2021年03月23日

ビバリウム/家を見に行くつもりじゃなかった

vivarium_02.jpg
オフィシャルサイト

アメリカ的な物資主義の墓場としてのサバービアというよりはシステムの牢獄としてのそれにデカダンスの爛れはなく、そうした囚われが生み出すのは無表情で無感情な人間もどきに過ぎないといういささか牧歌的な比喩と、侵略ものとしては「それ」1人というか1匹というか1体の生育に人間2人を消費して地味にマイナスを重ねていく悠長さが終わらない日常の倦怠と絶望の尻尾をつかまえてはいるものの、その終わらなさの質が完全に変わってしまっている2021年においてはどうにも他人事の手慰みにとどまってしまう点で、互いに運が悪かったというしかないように思えてしまう。人間しぐさを刷り込ませるにおいて、持家の購入を検討するライフステージにある男女を社会的に機能する人間のサンプルとして抽出し托卵させるマーティンたちの目のつけどころはなかなか秀逸で、成長したマーティンがトム(ジェシー・アイゼンバーグ)とジェマ(イモージェン・プーツ)に向ける視線が冷ややかかつ蔑むように変わっていくあたりに、これほど脆弱で卑しい存在に寄生しなければならない我が身への自己嫌悪をほのかに匂わせて、それは人間様の完コピもたらした人間性ゆえの帰結なのかマーティンとしての本質に芽生えたそれなのか、いずれにしろそれを成長の終わりとして、冒頭でトムがそうしたように穴は埋められてマーティンは町に帰っていく。システムを懐疑してそこから「自立」し「自由」であろうとした男女が最期にはそこに呑まれ喰われてしまう物語にあるのは、教訓と言うよりは巧妙なシステムのめぐらされた世界の反映に思え、だからこそルードボーイ賛歌としてのロックステディ「Rudy A Message To You/ルーディたちへのメッセージ」と「007(Shanty Town)/シャンティ・タウン」をわざわざオリジナルヴァージョンでインサートすることでその敗北を痛切にしてみせたわけで、ならばラストの1曲がなぜザ・クラッシュの「Rudie Can't Fail/しくじるなよ、ルーディ」でなかったのか、これがどれほどの画竜であったかはともかくとして点睛を欠いたのは間違いがないように思ったのだ。もちろんXTCには何の恨みもないけども。
posted by orr_dg at 20:19 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年03月17日

ラスト・フル・メジャー 知られざる英雄の真実/善き人のための戦争

the_last_full_measure_03.jpg
オフィシャルサイト

ウィリアム・H・ピッツェンバーガー(ジェレミー・アーヴァイン)は、なぜデズモンド・トーマス・ドスたりえなかったのか。苛烈な戦場における死力を尽くした自己犠牲にも関わらず、なぜピッツェンバーガーにはドスが授かったアメリカ軍人最高の栄誉である名誉勲章が授与されなかったのか。その始まりとなった1966年4月11日のベトナムのジャングルにおけるピッツェンバーガーをめぐる顛末を、その作戦に参加した部隊の生き残りであるトム・タリー(ウィリアム・ハート)、レイ・モット(エド・ハリス)、ビリー・タコダ(サミュエル・L・ジャクソン)、ジミー・バー(ピーター・フォンダ)、ケッパー(ジョン・サヴェージ)たちのフラッシュバックによって再構成する手際の明らかな停滞、同じシークエンスを角度を変えて繰り返しながら、それが必ずしも羅生門的な事実の乱反射を目的とするわけでもない意図の曖昧さがピッツェンバーガーの英雄的な行動の昂ぶりを抑え込んでしまうのを、デズモンド・ドスの献身を描いた『ハクソー・リッジ』が隠すことをしない愛国の直線的なヒロイズムに対する意図的な回避として捉えるか、あるいはそれから32年後のワシントンで、キャリアへの野心を隠さないペンタゴンの官僚スコット・ハフマン(セバスチャン・スタン)にとっては貧乏くじでしかない再調査の仕事が、戦争を知らない子供たちとしてのハフマンにとっての地獄巡りとなっていくその彷徨がもたらす覚束なさであったからなのか、もしくは単なる不手際か、そのいずれであるにしろベトナム戦争にまつわるすべての記憶と同様に終始歯切れが悪く口ごもったままの語り口が映画の通奏低音となっていく。この映画のミステリーとしての側面を補強する冒頭に述べた謎は、ピッツェンバーガーの使命感あふれる行動と対極をなすある卑俗な理由によっていたことがハフマンの尽力で明らかになり、ピッツェンバーガーの年老いた両親であるフランク(クリストファー・プラマー)とアリス(ダイアン・ラッド)が息子にかわって名誉勲章を受け取ることとなるのだけれど、監督/脚本のトッド・ロビンソンにとってそこに陰謀論的なサスペンスを塗すことが主眼にないのは、あくまで感情のまま粗雑と言ってもいい組み立てにおいて明らかで、それらいくつもの揺らぎやブレが、ベトナムとピッツェンバーガーの記憶に苛まれたまま年老いていく復員軍人たちとの邂逅を通してアメリカの記憶に触れていくホフマンの混乱や困惑と、それが次第にピッツェンバーガーの精神の継承へフォーカスされていく足どりに重なったその一点突破において、この映画は肉を切らせて骨を断つことを可能にしたように思うのだ。そして何より、アメリカ映画を支えてきた錚々たる俳優たちそれぞれの慟哭や告解がそのまま戦争国家アメリカの鎮魂歌となったのは言うまでもなく、図らずも今作が遺作となったピーター・フォンダとクリストファー・プラマーのうち、かつてのキャプテン・アメリカであったピーター・フォンダがシェルショックに苛まれるヴェトナム復員軍人を演じる帰結がその響きをいっそう忘れがたくしている。そんな彼らと比した自らを精神も肉体も小さく着痩せすることで、彼らを看取る存在としてかしずくセバスチャン・スタンの密やかな自在にも目を瞠る。
posted by orr_dg at 22:53 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年03月12日

野球少女/おおきく振りかぶらないで

baseball_girl_02.jpg
オフィシャルサイト

契約金の額を提示されたスインの母(ヨム・ヘラン)が、それを支払わなければスインは契約をしてもらえないと勘違いしてうろたえる姿に、持つ者が持たざる者からさらにむしり取る社会の仕組みとそこで痛めつけられてきた彼女が身に付けざるを得なかった、夢なんてものはそれを買える人のためのものだという諦めとそれが導く哀しい処世術の理由が明かされた気がして、それまで憎まれ役としてスインに立ちはだかり続けた母の姿が音をたてて崩れ落ちていく。スインにとって自分がプロ野球選手を目指すのは、自分は他の選手よりうまくプレイできるからその先のステージに進むのだという極めてシンプルな動機によるもので、そこには母がおびえる夢の幻影やガラスの天井を蹴破る理想の達成といった、マウンドとボールの手触りのない感情の入り込む余地はなく、それゆえ周囲の人々はコーチから友人、球団オーナーに至るまでが彼女の揺るがないピュアネスに映った自分を見て、なぜ自分はスインを阻もうとするのだろうという自問自答へと誘われてしまうのではなかろうか。一つだけスインにもたらされた新しい覚醒があったとすれば、速くて強いボールを投げなければいけないという力勝負へのオブセッション、それは常に肉体の優位を誇る男性を相手にすることで宿してしまった呪いでもあるのだろうけれど、そうした野球のマチズモ的側面を利用するプレイへの理解と実践を手に入れたことで、最初は野球部員にも痛打されたストレートで現役のプロ野球選手をピッチャーフライに打ち取ったピッチングでそれを伝えて見せて、題材の割にはそれをメインとしないプレーシーンのクライマックスをそこに凝縮させた監督の意図とその手腕はとてもスマートに思われる。正直に言ってしまえば、スインの体格と投球フォームで130km/h超えのボールを投げられるかといえばいささかの疑問符もついてしまうわけで、いくらCGで投球の軌道を描けるとはいえ、ワンカットで投球がキャッチャーミットにおさまるシーンが少なくほとんどの投球シーンをカットで割っているのもそうした理由があったように考えるのだけれど、それを不満に思わせないのは、マウンドに上がるまでのスインが起きてから寝るまで、おそらくは眠っている間でさえどれだけの視えないボールを様々な相手に投げ続けてきたかワタシたちが知っているからなのだろう。そして何より、そちらに振ろうと思えばいくらでも振ることができたロマンスを踏みとどまることで、スインに吹く孤高の風を捉え続けるそれ自体を目的とする清冽が遠くを見やることを可能にしていて、夜の職員室でひとり仕事を続けるキム先生(イ・チェウン)を目にしたジンテコーチ(イ・ジュニク)が声をかけようとしてためらい帰っていくシーンにすら、ここまで来てすべてを台無しにするつもりかと要らぬサスペンスすら生まれる始末で、だからこそ精一杯の譲歩としてジョンホ(クァク・ドンヨン)とスインの関係を爪保護のマニキュアに託した友情の甘酸っぱいゆらぎがことのほか愛おしかったのだ。スインの背番号が新たな「42」になる未来が待ち遠しい。
posted by orr_dg at 17:48 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年03月07日

あのこは貴族/私はあなたのココロではない

anoko_03.jpg
オフィシャルサイト

幸一郎(高良健吾)が2度目に華子(門脇麦)の頭を撫でた時、華子は頭を振ってそれを拒否し、幸一郎はそれに一瞬戸惑いながらも無言のまま部屋の奥に消えていく。この直前、自分には夢なんかない、この家を継ぐように育てられてきてそうするだけだ、と初めて内面らしき欠片を吐露した幸一郎の言葉に、たとえ自分がここではないどこかをおぼろげな夢として思い描いたとしても、それが叶うはずもない現実をおそらく華子は人生で初めて面とむかって突きつけられている。そんな風にして自分より巨大な異物と出会って初めて知る違和感の正体を、そののち華子は美紀(水原希子)の部屋でとらえることとなる。人生とはこちらから手を伸ばして探し求め手に入れるものであったにちがいなく、しかしすべて与えられたもので出来上がった自分のそれは、私の人生というよりは「わたし用」に用意された人生と呼ぶ以外に言葉が見つからず、それを生きるしかないことを幸一郎はとっくに知っていたからこそ、夢などという言葉を持ち出した自分を哀れんだのではなかったか。そうして華子は、自分の結婚が失敗だと分った時にそこから逃げ出す足腰を私は今から鍛えておくのだと、かつて逸子(石橋静河)が自分と美紀の前で言ったことの意味をようやく手に入れることとなるわけで、わたしたちって東京の養分だよねと、健やかに自嘲する美紀と里英(山下リオ)の言葉通り、それを摂り込んで芽を出した華子は囚われの幸一郎を見つめる慈愛の眼差しすらをついには湛えてみせるのだ。おそらく遠くない未来、美紀と里英の立ち上げた会社が企画したイベントでヴァイオリンを演奏する逸子とそれを袖から見守る華子の姿をワタシたちは見ることになるのだろう、そうやって階段を降りてきた2人と昇ってきた2人は踊り場で出会って4人は友だちになるのだろう。そして東京を笑いながら走り抜けていくのだろう。ワタシが好きなのはそんな彼女たちのいる東京だ。というわけで、自分で手に入れたものと与えられたものの象徴としてある「東京」をいまだ東京タワーに託すしかないのは、4人が自分たちだけの東京をまだ発見していないことの顕れということにしておきたい。美紀の部屋でジノリでもロイヤルコペンハーゲンでもウェッジウッドでもないただのマグカップを手にとった華子は、なんかいつまでも経っても捨てられないものってあるよねと美紀に話しかけられながらも、自分の愛着や執着で生活を染めたことのない華子はきょとんとして言葉につまってしまうのだけれど、それに応える美紀の、わかんないかぁという言葉には蔑みや卑下のかけらもなく、それよりは今この場所であなたと話をしているそのことが、なんだか新鮮で楽しくて気持ちが明るいのだという浮き立つような喜びが愛おしく感じられて、なんだかこちらまでおめでとうと祝福したい気持ちでいっぱいになったのだ。原作を読んでいないので監督が何を生かして何を捨てたのかはわからないけれど、これを階級闘争として幸一郎を追い詰めることを目的としなかった監督のたおやかな視線は曇りなく頼もしい。
posted by orr_dg at 23:28 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年03月03日

カポネ/お前はおれを忘れるから

CAPONE_06.jpg
オフィシャルサイト

はだけたローブからオムツをのぞかせて金色のトミーガンで目に入るものを片っ端からなぎはらった後で、健康のため葉巻代わりにくわえさせられたニンジンをペッと吐き棄てたつもりのそれは、情けなく弱々しい軌道でボタッと足もとに落ちていくばかりなのだけれど、この葉巻代わりのニンジンこそがここで描かれるアル・カポネ(トム・ハーディ)であったようにも思え、自身の過去が召喚した、葉巻をニンジンへと変える呪いに喰われていくその姿を、混濁して萎縮し夢と現の境界が決壊していくカポネの意識が映す緩慢な走馬灯として、ジョシュ・トランクはそれを悪意というよりは観察者の眼差しで追いまわしては垂れ流すように描いていく。垂れ流すようにと言ったのは、彷徨するカポネの意識と対比されるべき現実世界のフロリダまでもその足元があちこちで怪しくなっているからで、地の文のつもりで読んでいたらそれもまたカポネの独白であったというその侵食はバイオピックとしての使命を放棄しているように映りはするものの、梅毒に犯された体で小便と糞便を漏らしては襲い来る卒中の危機をかわしつつ過去と現在のあわいで茫漠とした時間を漂うカポネの姿に、濾過された狂気の上澄みがスッと透徹する瞬間を見つけるスリルは確かに存在したように思うのだ。1000万ドルともいわれるカポネの隠し財産の在りかをめぐって、病気の進行によって認知が緩みその隠し場所を思い出せないカポネのふるまいは果たして詐病なのか、それを見極めんとする家族や仲間、そしてFBIの思惑が交錯する神経症的なサスペンスの痕跡が認められはするものの、それをジョシュ・トランクの失敗とするのか、あるいは計算された幻視の目くらましとするかで評価が反転することを考えてみた時、批評家筋の評価からすればあらかたは前者であったのだろうこと、それに加えてジョシュ・トランクの業界的風評がマイナスのバイアスを誘ったことは瞭然であるのだけれど、唸り声以外ほとんどまともなセリフのない破壊されたカポネをトム・ハーディに託して創り上げた己と俳優への確信と、それを解き放った悪魔的な幻視のなめらかに震える催奇性をワタシは断然支持したいと思っている。そのキャリアを干されるどころか、トム・ハーディ、マット・ディロン、カイル・マクラクランといった界隈のスターをキャスティングし、カメラでリンチ組のピーター・デミングまでも招集した製作陣にはローレンス・ベンダーの名前も見てとれて、彼らもまたジョシュ・トランクの才能がスポイルされることを望まなかったのだろうことがうかがえた気もしたのだ。何はともあれ、ほとんどパントマイムといってもいいトム・ハーディの離れ業だけでも観ておくことをお薦めする。
posted by orr_dg at 16:00 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年02月25日

世界で一番しあわせな食堂/料理みたいな恋をした

mestari_cheng_04.jpg
オフィシャルサイト

寂れた町にふらっと現れたよそ者が、女主人の切り盛りする店とそこに集まる町の人々の表情に明かりを灯すべく立ち上がる、と言ってみればまるで西部劇の幕開けのように思えるのだけれど、ここにはよそ者が打ち倒すべき敵がいないのだ。ワタシたちが思い浮かべる常套であれば敵が出てくるに違いないシーンのことごとくで、よそ者は笑顔と礼儀とで迎えられ、よそ者が町を救うというよりはむしろ町がよそ者を救おうとすることにより生まれる正のスパイラルがよそ者と町の人々の人生を祝福して幸福を高めていくわけで、とはいえそれが確信的な性善説の桃源郷として鼻白むことがないのは、これが30年間をブラジルで過ごしたミカ・カウリスマキが彼の地で目にした分断と負のスパイラルへのカウンターとなる実験にも映ったからで、それは弟アキが近作でついには流血する希望へ踏み込んだ後に筆を置いてしまったことへの呼応に思えたりもした。カウリスマキ兄弟の映画を観ていると他人に優しくすることがいとも簡単に思えてしまうのだけれど、この作品を観てあらためて思うのは、ことさらに優しくしなくても嫌ったり憎んだり遠ざけたりしなければ、そうする理由を探すことさえしなければ人間は自然と繋がるように造られているのだなあというただそれだけであって、この映画をともすれば寓話やおとぎ話と片づけてしまいたくなるのは、防弾ベストのように重ねたそれら理由を手放して丸腰になることへの照れというよりは怖ろしさがそうさせるのだろう気が我ながらしている。チェン(チュー・パック・ホング)とニュニョ(ルーカス・スアン)の主人公親子が中国人ということで、人種や文化が前景となるシーンではそこに始まるクリシェを予想して思わず身構えてしまうのだけれど、こちらのそうした反応を見透かすように監督は、それを衝突や軋轢ではなく新しい出会いへと軽やかに筆を走らせてみせて、その度にワタシは自分が益体もない知ったような顔の分断に毒されていることを知らされてどぎまぎしてしまうのだけれど、それを見透かしでもするようにチェンとシルカ(アンナ=マイヤ・トゥオッコ)やヴィルブラ(ヴェサ=マッティ・ロイリ)、ロンパイネン(カリ・ヴァーナネン)の交流とそこから生まれる更新がだんだんとワタシの毒を抜いていくわけで、冒頭でこれが西部劇だとしたら倒すべき敵がいないのだと書いたその敵は、何てことはない、実はワタシであったのだ。おれはお前の分断を知っているとミカ・カウリスマキは言っていて、しかし、気づいたならそれでいいとも言ってくれていて、このロハスでスローフードな邦題も、お前らにしちゃなかなか冴えたブラックジョークじゃないかと言ってくれるにちがいないと思ったりもした。
posted by orr_dg at 23:38 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年02月19日

すばらしき世界/空を見たかい

subarashiki_04.jpg
オフィシャルサイト

※結末に触れています。

前科十犯、人生のおよそ半分ともいえる二十八年を刑務所で過ごしそこを生き抜いてきた男が、刑務所を出所してから一年もたたずして、撃たれたのでも斬られたのでも刺されたのでもなく、アパートの畳の上でひとり死んでしまうのだ。あの日、沸騰し逆流する血を脈打つ脳や心臓に抑えつけながら絞り出した「……似てますね」というその一言が、三上(役所広司)の時限爆弾にスイッチを入れたことをワタシたちは知っている。もし三上があの瞬間、見つめた裁ちばさみに誘われるがまま手に取っていたなら、その右手にコスモスではなく裁ちばさみを握りしめていたなら、三上の時限爆弾は解除されてあの夜を生きながらえただろうことを知っている。そして残りの人生をどこか刑務所の中で積み重ねただろうことを知っている。少なくともあの嵐の夜に、雨風が吹き込む畳の上で目を開いたままどこかへ消えてしまわなかっただろうことを知っている。三上はワタシたちに、ワタシたちの分身の津乃田(仲野太賀)や庄司勉(橋爪功)、庄司敦子(梶芽衣子)や松本良介(六角精児)に言われたとおり、全てに真っすぐ突っ込んでいくことをやめていい加減に、必要なこと以外は切り捨てて耳をふさいで逃げ、人生を損得勘定で生きようとしたあげく死んでしまったことを知っている。吉澤(長澤まさみ)が三上に言う、不寛容な社会にあって私たちははみ出た人間を許すことができずにいて、しかしそれを知りながら排除されるのが怖くて声を上げることをしないのだという言葉は、彼女がビジネスと打算の象徴のように描かれることもあり三上を丸め込む機嫌取りの甘言としてその場では響かせるのだけれど、結局は彼女の指摘した“ワタシたち”が三上を殺してしまったことをあのラストショットが告げていたように思うわけで、三上を自分たちの考える真人間へとけしかけた人たちが立ち尽くし座り込むアパート前のショットから上へ上へと向かうカメラが虚空を捉えた瞬間、そこに立ちのぼる「すばらしき世界」のタイトルにこめられた監督の皮肉を超えた悪意はこれまでになく直截かつ酷薄で、もはやこの世界にあっては自爆して立ち尽くす人間のセンチメントに普遍を彩ることは叶わないという自罰の徴にすら思えてしまったのだ。だからこそ、三上に対して彼の何者かを抜きに人間の言葉を話しかけたのがいったい誰だったか、リリーさん(桜木梨奈)、下稲葉マス子(キムラ緑子)、阿部(田村健太郎)、そして西尾久美子(安田成美)というそれぞれに抜き差しならない事情でレールを外れた人たちにしのばせたセリフとまなざしに、監督の置いた軸足の角度と重心が映し出されていたことは言うまでもないだろう。どのシーンにおいても三上を最後まで見届けて念を押し、余白でふっと切り上げて空気を抜かないショットは彼が囚われた世界の閉塞であった気もしたし、幾度となくインサートされる空のショットは放置され三上の視線と絡みつくことのないまま、マス子のいった娑婆の空はラストでようやく三上のその上へとやってきたのではなかったか。最初は遠くに霞む灰色のスカイツリーから、逃げるように福岡へ飛ぶ夜行便から見た東京タワーの他人事のようなきらめきをはさんで、最期の夜に久美子と繋がった電話で「死ぬわけにはいかんけん」と話す視線の先でやわらかく灯りのともったスカイツリーは、旭川でも福岡でもないその真ん中の東京に生きることを受け入れた三上に宿ったはかなくも確かな希望の光だったのだろうし、三上の脳裏を最期によぎったのが久美子の声とあの明かりであってくれたらと祈りながら、あんたみたいのが一番何も救わないのよ、と吉澤が津乃田を切り捨てた啖呵を思い出していた。
posted by orr_dg at 17:32 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年02月15日

私は確信する/それでも彼はやってない

Une_intime_conviction_01.jpg
オフィシャルサイト

実在しないトミー・サンダースという警官を作り出して散らばった断片を彼に投影することで、あの日の出来事を串刺しにしてピーター・バーグが高々と掲げたのが『パトリオット・デイ』であったように、今作の主人公ノラ(マリナ・フォイス)も監督の創造物として生を受け、その意を受けて実話のストーリーを撹乱し続ける。という成り立ちをワタシは鑑賞後に知ったのだけれど、ある女性が失踪しその夫と愛人がその関与を疑われた事件という冒頭のテロップだけを手持ちに臨んだ時、これがある局面の打開に決定的な役割を果たしたノラという女性の物語であることを露とも疑うはずもないまま彼女に併走したわけで、後になって彼女が実在しない存在であることを知らされてみれば、では監督は現実の記録/記憶のどの部分を新たに駆動すべく彼女を手足として使い続けたのか少々困惑してしまったのだ。これが完全なフィクションであれば、失踪した女性の夫ジャック(ローラン・リュカ)の無実を信じ彼を冤罪から救うべく奔走するノラが、その無実を立証する新たな証拠を精査するうちジャックの関与をほのめかす事実にたどりついてしまい、その限りなく黒に近い灰色に法律のアマチュアである彼女はどう立ち向かうのか、次第に真実と現実との挟間に堕ちていくその姿を司法制度の欠陥に重ねることでジャックと彼女の地獄を描くことが可能だったように思うのだけれど、実話に基づいた今作では“失踪した女性の夫ジャックの無実を信じ彼を冤罪から救うべく奔走するノラが、その無実を立証する新たな証拠を精査する”ことで“司法制度の欠陥”めいたやり口を再考証する駒として彼女が投入された表向きしかワタシには映らないわけで、ならばずいぶんと回りくどいことをしたものだなあとけっこうな肩透かしを食った気がしてしまったのだ。ワタシが知らないだけでジャックに関する限り元々が冤罪の色濃いケースであって、それを覆す新たな傍証および解釈の提示を監督が狙ったのであれば、特にジャックと縁やゆかりがあるわけでもないノラの、いささか首をかしげるほど一方的な彼への肩入れも理解はするのだけれど、あらためてフィクショナルなキャラクターとしてのノラを追ってみた時、シングルマザーの彼女が仕事を失ってまで通話記録の解析にのめり込むその姿はあくまでジャックの無実を信じるがゆえなのか、もしくは真実という麻薬に溺れるジャンキーとして堕ちていく地獄の日々であったのか、彼女の暴走を見かねてデュポン=モレッティ弁護士(オリヴィエ・グルメ)が諭す「法廷のプロセスは検察と弁護側それぞれの仮説のどちらを選ぶかという手続きに過ぎない」という言葉を思い出してみれば、乱反射する真実の欠片に魅入られて一人息子との生活までも危険にさらしていくノラの姿をある陰謀論者の誕生と重ねてみることも可能ではなかったかと、ワタシがノラに見たのはむしろパラノイアの軌跡だったように思ってしまうのだ。しかしそんな風にワタシの切った舵で泥舟は桟橋に激突することも浅瀬に乗り上げることもなく、気がつけば静かに横づけされた泥舟からワタシ以外の誰もが泣き笑いで抱き合いながら下船しては、みな粛々と家に帰っていくばかりなのであった。惹句のヒチコックは、ジャックがやけに真面目くさった顔で『バルカン超特急』と答えるシーン以外、清々しいほどにただの惹句でありつづけ、しかしそれくらい許してやらなければ他に何を言いたてることができたのか、その危うい丸腰を知っているワタシは別段腹を立てることはしないのである。せめてフィンチャーのように、通話記録を空間にタイプするくらいのケレンがあったらなあとは思うけど。
posted by orr_dg at 22:00 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年02月13日

わたしの叔父さん/生きているからこわいんだ

uncle_01.jpg
オフィシャルサイト

クリス(イェデ・スナゴー)の起床から始まるオープニングからしばらくの間、彼女と叔父さん(ペーダ・ハンセン・テューセン)がふたりで暮らす日々の仕組みがサイレント映画のように描かれていて、それはふたりに会話がないままに成立する生活とその日々であることの説明でもあるのだけれど、儀式と言うには穏やかでやわらかいそれは、ふたりの以心伝心だけが紡ぐことのできるルーティンであり、14歳で母を亡くし高校生の時に兄を失い、その後を追った父の自殺によってひとり残されたクリスを引き取った叔父さんが、彼女とふたり時間をかけて作り上げたシェルターのような、時間と空間のグリッドでもあったのだろう。それは、ここにいる限りこれを過ごしている限りお前は大丈夫だ、わたしは大丈夫なのだという密やかな祈りのような生活でもあって、これがいつまで続くのか、いつまで続けなければいけないのか、それが永遠であったとしてもかまわないと思いつつ、すべてに避けられない終りがあるということは、これが様々な終りによって始まった生活であることを忘れる由もないふたりに常についてまわる呪いであり、それに向かう祈りの原理主義者としてことさらにクリスは跪くことを続けていて、それがこの物語を支配する静謐と仄かな不穏を連れ出している。それでもクリスは祈りと呪いのバランスを変えるべくわずかながら変化を目指すのだけれど、それはあくまで前述したグリッドの範囲を拡げる試みでしかなく、健康的(と言ってもそれは彼女の孤絶の外にいるワタシたちにとってだけれど)なやり方で彼女をグリッドの外へ連れ出そうとする獣医師ヨハネス(オーレ・キャスパセン)や合唱隊の若者マイク(トゥーエ・フリスク・ピーダセン)に対し、結局はNOと言ってグリッドの中にいることを選んでしまうのだ。ではその間、叔父さんはどこを向いていたのかといえば、わたしたちには死ではない終わりがあること、そしてその終わりがクリスにとっての始まりになることを、彼女を否定も支配もせず日々のあわいに沁み込ませるように告げていて、彼女が選んだ考えや結果を淡々と受け入れながらほんの少しずつ光の差す方へ向きを変えていく、自然を相手に生きてきた農夫の手つきと足どりがクリスを鎮めていくわけで、同じショットを繰り返しながらそこに映る微細な異なりをふたりの息遣いに変えていく語り口は監督がその影響を公言する小津安二郎への敬愛でもあるのだろう。ただ、そうした叔父さんの試みはあるアクシデントによって灰燼に帰してしまうのだけれど、ラストでは小さな終わりを告げるある出来事が食卓のふたりに訪れて、果たしてそれが天啓となるのか否か、ラストショットで初めてみせる監督の直接的な介入がもう一度クリスにチャンスを用意した気がして、もう頃合いだろう、幸多からんことを、そしてマイクと仲直りをと思わず祈ってしまったのだった。あんな風な拒絶のしかたはいくら意地悪な小津でも思いつかなかったに違いないから。
posted by orr_dg at 02:40 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年02月08日

ダニエル/地獄で会えたぜ、ベイビー

daniel_isnt_real_02.jpg
オフィシャルサイト

ルーク(マイルズ・ロビンス)が乱射犯シグペンの実家を訪ねてある確証を手に入れることでオルター・エゴとしてのダニエル(パトリック・シュワルツェネッガー)をなぞるラインをあっさりと消し去り、躊躇なく退路を断ったその先で待ち構える地獄の泥仕合においてSpectreVision謹製のサインがほくそ笑むように輝き始める。直近でいえば『ジョナサン-ふたつの顔の男-』が抑制の利いたメランコリーで畳んでみせた風呂敷の折り目にくらべてみた時、せっかく広げたそれを後生大事に畳むくらいなら、いっそそいつを体に巻きつけて血と涙と涎の染みをつけてやるぜ!と吠えまくる哄笑があるかなきかの地平を突破していくわけで、それなりの巧妙さで配置してきた母クレア(メアリー・スチュアート・マスターソン)や精神科医ブラウン(チュク・イウジ)の神経症的な伏線を一気に台無しにしたあげくチャンバラからの肉弾戦でケリをつける最終決戦に至っては、この手のジャンルであれば闇を祓って光を抱く役目のキャシー(サッシャ・レイン)すらが意味ありげで意味なしげというそれはそれで斜め上に筋を通す職人のこだわりで、たとえばスキゾフレニアを実効的に解体する戦略としては『ジェイコブズ・ラダー』の縁遠い嫡子といってもいいだろうし、実際にいくつかのヴィジョンにその自覚としての相似がうかがえもする。中盤での全方位的なツイストもあって、イマジナリー・フレンド/オルター・エゴの設定およびそこから派生するルールが縛るはずのサスペンスが無効化されてしまうせいでいきなり道端に投げ出されはするものの、この映画が本領を発揮するのはその先の赤黒く沸き立つ乱戦にほかならず、はたして夜中に起きたあれは悪夢だったのか現実だったのか、できれば夢であってくれとうつつのままに目を覚ましたルークの意識を追うカメラがパンして部屋の中を映していく一連に「へレディタリー」のあの朝を思い浮かべたし、Clarkの神経症的なミニマルとクラシカルなケレンが躁鬱的に乱反射するエレクトロニカに追い立てられるように、前半でせっかくしつらえたニューロティックなサイコスリラーの意匠をひっくり返して台無しにしながら逃げ騒ぐインシディアスな終盤は一粒で二度おいしく思えたりもしたのだった。そしてなにより、爬虫類の偏執で低温火傷を誘うパトリック・シュワルツェネッガーが喝采すべきこの映画のでたらめを最後までたった一人踊るように支えていて、あれほど凶悪な地獄の魂をなぜああまでたやすくドールハウスに閉じ込めることができたのか、なぜそのまま大人しく囚われていたのか、それなりに決定的なレベルのでたらめを看過したのも酷薄にチロチロとねめつける彼の青白い眼差しに心を奪われていたからに違いなく、ついぞ父親が持ち得なかった2世ならではの純粋培養されてくねるような色艶を抽出した製作陣の慧眼を讃えるに全くもってやぶさかではないのだった。
posted by orr_dg at 23:33 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年02月03日

花束みたいな恋をした/東京都下ラブストーリー

hanataba_01.jpg
オフィシャルサイト

「僕の目標は絹ちゃんと過ごすこの日々の現状維持です」非の打ちどころのない100%の祝福をうけて出会った麦(菅田将暉)と絹(有村架純)が育む物語は、2人が同棲を始めたアパートのベランダで麦がそう告げた瞬間、現状維持のためにはお金が要る、しかしお金を得るためには現状維持を一時保留しなければならない、というキャッチ=22に麦と絹は、なかでも麦がことさら囚われていき、ブラック・ロジスティック、幻冬舎、フリーランス買い叩き、パズドラ、コリドー街、ITヤンキー、圧迫面接という傍若無人な定量化のアルゴリズムが2015~2020年安倍政権爛熟の季節に重なって、いつしか2人は互いを部屋の隅へと追いやっていく。両親の広告代理店的なメンタリティを嫌悪する絹は、そうしたアルゴリズムへの警戒心が植えつけられているからこそ麦の言う現状維持に執着するのだけれど、田舎の旧弊な価値感と都会のスノビズムとのそれぞれから遠ざかろうと接近したポップカルチャーの場で交錯した2人に内在する眼差しが次第に遠ざかっていくのは、あらかじめ決められた道行きでもあったのだろうし、2人が口々に答え合わせする固有名詞ですらが界隈から一歩も足を踏み外さないアルゴリズムに依っていることもうかがえた気もして、かといってその功罪を問うことをすべきかといえばそれこそがこの時代の関係であったという証なればこそ、監督と脚本家は2人の育てた物語に健康的といっていい死を用意した気もした。そしてこの2人の物語に死をもたらすのが不治の病でも恋のさやあてでもない世界を規定するシステムそのものであったこと、そしてそれが、まずはお金の問題という姿をまとって2人の前に現れるのを新たなリアルの形とした点にうなずきはするものの、では月5万円の仕送りがなくならなければ現状維持は可能だったのか、そもそも学生が同棲を始めるにあたり、引っ越しや賃貸契約、家財道具の買い入れといった費用はどこからひねり出されたのか、何しろそれらが、麦の考える“生きることの責任”が世帯主=家父長的な意識へと直結して2人の物語を殺すことになるパラダイムシフトの手始めであっただけに「お金」の収支をシビアに詰めるお花畑の裏側も必要だったように思え、気分の醸成で寸止めしてしまう限り、一人暮らしをして曲がりなりにも生活の様々なサイズを知る麦とずっと自宅住まいだった絹という線引きがされてしまう危惧とすれすれだったようにも思えてしまう。カラフルで瑞々しいショットや主演2人のきらめきが覆い隠してはいるものの、2人が口にした様々な固有名詞たちが繰り出した世界に対するカウンターが青春の麻疹のような気分に消費されてしまうこと、変わってしまった麦に絹が無理やり“観せる”のがカウリスマキの『希望のかなた』であったというその視点の密かな傲慢など、悪意とは言わないまでも2人とその世代をどこかしら見切った感覚は、この物語をうっすらとした感傷とペシミズムでうっちゃってしまえるワタシも含めた世代―おそらくそれらは坂元裕二の射程にないのだろうけれど―ならともかく、麦と絹を等身大に映してしまう世代からしたら、刺されたあとでふと我に返り腹が立ったりはしないのだろうかと少しだけお節介な気持ちになったりもした。文庫本はちゃんと啓文堂のカヴァーでした。
posted by orr_dg at 18:48 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年01月29日

KCIA 南山の部長たち/シルエットや影が革命を見ている

The_man_standing_next_02.jpg
オフィシャルサイト

パク大統領(イ・ソンミン)が何かを催促するように左手を宙で軽く揺らす。一瞬ののち、キム・ギュピョン大韓民国中央情報部部長(イ・ビョンホン)はそれが煙草を催促していることに気づき、部屋の向こうのテーブルにおかれた煙草を取りに歩いたあとで、大統領に背を向けたまま思わず煙草を箱ごと握りつぶしてしまう。おそらくそれはキム部長が最初に気づいた自分の揺れだったのだろう。煙草の火を点けるのであれば、それは大統領が自分の目の前にいるということになるけれど、大統領は遠くのあちらに行って煙草を取ってこいという。いつからか大統領は足が動かない人になってしまった。足が動かない人は心も動かなくなる。心が動かない人はまわりの動きが見えなくなっていく。だからそういう人はクァク警護室長(パク・ヨンガク)のように心の動かない人間しか見えなくなってしまうのだ。ここから先、遠ざかる大統領を我が身を切り刻む血糊で貼り付けるキム部長を、その代償として精神と肉体の軋みと乖離がむしばみ始め、様々な判断が最初はミリ単位で遅れ出す。実際のところ狂気の渦に捉えられているのはパク大統領でありクァク警護室長であり彼らがしつらえたシステムなのだけれど、その渦にあっては歯をくいしばり流れに抗うキム部長にこそうっすらとパラノイアが上気していくようにも思え、この青瓦台においては狂っていないということが狂っているということなのだという裏返った悪夢の中で、大統領を狂気の渦から救い出さねばならないという使命がキム部長のオブセッションとして脈打ち始め、撫でつけた髪の乱れることが次第に目立っていく。原作のノンフィクションを読んでいないのでそれぞれの人物へのスタンスがどれほど脚色されているのかつかめないのだけれど、ここではキム・ギュピョン=キム・ジェギュへの寄せ方として正気の人であり続けたからこそ境界を越えるしかなかった人と描いたように思え、そうした彼の蒼ざめた静脈の疼きに耳を澄ませるために、徹底して神経症的にソリッドな画作りを監督は徹頭徹尾必要としたのだろう。実録ものとはいえ歴史の見当識がキム部長の時間の中へと溶けていく極私的な酩酊は、青瓦台の権力闘争の中で彼だけがあの日からずっと革命闘争の中にあったことを記すための語り口であったのだろうし、だからこそ革命の達成ではない完全な終焉としてあの人物の視点によるラストで閉じなければならなかったのだろう。夕暮れにひとり途方に暮れる子供のようなキム部長を、泳がんとする目元をきっと締め上げ、わななかんとする口元を食いしばり、その軋みで正気を失わないよう背筋をぎりぎりと伸ばし、しかし心の内の半べそを透かすように創り上げたイ・ビョンホンがほとんど神がかっていて、返り血をあびて走り去る車中、靴下のままの足を見ておれの靴はどこだ、おれの靴はどうしたとうろたえるその姿は、上履きを隠されうろたえて涙がこみあげ始める子供にしか見えなかったのだ。
posted by orr_dg at 17:25 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年01月26日

パリの調香師 しあわせの香りを探して/友達以上友達未満

perfumes_01.jpg
オフィシャルサイト

折返しも過ぎて映画の体温にもなじんだあたり、いくつかの不発もあってジャンヌの誕生パーティーを中座したアンヌ(エマニュエル・ドゥヴォス)が突然ギヨーム(グレゴリー・モンテル)に「ホテルでも行く?」と声をかけ、はぁ?とギョームが振り返った瞬間、ワタシをふくんだ満員の客席は、いやここまできてそれはちょっといくらなんでもありえないだろう勘弁してくれと体温が引いたのか上がったのか、いずれにしろその直後にアンヌが「冗談に決まってるじゃないの、ほら、私が冗談を言っても誰も笑ってくれないのよ」と自らの朴念仁をさらっと自虐してみせた瞬間、小さな安堵の吐息がそれぞれのマスクをくぐった気がしたのだ。それくらい、ここに至るアンヌとギョームの関係には愛もセックスも、そもそもがそれを促す性差の手続きが清々しいほどに取り除かれていて、かつて栄光を手にした調香師と娘のために生活を立て直す必要に迫られた運転手が、互いの居場所からことさら上ったり下りたりすることなく、それぞれが自分の抱える問題を相手に委ねはじめる信頼と尊重の自然で親密な歩みよりがハイでもローでもなくコンテクストの鎖を静かで穏やかに解いていて、その神経戦こそがドラマなのだ!という昨今のトレンドへの成熟したカウンターにも思えたのだ。だからこそ、浮世離れしたアンヌと浮世をかき分けていくギョームが互いをあげつらい否定するのではなく、自分の知らないことに対して好奇心で心を開き、それを知る相手に敬意と新鮮なまなざしを抱いていく足取りは綿密かつ誠実に描かれねばならなかったし、そうやって生まれる互いへの慈しみがなじみのラブストーリーではなく新しい扉を開けていくライフストーリーを語り出す眼差しが、斜に構えるばかりの訳知り顔に思いがけず清冽に沁みたのだ。無償の血の証としての友情ではない、互いの人格を識ってそこに宿る灯りを好ましく感じ、それが消えてしまわないように思いやる気持ちをそう呼べるならこれは紛れもなくアンヌとギョームの友情の物語であって、コンテクストの鎧をまとって斬りつけ合うドラマの全盛において、この一点突破にはささやかなラディカルを感じたりもした。中盤までかなり念入りに描かれていた、ギョームにとっての幸福は娘の幸福と共にあるという彼のモチベーションはどこへ行き着いたのだろうかと思ったところで、そんな大事なことを忘れるはずがないだろうとばかり差し出されるラストにも爽快にしてやられる。ギョームと関わることで自分の偏りに苛立ったり開き直ったり悲しくなったりしながら、しかしそれに向き合うことを選んだジャンヌの密やかな冒険と、立ち止まって嗅ぐ香りに世界と自分の成り立ちがあることを知るギョームの穏やかな覚醒とを新しい色で塗り替えていく、主演2人のそぞろ歩きするアンサンブルに今よりは正気だった世界の記憶が香った気がして、どこまでワタシたちはあそこに帰れるのかと少しだけ気持ちが泳いだりもした。
posted by orr_dg at 17:30 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年01月18日

聖なる犯罪者/イエスはわかってくれない

corpus_christi_04.jpg
オフィシャルサイト

裁くことしか知らぬと思われたこの世界に、赦すことそれ自体を目的とするシステムを見つけたダニエル(バルトシュ・ビィエレニア)は一も二もなくそれに陶酔したのだろう。ダニエルのキリストへの傾倒が、必ずしも更生や改心によっているわけではないことはあらかじめオープニングで告げられていて、彼にとっての宗教はどちらかといえばドラッグに近いチャンネルとして開かれたようにワタシにはうかがえる。したがって、ダニエルを弟の仇としてつけ狙うボーヌスの挑発や暴力に少しだけ悲しそうな顔をして耐えてみせるその姿も贖罪というマゾヒズムの顕れに映らないこともなく、この時点でそれをダニエルに潜む光と影の二面性とみなすほどにはワタシは彼の光を信用してはいない。しかし、一度(少年院に入るほどの)罪を犯したものは神学校に入ることを許されないという規則によって、神父になり神の代理として赦すという行為を極めたいと願うダニエルの夢もしくは企みが打ち砕かれ脱線を始めた瞬間、ダニエルの車輪は別の線路を捉えてしまうこととなる。ここから先、ダニエルは神の恩寵ともいうべき様々な兆しをストリートワイズによって我がものとしては(そもそも司祭服をいつどこで手に入れたのか)、赦すという行為に手探りで耽溺し始めるも、ことキリストとそのシステムについてはいまだ原理の運用しか知らぬダニエルは野卑とすらいえるピュアネスで一点突破を図ることにより、彼を司祭とあおぐ村の閉塞と倦怠を少しずつ静かに揺らし始めていく。かつて村で起きたある悲劇によって村人から犯罪者のごとく苛まれる未亡人エヴァ(バーバラ・クルザイ)に寄せるダニエルの感情は、彼女を自分と同様に赦すことを許さない者たちに迫害される存在と見てとったのか、あるいはキリストをフルスペックで運用することの昂揚に衝き動かされたのか、いずれにしろここでダニエルがみせる、赦すことを許さない者を“赦さない”という攻撃的で破壊的なキリストのトレースによるショック療法がエヴァを苛む者たちを瓦解させ、最終的に彼女を救済してしまうのだ。服を脱ぎ刺青の入った上半身を会衆に晒して両手を掲げ自分の正体を明かすダニエルの姿は祭壇画の磔刑図に描かれたイエスのようでもあり、そうやって20歳の人殺しで偽司祭のダニエルはエヴァを苛む村人の罪を自らに負わせることで、赦すことを許さない者をも“赦す”という達成までも成し遂げてしまうのだ。しかしダニエルはエヴァが救済を獲得した瞬間を知ることもなく少年院へと連れ戻され、かつては頬を差し出すがごとくであったボーヌスを返り討ちにして血祭りにあげてしまうわけで、ラストのカッと見開いた目でこちらを見据える血まみれのアントワーヌショットに、誰も俺を赦さないのなら俺が俺を赦すことを受け入れろ、という聞こえぬ絶叫がこだましたようにも思え、かつて家業の大工を継がなかったある男のように、木工所の仕事を足蹴にしたダニエルがこの先の未来で何を語り何を説き、あげく何を従えることになったとしても、神の代理が投げ与える贖罪で生き延びるだけの世界はそれを受けいれるしかないことを覚悟しておくべきなのだろう。そしてワタシも、俗を喰らい聖をひり出す野生動物の無垢と狡猾をクリストファー・ウォーケンの眼で投射するバルトシュ・ビィエレニアを追い続けるしかなくなった。
posted by orr_dg at 21:13 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年01月08日

Swallow/スワロウ/Discharge/ディスチャージ

swallow_07.jpg
オフィシャルサイト

セシリアがエイドリアンの家から脱走することで『透明人間』が開始されたように、ハンター(ヘイリー・ベネット)が豪邸を脱走する終盤にこの物語が隠し続けた真のスイッチが入ったように思え、視えない存在として付属品のように扱われてきた彼女たちが自らの意志で視えなくなることで「あいつら」に復讐し世界に復帰していくその姿において、ハンターとセシリアは異母姉妹のようにも見えたのだ。それが異食症と診断された瞬間、ハンターはトロフィーワイフから神経症の患者へとラベルが貼り替えられてしまうのだけれど、彼女が「あいつら」には想像もつかない何かを選んで口に運びそれを飲み下す瞬間の恍惚こそは彼女だけが知る勝利の愉悦であったのだろうし、それはハンターの異食症の加速する時間こそをこの映画の彩りが最も美しくなる瞬間として描いたことにもうなずけて、そしてなにより、戦争状態にある日常では精神を病む暇などない、と最初はハンターの症状を有閑の贅沢病のように見下したシリア移民のルアイ(ライト・ナクリ)が最終的にハンターの逃走を手助けすることになるのは、彼女を追い詰めるサバービアのネオリベラリズムに、母国シリアを「侵略」したアメリカというグローバル化の怪物を見たからこそのシンパシーだったにちがいないと思うのだ。逃走したハンターが実家の母親に拒絶された後でおこなう父殺しの地獄巡りで手に入れた「おまえのせいじゃない」というその一言が背中を押した彼女の最終選択は、もはや善悪の彼岸のその先で行われる母殺しの儀式であると同時に、世界に追い詰められたすべてのハンターたちに向けたエールであることが、エンディングの固定ショットが捉えつづけるレストルームの光景に謳われていく。悪い星に見つからないよう自分を視えなくするおまじないがいつしか呪いとなり、幸せなのか不幸せなのか迷子になって泣き笑いがはりついたままのハンターを完璧に解釈したヘイリー・ベネットは言うまでもなく、与えられたシークエンスはたった1つながら引きずり出された呪いを間にハンターと対峙してそれまで蒼ざめるばかりだった空気に赤い血を、しかしそれを静脈の憂鬱で送りこむウィリアム・アーウィン役のデニス・オヘアに思わず息を呑んでしまう。これが初監督作(兼脚本)ながら、テーマとジャンルの危うい綱渡りを悠然かつ陶然と渡り切ったカーロ・ミラベラ=デイヴィスおよび、白昼夢の苛みを神経症的な艶めかしさで捉えたカメラのケイトリン・アリスメンディ(ヴィルヌーヴ版『デューン』では第二班撮影監督を務めているらしい)の名前は、すぐさま記憶にたたき込んでおいた方がいい。ワタシはそうした。
posted by orr_dg at 03:18 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年01月05日

ミークス・カットオフ/オレゴン最終出口

meeks_cutoff_03.jpg
オフィシャルサイト

この西部劇における最初で最後の射撃はエミリー・テスロウ(ミシェル・ウィリアムズ)によって行われる。野営地の外れでネイティヴアメリカン(ロッド・ロンドー)と出くわした彼女は、青ざめた顔で幌馬車にとって返すと躊躇なくマスケット銃に弾をこめ点火して、仁王立ちのまま彼が立ち去ったとおぼしき彼方に向けてぶっ放すやいなや火薬の燃えかすを銃身からもどかしげに掻きだして次弾をこめ点火するも、銃を掲げる途中で暴発気味に弾は放たれて、そこでようやく正気に戻り立ち尽くすのだ。エミリーにとって銃は生活の道具の一つに過ぎず、それがもたらす殺戮と破壊もまた日々の風景にすぎない時代を当たり前に生きる女性であることがこの一連を描く長回しのテイクで告げられる。この物語の背景となる1840年代は、大西洋岸から太平洋岸へと繋がる大陸国家樹立の野心をアメリカが燃やし「神が与えたこの大陸を我々が拡大していくことは明白な運命(マニフェスト・ディスティニー)である」として領土拡張が神意であることを謳いつつ西部の侵略的な開拓を正当化した時代であって、その後やってくるゴールドラッシュとはこの西漸の意味合いが異なることは、劇中で小さな金塊を見つけたトーマス・ゲイトリー(ポール・ダノ)が「いくら金だろうと飲めなきゃ意味がない」と、水源を探す途上にあっては一顧だにされなかったことにもうかがえる。そうした時代にあって西に向かう開拓者の一団をガイドとして率いるスティーブン・ミーク(ブルース・グリーンウッド)の、砂漠と西の果てのすべてを知りつくした賢者のような物言いを疑うことなく信じた一団は、いつしか道を外れて目的地を見失ったにも関わらずミークの益体のないプライドが自身にミスを認めることを許さないため、いつしか一団はミークに対する不信と迫りくる飢えや渇きへの不安とでそれぞれが互いの軋轢を隠さなくなっていく。そうした折、エミリーと出くわしたネイティヴアメリカンを捕らえたミークがプライドの保持も手伝い彼を処刑しようとする一方、彼の不幸を招いた端緒が自分であることの後ろめたさなのか、次第に明らかになるプラグマティストとしての資質がそうさせたのか、ネイティヴアメリカンの土地鑑を頼りにミークではなく彼をガイドとすることをエミリーが主張することで、彼女とミークの対立がようやく映画の構造として頭をもたげ始めることとなるのだけれど、それは暴力の楽観性を盾に無謬を気取る無知な抑圧者に翻弄される被抑圧者の悲劇と憂鬱というアメリカのプロトタイプにほかならないながら、被抑圧者もまた抑圧者になりうる内部構造がその成立に加担することを同時に告げてもいて、単なる下剋上の快哉とは程遠いラストの言いしれぬ茫漠はそれこそがアメリカの正体であって、ワタシたちが自らつけた枷を外さない限りいつしか皆それに呑み込まれてしまうことを、気がつけばボンネットを脱ぎ捨てたエミリーの眼差しに映してみせたように思ったのだ。カサヴェテスには少し間に合わなかったけれど、ケリー・ライカートには何とか間に合ったのがとてもうれしい。
posted by orr_dg at 21:41 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年01月01日

あけましておめでとうございます

hny_2021_2.jpg

あけましておめでとうございます
本年もよろしくお願いいたします

パーティどころじゃない、ディスコなんかもってのほか
バカ騒ぎなんかふざけんなって話
きみとダンスしたりいちゃつく暇だってない
そんな日々はもうどこにもない


デヴィッド・バーンが「戦時生活/Life During Wartime」で歌ったこの日々を
それぞれができるかぎりの想像力と思いやりで生きのびよう
posted by orr_dg at 19:21 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年12月30日

2020年ワタシのベストテン映画

motherless_brooklyn_x.jpg
マザーレス・ブルックリン/Motherless Brooklyn


the_golden_glove_x.jpg
屋根裏の殺人鬼 フリッツ・ホンカ/The Golden Glove


les_miserables_x.jpg
レ・ミゼラブル/Les miserables


the_nightingale_x.jpg
ナイチンゲール/The Nightingale


captive_state_x.jpg
囚われた国家/Captive State


pain_and_glory_x.jpg
ペイン・アンド・グローリー/Dolor y gloria


the_invisible_man_x.jpg
透明人間/The Invisible Man


Mr_Jones_x.jpg
赤い闇 スターリンの冷たい大地で/Mr. Jones


dragged_across_concrete_x.jpg
ブルータル・ジャスティス/Dragged Across Concrete


portrait_x.jpg
燃ゆる女の肖像/Portrait de la jeune fille en feu

観た順。
映画館がなくなりませんように。
かわりにオリンピックがなくなってもかまいません。
posted by orr_dg at 15:09 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年12月27日

オールド・ジョイ/暗くて標識が見えない

old_joy_02.jpg
オフィシャルサイト

カート(ウィル・オールダム)は失敗したことに気がついているけれど、マーク(ダニエル・ロンドン)はそれに気づいていない。30の半ばを過ぎたヴァガボンドが、気がつけばしのびよる孤独の影に追い立てられて旧友を訪ねる物語を読み始めたつもりでいたのだけれど、それまでこの2人が育んだ友情がどのような背丈や色どりであったかはわからぬまま、変わらずいることを選んだカートと、自分がどう変わったのか知らぬままのマークがかつての友情の手癖だけで過ごす、うっすらとした緊張と弛緩のいりまじる時間が折り重なるに連れ、救われるべきはカートではなくマークなのではないかと次第に思い始めるのである。まだカートが現れる前、妻ターニャ(ターニャ・スミス)に「いつも私におうかがいをたててはみるけど、結局はそのとおりにしてしまうでしょ」と言われて黙ったままのマークは、言い返さないのか言い返せないのか、このあらかじめ諦めてしまったようなマークの表情や後ろ姿はこれから先、カートとのキャンプ旅行の中でもしばしば顔を出すこととなる。ぼくのじゃなく君の車で行くことにしようぜとカートに言われれば黙ってそれに従い、運転はマークひとりが受け持ち、スタンドでもマークが給油する間カートは犬のルーシーと遊んでいる。目的地への道順も曖昧なカートの言う通り車を走らせては当り前のように道に迷い、車から降りてボンネットに地図を広げて現在地を確認するマークを、カートは車の中でマリワナを巻いて吸いながら見ているだけでまったく手を貸そうともしないまま、助手席のカート越しにマークを捉えつづけるこのシーンのある種の執拗さに、これはカートのでたらめというよりはわざとそうしているのではないかとワタシは思い始めることとなる。そうやって目的地にたどり着けないまま日が暮れてテントを張った空き地で起こした焚き火を前にとりとめのない会話が続く最中、突然カートが「なんだか俺たちの間にはずっと壁があるように思うんだ」と言い出した後で「おれなんだかおかしかったな忘れてくれ、なんでもないんだ忘れてくれ」とうろたえて取り繕うその姿に至って、それまでの違和感が小さく爆発することとなる。それでもマークはカートのそれを否定も肯定もしないまま「大丈夫だよ」と、壁があると言ったことなのか、忘れてくれと言ったことなのか、何についてなのかわからない収め方をしてしまうのだ。そしてそのままやってくる翌朝のシーン、何事もなかったかのようにひとり先に起きて黙々としかし一心不乱といった風情で自分の寝袋をたたむマークと、あとからごそごそとテントから這いだしあくびをしながら数歩歩いた先で立ち小便をするカートの構図は、少なくともマークにとって「壁」があったとしてもそれは乗り越えるものではなく、間もなく父親になる自分はその責任へのモラトリアムとしてのこのキャンプに来ているにすぎないという無言の意志だけが感じられて、友情らしき感情の握手はここでも後回しにされたままに見える。その後マークがほんの一瞬でも饒舌になるのは、温泉に向かう森の中、自分がおこなっているヴォランティア活動のことを話す時で、それをカートに褒められて気を良くしたマークがキミにだってできると思うんだよとカートに言う、その会話の質量のなさは絶望的にも思えるのだけれど、おそらくマークはそれにも気づかないままなのだ。そんな時間を歩きつつとにもかくにもたどりついた温泉で、悲しみは使い古された喜びにほかならない(Sorrow is nothing but worn out joy)とタイトルにもつながる屈託の源泉を話すカートの声を聞いているのかいないのか、心ここにあらずといった表情で湯につかるマークにしてみれば、だってこの瞬間こそが旅の目的なのだからといった無関心(と言ってしまってもいいだろう)は変わらぬまま、突然自分の肩に触れたカートに一瞬たじろいではみせるものの、それがカートの言う壁なのかどうかそんなことすらも考えぬまま、森の奥で日の差す中、あたたかな温泉に身をほぐされる恍惚を貪ることだけを決めたようにワタシには見えた。キャンプの夜と同様、その先は描かれないまま次のシークエンスでは既に帰路につく2人にとって、いったいこの旅はどこかへ行き着くことがあったのか、それは行って帰ってくる旅であったのか、カートを送り車中で一人になったマークは旅の余韻を噛みしめるでもなくさっそくラジオをつけるのだ。それは前半でも、車内のラジオ音声としてインサートされていた「エア・アメリカ(Air Americaとクレジットにあった気がした)」のやり取りで、この左翼系放送局の番組で語られるリベラルの議論というよりは繰り言をBGMのように聴くマークの姿と対比してラストに描かれるのは、夜の街をひとり足早にしかしとめどのない感じで歩くカートが、通りすがりのホームレスに小銭をねだられ、一度は謝って断ったあとでポケットの小銭をさらって差し出すその姿で、この映画が2006年というリベラルが負け続けた時代の只中に撮られたことを考えてみれば、リベラルの男たちが陥り続けた陥穽とそこであがく彼らへの感傷と憂鬱が監督の筆を誘ったように思うのだ。そしてこの旅の行くすえはといえば、それは行ったきり帰ることのない旅であったことは瞭然だし、冒頭で述べたように失敗したことに気がついているカートとそれに気づかないままのマークを告げるラストを待たずとも、ケリー・ライカートはそのつもりでずっと彼らを描いていたことは言うまでもなく、そして何より、青春を終えると人は死ぬときに備えてどんどんひとりになっていく、そのチェックアウトを告げて夕方5時の鐘を鳴らすような物語にも思えたのだ。そろそろ帰り途を探しなさい男たち、と。
posted by orr_dg at 23:12 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年12月23日

ビルとテッドの時空旅行 音楽で世界を救え!/父ちゃんのyeahが聞こえる

bill_ted_ftm_03.jpg
オフィシャルサイト

アメリカ大統領選を機会にアメリカの歴史を少しだけさらってみてあらためて思ったのは、移民国家アメリカがその前夜に奴隷国家の暗闇で目覚めたその初手からすべての分断が始まっていたこと、そしてその分断の溝が埋められて一枚岩となった歴史などかつて一度もないことで、しかし偉大な社会=福祉国家を目指しつつ帝国主義に淫する二重人格をぬぐわないまま、建国以来飽くことをしない壮大な社会実験とその甚大なる犠牲が織りなす光と影のモザイクがアメリカという国の正体を目眩ましして、そのキメラの底知れなさゆえワタシたちはそこに自分の欲するファンタジーをいかようにも投影してしまうのだろうし、だからこそ、そうした分断のDNAが自分に埋め込まれていることすら知りそうにない白人マジョリティの高校生2人が「たがいに素晴らしくあれ(Be Excellent to Each other)」をキメ台詞にする不意打ちの潔癖が、この底の抜けまくったコメディシリーズをエヴァーグリーンに保ち続けているように思うのだ。例えば今作において、セオドア・”テッド”・ローガン(キアヌ・リーヴス)とビル・S・プレストン(アレックス・ウィンター)の2人に立ちふさがる障壁を、分断を誘うトランプ的な何者かにしてみせればそれなりの快哉を叫ぶことも手っ取り早いところが、彼らが目指すのはあくまで時空を超えた団結であったことや、前作『ビルとテッドの地獄旅行』での死神(ウィリアムズ・サドラー)とのゲーム合戦やデ・ノモロスを法の裁きに委ねたことなどこのシリーズが悪の殲滅を解決としてこなかったのは(ロボットを倒すのはロボットという周到な回避)、クリス・マスシンとエド・ソロモンのライターチームが貫き続けた矜持ということになるのだろう。そして何より、この30年近くをショービジネスのど真ん中で過ごしながらBe Excellent to Each otherな共助の人でいつづけたキアヌ・リーブスと、ヴィジョンを失うことなく誠実なキャリアを重ねてきたアレックス・ウィンターがサヴァイヴしていたからこそ、善いやつ過ぎて悪いことを想像できない主人公の物語を成立させることができたのは言うまでもないし、それを次世代の娘たち、ティア・プレストン(サマラ・ウィーヴィング)とビリー・ローガン(ブリジット・ランディ=ペイン)に手渡しさえしたのはほとんど奇跡にも思えたのだ。ジミ・ヘンドリックスのリハーサルをあんな風にいきなり目の当たりにしたら、たぶん泣いてしまうだろうなと思った。それはもう、どんなに悲しくても涙の出ないワタシですら。
posted by orr_dg at 19:12 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする