第112話 残された物
翌朝……まだ外が薄暗いほどの朝方に目を覚ますと、辛うじて陽の光が入ってきていた。
久しぶりに感じる、全身が休まった感覚。
木に背をもたれかけて、凝り固まった痛みで浅い眠りが覚めるような朝とは、まるで違う。
ゆっくりと全身をぬるく包み込む温かい布団は、忘れかけていた文明からの抱擁だった。
人が暮らす世界に戻ってきたのだ、と感じる。
そして、横を見ると、そこにはキャロルがいた。
同じベッドで、横に丸まって寝ている。
美しい寝顔だった。
何かを感じずにはいられない。
出たくない。
ぬくもりに包まれていたい。
そう思いつつも、眠気はまったくない。
日が落ちてすぐに眠り、今はもう日が昇っている。
たぶん9時間か10時間くらいは眠ったのだろう。
眠気がないはずだ。
俺は、ゆっくりとベッドから抜け出した。
置かれた状況を思い出させるように、膝と足の裏がズキと傷む。
幸いなことに、ベッドの下半分が血でべっとりということはなく、シーツや布団はまったく濡れていなかった。
出血はほんの少しで済んでいるらしい。
スリッパをはいて、音を立てないように部屋を出た。
***
上着を着て、外履きのサンダルに履き直し、炊事場で固いパンを一切れ口に入れた。
外に出ると、早朝の寒気が頬を撫でる。
歩きやすいように、壁伝いに家を左回りにまわると、俺は家の裏手にある小さな納屋に入った。
その中には、前に見た時のまま、様々な道具が雑然と放り込んであった。
薪割り斧や、枝落としのための
簡単な棚なども作っていたのか、それなりに製材された板や木の棒も転がっており、木っ端などもたくさん山になっていた。
まあ、松葉杖を作るくらいは簡単だろう。
しかし、前のやつはTに横棒が一本足されたような形だったが、握り手の真ん中に棒が貫いているというのは握りにくそうだったな。
石づきが真ん中に来たほうが、重心的にはいいのかもしれんが、いっそFのような形にしたほうが使いやすいかもしれん。
前に作った時は釘が使えなかったが、今回は幾らでもあるし、できないこともないだろう。
カーブしていた方がいいかと思い、ぐにゃりと曲がった枝材を骨にして、自分で試しながら二本の腕をつけた。
持ち手に斜めに支えを付けたら、一応は完成だ。
試してみる。
体重を預けて、ギュ、ギュッと体重をかけてやっても、バキッといきそうな感じはなかった。
外を見ると、もうすっかり日が明けていた。
簡単な作業とはいえ、錐を使ったり丸い枝材に角棒を取り付けるのにノミで成形したりと、やることが多かったからな。
**
杖を使って家まで戻ると、キャロルは既に起きていた。
というか、玄関先でむっつりとしている。
片手には、ステッキのような歩行杖を持っていた。
昨日は気付かなかったが、押入れかどこかに入っていたのだろう。
俺の作ったゴミのような日曜大工と比べれば、造りに雲泥の差のある杖で、当たり前だがプロの仕事だった。
あくまで両足を使って歩くのが前提の杖なので、松葉杖のほうが具合はよいだろうが、屋内を歩くには重宝するだろう。
握りやすいように握り手も波になっている。
「よう、おはよう」
「……どこか行くならひとこと言ってからにしてくれ。心配した」
心配したようだ。
大声を出して呼んで回るのもはばかられる状況だしな。
「悪かったな。起こすのも悪いかと思って」
「起こしてくれたほうが気が楽なんだ」
あー。
俺も、逆の立場だったらそう思うかもな。
「それはそうだな。悪かった」
「うん」
「それはそうと、いい杖だな。見つけたのか」
「二階の部屋に置いてあった」
二階まで探したらしい。
参ったなこりゃ。
「湯は作っておいたから、食事にしよう」
「すまなかったな」
「……いい。もう大丈夫だ」
***
パンとスープ、そしてチーズやハムなどのつけあわせで、簡単な食事を済ませると、キャロルが茶をいれてくれた。
恐る恐る口をつけると、あまり苦く感じなかった。
それどころか、かなり芳醇な香りがして、なんとも美味しい。
「美味い茶だな。昨日のはやめたのか」
「ああ、あれは、一日に一回飲めばいいんだ」
そうなのか。
傷が治るまで延々と毎食後飲まされるものかと思っていた。
「飲み過ぎると毒なのか?」
「あー……えーっと……常飲すると石ができるんだ。とても痛いと話に聞くあれが」
……結石か。
御免被りたい。
経験したことはないが、想像を絶する痛みと聞くし。
基本的に開腹手術の習慣のないシヤルタでも、盲腸と尿路結石だけは開腹手術が行われている。
当然感染症による死のリスクが高い、生死をかけた大冒険になるわけだが、この両病は死んだほうがマシというレベルの痛みを伴うので、選択の余地なく皆大冒険に出ることになる。
「それは勘弁願いたいな」
尿路結石は男のほうが圧倒的になりやすい。
「そうだろう。控えておいたほうがいい」
「ところで、ミャロの手紙はもう読んだのか?」
「……うん。読んだぞ」
と、キャロルは妙に真剣な顔をして言った。
だから寝るのが遅くなったのかもしれない。
「そうか……じゃあ、俺たちが大分ヤバい状況にある事は分かるな」
「ああ」
「一日早けりゃあ万事解決したんだろうがな。これは言ってもしょうがない」
「私は、一瞬気が遠くなりかけたけど」
それは……。
まあ、しょうがないか……。
「そんでな、問題は、歩けるようになったらリフォルムまで歩くって作戦じゃあ、どうも上手くいかなそうだってことだ」
「いっそ、クォナムを目指すか?」
クォナムというのは、リフォルムの北にあるそれなりに大きな都市だ。
キルヒナの内地交易の拠点として栄えている。
「いや、一番肝心な問題は、歩けど歩けど敵の前線を追い越すことはできないってことなんだ。街道はもはや使えないはずだからな」
俺とキャロルの足が今この場で完治したとしても、街道を使わず今までのような森歩きでは、速度が出ない。
行軍速度が遅いといっても、リフォルムに先にたどり着くのは、敵の包囲軍の方だろう。
「流石に、シヤルタまで
皮肉な話だが、追手がかからないと食事に困ってしまう。
ここには大量の食料があるが、数十日分を携行していくわけにはいかない。
持てるのはせいぜいが五日分くらいで、基本的には現地で調達していく必要に駆られるだろう。
「うぅん……難しいな」
「それでな、俺は一か八かここで待ってみるのがいいと思う」
「待つ……とは? ミャロをか?」
「いや、敵をだ」
「敵を……? 敵を倒すのが目的ではないだろう」
「必要なのは、やはり馬だ。ここに初めに来る連中は、偵察だろ? もちろん、連中は馬を持っている」
偵察といっても、たぶん来るのは威力偵察まがいの連中だろう。
主目的としては偵察だが、きちんとした武装もしており、発見した目標が脆弱な場合は、攻撃して踏み潰す。
言い方を変えれば、先遣隊と言ってもいい。
逆に勝てる見込みもないほど強大か、もしくは彼我の戦力が同等レベルと考えられる場合には、一目散に逃げて情報を持ち帰る。
こういった無防備な村であれば、ついでに略奪をしていくこともあるだろう。
その点で、避けようがない戦闘以外は基本的に回避する、純粋な意味での偵察任務や、潜入偵察のような作戦とは性格を異にする。
それらと比べれば、多分に攻撃的だ。
軍本体に先行する偵察というのは、大軍団が敵地を進む場合は必ず行われることで、これをしなければ伏撃や奇襲をやられ放題になってしまう。
そういった地道な作業は騎兵という兵種の言わば日常業務であり、大軍団の移動に絶対に必要なサービスでもある。
地理的に考えて、この村は必ず偵察の対象になるだろう。
もちろん、そういった連中はカンカーのようにプレートアーマーなどは着ていない。
重すぎて馬が疲れてしまうからだ。
素の格好に多少胴鎧と兜をつけた程度の、軽快な格好をしているはずだ。
「そいつらを迎撃、撃滅して、馬だけを奪うというわけか?」
「まあ……そうなるな。馬が手に入れば、なんとか敵を追い越して、リフォルムまで行けるだろう」
キャロルには言うまでもないことだが、こういった偵察は本隊に先んじて行うものだから、偵察隊を倒してからすぐ大街道へ出れば、敵の大集団と遭遇する危険はない。
それが成功するようなら、強力な部隊が偵察を殲滅した場合、即街道を駆け上がれば、本隊はまったく気づかぬまま側面を衝かれてしまうことになり、偵察の意味がない。
「良い作戦に思えるな。敵の偵察隊を確実に倒せるのか、という点を除けば」
それはそうだわな。
「もちろん、確実に成功する見込みはない。まかり間違って敵が百騎もやってきたらどうしようもないしな」
「そうか……」
キャロルは気鬱そうな顔をした。
そりゃそうだろう。
選択の余地がないとはいえ、成功の可能性のほうが低そうな作戦だ。
頭の一つも痛くなる。
偵察から逃げ、敵が迫る中をシヤルタまで駆けるという、成功率が極微の作戦と比べれば、二割でも三割でもマシなほう……というような話でしかない。
もっとも、残された希望の話をするなら、ミャロがここにもう一度来るという可能性もなきにしもあらずなんだが……。
「他にも問題はある。もちろん俺たちは罠を張って待ち構えるわけだが、ミャロの手紙から考えたら、敵さんは今日来ないとも限らない」
当然ながら、今この時来られたら太刀打ちのしようがない。
今この時、街道のほうから馬の蹄の音が聞こえてくるというのは、十分にあり得る話だ。
「そうだな」
「まぁ急いでも傷が悪くなるからな。ゆっくりやろう」
茶を一すすりしながら言う。
急いだところでどうにかなる問題でもないしな。
それにしても、このお茶は本当に美味い。
「ゆっくり……って……そんな悠長なことを言っていてどうする? 時間がないんだぞ」
なんだか切羽詰まってる感じだな。
まあ命がかかってるわけだから、仕方ないか。
「相手は騎馬なんだ。ちょっとした罠を山程作っても意味がない。馬を殺してしまったら元も子もないしな」
「じゃあ、どうするんだ? 策はあるのか?」
「ミャロの手紙を読んでないのか」
「馬鹿にしているのか?」
機嫌を損ねたのか、なんだか怒っているようだ。
「なら、書いてあったろ? 置き土産のことがさ」
***
この家は、代々村長を務めてきた家の所有物だが、地下にはわりと大きな地下室が広がっている。
間取り的には、全体の6割ほどが地下室の上にある。
ホウ家領にある俺の生家がそうだったので解るのだが、地下室があるのは土間と風呂場以外の地下だ。
竈の関係で土間となっている炊事場と、土足で入れるよう配慮された集会場(ここは宴会場も兼ねる)、そして風呂場の下には地下室がない。
完全な防水施工が技術的に不可能なため、水をこぼすと地下に滴ってしまうからだ。
同様の理由で、周りに堀が巡らせてあるホウ家の本宅と、川の近くにあるシビャクの別邸にも地下室はなく、代わりに地上に蔵が建ててある。
本来であれば、隊の食料をまとめて買い取る時も、この地下室を食料庫にしたかったのだが、そうするとゴチャゴチャと積まれてきた村長家の物品と混ざってしまうこともあり、他の家を一軒借りることにしたのだった。
が、要塞まで陥落した今となっては、遠慮をする必要もあるまい。
地下室の入り口は、風呂場近くの廊下にあるのだが、ミャロが入り口を隠していた。
扉は床にあり、ハシゴのかかった穴を、戸で蓋をしたような形になっている。
が、今は一見無造作に置かれた木箱が、すっぽりと穴を隠していた。
木箱をどけると、正方形に金具がついた開き戸は、以前のままの姿でそこにあった。
戸を開けると、中は当然ながら真っ暗だ。
ハシゴ降りられるかな。
杖を廊下に置き、恐る恐るハシゴに右足をかけながら降りると、腕で体を支えることで、わりかし簡単に降りることができた。
腕の力を使う作業だったが、そもそも懸垂とかめちゃくちゃできるしな。
「キャロル、杖を落としてくれ」
「落とすぞー」
すとん、と俺の杖が落ちてきたのを、キャッチする。
用心しながらライターに火をつけ、ランタンを探した。
ランタンは、覚えにあった場所に、そのまま置いてあった。
油の染みた芯に火を移し、灯火を作る。
同じ所に、ロープが結ばれた取っ手付きのタライのようなものもある。
これは、地下室から食料を引き上げるために使われていたものだろう。
俺は、ロープの束をキャロルに向かって投げた。
キャロルが危なげなくキャッチする。
「どっかに結んだら、降りてきていいぞ」
そう言い残して、俺はランタンで地下室を照らした。
地下室の真ん中あたりに、不自然な樽が倒れ転がっている。
樽は倒された状態で転がされ、口の空いた端からは、黒い火薬がうず高く溢れ積もっていた。
この火薬樽は、酒を作ったあとの樽を再利用したもので、腹のところに開けられた小さな栓以外、再密封できる開封手段はない。
蓋は片方、半分割って開けてしまったので、転がして運べば中身が漏れる。
しかし、隊の連中は捨てていくつもりだったため、外からの大きな入口から転がして入れたようだ。
照らして見ると、こぼれ落ちた火薬が、樽の転がったラインに太い線を作っていた。
それでも、樽の中には蓋が残った半分までの火薬は残っている。
「火薬は踏むなよ。埃を巻き上げないように、静かに歩いてくれ」
と、ハシゴを降りてきたキャロルに言う。
「分かっているが……でも、それを使うのが一番危ないのではないか? 光なら、外からのドアを開ければいいのに」
それはその通りで、この地下室のもう一方の入り口、外からのドアはかなり大きく、階段状にもなっている。
だから、隊の連中はそこから転がして入れたのだ。
家の中から入る道は、言わば裏口になる。
外からのドアを開ければ、十分に日が昇った今であれば、地下室の中にも光が入る。
「そっちは、土をかぶせて偽装してあった。さっき家を回った時に見たが、十日ちょっとで上手い具合に風化しているんだ。崩したら台なしになる」
「あ、なるほど……」
「ここはもういいだろう。食料を幾つか回収して戻ろう」
ランタンをなにかの拍子に落としたら危ないし、踏み込んだことで粉塵化した火薬が、ランタンに入る可能性もある。
まあ、いくらか巻き上げられた程度の火薬が燃えたところで、火の勢いが若干強まる程度だろうが。