きて死んだ、そのほんの短い寿命の間に起きたできごとだったのだ。あの時遠く太平洋をまたいで鳴き声を聞かせてくれた猫が亡くなって、その事実に改めて深い感慨を覚える。アメリカではその間大統領が一人しか替わっておらず(日本では数えてられないくらい変わったが)、拍子を合わせるようにまた民主党政権になってクリントン一家もそこに戻ってきた。そういう意味ではこの猫は、アメリカ政治の表舞台とともにインターネットの興隆と変遷の中を生きてきた猫でもある。

本人はそんなことは露知らず、猫らしく日々の欲望のままに淡々と生き、そして死んだのであろうが。





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2009/03/20 | TrackBack(0) | 情報技術 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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