サービスの国営化は悪貨を駆逐するか

情報格差がもたらす問題への行政の関与について、それがどの程度実際に機能するのかを検証するのに、はじめにサービスそのものを公的機関あるいはそれに準ずる者の直営に近い形態で行う場合についてみていくことにする。事例としては、先に列記した弁護士および医師の業界をとりあげる。これらの業種もまた、事業者と利用者の知識の差が大きく、かつ法的紛争や身体的失調のような日常性から距離のある事柄を扱うものであり、利用する側が冷静で時間をとった判断ができにくい分野である。これらの業界では、はたして公的な供給統制によって、情報の優位を悪用した悪質な事業主が効果的に遠ざけられ、あるいは少なくとも利用者が身を守るのに必要な情報が十分提供されているだろうか。

まず弁護士についてみると、弁護士は言うまでもなく公務員そのものではないにしてもたいへん格の高い国家認定の事業資格であり、一般的な営利事業とは一線を画することが制度上も定められ、自ら任じてもいる、最も強力に規制された業種のひとつである。収入は形の上こそ利用者から直接得るが、周知のとおり供給が需要を常に下回るように国家によって計画的に調整されているために、いわば迂回的なかたちで収入が国家から保証され(いわゆる「取れば食える資格」の状態)、あるいは少なくともそれが当然視されていて、議論がなされるとしてもその前提のうえにすべてが積み上げられることになっている(開業しただけでは食えないのは他の業界では当たり前であるがここでは供給調整によって解消すべき異常事態とされる)。

しかしながらその一方で、この業界のサービス品質が、それだけの厳しい供給制限に見合うだけの水準に維持されているのかという点について、利用する側から強い疑念を持たれていることもまた知られた事実である。不満の中身と強度は葬儀業界と変わるところはなく、率直にいってこの両者はどちらを上に置くべきか判定に窮するほどである。見積もりを出す、料金や契約内容を事前にきちんと説明するという事業者としての基本動作がおろそかで苦情が多いことも同じである。そこからすれば、国民生活センターや公取委は葬儀業界に調査に入るのであれば同じくらいこの業界にもそうすべきで、規制を強化し、営業中の弁護士の中で必要なレベルに達している者のみを再抽出して登録・営業許可すべきだろう。とはいえこれでは堂々巡りの話しになり、そもそも弁護士資格そのものこそが、本来そうした良質な適格者を選別抽出するための国家登録でなかったのかということを思い起こせば、こうした登録制度が、事業者の品質保証という点で当てにならないことを再確認するだけの遺憾な例証となっている。

事業主毎の能力、力量のばらつきもきわめて大きいがその情報は利用者には与えられない(後述の引用記事では資格者自身によって「天と地ほど」違うと指摘されている)。専門知識を依頼客ではなくて自分のために悪用するような者も多く、折しも消費者金融業界に対する「過払利息の返還請求」活動において、依頼者が手続きを代行する弁護士や司法書士からひどいぼったくりにあったという被害事例が多発して社会問題化しており、被害者団体が(本来彼らの守護者であるはずの)弁護士会あてに抗議声明を出すPDF)という異様な事態にまで至っている。

第二東京弁護士会(川崎達也会長)は3日、会員の××弁護士を業務停止3カ月の懲戒処分にした、と発表した。消費者金融への過払い金請求などの債務整理を引き受け、依頼者の女性が取り戻した額の約3分の2にあたる118万円余を十分な説明もなく報酬などとして受領。書類も「捨ててしまった」と返さなかったという。(略)同会の調査に対し、××弁護士は依頼者との間で交わしたという契約書も提出したが、印鑑の状況などから、未完成のまま、依頼者に印鑑を押させていた可能性があるという。


消費者金融に払いすぎた借金の利息を取り戻す「過払い金返還請求」の代理業務を行った弁護士や司法書士計約800人が国税当局の税務調査を受け、19年までの7年間で約79億円の申告漏れや所得隠しを指摘されていたことが21日、明らかになった。重加算税を含む追徴税額は約28億円に上る。一部の弁護士や司法書士が"過払いバブル"で儲(もう)けた報酬を申告していない実態が裏付けられた格好だ。国税各局は社会的関心の高い貸金業者への過払い金返還請求ビジネスを重点項目として調査を実施。申告状況などから抽出した804人の弁護士や認定司法書士について調べたところ、申告漏れなどが指摘されたのは697人に上り、うち81人は仮装や隠蔽(いんぺい)を伴う悪質なケースと認定され重加算税が課せられた。(略)また。依頼者と弁護士などの間で報酬をめぐってトラブルになるケースも相次いでいる。


このように国家の管理下にありながら明らかに質の低い事業者も自由に表通りを行き来しているのであるが、国のお墨付きを信じ、助けを求めて縋(すが)ってきた困窮者を呼び込んでさらに食い物にし、「二次被害」「消費者金融会社や信販・クレジット会社から弁護士・司法書士への所得移転」とまで言われてしまうような、起きている事態の深刻さに比べて業界の自浄への動きは鈍い。弁護士業界は周知のように業界団体である弁護士会が強力な自治機能を保証されていて、そのための監督権も付与されているのであるが、それがどのように行使されているのかは外部からは容易に窺い知れないし、にもかかわらずこういう状態になっていることは(指摘されているように懲戒が形ばかりの軽いものだったり内部抗争に悪用されて信頼を失っている等で)それが十分に機能してないことを示している。利用する側からみれば、法の番人たる弁護士(lawyer)がこういうことでは、まるで水の中に火がついてしまったらそれをどうやって消したらいいのかというような途方に暮れる話しである。

貸金業界は過剰融資や過酷な取立を理由として融資総量規制や上限金利規制といった業務制限が法的に規制される。過払金返還を巡る弁護士被害の根絶には、弁護士業務規制の強化があり得る。マスコミ紙上を騒がせている“過払金バブル”やそれに伴う弁護士・司法書士の脱税事件は、法律家への規制強化という珍しい議論を惹起させる


同様に、国家資格でもあり、強制皆保険という公費によって維持されている医療業界もまた、同じ類の構造的な品質問題を抱えている。先般、奈良県で行き場のない生活保護の受給者を大量に集めて、必要のない治療や手術を強制し、診療報酬費を国から詐取した容疑で院長他が逮捕されるという事件があった。報道によるとこの不要な処置で命まで落とした「患者」すら出ているようで、事実とすればこれに勝る「悪徳事業者」は存在しない。さらには貧窮患者を融通し合うこの手の病院が広く存在してネットワーク化している疑いまで指摘されている。この医院も人と情報の出入りのある中でこれだけおおっぴらかつ大々的に手を広げていたのであるから、行政も周囲の同業者もそれを知らなかったということは考えにくいことだが、業界団体の内部からそれを告発、是正しようという動きは起きなかったし、そうしたことがされているということは警察が介入するまで外側には知らされなかった。

奈良県大和郡山市の医療法人雄山会「山本病院」(休止)による診療報酬詐欺事件で、奈良県は15日、調査結果を発表した。医療費が公費負担となる生活保護受給患者を県外から多数入院させ、不必要とみられる心臓カテーテル検査・手術を実施していたことを確認できた、としている。「狭心症」などと虚偽の診断を下し、検査・手術の同意を取り付けていなかった疑いもあるという。(略)08年度の入院患者39人に聞き取り調査したところ、6割弱の22人が検査・手術の事前説明を受けていなかったり、同意していなかったりした。「急に心臓が悪いと言われた」「検査を拒むと注射を打たれて意識がもうろうとなった」との回答もあった。 また県は、検査・手術を複数回受けた患者11人のカルテを精査。全員について「狭心症」との記載があったにもかかわらず、治療内容が全く記されていなかった。冠動脈のエックス線検査の画像を加工して血管の狭さを誇張したケースもあったという。元勤務医や元看護師らへの聞き取りでは、「患者が検査などの同意書にサインしないと、無理やり手をつかんで書かせた」との証言もあった。


また、どうなっているのかと思うが、われわれの生活風景の中では、明らかにいかがわしげな健康食品や器具などの販売後見人としてれっきとした医師免許や大学の教授資格を持つ人物が堂々と名義を貸している事例が日常的に見られる。これらは、公的なお墨付きを無防備に過信するわれわれの国民性を逆手にとってそれにつけこんだもので、それに加担する公的資格の内部所属者がその外側にいる外部の協力者と同程度に劣化し、類が友を呼んで呼応しているという二重に輪をかけた問題性を示すものとなっている。それらの公的な品質保証制度の内部に巣くった悪徳事業者が獲物を内部で待ちかまえるだけでは足りずにその外側にまで出撃し、外部の悪徳事業者と組んでさらに手を広げているわけである。もちろんそれらの者たちも内部の自発的な機能としては除去されず、ずっとそのままであり、それが見透かされていることでさらに「商売」はエスカレートしていく。

この点に関し、よく医療を国家統制から開放すると得体のしれない非科学的な民間療法が侵入してきて医学が汚染されるというような主張を聞くことがあるが、外から見れば、このように国家統制の内側も外側もたいした違いはない。むしろ逆に問題なのは、いったんこうして懐に入り込まれてしまうと、永久資格でよほどの無茶でもしない限りそれを取り上げることはできないのであるから、現状ではそれを外に追い出すすべを持たないところである。つまりは侵入を阻むのには役に立たない薄い仕切りが掃き出す時には邪魔になっているのであって、これは形としては国家資格という関所が、取り込みはできるが排出はできない「弁」になっているということである。ましてや現政権がその兆候を示しつつあるように、国家の頭頂部そのものがそれらの類いに色気を示すような状態になってしまえばもはやどうしようもないことになる。あとは利用者の元にましな情報を届けるのにSEO(検索表示の順位上げ)にでも願掛けするくらいしか手がないというのであれば、はじめから民営も国営もない話しではないか。結局のところ国家は清廉な正統教派で民間が欲塗れの異端の邪教と単純に切り分けられるようなものではなくて、どちらであろうとあくまで個人あるいは事業体としての姿勢次第なのである。よって、たとえそれがわれわれの代表機関たる国家であろうと、常にほどほどに信用しほどほどに疑っておくのがよく、国家であることがより警戒心を解除して頼りうることの目印になるというような「国家主義」的な心性に人心を誘導しようとするのは、それこそが真の意味におけるオカルティズム、洗脳主義であり、かえって危険なことである。

一方でこれらの危険性に対処するために、利用者がこの国家統制された医療から事業者に関する十分な情報を与えられているかというと、これもはなはだ心もとない。一例として医療界では、診療内容を患者に通知する「診療明細」を発行すべきかどうかという長期間にわたる議論があるが、一進一退で進展ははかばかしくない(この診療報酬明細の電子化、オンライン化も含めて普及をはかるために「義務化」までされるべきかどうかという論点はまた別の機会に述べる)。

医療機関で受けた検査名や投与された薬剤の名称など詳しい診療内容とそれぞれの費用が分かる「明細付き領収書」の発行について、約半数の医療機関が患者に周知していないことが厚生労働省の調査で分かった。患者の要望があった場合に発行することは努力義務(大病院は義務)になっているが、実際の発行は進んでおらず、周知不足の実態が浮かび上がった


投与された薬剤など詳しい診療内容とそれぞれの費用が分かる「明細付き領収書」をすべての患者に無料で発行するかどうかの議論が大詰めを迎えている。患者団体は2日、厚生労働省に「無料発行を医療機関に義務づけてほしい」とする要望書を提出した。「手間がかかる」など反対する医療機関もあるが、患者団体は「患者が医療の中身やコストを知るために必須」と訴えている。要望書を提出したのは、薬害肝炎訴訟の原告団など、副作用被害を受けた11団体で構成する「全国薬害被害者団体連絡協議会」(薬被連)


現状では国家統制によって品質が管理されているはずなのだから利用者は業界に対する情報は持たなくていい、それをうまく整理流通させる仕組みもなくていい、依らしむべきも知らしむべからず、という建前になっている。しかし実際にはそれは上記のように十分機能していないのであるから、利用者は機能不全な国家統制に対して、情報の面で丸腰でいることだけを強いられることになり、またその結果、質の悪い情報を地べたで漁り歩いてそれに振りまわされるのを余儀なくされている。

早合点されることはないと思うが念のため断っておくと、ここで検証されているのは、これらの業界が全体としてうまくいっていないとか、所属する職業従事者の大部分が不良な事業者であるということではもちろんない。当然のことながら、これらの領域においても、葬儀業界や福祉業界、あるいはペット業界や金融業界等々とまったく同じように、大半の従事者は自分の職責にふさわしい能力と誇りを持ち、誠実にそれを遂行していることにちがいはないはずである。ここで摘示しようとしているのは、そうであるにもかかわらず、厳格な国家統制が加えられているこの分野においても、それを有しない場所と同じかそれ以上に質の悪い事業者が公然と存在しており、公的なお墨付き、独占規制がそれらの事業者を振るい落とす手段としては十分に利いておらず、まじめに仕事に取り組んでいる多くの誠実な同業者に対してもはなはだ迷惑な形でその評判を汚損しているという事実である。利用者から見て、玉石混淆が解消できない状態にあるこの手の業界は、ある共通の特徴、目印があって、それは雑誌でよく当該の業界に関して「信頼できる事業者の見分け方、選び方」という特集が組まれることである。信頼できる事業主がさかんに探索されるのは反対の者もいっぱいいるからで、そこからすれば、弁護士やあるいは医療の業界が、外部の目からみて葬儀業界とまったく同じように扱われていること(つまり国家による品質保全が有効に機能していないこと)が理解されるだろう。

一般に情報の非対称性の強い事業領域では、理論の指摘するとおりにそのままでは正常な市場競争が機能せず、霧の立ち込めたような見通しの悪さに悩まされる中で、参加者の間にはおのずから懐中電灯やヘッドライト、すなわち優良な事業者を不良なそれから見立てする評価サービスへの強い需要が発生するだろう。評価サービスはそれ自身が性能の優劣を比較されるので、元の事業者の不完全な競争の代わりに、評価サービス間の競い合いが生じ、ある種の「エミュレーター(疑似プログラム)」として元の競争を代替するようになる。それがうまく機能すれば、結果として元の事業者間のサービス競争も間接的な操作を通じてかなりの程度に正常化することが期待できる。これが格付・認証サービスの原理である。すなわち、われわれの生きた人体がなにかの不慮の怪我をした時に、決して壊れた機械のように受け身のままに怪我のしっぱなしでいるのではなく、傷口の周りに免疫の担当機能がかけつけて活発にそれを修復にかかろうとするのと同じように、不完全性という市場機能の「創傷」は、それ自体が新たな需要を呼んで別のサービス競争が周りから押し寄せてそれを穴埋めし、自分自身の機能の中で自己完結的に修繕して平衡を回復しようとするのである(先に中古車市場や葬儀業界で見てきたのはこの過程の萌芽である)。

これがいわば手の加えられない「自然治癒」の経過だとすれば、供給の国家統制による強制的な品質確保の試みは、そのような自然過程に割って入り、それを制止して自身の機構で手っとり早く、かつ人工的にそれを代替しようとするものだと認められる。そのレーゾンデートルと行為の正当性は、ひとえに情報の霧を吹き払って人工的な透明度を作り出すことにあるのであるから、その成否は、そうした整地作業がどの程度うまくいき、また、市場参加者の間に事業者評価への不安と需要圧力がどの程度発生するか、というよりどの程度発生しないかによってもっぱら測定されることになる。従ってその結果が上記のように、それがないよりも敷地の内側が薄汚れて、浮世の芥を内に入れないためでなくて内なる芥を表に出さないための間仕切りのような格好になってしまい、同時にそれを見た利用者の間にも事業者の評価サービスへの強い飢餓が澎湃(ほうはい)と沸き立って、建て前上は存在してはいけないことになっているそれを求めて濃霧の中で皆が右往左往するというものとなったとすれば、大掛かりな仕掛けと費用を注ぎ込んで行ったこの人工的な救済の試みは、「市場の失敗」が起きたから即自分の出番だと性急にそれを引き取って代打を買って出たお手つきを清算して店を追い出される程度には、その根幹部分において失敗だった、あるいはもっとありていにいえば、はじめから有害、無用だったと判断されるものになる。それはちょうど現物物資で国家統制による配給経済が失敗してヤミ市場が生じ、人々がそれに頼らざるをえなくなっているのと同じ、それと並行する現象で、いわば「情報の統制経済」が失敗して、情報のヤミ市場が生じているのである。それはわれわれの社会と経済にもともと備わっている自律的な機能が、国家権力の強制によってむりやり非合法化(弁護士の場合には後でみるかもしれないが事業として弁護士に関する情報供給を行うことは非合法で、犯罪とされている)、あるいは非正規化に追いやられている状態である。

これらの業界の内側では、こうした問題に対して、近年行われた規制改革と価格や広告等の自由化等に責を求める意見も強いようだ。しかしこの主張は、一見もっともらしいようで、冷静に考えると参入規制と業務規制の話がまぜこぜになった八つ当たりに近いものであり、理に適ったものとはとてもいえない。中途半端で折衷的な「改革」がかえって解決すべき新たな面倒を引き起こして当事者たちを困らせている事情とは別に、そうした主張は、それらの業界に認められている堅固な独占規制が、限られた優秀な人材を固定しておくための砦(とりで)ではなくて、逆に野に放ったら手当たり次第に人を食い殺す危険な飢えた虎を閉じ込めておくための檻のようなものであると自ら認めてしまっていることになるからである。世間一般の民間事業者が普通に認められ、その中で資源配分の最適化の追求と社会的目的を両立させようとすり合わせに苦心している広告出稿や事業者紹介や自由な価格設定といったありふれた事業行動が、それらの業界にひとたび許可されたとたん、先んじて他に範を示すどころか目も当てられないような惨状に落ちぶれてしまうのだとしたら、それどころか、内部関係者自身が自分の周囲を見回してあらかじめそのような危惧を持ち、外部の者に対して危険だからどうぞ自分たちをこのままきつく緊縛しておいてくれと懇願さえするのだとしたら、外に出てこれないように規制の囲いの中にしまわれていたものはそもそもいったい何だったのかと驚かれる話しになってしまうだろう。医療や法律といった重要で専門的な社会的サービスを利用する側の心情としては、高度な国家資格によって選抜されたはずの業界人の大部分がそのような情けない状態に染まっているとは思いたくはないし、たとえばWikipediaの当該の項に書かれている以下のような記述がただちに真実であるとも受け取りたくはない。

東京地検特捜部長や最高検公判部長などを歴任した河上和雄弁護士は、近年、弁護士が実刑判決を受けるケースが増えており、暴力団を除けばわずかな弁護士集団から毎年これだけの実刑判決を受けるような組織はないとして、この現状を厳しく批判している。


以上までにみてきたところでは、国家の直接関与によるサービス運営は、情報の非対称性に関する目的を達成するためのものとしては、はなはだ不十分で、それに失敗している、というより症状をむしろこじらせていることが強く疑われるものとなっている。情報の非対称性こそが国家介入を正当化する扇の要だという割には、制度もそれに向けて注意深く設計されいないし、関係者の自覚も乏しく、運用も粗忽で乱暴だ。そのさまは、まるで情報の非対称性という名の人質をいったん確保してしまえば二度と逃げ出されることはないと決めこんでいるかのようであり、権力の座に座る前に約束した「マニフェスト」などそれを手にした後は放り投げてかまわないと素知らぬ顔をしているどこかの政権のようでもある。これについて以下の二つの論点がありうるだろう。第一に、にもかかわらず国家関与による運営はその他の別の目的(たとえば低所得層への再分配のような)を掻き集めて足し合わせた形であれば、どうにかぎりぎり及第点に達し、国営化が正当化されうるだろうか。第二に、そこに設計の遺漏や目的との齟齬があるなら、それを自覚させ、軌道修正をはかることによって望ましい改善が見込めるだろうか。

まず第一の論点についていうと、ここで取り上げた以外の目的達成が、国営の正当性を担保するうえでどの程度足しになるのかということについては、ここではその一つ一つを改めて吟味することはしない。とはいえ、もともとはそれらのいずれもが根拠としては薄弱であり(たとえば再分配や低所得者層へのサービス提供は、もしそれをしたければ、金銭やクーポンで行えばよく、サービス自体をじかに国営で提供する必要はなにもない等)、ふつうに対等な形で競争すればほぼ必ず民間のものに品質で負けてしまうような相対的に鈍重で低劣な国営サービスを、あえてその形で提供するための最後の切り札、決定打たる情報の非対称性だったはずで、自らもそのように喧伝してきたはずだ。今さら他の古い手札を持ち出してどうにかなるものかどうかは、それを踏まえたうえで自省されるべきことだろう。

第二に公的主体の運営に問題があるなら、その枠組み自身の中で機能を修復し改善を目指していくという方向が正当化されるだろうか。たとえば公的運営らしく、また実際に大いに好まれるように、いっそう罰を強めて恐怖と強権と監視で組織を引き締め、一部自由化の方向にあった業務規制も再強化し、あるいは大きな抵抗を排しながらではあろうが、免許も更新制にするなどの対応策を着実に実行すれば、どうにか納得のいく品質水準にもっていけるだろうか。市場経済が幾多の失敗を経ながら成長していくように、公的サービスにも同じチャンスを平等に与え、市場競争とは違うものの自分なりのやり方で試行錯誤しながら成長していくのを辛抱強く待つべきだろうか。

その答えは、情報の非対称性がもたらす問題が、国営化という選択肢以外では解決できないという主張をわれわれがどの程度強く信じられるかによる。もしも上に描いたように、そうでない選択候補もあり、実際にコンクリート製の人工物以外の生きた緑色の葉を持つ植物もその地に育ちうるということを理解するのであれば、サービスの国営化は、むしろそのいつもの特有の欠点、すなわち、、軍隊的、集権的な計画と指揮による機動性と柔軟性の欠如、画一的で貧弱な供給を需要に遠く及ばないわずかな量で人々に行列させてありがたく下賜する配給制、そしてなにより代謝と外部監査が欠けていることからくる組織の澱みと腐敗、ギルド化による本来目的からの逸脱と資源の私物化、といった負の面の方がいっそう目につくようになってくる。特に悪質な不祥事を行った登録者をリストから除外せずに軽い懲戒に留めてそのまま紛れ込ませておいたり、情報の囲い込みによって密室化、ブラックボックス化するのは、純粋な職能集団が変質して徒党化、利益共同体化しているからであり、それがますます(専門性の高さという意味でない)悪い性質の非対称性を増速させることにつながる。現物経済においては、国営企業と民間企業が同等の条件で競合した時に、前者がよりましな出力を実現した経験をわれわれは持たない。試行錯誤しながら自己修正し、進展していく速度と歩幅は両者で比較にならないほど違う。そのことは最近の例でいえばたとえば気象サービスの状況を思い浮かべてもよいだろうし、あるいは上記の医療における情報インフラの事例で見ても、コンビニや宅配のような民間企業で利用者の不満に通じるような不良な情報システムが長期間放置されることはありえない(顧客から見放されて会社が潰れてしまうから)ということを考えてもすぐにわかることである。前者しか存在してはいけないのだ、後者が存在しているというのはその視覚すらも幻覚だという建前を躍起になって維持しようとしている圧政下において、人々が心中で本当に望んでいるのは、自分の寿命の間に実現するかすら杳(よう)と知れない国営の配給サービスの申し訳程度の修正ではなくて、いまだ雛鳥のそれであっても自分たちの身近な要求にフィットする民間の自生的な経済機能を正規に格上げして、そちらをこそ盛り立ててほしいということだろう。情報の探索それ自体がひとつのれっきとした立派な経済的需要であり、その層面における情報の経済が現に存在するというのであれば、そこでも同じメカニズムが働かないと信ずる理由は特にないように思われる。


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2010/03/09 | TrackBack(0) | 商品・サービス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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