オフィシャルサイトカート(ウィル・オールダム)は失敗したことに気がついているけれど、マーク(ダニエル・ロンドン)はそれに気づいていない。30の半ばを過ぎたヴァガボンドが、気がつけばしのびよる孤独の影に追い立てられて旧友を訪ねる物語を読み始めたつもりでいたのだけれど、それまでこの2人が育んだ友情がどのような背丈や色どりであったかはわからぬまま、変わらずいることを選んだカートと、自分がどう変わったのか知らぬままのマークがかつての友情の手癖だけで過ごす、うっすらとした緊張と弛緩のいりまじる時間が折り重なるに連れ、救われるべきはカートではなくマークなのではないかと次第に思い始めるのである。まだカートが現れる前、妻ターニャ(ターニャ・スミス)に「いつも私におうかがいをたててはみるけど、結局はそのとおりにしてしまうでしょ」と言われて黙ったままのマークは、言い返さないのか言い返せないのか、このあらかじめ諦めてしまったようなマークの表情や後ろ姿はこれから先、カートとのキャンプ旅行の中でもしばしば顔を出すこととなる。ぼくのじゃなく君の車で行くことにしようぜとカートに言われれば黙ってそれに従い、運転はマークひとりが受け持ち、スタンドでもマークが給油する間カートは犬のルーシーと遊んでいる。目的地への道順も曖昧なカートの言う通り車を走らせては当り前のように道に迷い、車から降りてボンネットに地図を広げて現在地を確認するマークを、カートは車の中でマリワナを巻いて吸いながら見ているだけでまったく手を貸そうともしないまま、助手席のカート越しにマークを捉えつづけるこのシーンのある種の執拗さに、これはカートのでたらめというよりはわざとそうしているのではないかとワタシは思い始めることとなる。そうやって目的地にたどり着けないまま日が暮れてテントを張った空き地で起こした焚き火を前にとりとめのない会話が続く最中、突然カートが「なんだか俺たちの間にはずっと壁があるように思うんだ」と言い出した後で「おれなんだかおかしかったな忘れてくれ、なんでもないんだ忘れてくれ」とうろたえて取り繕うその姿に至って、それまでの違和感が小さく爆発することとなる。それでもマークはカートのそれを否定も肯定もしないまま「大丈夫だよ」と、壁があると言ったことなのか、忘れてくれと言ったことなのか、何についてなのかわからない収め方をしてしまうのだ。そしてそのままやってくる翌朝のシーン、何事もなかったかのようにひとり先に起きて黙々としかし一心不乱といった風情で自分の寝袋をたたむマークと、あとからごそごそとテントから這いだしあくびをしながら数歩歩いた先で立ち小便をするカートの構図は、少なくともマークにとって「壁」があったとしてもそれは乗り越えるものではなく、間もなく父親になる自分はその責任へのモラトリアムとしてのこのキャンプに来ているにすぎないという無言の意志だけが感じられて、友情らしき感情の握手はここでも後回しにされたままに見える。その後マークがほんの一瞬でも饒舌になるのは、温泉に向かう森の中、自分がおこなっているヴォランティア活動のことを話す時で、それをカートに褒められて気を良くしたマークがキミにだってできると思うんだよとカートに言う、その会話の質量のなさは絶望的にも思えるのだけれど、おそらくマークはそれにも気づかないままなのだ。そんな時間を歩きつつとにもかくにもたどりついた温泉で、悲しみは使い古された喜びにほかならない(Sorrow is nothing but worn out joy)とタイトルにもつながる屈託の源泉を話すカートの声を聞いているのかいないのか、心ここにあらずといった表情で湯につかるマークにしてみれば、だってこの瞬間こそが旅の目的なのだからといった無関心(と言ってしまってもいいだろう)は変わらぬまま、突然自分の肩に触れたカートに一瞬たじろいではみせるものの、それがカートの言う壁なのかどうかそんなことすらも考えぬまま、森の奥で日の差す中、あたたかな温泉に身をほぐされる恍惚を貪ることだけを決めたようにワタシには見えた。キャンプの夜と同様、その先は描かれないまま次のシークエンスでは既に帰路につく2人にとって、いったいこの旅はどこかへ行き着くことがあったのか、それは行って帰ってくる旅であったのか、カートを送り車中で一人になったマークは旅の余韻を噛みしめるでもなくさっそくラジオをつけるのだ。それは前半でも、車内のラジオ音声としてインサートされていた「エア・アメリカ(Air Americaとクレジットにあった気がした)」のやり取りで、この左翼系放送局の番組で語られるリベラルの議論というよりは繰り言をBGMのように聴くマークの姿と対比してラストに描かれるのは、夜の街をひとり足早にしかしとめどのない感じで歩くカートが、通りすがりのホームレスに小銭をねだられ、一度は謝って断ったあとでポケットの小銭をさらって差し出すその姿で、この映画が2006年というリベラルが負け続けた時代の只中に撮られたことを考えてみれば、リベラルの男たちが陥り続けた陥穽とそこであがく彼らへの感傷と憂鬱が監督の筆を誘ったように思うのだ。そしてこの旅の行くすえはといえば、それは行ったきり帰ることのない旅であったことは瞭然だし、冒頭で述べたように失敗したことに気がついているカートとそれに気づかないままのマークを告げるラストを待たずとも、ケリー・ライカートはそのつもりでずっと彼らを描いていたことは言うまでもなく、そして何より、青春を終えると人は死ぬときに備えてどんどんひとりになっていく、そのチェックアウトを告げて夕方5時の鐘を鳴らすような物語にも思えたのだ。そろそろ帰り途を探しなさい男たち、と。
posted by orr_dg at 23:12
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